論理学の限界

 

正しいとは神さまのこと

実は正しさというのは自分の神さまのことで、神学なんです。

だから昔の日本は八百神なんで、みんなが正しい。

でも同じ日本人でも都市生活者のプロテスタントならば一つの正しさを求めてしまうし、

新興住宅地の無神論者ならば正しさなんてないさ、と思っちゃうんです。

 

誤解されるから小さな声で言いますけど、実はどんな多神教だって、アニミズムだって神道だって、カミさまは一つなんです

伝え続けている本人に教えてもらうと、どの神話もはじめは一つのものから始まっています。

そしてもっと小声で言いますけど、ユダヤ教だってイスラム教だって、カミさまは実は一つじゃないんです。天使たちとか火の神とかね、人智を超えたカミさまグループが一杯いるんです。

本はダメです。誰が読むのかわからないことを前提にして書いていますから。インターネットもダメです。読む人がどこのステージまで習得してきたのかわからないので、いきなり本当のことは言えませんから。また本当のことは受け手にとって最善のこととは限りません。用意ができている人しか受け手になれないのです。その人の状態に合わせて、ちゃんとメッセージを送るというのが基本です。

さて話をカミさまに戻すと、どこに注意を向けているかだけの違いなんです。 意識を上か下かのどちらに置いているかだけの話なので、次の瞬間に上下の反対側に意識を移せば、一神教が多神教に、多神教が一神教になっちゃうんです。

だからなんでも分析して0と1に分けるんじゃなくて、「これとあれのどっちもあるじゃん」、といった全体を直観でとらえる目線もいいよ、ってわけです。

論理学ではこれを矛盾と呼びますが、「生きている命」にとってはどっちも正しいという理解の仕方があるんです。

それなのに、論理学で言う矛盾がダメだといって、ただ一つの神が正しい、と言っちゃうと正しさと正しさが喧嘩をし始めちゃうんです。

 

人知を超えた出来事や啓示を受けたことがあるでしょう?

でもそれって神か天使か悪魔か河童かトトロか、だれの仕業かわからないでしょう。本人が名乗ってくれたって、寝ぼけていたり、嘘をつくのも一杯います。

 

中には正しさを証明しようとする人がいます。

どのように証明するのか、それが問題なんですが、これがまた変わってるんです。

瞑想や直観や体感じゃなくて、言葉を使って0と1に分ける考え方を証明しないといけないと思っている人がいるんです。言葉の利用範囲を超えた勘違い野郎です。言葉を司る理性はモノを分けるのが仕事ですから、Aが一番正しいと言葉にしてしまえば、Bは一番正しいことはなくなってしまうんです。これが言葉を使う限界です。言葉と理性とが結びつくと論理学となり、「これが正しい神である。あれが正しい神である。」とどちらも正しいと捉えることができなくなります。

 

証明するときに論理学に則って相手というよりも自分自身を説得させようとします。そうしないと脳が落ち着かないので、自分の脳で自分自身を洗脳しちゃってる人たちです。自己催眠までかけちゃってます。そして正しさが証明できたと思い込むのが彼らにとって大切なことなんです。

これが論理学を使って正しさを証明するというやり方です。

大脳の中でしか成り立たないことや、時空に限定された世界では起こりえないことを、脳が勝手に世界を作り上げてしまい、証明をし始める  うんですしちゃうんです。それが正しいことだと信じこんじゃうんです。そして一度証明されるやいなや、自分の正しさで他人をさばいちゃたりするんです。

目の前にあることの現実を無視することからでしか論理学ははじまらないのに。

 

 

 

論理学の限界

論理学って勉強したことありますか?いろいろな学問の基礎にもなっているんで大切なものらしいです。

ところがこの論理学のはじめの前提がありえないことばかりなので、みんなびっくりしちゃうと思いますよ。

こんな考え方で正しさとか正義とは何か?なんて言われてもどうしていいのやら。

ゲームとしては面白いけれど、真面目に信じるには怖くなっちゃいます。

胸を張って、ファッショナブルな格好して、自信溢れた表情しちゃうんですよ。どうしましょう。

でも少しだけオリエンテーションを。

 

記号論理学の第一歩は「二つのもの明確に分けること」である。 1/0 真/偽 T/F

これがすべての基本である。

まあこのゲームに少し乗っかってみましょう。

 

次は矛盾律です。どちらか一方が正しければ、もう一方は正しくない。

言い換えれば「両方が同時に成り立つことはない」という法則  これが思考の原理なんですって。

他の言い方をすると排中律 law of excluded middleで「正しい」か「正しくない」か、二つの立場しかない。その中間は存在しない。どちらか一方になるのが決まって中間はない、ってことらしいです。

最後は同一律   あるものがいつも同じである。

同一律は「自意識」の基礎であり、何かを定義したり説明したりする基本原理である。

三毛は三毛である。三毛は猫である。

 

記号論理学において、この世にありえない条件の式であってもいい。

例えば

私が王ならば、散歩を義務とする。  地球が正方形ならば働かなくてもいい、とか。

論理学の世界では「事実がどうであるか」は問題にならない。

ただ何にでも応用できるのが記号論理学の面白さなのである。

 

だそうです。

そんなゲームをやろうって言われても、世の中、いつもとか、二つに一つなんてこと滅多にないじゃん。

うそっぽいし、めんどくさいし。もっと本当のこと言えば、うそだし、インチキじゃん。

 

論理学の境界線は極めて厳格に決められている。その目的は、思考の形式的な法則を詳細に説明して厳密に証明することでしかない。その際、その思考が、先天的であるか後天的であるか、その起源や目的は何なのか、それが情緒的な阻害要因に出会うのが必然なのか偶然なのかは、問われないのである。

 

論理学がこれほど成功した理由は、ひとえにそれが自らに課した制限のおかげである。論理学では、認識の対象の内容や違いを無視することができる、否、無視しなければならず、そのために、論理学のなかでは、理性は自分自身の働きとその形式だけに取り組むことができる。

 

 しかし、もし理性が自分自身の働きだけでなく、その対象をも問題としなければならないのなら、理性の働きが確実な学問の道を歩むようになるのは当然はるかに難しいことになる。だから、論理学は予備的な学問として、いわば様々な学問の入り口としての役割だけを果たしているのである。そして、我々が知識を問題にするときには、知識を吟味する前提条件として論理学にたよることはあっても、知識を拡大する役割は、真に学問の名に値する別の学問に求めなければならないのである。

 

こりゃあ、でまかせでしょう。こんなのが入口ならばここから始まる学問は全部インチキになっちゃうでしょう。これが知識の前提条件なんてどうかしちゃってますよ!

 

 さて、そのような学問において理性が働いているとすると、その学問の知識のなかには経験に依存しない先天的な知識が含まれているにちがいない。そして、この知識はその対象となるものと次の二つのどちらかの方法でつながっている。その一つは、その対象を理解したり概念化(その概念自体はよそから持ってくる 必要がある)するという方法であり、もう一つは、その対象を実現するという方法である。前者を理性の理論的知識(理論理性)とすれば、後者は理性の実践的 知識(実践理性)ということになる。

 

どうですか、なにかピンとくることありましたか?

 

 

 

 

記号論理学の第一歩は「二つのもの明確に分けること」である。 1/0 真/偽 T/F

これがすべての基本である。

このゲームに乗っかっての話である。

 

第二 もしくは第一の言い換え

矛盾律 どちらか一方が正しければ、もう一方は正しくない。

言い換えれば「両方が同時に成り立つことはない」という法則  これが思考の原理である

 

第三 もしくは第一の言い換え

排中律 law of excluded middle

「正しい」か「正しくない」か、二つの立場しかない。その中間は存在しない。

どちらか一方に決まって中間はない

 

同一律 あるものがいつも同じである。

同一律は「自意識」の基礎であり、何かを定義したり説明したりする基本原理である。

三毛は三毛である。三毛は猫である。

 

記号論理学において、この世にありえない条件の式であってもいい。

例えば

私が王ならば、散歩を義務とする。

論理学の世界では「事実がどうであるか」は問題にならない。

ただ何にでも応用できるのが記号論理学の面白さなのである。

 

枝分かれ図 フローチャートが書ければ計算できる。

二文法の原理を使って、なんでも分類して答えを出す方法。

間違いはこのチャートを書いたのが適当であること。 二分法で分けることができないこと。あえて分けているだけであること。

チャートを書くのは人間である。PCはチャートに書かれたことしかできない。

 

The と a

A は ある領域のメンバーのうち、少なくても一つ を指す。ゼロではないこと。 任意の一つ。

その中のだれか  aは集合のことを指している。 その中のどれでもいい、どれか一つ。 A dog 犬という動物の中の一頭。

A とはすべてと常に関係がある。 ある集合の中に一つもない、のではない、というのがaの意味。

日常生活ですべてを把握することはないので、aを使うのは傲慢である。もしくはaを使うのは全てを言い切ることと同じことなので、謙虚がってみせるのはインチキである。

 

ある人間は女性である。  すべての人間が女性であるとは限らない。

 

The は自分の知っている特定なもの。

 

 

 

カール・ヘンペルの発見したパラドックス

すべてのカラスは黒い 仮説の普遍命題

すべての黒くないものはカラスではない 対偶命題  黒くもなくカラスでもないもの →黄色のバナナ

つまり、実際のカラスを一羽も観察することなく、仮説である普遍命題の合致例を無数に見いだせる

黄色バナナは非常に僅かであるが対偶命題の確証度を増加させ、同時に仮説の確証度を増加させる。

ここからパラドックスが始まります。

黄色のバナナは黒くないばかりか白くもない。

「すべての黒くないものはカラスではない」の確証度を増加させた黄色のバナナです。 

黄色のバナナは黒くない、ということが「すべての黒くないものはカラスではない」と言えるのならば

黄色のバナナは白くない、ということが「すべての白くないものはカラスではない」と言えてしまうのです。

正確に言うと、黄色のバナナは黒くないばかりか白くもない、ことは「すべての黒くないものはカラスではない」だけではなく、「すべての白くないものはカラスではない」という命題の合致例になってしまうのです。

すなわち一本の黄色のバナナが「すべてのカラスは黒い」と同時に「すべてのカラスは白い」という根本的に異質な仮説の合致例にもなってしまうわけです。

 

要するに、合致例が多ければ多いほど確証度が増すという「確証原理」の考え方そのものに問題がある。

なにかを確証するという概念にも根本的な問題が内在している。

 

私見 論理学における言葉の捉え方に問題がある。言葉自身の問題とともに正確に捉えようとすることが、矛盾を生み出している。

機能法も確証原理も成立するという保証はどこにもない。

 

反証主義

カール・ポパー 「科学的発見の論理」1959

「私の見解では、帰納法というようなものは存在しない。「経験によって実証」された命題から、理論を導くことは、論理的に不可能である。したがって、理論は、決して経験的に実証されない」

すべての科学理論は「決して経験的に実証されない」以上、永遠に「仮説」あるいは「推測」にすぎません。しかし仮説を経験的に「反証」することは、論理的に可能です。反例を経験的に発見するか、あるいは他の理論との論理的な不整合性を発見して、その仮説を「反証」あるいは「反駁」するのです。

 

反証できなければ科学ではない   占い師は何を言っても当たったということができる。フロイトやアドラーの理論もしかり。疑似科学にすぎない。後出しジャンケンである。これらは反証不可能なので科学ではない。

 

ウィトゲンシュタイン 「論理哲学論考」          

この世界で「明らかに語りうる」ことは、真か偽かを「論理的」に決定できること、あるいは事実か否かを「経験的」に実証できる言語に限られるということ。これらの言語使用のみが「有意味」であって、それ以外の言語使用は「無意味」なのです。この「有意味性判定基準」を世界の言語に広げることこそが、論理実証主義のスローガンです。 背景はヨーロッパにおける被合理主義的神秘主義の台頭。ナチスなど。

 

 

現実世界の論理実証主義を実践

しているのは裁判所。正確に言うと、都合の良いように利用しているのが現状だけど。

法廷において、検察官や弁護人や裁判官の論述は、何よりも「論理」的に構成されていなければならない。はず。

裁判に登場する証拠や証言も経験的に「実証」されなければ意味をなさない。はず。

 

論理実証主義者の限界

この世は、言語や科学法則ではとらえきれない、生命体の宇宙だ。 これは複雑性と多様性に満ちた実体だ。それなのに科学者や哲学者は、ちょうど論理実証主義者のように、「論理的」と「実証的」でなければ「無意味」であるというスローガンで真の問題を切り捨てて逃げてきた間違いを、今日もやっている。

語れるぬことは沈黙しなければならない、なんてどこまで真面目なんだろう。もっと正確に言うと生命体をわかっていないお馬鹿さんなんだろう。語れないことだからこそ、みんなで語ろうじゃないか、というのがこの世にいるもののお勤めであり、喜びであり、悲しみである。

ただ語れぬものを信じてしまうのは可愛いけれどアホらしいから、ほどほどに。

 

 

 

 

 

 

根拠律   principle of sufficient reason

くわしくは充足根拠律。充足理由律,理由律とも言われる。矛盾律と並ぶ二大原理としてライプニッツによって提唱されたもので,〈何ものも根拠のないものはない〉という形で表現される。その意味するところは〈一つの事物が存在し,一つの事件が起こり,一つの真理が生ずるためには,十分な根拠がなければならない〉ということであり,したがってこれは論理学的原理であるとともに形而上学的原理でもある。たとえば主語概念を分析し,そこに述語概念が含まれているかどうかを単に理性によって確かめるだけで真偽が決定されるような理性的認識は矛盾律を原理とするが,そうした操作では真偽が決定されえぬ経験的認識の真理性を支えるのが根拠律なのである。こうしてライプニッツは真理を2種に区分する。矛盾律に基づく永遠の真理ないし必然的真理と,根拠律に基づく事実の真理ないし偶然的真理とである。偶然的真理と見えるものも,事実の無限の系列をたどることができれば,したがってその系列を一瞬に直観しうる神の目には必然的と映るにちがいないのだが,それをなしえぬ人間はその真理が成立するのに十分なだけの根拠があると想定するしかないのである。のちにショーペンハウアーがこの根拠律を生成,認識,存在,行為の4領域に即して精密に規定しようと試み,近くはハイデッガーが根拠律を手がかりに根拠の問題を問い深めようと試みた。  木田

 

同一性   identity

あるものがあるものとして存立しあるいは同定identify されるとき,そのものは同一性をもつという。同一性は,したがって,一面,あるものがあるものと異なったものでないことをいうものとして,差異 difference ないし差異性と対立し,他面,あるものがあるものと異なったものになることがないことをいうものとして,変化と対立する。ここで,同一性―差異,同一性(恒常性)―変化という2組の対立概念は,いずれも,一方を欠いては他方の規定が困難になるような種類のものである。このことからして,哲学の歴史の上で,この対立概念のどちらに重点を置いて考えるか,あるいはまた対立する2項の関係をどう考えるかという問題をめぐって,鶏が先か卵が先かというのにも似た,諸立場の錯綜した対立と展開が見られることになる。

[思考の成立条件・規則としての同一性]  何事かについて考える場合,そもそも,そのこと,ないし,ものが一定のものとして根本に置かれていなければ考えそのものが混乱におちいって成立しなくなる。このような観点から,同一性を真なる思考の成立のために欠くことのできない形式的条件とし,矛盾律とならぶ論理学の根本規則としての同一律によって要請される特性とする見方がアリストテレス以来一貫して存在している。アリストテレスその人においては,彼が矛盾律を時間的条件や広い意味での文脈に関係づけて定義していることからも明らかなように,同一律,矛盾律は,真なる思考のための形式的規則であると同時に,実在の構造そのものにもかかわるものと考えられていた。しかし近代以降においては,それらの規則を,思考の実質となんらかかわることなく真なる思考の成立のための純粋に形式的な条件を示す分析的命題ないしトートロジー(恒真命題)として位置づけて,このかぎりではより徹底した考えが,論理学・数学の形式的整備にともなって,有力なものとして行われている。

[存在論と弁証法]  アリストテレスが,矛盾律の定義にあたって,時間的条件とまた空間を含めた広い意味での場所(トポス)の条件を付け加えたことは,反面からいえば,いわば変化と差異ないし差別相によってみたされたわれわれの住む世界においては,こうした条件をぬきにした端的な同一性や同一律は成り立たないことを考慮してのことにほかならなかったとも考えられる。事実すでにソクラテス以前の古代ギリシア哲学者たちにおいて,パルメニデスは,〈あるものはあり,ないものはない〉という同一性の論理の立場を徹底して貫き,弟子のゼノンはこれを受けて,現実世界の生成変化や多様性の一切を論理的にありえぬものとみなす有名な一連の〈ゼノンのパラドックス〉を提示し,一方,ヘラクレイトスは,一切を流れてやまぬものとみなす見解を示していた。彼らにあって,同一性や生成変化ないし差異をどう考えるかということは,たんなる思考の規則や,あるいはわれわれの住む世界内の個々の事象についての探究である以前に,なによりもこの宇宙の根源そのものにかかわる存在論的問題の次元が考えられていたのである。同一性と変化ないし差異をめぐる問題は,こうして古くから,そのうちに,宇宙の根源,絶対者といったものをめぐる思考という位相と,われわれが住む世界内で出会う事象とそれをめぐる思考にかかわるかぎりでの位相,さらにときにはこの二つの位相相互の関係づけの論理をめぐる位相という,二つないし三つの位相を含んでおり,その結果,一見したところ,きわめて複雑な様相を呈することになる。たとえば,プラトンにおいて,宇宙の究極原理である〈一なるもの〉への探究は,この世的なものないし有限なもの一般にかかわる思考の同定した同一性を,いわばくり返し根本にたちかえってつきくずしていく問答法的あるいは弁証法的思考の遂行においてはじめて感得されるものというように考えられていた。また,トマス・アクイナスをはじめとする中世のスコラ哲学の思考においては,超越者たる神の同一性は,神ならざる被造物の同一性とは質的に区別されたものであり,後者を出発点とした類比的な〈アナロギア〉の道にしたがう思考によって達せられるべきものである,というように考えられている。

 また絶対者を主観と客観のトータルな無差別と見るシェリングの同一哲学や,同一律を絶対的真理とし,宇宙の根本原理としての〈自我〉に関係させるフィヒテの哲学を批判し,根源の同一性は〈同一性と非同一性の同一性〉でなければならぬと論じたヘーゲルの考えも,前述の二つの位相をそれぞれに生かしながら媒介結合する論理を求めるところから発想されたものにほかならない。ヘーゲルにおける〈弁証法〉もまた,プラトンのそれと同じく,絶対者とわれわれの住む世界を媒介する論理を求めるところにすくなくともその成立の動機の一つをもっていることに留意すべきであろう。

[同一性をめぐる思考の現況]  現代物理学の認識に関連して,いわば差異化の働きをそのうちに含みこんだ弱い規準での同一性を論理的数学的に定式化する試みがなされ,またとりわけ,様相論理の領域から,同一性の思考に新たな問題が提起されている。心理学,精神医学などの領域においても,いわゆる人格や自我の同一性(アイデンティティ)といわれるものもまた,さまざまなレベルでの差異化のはたらきをその内に含みこんだものであることが示されている。現代哲学の一部に〈差異〉の問題をあらためて原点に立ちかえって考える動きが見られることも,以上の動向と直接間接に関係しながら,古代ギリシア以来の思考の伝統との接点をあらためて模索しつつある動きの一環と見ることができよう。      坂部

 

クワイン

定義とは究極のところ循環的であると結論付けるところである(「すべての独身者は結婚していない」が真であるのは、独身者の「意味」つまり、「結婚していない者」という「独身者」の定義によるが、これは同義反復的であり、一種の循環論法である)。くだいて言えば、クワインは分析的言明が定義によって真となることは受け入れるけれど、「定義による真理」なる考えには満足できないと主張するのである。

クワインの分析性に対する主要な批判は、同義語(意味の同等性)という考えに関してのものである。つまりある言明が分析的であるのは、その言明が「全ての黒いものは黒い」という類いの言明である場合だけである(これは論理学における真理も同様である)。同義牲に対する批判は、付帯情報(collateral information)の問題に関わってくる。「すべての結婚していない男は独身者である」という文と「黒い犬がいる」という文の間には違いがあると(前者は「分析的」言明であり、後者は「総合的」言明であるという風に)我々は直感的に感じるが、能力のある英語話者ならば、その両方の文の真偽は(わいろや脅しのような外的要因は除くとしても)状況による、ということに同意するだろう。というのは、能力ある話者ならば、歴史的に黒い犬が存在したかどうかという付帯情報にアクセスすることができるからである。クワインは、普遍的に知られた付帯情報と概念的もしくは分析的真理とは区別がつかないと主張する。しかし、クワインの哲学は、なぜある言明が直感的に「分析的」であると感じられ、ほかの言明はそうでないのかについて、これまでにない納得のいく説明を与えてくれる訳ではない。

分析性と総合性に対するクワインの反発についてのもう一つの取り組みは、論理的可能性という様相の概念から生じてくる。ウィトゲンシュタイン的意味論は、意味のある言明は各々、可能世界の空間にある一つの領域と結びついている、と主張した。一般的にそして自信満々に信じられている[だけの]真理と、必然的に真であるような真理の間には区別はないと論じつつ、クワインはそのような[可能世界の]空間の概念を、問題のあるものと考えた。

 

 

(1)前提を何があっても守る。

AだからBBだからC・・・・こういった話を始める前に

そもそもAは正しいの?という話を始めると、論理は破綻します。

Aが正しくないならば、BCもそもそも論じられないからです。

 

とてもおかしな響きに聞こえるでしょうが、論理の世界では

前提は常に正しいのです。ボールは坂道を駆け上がる、という前提が設定された

のならばボールは坂道を駆け上がるのです。

聖書が正しいという前提があれば、聖書に記載がある

常識的には明らかにおかしい自分の息子を生贄に捧げることすら

正しいことになります。これらの事を正しいと言い切る方法論が"論理"です。

 

 

 

 

 

(2)前提に無いことの大部分は切り捨てる

とはいえ、我々は感覚的にボールは坂道を駆け上がらないことを

知っていますし、生贄が悪いことだとも知っていますよね。

ですが、論理的思考の下ではこれらの常識を一旦全て排除する

必要があります。

 

そもそも論理的思考と科学的思考は同じではありません。

我々は知らず知らずのうちに常識に偏った発言をしています。

一方でこの常識というものはとてもあやふやなものです。

自分が当然知っていると考えていることは相手が知らない可能性があります。

一方相手が当然知っていると考えていることを、自分が知らない可能性も

ありますよね。

 

 

そこで論理で語られる空間は一旦全ての常識を捨て去り

"前提"の法則しか存在しない仮想空間のお話を考える必要があります。

そこには科学や道義の観点から間違っていることを指摘する必要すら無いのです。

論理的思考とは単純にABBC・・・という作業を行うことなのです。

 

 

 

そうやって論理は中立の立場を保っているのです。

 

 

 

 

 

 

(3)記録する。

人間は残念ながら忘れる生物です。ですがABBCCD・・・

とやっていくうちに「あれ?なんでKLなんだっけ?」と自分の論理展開を

忘れてしまうことがあります。こうなると、先の「前提を守る」という

最低条件すらクリアできなくなります。つながりを忘れているのですから。

 

そこで古代の人間は"筆記"という素晴らしい技術を編み出しました。

消えていく可能性のある、自分の記憶以外の場所に記録を行うのです。

 

こうして過去の過程を見直しすることで、先の2つが守られているかを

チェックする。これは論理の大前提だと考えます。