数学の限界

 

ヒトは人間を、そして自然、宇宙を「数」で表現したがっている。

数学化とはなにか?

それは宇宙と自然と人間と理性(reason)を結ぶことができる秘術  

 

何故、数なのか?数の根拠とは?

数そのものに対する信頼はどこから生まれてくるのか?

この欲望が何故生まれるのか? 背景、未来、生活環境、家庭関係、社会位置。

 

数学ができないこととは何なのか?

二分法という理性の世界になんでも還元してしまうので、論理的に矛盾していものを数式にすることはできない。そしてまた他の層のできごとを理解する(数字で表す)ことができない。

 

 

一方通行の数学 半分だけの人生

2+3=5 これは左辺の結果は右辺である、ということを意味している。数学的には正しい。だからといって5の意味を表しているとは言えない。結果の5がこの世にあるのは、あらゆる可能性があるからだ。

5=1+4、−2+7、15/3、√5の二乗、i+6、と次々と2+3とは違う過程が現れる。

だから数学はそのような見方もある、ということに留まっているだけで右辺と左辺はイコールではない。

 

 

数学的思考   工作舎 1988   Oskar Becker

ピタゴラスやアナクシマンドロスの時代、数は「事物の中」にあるか、「事物そのもの」か、「事物によって合成されたもの」か、まだ決定されていなかった。
 やがてアリストテレスによって、数は事物を模倣しているようだという構想が支配的になって、「イデアとしての数」という考え方が広まった。数は事物に“付いたもの”になったのだ。
 しかしこの考え方には限界がある。たとえば三角形が事物であるのか、数学的形式のものなのかが、わからない。これを確かめるには、「数学」というものがまずもって自立して、分析的な実験の対象として議論されるか、あるいは精密科学としての深化をとげなければならなかった。いいかえれば、ガリレオがそう言ったように、「自然という書物は数学的言語で書かれている」という言い方を成立させる必要があった。

こうしてデカルトやパスカルの時代に、「記号代数」や「普遍数学」という見方が登場する。これで数学は「方法」に近づき、思考の道具になり、さらに思考そのもののかなり重要な部分を占めるものとみなされるようになった。
 しかしここでもまだ、人知というものがついつい「自然に従ってそういう数学的方法になったのか」(これはフランシス・ベーコンの言葉でもある)、それとも逆に、「ありうべき数学的思考に従って自然の法則を数学化しそうになっているのか」は、決められたわけではなかった。
 ベッカーはどちらにせよ、この時期に選択の余地なく数学の自立がはたされていったとみた。17世紀と18世紀は観測装置や機械が次々に発明され、人知はそれらがもたらす数値と一緒に、自然現象の多くを数学モデルにせざるをえなくなってしまったからである。
 実際にも、今日におよぶ大半の科学と技術は、いってみれば「数学への後退」(ベッカー)によって著しい進歩をとげたのである。けれども、だからといって数学がまちがっていないなどという保証はどこにもなかった。

数学の言葉があらわしている命題が無矛盾であるかどうかということは、こうしてずっと放ったらかしになってきた。
 わかりやすい例(わかりやすくもないか)でいえば、5+3はこのままでは成立していない。5+3=8もこのままでは何も表明していない。「5+3=8は、数学的に約束されたある手続きにもとづいた表明の体系の一部である」と言って、われわれは初めて「5プラス3は8である」という情報を入手する。では、この「〜は8である」の「である」は何なのか。それは数学という対象言語を支えているメタ言語なのである。
 数学が言明している情報の本質を、数式を包む言明そのものの問題として扱おうとする立場を、ヒルベルトは「超数学」(数学基礎論)とよんだ。「〜は8である」の「〜は〜である」の「〜」が無矛盾であるかどうかをつきとめるには、この超数学による新たな数学的思考を必要とした。
 かくてクルト・ゲーデルの「不完全性定理」が産声をあげる。数学の完全化は不可能だという恐ろしい定理であった。それはベッカーによれば、「算術を論理的に基礎づけるのに十分なことが明白なあらゆる体系のなかに、真ではありながら体系そのもののなかでは決定不能の命題が存在する」というものである。ゲーデル自身はこう書いた、「数学は完全化不可能で、その明証的公理は有限の規則で尽くされることは決してないだろう」。

本書は終盤にさしかかって、ゲーデルの不完全性定理を検討しながら、ますますストイックに「数学的自由」と「数学的限界」のはざまをめざしていく。
 オスカー・ベッカーがそこで持ち出すのはハイデガーの次の言葉である。ベッカーはこの言葉を「とても美しい」と書いている。それは、「数学は歴史学や哲学にくらべて格別に厳密ということはない。ただ、ずっと狭いだけなのである」というものだ。
 ベッカーの結論は明快だった。
 数学は数学が向かうべき狭い対象をめざすことによって、つねに数学的思考を維持できたのではないか。しかし、そのことによって数学的思考は保たれたとしても、だからといってそれで自然像がどのような数学で語られるべきかという提案にはなりえない。むしろ数学はどんどんと異質な自然像づくりに貢献してきたのではあるまいか。そう、ベッカーは結ぶのだ。

 

科学は数学の限界を乗り越えられるか

 一般的に,コンピューターは科学分野のシミュレーションが得意だと考えられている。しかし,プログラムが確立したとはいえないシミュレーションは苦手である。とくに,複雑な自然現象や人間の意図がからむものは,ひどく時間がかかったり,不正確になりがちである。これは,コンピューターが計算に使う抽象的な数学モデルが,現実の世界とはかけ離れていることに原因がある。

 有名なゲーデルの不完全性定理は,この点を以前から指摘していたもので,数に関するすべての疑問に答えられる演繹的推論の体系は存在しないことを立証した。

 

チューリングらも,数学と論理の世界の矛盾を発見した。科学研究がこうした矛盾に基づく数学モデルに頼っているかぎり,科学の限界ははっきりしている。

 

 では,限界を回避する方法はないのだろうか。理論家たちは,人間の認知活動をそのまま生かす道を提案している。人間の精神は数学の制約を受けないと考えられるからである。著者もほぼ同意見で,自然の秘密を探る科学に限界はない,と主張する。

 

 

著者 John L. Casti

ウィーン工科大学と米サンタフェ研究所の教授である。彼は活発な議論の相手になったトラウプ(Joseph F. Traub),フート(Piet Hut),ハートル(James B. Hartle),アーンダソン(Ake E. Andersson)と,この研究を部分的に支援したストックホルムの未来研究所に感謝している。

 

 

ゲーデルを超えて オメガ数が示す数学の限界

G. チャイティン(IBMワトソン研究所)

 

 数学の論理構造は完璧──というのは実は幻想にすぎない。かつてゲーデルの「不完全性定理」がこの事実を示したが,いま注目されるのは「オメガ」という数だ。完全に定義でき,確定値を持つのに,決して計算しきれない数とは?

 

 ゲーデルは,数学が不完全であり,きちんと証明できないにもかかわらず正しい記述を含んでいることを示した。ところが「オメガ」という特別な数は,数学にさらに大きな不完全性が存在することを明らかにした。有限個の公理をいかに組み合わせても証明できない定理が,無数にあるのだ。したがって数学の「万物理論」はありえない。

 

 オメガは,あるコンピューターに関して考えうるすべてのプログラムの集合から1つのプログラムをランダムに選んだ時,そのプログラムがいずれ停止するものである確率だ。完全にきちんと定義され,決まった値を持つ。しかし,どんな有限プログラムを使っても,オメガのすべての桁の値を計算し尽くすことは不可能。言い換えると,証明不能な数学的事実が無数に湧き出る泉のようなものだ。

 

 この特性は,数学者が新しい公理をもっと仮定してよいことを示している。物理学者が実験結果をもとに論理的証明のできない基本法則を導くのと同様だ。

 

 これら一連の結果は「アルゴリズム的情報理論」に基づいている。ライプニッツは300年以上も前にアルゴリズム的情報理論の多くの考え方を予想していた。

 

著者

Gregory Chaitin

IBMワトソン研究所の研究員で,ブエノスアイレス大学の名誉教授,オークランド大学の客員教授でもある。コルモゴルフ(Andrei N. Kolmogorov)とともに,アルゴリズム的情報理論という新領域を切り開いた。9冊の著書があり,一般的な本としては『セクシーな数学』(2002年,邦訳は2003年)や『Meta Math!』(2005年)がある。数学の基礎について考えていない時は,ハイキングや雪山歩きを楽しんでいる。

 

原題名

The Limits of ReasonSCIENTIFIC AMERICAN March 2006

 

 

現代エリートと数学

大切なことをしている自分、崇高な行いしている、それに対して世俗に流されたり、はまる大衆。 

特権意識、アイデンティティーのつくりかた、他の層は無視して、合理性という層を第一とする生き方。

 

 

参考資料

数学の必要性を理解するためには二つの壁を超えなければなりませんでした。

一つ目は、数学は人工の世界の構築であるということ。極端にいうと、単なる記号操作の集合であるということ。

二つ目は利用者がその記号操作に意味を与えることによって、さまざまな現実的な問題を解くことが可能になるということ。この2点をそれぞれ理解しないと数学の必要性に目覚められなかったのです。

ですから、1つ目の壁を越えただけの学部生のときには線形代数が非常に嫌いでした。

線形代数は、何の話にもでてきますし、固有値や対角行列、逆行列など作り方や求め方は覚えましたが、これが何の役にたつのかさっぱりわからない。連立方程式を解くのに使ったかと思えば、画像の変換にも使う。この主張の無さ、道具感が嫌で嫌でしょうがありませんでした。でも、線形代数というものはその定義の中においてはいろいろな操作が可能である体系である。また、何かしらの問題を線形代数の体系に抽象化することができれば、以後は線形代数の操作を行うことでその問題のさまざな特性を知ることができ、さらに、うまく現実世界に対応付けることができれば、問題の解決もできる。このようなことがわかってからは考えが変わりました。

今となっては「数学なんて社会にでてから役に立たない」と言っている人たちをみると、「そうでもないですけれどもね。」と反論したくなるようになっています。

また、数学は定義と公理から論理的に定理を見つけていくものです。この過程において、論理的思考が身につきます。この論理的思考は自分の考えを他人に理解してもらうのに役に立つ方法論です。この点でも、数学を学ぶことの重要性があります。