虚数の情緒 吉田武
162 無限の神秘を愉しむ事こそ、人間精神の自由の現れなのであるから、人間と動物を区別する最大の要素は、「無限」に対する理解と、ある種の憧れにあるのかも知れない。
私見 動物は無限を実践しているが、人間は実践しているものは極めて少ないし、理解しているものも、それほど多くない。
動物の無限の実践とは何か? 鳶の旋回、傷を舐めあう猫の親子、屹立する縄文杉、常に流れる川、
503 数学には美しさがある
私見 美しさや情緒は感情の世界だ。心の世界だとも言う。これらの感情は条件反射のパターンで現実を見ることも含める。すなわち数学は条件反射のクセにとらわれている世界だと言っていることではないか?
数字や言葉を司る理性、そしてその理性は意識から生まれる。しかし理性を使った数学は、無意識である条件反射にとらわれている。ヒトとして当たり前のことである。生命体は理性だけではなく、条件反射の無意識や反射の体もあって、はじめて「いのち」がある、と言えるからだ。
504 人は感情が満たされなければ、決してそれが「わかった」とは思わない。
「わかるとは、少なくてもそれに関して二つ以上の説明の方法を持つこと。それができた時に初めて私はほんとうにわかった、と感じる」ファインマン
私見 分かるとは、メタファーができ、自動的に二つを結びつけることができる安心を生むこと
505 わかる本質は情緒であり感情である、と言っているが、私見によると肉体化された条件反射を伴ったことを意味する。
514 動物は虚数を理解することは無理だろう、と書いているが、私見によると、動物は虚数の世界を実践している。例えば猫が大きな怪我をした時に、傷を舐め合って治していく。この舐めるということが、虚数的行動である。量子力学の世界、私の言葉では「いのち」の世界では、人事を尽くして天命を待つ、ということだ。光が波であり粒子である、ということは、舐めることでこの二つが同時に存在する世界に身を置く、ということだ。これは、分析して治療する医学ではない。人は虚数を頭で理解しても、平気で医学に頼り間違えるだけで、虚数の行動には至らない人が多い。
614 虚数の情緒とは、二分法の合理性や比較や差異に頼るのではなく、負・ネガティブ・陰・マイナスの良さも体感する価値観のことである。悪い条件であっても、言い訳をするのではなく、ただそこに生きる。その姿こそが「もののあわれ」である。そこには偉大なる諦観、宿命に対する謙虚さ、黙して語らない老人の瞳。
Let it be, Que sera seraと言葉にする西洋(大脳皮質)は科学を生み、言葉にしない東洋(脳幹)は禅を生んだ。
西洋の一次元的な見方を「数直線」に譬えれば、東洋は「複素平面」「虚数」の世界である。これが虚数の情緒の意味である。