科学は錯覚である 池田清彦

 

分けること

客観的な分類というものはない、

分けることを続けることで終わりがない。

 

植物から見ればヒトとミジンコは同じようなもの。だって動いているものじゃん。

知るということ  認識学序説  渡辺慧

 

分類の仕方 

厳密に客観的な分類ができると幻想を生物学者に植え込んだのはダーウィンの進化論の生物の分岐パタン図である。

リンネ1707-78の分岐パタンによる分類方法  階層分類 分岐分類学  進化パタンに整合的ではない

等価分類群に固執することで、形質の一般化から特殊化という系列にこだわらざるを得ず、瑣末な形質を重要している。

 

しかし進化は必然的に非等価群を導き出すので階層分類体系というのは間違った分類体系である。

進化はあるグループの中により高次な秩序を持ったグループができるので、必ず取り残されたものが生じる。この取り残されたものこそが非等価群である。これらは引き算として進化しなかったものとして定義するしかない。

生物の階層は高次な種から低次の界ではなく、下等な生物の一部から高等な生物が生じ、その高等な生物からより高等な生物が生じるといった、秩序の重層化として生じた。

キュヴィエの構造主義分類学の方法

 

進化と進歩

進化論が進歩主義を助長したのではなく、進歩主義がある種の進化論の構築に多大の影響を与えた。

 

ラマルク    生物に内在する「前進への傾向」が進歩主義的思考と進化理論を結びつけた。

この進歩主義は進化論を超えて一般の人々の心の中に棲みついている。

 

ダーウィン   進化と進歩を分けようとして、進化は「変形を伴う由来descent with modification」とよんだ。

遺伝性の変異が、外的条件によって集団の中に広がっていく過程を自然選択として、進化の最大の推進力とした。

 

自然選択の結果として多様性(生態的地位の数)が増大したことを明確に視野に入れていた。

刻々と変化する環境の中で少しでも空いている生態的地位に適応した変異は、自然選択の結果頻度を増し、結果として多様性の増大につながる。

ある環境にて適応している生物と別の環境に適応している生物の間に、優劣をつけることはできない。

 

 

ネオダーウィニズム 徹底的な唯物論、機械論、還元論、反進歩主義

シンプソン「人間とは無目的で唯物的な過程の所産である」『進化の意味 草思社』

→ 木村資生の中立説  自然選択よりも遺伝的浮動を重視した。

→ ウィルソンの社会生物学  動物や人間の行動を自然選択によって説明しきろうとする極端な還元主義

進歩主義が優劣の皮を被ると右翼になり、現状否定の皮を被ると左翼になる。

 

 

 

科学とは唯物論、機械論を中心思想にとするイデオロギーである。

目的論を説明原理とすることはできない。

 

 

社会ダーウィニズム  進歩主義 自然選択の意義を優勝劣敗、弱肉強食という概念に卑俗化する。

ハーバート・スペンサーとエルンスト・ヘッケルはdescent with modificationevolutionに言い換えた

多様性の獲得という視点を欠落させ、自然選択説を変化法則に矮小化させることにより、環境が一定であればある系列の生物は後に出現したものほど、その環境に適応しているという原則を引き出して、より進化しているものイコールより適応しているものイコールより優れてより進歩しているものという、進歩主義にもってこいの原則を導いたのである。環境が変化すれば、子孫が祖先に対して無原則に変化した環境に適応しているとは言えないから、自然選択説から進歩思想を導き出すことは理論的に無理である。

はじめに、進歩思想があり、それがダーウィニズムを好き勝手に編集して、優勝劣敗や弱肉強食というように都合よく解釈して社会ダーウィニズムとし、自らの思想の説明原理にした。

 

どのようなヒトたちだろうか?

変化を好まないヒト 変化が起きないように文明で固めるヒト

外部者を踏みにじる大義名分を求めているヒト  善意の人 経済的成功者  

企業者 企業の目的が営利の追求であるため 

 

進歩主義が人類に及ぶと、ヒトを下等と高等にいう基準で分類した。

これは人種差別主義に転化するよりなかった。優劣基準を用いてヒトを判断した。

 

左翼のネオ・ラマルキズム   獲得形質とは何か

獲得形質の遺伝説が今も息づいているのは、ヒトが「前進への傾向」という思想にいかに深く捉えられているかを示す恰好な現象である。

進歩主義が現状否定と未来信仰の皮を被ると左翼になる。

 

現状を改善したいヒトは努力をすれば(獲得形質)未来が開ける(次世代に遺伝する)という教義は福音である。

カンメラー「進化は前世紀の、ラマルクやゲーテ、ダーウィンの世紀の、単なる美しい夢ではありません。進化とは真実なのであります。まじめな楽しい現実なのです。生命の機構を形造り完全なものとするのは、冷酷な淘汰ではありません。世界を統御するのは、絶望的な生存競争ではなく、不必要なもののみを淘汰というブドウ畑に埋めながら、創造物は皆、自分自身の力で、光と生の喜びに向かって努力し、伸びていくのです。」

 

ルイセンコ流のネオ・ラマルキズムが旧ソ連邦の生物界を席巻した。

 

獲得された行動は遺伝するとパブロフやワトソンは発表した。ピアジェはこれらのラマルク説を経験主義と定義した。

個体における経験を系統発生(遺伝)に結びつけ、行動主義もラマルク説だと批判した。

行動主義はランダムな試行と強化による経験の獲得という経験的還元論、反進歩主義であり思想的核心は水と油ほど違う。しかし、経験が遺伝することについては同じ思考を持つ。

 

 

 

 

今西進化論

眼ができたから物を見るようになったのではなく、物を見るために眼ができた。    西田幾多郎

「種とは、環境に適応するため、たえずみずからを作り変えることによって新しい種に変わってゆく。これが進化であるとすれば、進化とははじめから、種レベルで起こる現象であるというのである。」『進化は何か』

全体論的進歩主義である。

 

科学の中に全体論と目的論を持ち込もうとする最近の潮流。目的論を持ち込めばそれはもうサイエンスではない。

 

ケストラーの限界

生物の独創力による進歩が進化の要因とするラマルク説にとらわれていたケストラー。

還元主義を拒否した合理主義的精神は心霊現象に解決策を見出そうとするのであろうか?

 

構造主義的進化論

反還元主義、反ネオダーウィニズム的色彩の濃い生物学の一潮流。ウェブスター、グッドウィン、柴谷篤弘

構造主義はソシュールからレヴィ・ストロースとピアジェの流れの中で確立された。

レヴィ・ストロースにとって構造は不変のもので、変化するのは構造ではなく、変換規則によって変転する諸要素の組み合わせなのである。

ラカンは「無意識は言語活動と同じように構造化されている」

レヴィ・ストロース「神話は言語と同じ構造を持っている」

レヴィ・ストロースとピアジェはソシュールの「パロールはラングに縛られている」という面だけに光を当て、もう一方の「言語構造自体の恣意性」すなわち「発生原因の因果的追求の不可能性」を無視した。

構造発生の非因果性に光を当てたのはミッシェル・フーコである。「言語と物」

統一原理を探す試みは無駄である、と言い切った。

→ デリダ、ドゥルーズ

 

生命現象を司る法則の中には、物理・化学法則には還元できないものがあるという一点ではどの構造主義者も一致している。

 

機械論とは、生気論の対立概念であり、この世界は物理・化学法則に背反する法則はない、という立場

還元主義は、この世界のすべての法則は物理・化学法則から直接因果論的に導き出せるという立場

 

 

 

構造は少なくても抽象的な系統図の中で相互に生じる変換の体系であるので、もっとも真実な構造は操作的性質を持っているので、変換の概念は、形成の概念を示唆し、自己制御は、自己構成を招く。

構造は、全体性と変換と自己制御という三つの性格を含んでいる。   

構造はすべて以前の構造から生じることを容易に認めることができる       ピアジェ 構造主義

 

ピアジェのいう構造は、有機体の中に一般的にみられる性質を置き換えて語っているにすぎない。

構造の成立原因、構造の発生は不明なままなので、ピアジェのいう構造は現象論的な抽象であるので、わからないことは構造そのものに原因を委ねてしまう。

池田からみて間違っている構造論は、フォン・ベルタランフィのシステム論、ケストラーの全体論、目的論的な有機体論である。

 

池田論

エルダーや池田は構造は神秘的な法則ではなく、下位レベルの物理・化学法則に従っているいくつかの可能性の限定にすぎない。

構造とは2つの物質の系列の間の対応関係である。

二系列の分け方と二系列の要素の対応の仕方は恣意的なものである。

逆に言うと恣意的に決めたのは、分け方と対応の仕方だけなので、下部の構造と分け方と対応は因果関係はない。

すなわち、下部構造によって構造は因果的に決定されるが、構造そのものは非因果的である。

生命体もこのように理解できる。

構造主義進化論は、ゲノムの変化を制御している未知の構造により支配されている。

究極的に還元された要素(なぜこの世界にクォークがあるかを誰が因果的に説明し得よう)以外にも因果的に説明不可能な存在すなわち構造を認めることで、唯物論・機械論でありながら、還元主義を否定する現在の処唯一の思想である。

形而上学と還元主義をともに否定する一元論であり、科学の信奉する唯物論、機械論、反進歩主義である。

 

ホールの分子生物学的な様々な証拠は、池田論が社会生物学の理論を凌駕していることを示している。

 

『構造主義と進化論』『構造主義科学論からみた進化論史』

 

 

 

 

ネオダーウィニズムの誤謬

ダーウィンの自然選択説の概要は

1 生物には変異があり、変異のいくつかは遺伝する。

2 生物には生き残るよりもずっと多くの子供を作る。

3 環境に適した変異を持つ個体は、そうでない個体に比べ、生き残る確率が高い。

4 その結果、環境に適した変異を持つ個体は、世代を重ねるたびに集団中での比率を徐々に高めるに違いない。

 

変異性は以下の3点によって支配される。変異は連続的であり、融通無碍である。

成長の相関           一つの体部が変化すると他の諸体部も変化する

使用と廃用           用・不要説

生活の物理的条件の直接作用   獲得形質の遺伝説

 

その後に遺伝子が発見されたので、自然淘汰説の遺伝の原因をDNAとして精緻したのがネオダーウィニズムである。しかしこの精緻化がよくなかった。

ダーウインは変異の原因を特性せず、ネオダーウィニズムは原因をDNAという実体に求めて砂上の楼閣を築いた。

遺伝とDNAの違いはなんだろう?

DNAをアミノ酸でできた二重螺旋と図にしてしまったことで、DNAを不変の実体としてとらえてしまったのが問題だった。こうして不変の実体として理解してしまうことが、利己遺伝子がヴィークル(乗り物)であるヒトを操っているというような考え方や社会生物学といった、なんでもDNAの生存を根拠にする還元主義に陥ってしまった。社会生物学は遺伝子と行動パタンが対応していると仮定することから始まる学問である。

ネオダーウィニズムはDNAが形態や行動の最終原因の実体として理解して、互いに独立していると考えてしまった。それゆえに、DNAを統制するメタレベル(抽象度を一段階上げた)のルールを想定していないことが問題だった。

DNAを不変の実体として理解しても、この実体のコピーの増減は自然選択の結果であるというところまでは、ダーウィニズムと同一見解であるが、問題は不変と捉えることで「実体自体の変化は偶然の突然変異以外にはない」というところだった。

 

だが実際はDNAの形は同じでも機能は不変ではなく、環境によって変化するものであった。

これは1988年のケアンズの実験によって世間に知れ渡ったが、それ以前のシャピーロをはじめとする多くの科学者によっても証明されていた。人工的に遺伝子に手を加えた大腸菌を不適な条件に放置するという実験が繰り返された結果、突然変異の20億倍の確率で、大腸菌の遺伝子に変化が起きた。この実験によりネオダーウィニズムが唱えていた「遺伝子の突然変異は環境とは独立しており無方向的なものである」という仮説は反証された。

 

DNAには「隠れた遺伝機能」があり、普段はその機能は働かないが、環境によって顕現することがある。

これが生命体は「形」に還元できず、「力」のことも考慮しなければならない理由である。

大腸菌の進化にとって真に重要なものは、「隠れ遺伝機能」を無傷のままに保ちながら、環境の変化に対して適切に反応するメカニズムを進化させるものである。このメカニズムに自然選択も偶然の突然変異も影響を与えないのであれば、どちらも進化にはなんの関係もない。

 

木村資生の中立説は、自然選択よりも遺伝的浮動(偶然)を重視した考え方で、DNA上に起こる変化のほとんどは、自然淘汰とは無関係に「隠れ遺伝機能」は排除されないのでこれらが積み重なり、環境の変化という偶然に対応できる「隠れ遺伝機能」が集団の中に眠っている、というものだ。

 

はじめにメタシステムがある。環境の変化に伴い、遺伝子は現状に適応するものを潜在的可能性の中から一つ選び、それを「形」にしているにすぎない。

 

一般の科学とは

我思う故に我あり この私は幻かもしれませんが、幻としての私は存在します。

この私の考えを観念とよび、この私の経験する存在を現象とよびます。

この私は自分の知らないことを経験します。世界には私と独立した現象があるに違いないと思い込んでしまうわけです。

 

科学は現象を説明する理論体系です。現象をコトバとその関係性によって説明しようとする試みです。

常に変化する現象を不変のコトバで言い当てるゲームといえます。

ゲームと言った理由は、同一性のない現象を同一性のあるコトバにパターン化(記述・法則化・言語化)することなどできないけれど、試してみることに価値があるからである。

そして記述できれば、これは意識にとって都合の良いことが色々起こるのである。

数値化できる現象を数値化のできない等号で関係づける試みとも言えます。

科学は差異と同一性を使って、数値化できないものを数値化する体系である。

 

 

 

扱う現象は私とあなたと彼らとの共通のものです。これらを外部世界とよび、科学の客観性は外部世界が実在していることにより保証されます。外部世界の実在性を信じる人々は唯物論者とよばれます。

外部世界にある不変の実在物を科学者たちは探してきました。ところが見つけたと思って観察した途端に、不変なものは変化するものになってしまいました。原子、陽子、絶対空間然りです。

なぜならば、観察や経験のもとである私の意識と現象の間には時間のズレを伴うためです。

意識は不変なものを観察することができないのです。

だから現象は必ず常に変化するものなのです。

 

科学の客観性を保証するもの  構造主義の科学論

科学理論を構築しているコトバや形式が、外部世界に実在するもの(現象)ではないとしたら、科学とはヒトの認識パターンや思考パターンの反映です。

するとパターンが変われば、同じ現象を全く異なる科学理論によって説明することができます。

外部世界の実在性に依拠する科学論では、同じ現象を説明する2つの異なる科学理論があれば、少なくてもどちらかが間違っていることになります。

しかし構造主義の科学では、パターンが異なれば理論が異なるので、どちらの理論が正しいかどうかという問い自体がナンセンスになります。

 

どんなに正しそうに見える科学理論であっても、理論は所詮相対的なものでしかあり得ない。科学理論に従わなければならないと考える人がいるとすればそれは科学信者である。

 

構造主義の科学が保証されものは

現象をコトバに変換する時の規則性     恣意的であるが規則に従う 現象は変化するがコトバは不変

コトバとコトバの関係規則の形式性    AB AB  AB

 

 

科学の巨大化と先端化の問題点

擬自律性 資本主義などの他の自律性は商品が売れなければ変更を余儀なくされるが、科学にはそのようなことがない。

科学技術が産んだ不可逆システムは、等身大で定常システムに戻す必要がある。

 

差別に対する戦略

差別は意識の性質から発するものなので、ヒトが意識を使う以上なくなるものではない。

それなので、差別をやめましょう、という平等では、逆に差別を深く潜行させて、表向きには顕れないように包みに入れてキレイゴトにするか、目の前に現れないように事前に排除するかのどちらかである。

具体的には、マスコミや都市や政府ではこのように対処することで、差別用語を放送禁止用語なるものを作って、自主規制することで、差別を助長しない公平な立ち位置に自分たちはいると自己催眠に意図的に陥ることで、社会を騙している。

ではどうすればいいのか?

差別とは記号(情報、コトバ、ボディー・ランゲージ、情感)を使う側が優位であると信じ、使われる側が劣位だと信じることから始まる。

基準は、経済などの形だけではなく、見えない優劣、聖俗、長短、浅深、浄穢、多少などによって判断される。

有効な戦略は、判断の基準は事実であるのでそこは認め、同じ記号を差別する側とは違う文脈で喜んで使うことである。

上記の二分法で意識の優劣によってはネガティブであった劣、俗、穢、少、短などをポジテイブの視点から捉え直して楽しんで使うことである。

例えば、劣等生であれば、意識の世界では劣等であるが、そのおかげで、心や体が休まることができるので、私は劣等生なので原子力を作ることも使うこともなく、天下りして汚職する世界に身を落とす必要もなく本当に良かったと実感して、心底誇りに思う機会を増やすのがいい。難しいことだが、意識の醜さと限界を知ることで

 

または差別される境遇の中にメリットを見つけ、コトバを逆に言い換えることでネガティブの中に価値を見つける方法もある。

例えば、ホームレスの人たちが、自分たちのことをanyhomeと呼んで開き直ることである。

どちらにしても差別される側に主導権があるので、その時の状況によって使い分ける権利がある。

 

恨みつらみ妬みと宗教

キリスト教の精神とは、弱者が強者にいだく恨みつらみ妬み(ルサンチマン)を反転し、組織したものだと、ニーチェは激しく指弾した。

「義のため迫害されてきた人たちは、幸いである。天国は彼らのものである」

「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」

「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着も与えなさい」

 

他宗教一般にも同じ構図がある。  

仏教にも現世で善行をしたものは来世での浄土行きが約束され、現世で悪行をした者は地獄に落ちる、という教義を強調する解釈もある。これら現状肯定と現状忌避をもたらすように合理主義的考えでは判断される。

 

「幸福の科学」は現世肯定である。

現世では精神修養と善行を積んで、死後も霊魂の修行をして、天国への階段を徐々に上っていこうという話である。

流行っているわけである。

理由は、現実の社会制度を肯定し、物質的な快楽を追求を否定せず、教義はもっぱら精神的、道徳的なものに限定している。社会制度を変革しようとする指向性が弱く、体制にとっては極めて安全であり、信者は社会と教義の間に軋轢を起こす恐れがないために、精神的に非常に楽でいられる。

社会の矛盾は、個人の精神的な生き方に還元するので、活動している限り、ある段階の幸福感に浸っていられる。

2つの間にいる訓練をしていない者(意識の限界を体験しない者・智性を持たない者)にとって都合の良いプロテスタント同じライフスタイルである。

もう一つの流行る理由は、死後の生を保証し、努力すれば例え死んだ後でも、どんどん幸福になれると教えていることである。これはこの世で後ろめたい事をしても死後取り返しがつくので、現世では2つ(形と力)の間で生きる訓練をする必要がないので、ずっと意識に頼って生きていける。

こんな現代日本にふさわしい宗教はない。

安全保障はアメリカ軍に任せているのに、自立と平和は紙の上の一文で達成されると信じているヒトが日本という壁の中には実在している。

物質的な享楽はむさぼりつつ、他者の痛みを感じないことで意識の平穏を得ていれば、天国に行けて、その上に死んでも意識が消えることを否定してくれるこんな都合の良い教義はない。他者や体を踏みつけても彼らが苦しいと叫んでも感知できる心臓(耳)を持っていない人たちに相応しい。

本人が幸福になるのは自由だが、それによって子供や周囲の人が苦境に突き落とされるのならば、近くにいることを避け、幸福なあなたは私の足を踏んでいるので痛いですよ、と伝えるしかない。

 

「エホバの証人」の考えは、現状忌避である。

神の教義を守って生きていれば、この世で死んでも、最後の審判で復活し、千年王国の住人になれる、というものである。現世の生死よりも、千年王国の住人になれるかどうかのほうが大事になので、現世の全面否定に行き着くのは論理的に正しい。

この世は仮の世であるから、神の教義を守ること以外の雑事は結局どうでもいいことになり、現実の問題を解決しようとはしない。

この世の10年よりもあの世の1000年である。

 

 

 

科学と未来

昔は、人生は一寸先は闇であった。そして現代では紛争地は、一寸先は闇である。

しかしコントロール装置である権力や科学は、一寸先を30年先まで明るくした。その結果、ヒトは予測可能な人生を歩むことになった。未来が予測可能ということは、未来と現在の差がなくなったということでもある。

これによって安逸と平穏は約束されたが、強烈な生の喜びも奪われてしまった。

いのちとは予測不能性であり、変化に対する対処であるからだ。

怠惰な予測可能主義者の価値観だけがすべてではない。未来が短いから不幸であるという価値観もいいが、ヒトに押し付けるのは単なる傲慢で踏みにじりである。

意識の外の世では、常に変化する流転の世界である。

それを予測可能として、未来を現在化したのは、単なる虚構である。コントロール装置が与えた幻想でしかない。

幻想であってもそれで安心ができるのであればそれを利用すればいい。ただし幻想を作り上げるためのコストやその払われる犠牲にも目を向けるのがいい。そして幻想の外で生きていける訓練も必要だ。

そうしないと幻想を利用するのではなく、幻想に使われることでしか生きていけないモンスターになる。

 

科学の進歩

進歩は物質的な安楽さと、無意味な長い生と、果てしない物欲と嫉妬心と、死への恐怖をを与えることができたが、生きがいと幸福をうばった。

どんなに医療が進んでも永遠に生きることはないし、自転車が自動車に代わっても幸福にはならない。

 

意識が体を殺す時代

1992122日に、死の基準が心臓から脳に変更された。これにより脳死者からの臓器移植を容認されることになった。心よりも頭を優先させる出来事であった。

この変更には臓器移植というビジネスと贅沢なエゴイズムと意識優先主義者の正義が介入した。

そうでなければ脳死者への治療打ち切りは家族の同意によったり、治療には保険は適用できないといったあたりで問題は解決していた。

しかし利権を得るものがいた。脳死者が生きている者と判断されると困る人たちがいた。

金で生きる資本家と上昇志向の強い起業家と誠実な医師とお花畑に住む学者とキレイゴト(例えばヒューマニズム)で誤魔化すマスコミによってである。

共通点は意識を高く持つことを好み目指す者たちだ。

金を儲けることを第一とする資本家と起業家はわかりやすい。儲かることならなんでもやるからだ。

だが医師と学者とマスコミは正義や善意や理性で改悪をすすめるので、悪の自覚がない分だけ、素直な誠実な顔をして平気で他者の心と体を踏みにじるので、生命体としては未熟で質が一段と悪い。

意識中心主義者は他者だけではなく自分の体さえも平気で殺すことができる。

そんなことをすれば意識自身さえもなくなってしまうのに。

自分の体を殺す時は、自己犠牲や他利や殉教だと言い張るのだからこれがまた質が悪い。

 

個体死を判別する科学基準という考え方そのものが虚構でありインチキである。

この世の分類の仕方や基準とはすべて恣意的なものでしかない。

だからだれもが自分の都合の良いように勝手に線を引き、その後は政治と思想と幻想と宣伝と科学と客観性で架空の線を実在と見せているに過ぎない。

どれもが夢想でしかないのにである。

科学と客観性は能力以上にたてまつりあげられて、ペテンのために利用される。

それで、ノーリターンポイントや脳波検査やMRI画像などを根拠になんとか無理を通そうと確執する。

臓器移植は富者のための先端技術である。

たったトップ5% が得をするための制度づくりでしかない。あなたがその中に入るのであればそれでいいが、逆になるのならば再考するに限る。75億人の内の3億人がこのような恩恵をうけるかもしれないという判断基準でしかない。未来には全員が受けられるというのもぺてんでしかない。未来には未来のトップ5% が人工知能を体内に埋め込むための法の改善が行われ、その先の未来には技術の高度化による区分がピラミッドとしてあることはヒトの「意識」がある限り続く。

 

国家の特質

コントロール装置

なんでも安易化してレッテルを貼ってマニュアル化することで落ち着くことができる装置

民衆の生活様式を一定のパターンに導かずには置かない。

管理制御システム

人間のエゴイズムをコントロール

表向きは民衆のため、実体は装置の維持、支配側のメンバーの特権階級の維持

 

欲望と組織が結びつくと、ヒトは一定方向に走ることを義務付けられた競走馬のように、目的に向かって走らされる。都合の良いことに本人は自分の自由意志で走っていると思っている。

 

 

健康オタクという差別主義者

健康なものが病患者に対して行う差別が、健康ブームだったり、死を見て見ぬふりをする日常生活である。

踏みにじっていることに本人は気が付かない。

健康とは幻想でしかない。老いと病気と死は免れるわけにはいかないので、隠蔽すればするだけ、過度の恐れをいだくだけなので、これらといかにうまく付き合うかが重要である。

 

病名という一般化

病名は治療のための便宜にすぎない。全ての人は誕生から死までの自然のプロセスがあるだけである。

患者を治療するのではなく、病名を治療しようとして、特発という治療不能な病名を持った患者は棄民にされる。

 

 

コトバとヒトのアナロジー

ラング 文法 言語

メタレベルの文法は発見されていない。 ここでのメタレベルとはすべての言語の文法に通底する法則のことだ。

したがって、言語の変化は無根拠・恣意的である他はない。無根拠・恣意的とデタラメ・偶然とは違う。

無根拠・恣意的であるということは、予測はできないが、事後的に見るとそこに法則を記述することができる。

 

コトバのシステム(言語と言語の変化)を事後的に見ると、共時的な構造として見ることができる。

通時的に見ると、構造変換の可能性を孕む自律システムと考えられる。

 

視点によって見えるものが変わる  意識の中の2つの点

 

 

時間

位置

視点

 

 

 

 

 

 

後から

鳥の目

人工衛星

共時的

偽の全体性

文法

法則

因果関係

 

現場

虫の目

老婆

通時的

真の部分

言葉の綾

自律

相関関係

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

支配下

物理法則

機械論

都市

プロテスタント

視覚

 

 

 

恣意的

生命体

生気論

正教会

触覚

 

 

 

本能は壊れない 自我が加わっただけ

岸田秀は、人間は本能が壊れてしまった動物なのだと規定する。これはヒトは生物としての必然的なルール(本能)が壊れてしまったので、それに変わるルールを作らなければならなかった、と言うことである。

しかし本能が壊れたという証拠は何もない。

ここでの解釈はヒトは本能にプラスαである自我意識が付加した動物である。

本能のみではなく、意識という仕組みも加わったのである。

 

自我とは

自我をもたない動物は、脳を含む刺激反応系をモニターすることができない。逆に言うと、自分の脳をモニターする機能が自我である。五感や記憶や想像の情報を自我がモニターしているという構造だ。

脳が進化すると、ある時から、入ってきた情報を操作するることができるようになる。

操作とは刺激に対する反応が一つではなく、複数の中からTPOに合わせて選択できるということである。

そのメカニズムが脳内で行われるフィードバックループである。コンピューターでいうプログラミングだ。

メリットは多様性であるが、デメリットはこの自意識システムが特別なものと見做そうとしてしまうことである。

自らの至高性と特権性を主張してやまない。

選択できる機関はどうしても自分がすべての中心であると信じ込みたいらしい。重要ではあるが全てではないのに。

自我意識は自らの特権性を主張するために、脳内のフィードバックループの正当性を証明しようとする。

これが倫理の出現だ。自我の特権主張が倫理を発生させる。このTPO選択のルールを倫理と呼ぶ。ルールは個人によって変わるので、倫理もヒトの数だけある。

その中のある特定の倫理の内容を記述して、共同体の行動規範にしたものが制度である。制度という形にした以上、線は引かれ、名証性を持つ。制度は普遍的ではなく恣意的なものでしかないので、制度を適用される共同体の内部には、制度を変革しようと意図するものが不可避的に現出される。個々の倫理は違うのでお互いに矛盾したり背反しているので、全員が満足する共同体の制度はない。

Aはしてはいけない、Aをしなければならない、という2つの命題を含む制度はない、と思われている。これを解決するには条件をつけることだ。○○の条件の時はAはしてはいけない、☓☓の条件の時はAをしなければならない、となると2つの矛盾は両立する。

 

制度の独裁性

いかなる制度も人間にとって普遍的ではない。

理想主義的なイデオロギーが独裁的になるのは、理想主義者がどこかに最高の制度があるに違いないと妄想しているからである。

これを錯認を犯すという。

東欧が崩壊したのは、理想主義者が普遍・真理・正義を明示的な制度として記述可能と錯誤し、この制度を変革しようとする人々を弾圧してきたからである。

制度は普遍でなく、ヒトにとって制度を変えることは普遍である。普遍とは宇宙の法則や自然のリズムという言葉に言い換えたほうがわかりやすいのかもしれない。

変えることは普遍だが、制度を廃絶することはできない。なぜならば制度の必要性があったからそれができたからである。必要のない制度は範囲が収縮し、必要な制度は適応される範囲が拡張される。

制度は非普遍である、普遍なのは制度を作る必要性だ。この見えない普遍を原因として、具現化するために明示化されたのが制度である。無理して作った非普遍であるので、変更され続けるのが普遍である。

 

死と自己意識

子供にとって、死は身近な人の永遠の不在として認識される。子ども自身は自らの不在を考えることはない。

自我を持たない動物や幼児は、自分の死を恐れることはない。

「自分の不在を意識する自分」という幻想を持つことではじめて、自分の死を怖いと思えることができる。

幻想だとわかっていても幻想には作用があるからヒトは怖がってしまう。

そこで死の恐怖を逃れるもっとも簡単な方法は、死後も自我が消滅しないと信じることである。死を宣告された病を持つ人が帰依するのもこの死に対する恐怖心からである。

 

死は不平等なのか?

すべての個体に死は等しく訪れる。しかし時として平等に感じないのは、若者が不運にも死んだり、素晴らしい人が難病にとりつかれた果てに非業の死をとげたりするからである。

生命体が病気になったり死んでいくのは、自然にとっては当たり前のことで特別な意味はない。普遍的な意味はなく、生まれるものと死にいくものが同等にあるのがこの世である。ヒトもただの生物である。

若くして死病になったのは不平等だと思ったり、選ばれていると思うのは自己意識の勝手な都合であって、自然は自己意識の理屈どおりに動くわけではない。自然と自己意識には相関関係はあるが、自然は自然のルールがあり、自己意識のルールが通用しないのである。もっといえば自然のルールによって生物が進化し、その中の一種類が自己意識を成長させた人類なのである。

生物が生きるということは、自己意識から見れば不平等と不公平をまるごと背負いこむことである。

人為的な不公平はなくした方がいいが、生物であることから発した不平等は、生きるためにこれを肯定するしかない。

生物であることから発していた全ての不平等と不公平は死によって解消され、万物は平等の存在に還るのである。人類が望んでいた永遠の理想である平等は、死によって初めて具現する。

これこそが救いである。

 

ヘンタイは観念の病    科学もヘンタイ

病むことができるのは病む部位が存在する証拠である。

その部位とは観念を生み出す自意識である。

革命は現状に満足していない者が抱く思想である。コントロールされることで生きているものには革命を実現する可能性は一つもない。

オタクとは蒐集癖のあるヘンタイである。図鑑やカタログに載っているものを見て、実物を想像して、それを集めることが蒐集の情熱を支える。これがガソリンになって行動が続けられる。エンジンは見たものを集めないと自己意識の全体性が完結できないと思い込む欠落性の恐怖である。

科学はすべてのものを既知にしたいとの欲求に根ざしたパラノイアに他ならない。

カタログに載っていないものは「自然・非意識」である。これを集めるのはもうオタクでも科学者でもない。

オタクは既知のものを集めるものであるし、科学者は記号という観念の病を持つヘンタイのことだから、記号のない「自然」を集めることを科学者はしない。

19世紀に博物学とよばれた、未知なるものを探すことに情念を傾ける人たちのことだ。その軽薄のものがオカルトやUFOを探索している。

 

真摯な誠実が宗教で他者を踏みつける

真摯な人々は、制度的な平等を目指しつつも、制度の変革によっては決して実現できない、自分自身の中にある倫理内容に気づく。

自分の価値観と制度の間の矛盾をなんとか調停しようと試みてしまう。

この調停が宗教である。普遍は明示的な制度としては決して実現しない、ということの中に宗教の存在根拠がある。

ここで、自分の倫理をあくまで守り、自我を貫く立場をとると、自分の倫理と制度の矛盾をこの世で調停しようとするのを諦め、来世での真理の実現を希求するようになると、これが自我不滅説をとる諸宗教の基本的な構図である。

来世での真理の実現を確かにするためには絶対者にその実現を約束してもらわなければならない。

そのために絶対者に帰依し、契約を結ぶことになる。この契約が具体的な信仰内容となる。この具体的なものを絶対視することが、常に変化している宇宙を意識で固定化させようという試みなのである。

使える時には使うこともあろうが、このパターンに嵌まることは、自分の体や周りの人間を踏みつけていることになる。自由自在・融通無碍の世界を押し固めてしまっているからである。

 

踏みつけない宗教はあるのか?

ある!

ヒトの体を宇宙のリズム(普遍)として、個々の倫理や自我は意識が作り上げた仮のもの、と捉える宗教である。

このように捉えると、意識は大いなるもの前にはかわりゆくアブクに過ぎないと思うことができる。

このような宗教は教示は明示的な制度にならない。なぜならば、「形」を絶対視することは、自分の立場を否定することになるからである。

機能主義  functionalismの訳語   ラテン語functiRnem (fungLなしとげる)なしとげること

1 文化の要素や社会の構造が、人間の生存や環境適応に、機能として関係する点を特に重視する考え。

2 心理学で、意識ないし心的活動を、もっぱら環境への適応の機能とし研究すべきであるという考え。

3 建築の形態は、もっぱらその目的と機能に従って設計されなければならないという主張。

 

ハンディキャップ論といってクジャクが美しい羽があるのは、不利な状況に進化することで、それを乗り越える力をメスが評価し選択するからだ、という説だ。

あらゆることを「生きるために」と「子孫を残すために」に○○であるという

生命体の変化は機能によってだと言いたがる。

こんな強迫観念に縛られて、ハンディキャップ理論(オス孔雀の羽が美しいのは不利な状態乗り越える姿をメスが評価して選択するから)などを生み出してきた生物学である。

アリストテレスから現在に至るまで、生物学は「生きるため」に脳が縛られて、生物学をからだで理解する方向では作られなかった。

「ある法則」のもとで「説明できる」ことを目指すのが学問の姿だ。

例えば、キリンの首が長いのは、高いところの葉を食べることができ、生存に有利であったので選択された結果である、と説明できる。まあ、この程度のものなのだ。高い木のない地域でもキリンの首が長い理由や、蛇腹のように折りたたみのできる首を持たない理由は、何も説明していない。

脳が理解するパターンにして踏襲した形にすることが目的だからである。

それが終われば、もう脳は満足してしまうのである。

これを「いのち」の世界では、わかった気にさせる、という。

 

わかった気分にさせるのが学問の目的

学問は思考の積み重ねによって成立する。

思考は脳によって実行されるので、脳を満足させるのが学問の行き着く先だ。

すると「わかる」という構造、思考の構造、脳の構造、情報の構造がわかれば、学問のクセがわかる。

この「わかる」という構造の象徴が人工知能であり、その中心にあるのがコンピューターの計算機だ。

 

 

同一性と差異化

生物は同一性から逃げられない一方で、与えられた枠内で最大限の差異化を遂行しようとする。

同一性への回帰と差異化への願望。

これが生物に限らずあらゆる形のあるものの原理である。

 

ここにいくつかの錯認があり、これが現代において問題を起こしている。

一つ目は、この同一性と差異化を、見えないものと見えるものというように理解し、これを過剰一般化してこの世に適応させてしまう人がいる。

例えば交通ルールと車の走っている状態のように、見えないものと見えるものと対比される場合もあるが、

どちらも眼には見えないものときもあるし、どちらも眼に見えるもののときもある。

例えば、規則と交通ルールだったり、車と乗用車・作業車だったり。

 

二つ目の錯認は、同一性が見ないもので差異化が見えるものである場合、この見えないものを意識、見えるものを作られたものとして、この関係性を過剰一化してしまう間違いである。

例えば、人工物は意識によってできるので、意識を過剰に評価して、意識を創造の中心にしてしまい、素材や環境の重層性(地形・季節・気象・人口密度・自然・植物・動物)やヒトの表情の変化が持つ「見えるもの」の変化に対応できなくなってしまったヒトもいる。

 

三つめの錯認は、見えない同一性を一つとしてしまうことで、それと対応する差異化に因果関係を結んでしまい、そこでわかった気になってしまうことだ。

いろいろな同一性がある。コトバ、形式(フォルム)、構造、モードなどなど。

このような同一性の支配下で、個物はおのれの存在を主張するかのように、他の個物との差異を際立たせようとする。

自然選択によって生成しているという説明は、機能主義的にはそうであるが、構造主義的にはそうではないのである。

構造主義は、生物の種は流行(モード)の結果によって生成した。と捉える。

 

因果関係という錯誤

ものごとにはすべからく原因がある、と信じている真面目なビジネスマンが街には大勢いる。

いかなることにも原因があるのだから、なぜと問うことに意味があると思っている人たちである。

因果関係とはなんなのか?

Aということ(因)が時空の離れたBということ(果)とつながっていることを指す。

Aが起きると高い確率でBも起きることを指す。

ところではじめに、大事な前提がある。この世の出来事は一回しか起きない、という事実だ。同じものはない。同じようなこと事を起こそうとしても、それは間違いなく異なるものであり似ているに過ぎない。

第一前提を受け入れると、因果性が成立するのは、異なる出来事を同じであると認定する主体が必要とされる。

主体とは私やあなたやロボットだったりする。異なるものを同じであると認定するのは、主体の脳が作り出した仮構なのである。

なせこのような仮構が必要なのか?出来事は無限にあるが、コトバは有限だからである。

「意識」ができる理解とは、パターン化することにほかならない。

有数のコトバで無数の出来事を把握しようと無茶をするのだから仕方がない。

「万物は流転する」(ヘラクレイトス)ので、二度と再び同じ同一の出来事はやってこない。

だから因果性というのは仮構(ウソ・ペテン)でしかない。これは宇宙法則でも、経済法則も、コトバというパターンに騙されているだけのことである。

なんでもこのパターンに還元でき、しかも全てのパターンの関係も記述できると信じている人のことを、ラプラスの魔に魅入られた、という。因果関係を突き詰めた後は、全ては既知の中から導出できるという、幻想の中で人の体を踏みにじって生きていくのである。

 

法則などは実在しない、実在するのは法則があるとに違いないという「意識」の錯誤形式だけである。

だがこの錯誤形式にはメリットがある。これを使えば未来予測を当てる確率を増やすことがしばしば起きる。

なぜならば、この法則化という抽象度を上げる錯誤によって、知らない現象を知っている既知に変換することで、パターンとして捉えることができる。この点と点を結んで線を引くことで「道」を作る作業によって、現象に規則性を発見する目を与えることができる。

これを意識化と私はよぶ。コトバという人もいるし、法則という人もいる。従ってコトバを覚えることは、すでに発見され承認されているパターンを踏襲することになる。これが文化であり伝統である。

だから新しいパターンを発見して、それに名称を与えようとすると、必ず既存の文化と伝統に抵触し軋轢を起こすのである。

 

そして次に、科学ではまだ完全に証明できていない不思議な力が作用する。

一度「既知」になると、今度は意識の力で、操作することができるようになってしまう。

ヒトは見たいものしか目に入ってこない。意識しているものしか認識することができないのだ。

この世とはその人が見たい世界のことである。

その人の現実とは、その人が意識していることである。

その人の意識がその人の未来を生成しているのだ。

 

布置変換

 

時間の層

 

 

 

時間

 

 

 

 

T

意識

幼児期

一様 同一性 不可逆

伸縮 凸凹

意識時間

体の実感時間

 

 

 

U

自己意識

青年期

時計 均一、不可逆

物理時間

ニュートン力学

 

 

V

無意識

成熟期

凸凹 時空一致

相対時間

アインシュタイン

 

 

W

非意識

老齢期

可逆 泡沫 方丈記

時間消滅

 

 

 

 

生前生後

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

T

 

ア・プリオリ

 

 

大脳旧皮質

郊外

U

 

錯認

素朴実在論

信仰

大脳新皮質

都会

V

 

経験

ビッグバン仮説

 

大脳辺縁系

心臓

W

 

 

 

 

脳幹

小腸

 

 

 

 

 

 

 

地球外

 

 

 

 

 

T  現象の変化と時間の存在は等しい  空間の変化は時間によって成り立っている

   時間が流れなければ、現象は変化しないで不変のまま。

   運動がまったくないところには時間がなく、時間がないところには運動がない

U  時間や実体は、私の意識とは独立して、この世のあらゆる場所に自存している

   私が経験する変化する現象のことを「自然」と定義すると、自然自体の中に時間が流れている。

   運動の存在とさえも独立して、時間がこの世界のあらゆる場所で一様に流れている

   物理時間は、流転する物理現象と不変の同一性として捉えた物質の架け橋で結んだ時に発生する概念。

   不変の同一性として捉えた物質を想定したことから発生した。

   不変の実体(空間)があると信じたことから、不変の時間が生じた。双子の兄弟である。

 

V  物理時間は私の「意識」が構成したものだと仮説して認識する

   時間と空間の間には完全独立性がない  

慣性系が異なれば、2地点での同時刻という概念自体がない

「時が経つのを忘れる」  実感している時間  体にとって基本の時間

「一日千秋の思い」

 

 

W  神話

   我々が存在しなくても多分、自然は自存するだろう。少なくてもそのことを疑う根拠はない。しかし我々が存在しなければ、いかなる時間も存在しない。

 

 

TやUの世界に人々が縛られている理由  もしくは錯認の根拠

放射線元素の崩壊という現象は、私の意識の存在とは独立して生起していることは明らかなので、時間もまた独立して存在する、という考え方を持つ。

しかし、2つの元素の半減期の時間が等価であるという根拠はどこにもなく、2つの別の出来事を私の「意識」が同じ出来事であると認定しているだけである。意識があって初めて同じであるといえるのである。

 

意識の外の世界では時間が凸凹しているということは、その比較対照としての均一で一様な時間を仮想することがはじめに前提される。この一様な時間は、外部世界に自存するのでなければ、私の内に、すなわち意識にあることになる。

多くの人が時間が自存すると錯覚を犯すのは、流転する現象と時間が、我々の存在と独立に相関できると錯覚するからである。しかし、現象と時間が相関するためには、我々の内なる意識の同一性の存在が前提とされる。

 

時間とは

科学や記述とは、常に変化する現象を不変のコトバで言い当てるゲームといえます。

ゲームと言った理由は、同一性のない現象を同一性のあるコトバにパターン化(記述・法則化・言語化)することなどできないけれど、試してみることに価値があるからである。

そして記述できれば、これは意識にとって都合の良いことが色々起こるのである。

それで無理を承知で言語化するのだけど、矛盾していることを矛盾していないようにしなければならないので、何らかのトリックのシステムを作る必要が出てくる。このトリックが「時間」である。

だから、不変なるものが存在しない所(コトバがないところ、現象、カミがいない所、基準がない所、同一性がない所、記述がない所、意識がない所、脳がない所、都市がない所、)には時間が存在しない。

「コトバ・記号・記述は時間を生み出す形式である。」

時間は私たちの意識が仮構した二次的な存在にすぎない。

一次的なものは、不変なる同一性の意識と流転する現象としての自然である。

 

 

 

 

錯覚という科学

科学は錯覚の上でのみ成立する。

この錯覚とはこの流転するこの世を不変の記号で表しているからである。

記述すること、記号を使うこと、言葉を使うこと、は形なきものをあえて形におさめているにすぎないのに、これを形におさまっていると思うことが錯覚であるのだ。

同じ花は2つとしてなく、一つの花も一刻ごとに変化しており、同じ花ではない。

それなのに、同一性でくくろう(記号を使う・記述する・名詞や動詞を使う)とする姿勢を貫くのならば、不変のものを不可視のレベルに想定するしか道が残されていない。

原子からはじまり、クォークにいたる、「不変探しの旅」はこの姿勢の線上にあるのだから、旅は果てしなく続くのである。

不変に名前をつけて金を稼いでいられるのは、これが見えないから、ペテンを続けることができるのである。

個人の趣味でやるにはいいが、税金を使ってやるほどのものじゃない。

不変の同一性と信じられたものは、見えた途端に不変の同一性であることをやめる。原子が観察可能になったら、それは不変の同一性から、流転する現象にすぎなくなった。

 

究極の不変の同一性を記号ではなく、現象の中に自存するたとえばクォークのようなものだと思い込みたがっている。先に同一性があり、それを現象の中に見つけようとしているのだ。

ここでも順番が逆になっている。

現象にあることを同一性を使って表してみるのが順序であるのに。