論理性の4つの限界 とロジカル・シンキング論理的思考の正体
論理性にはメリットと限界がある。
メリットは不変の中に法則を見つけ、未来予測をするということだ。
しかし限界も多く、その法則というのも仮のもので、生命体の世界や素粒子の世界では、結局は確率でしかなく、常に変化する現実に永久に成り立つ法則はこの世にはない。量子力学しかり数学のヘーデルの不定理論しかりである。
以下の4つの理由で、論理性には限界があることを理解し、しかし論理という因果関係を結ぶことによる利便性のメリットをTPOで使い分けることの楽しさに話を進める。
1自己意識の成り立ちの限界 不変なものを固定化させたことで成り立つ世界
2因果関係、法則、一般化、どれもが説明するための方便 限られた世界でしか通用しない近似値であり確率
変化するものには、変化することで対応する 無性から有性へ
3区切った枠の中での因果関係なので、枠の外は想定できない 新開発における成功予想はできない
モンティ・ホール問題
4全体を見ない部分的な賢さ 植物は酸素を生産しない
1 意識の限界
論理性の限界を語る前に、私たちの文字や言葉や意識の限界を語る必要がある。
私たちの意識による認識というのは、すべて現実そのままでないということの再認識だ。簡単に言うと、自分の意識を頼りにすることで私たちは生きているのだが、意識とは知らぬ間に自動修正する性質を持っているので、信じ込むのではなく参考にするのが適切だ。例えば、錯覚のように、脳が勝手に数値を動かして、「私」が知らぬ間に自動補正してしまっている。
また、自己意識の成り立ちとは、外界の常に変化するものは、そのままで認識できないので、関心のあるところにスポットライトを当てて、動いているものを一時的に凍らせるように固定化させ、そこを次々と分けていくことで、分断化と分析を行い、その断片と断片の共通性を見つけて結びつけ、法則をみつけだす。
これが物理の方程式になったり、数式になったり、日常会話で使う名詞になったり、「一般化」という概念になる。
どれもが、動き変化し続けるを仮りに固定化させたら出来上がるものなので、自己意識「私」が認識できるものは全て、できないことを利便性のために無理やりしていることが前提になっている。
こうしなければ自己意識が発生しないのだから仕方がない。
これほど不確実な幻のような「私」だけど、これをベースにやっていきましょうや、というのが合理性である。
信じるものではないが、大いに参考にしましょう、という品物だ。
これが「私(自己)」なんて幻想にすぎないと言われる理由だ。
2 法則の限界
生命ある世界、そしてその基の粒子の世界は常に変化している。だから確率でしか、世界をとらえることができず、因果関係というインプットが決まれば同じアウトップとが出るといった方法では、とらえることができないのがこの世のあるがままの姿である。
だから因果関係である、理由、法則、一般化というのは、自己意識が現象を説明するための方便でしかなく、限られた世界でしか通用しない近似値であり確率でしかない。
TPOに合わせた法則を見つけたり、作り出したりして、特定の具体的なことにその法則を当ててみて、大体の近似値を出すのが、未来予測するには便利な方法だ。
変化に対処するために生まれた「性」
有性のメリットは対パラサイト
生物の進化史の中で、無性の方が繁殖率が高いのに、有性が進化した理由は寄生種の存在のためだ。
寄生=パラサイト=疾病 この疾病こそが、もしかして進化や成長のスパイスではないかという見解を持つ人もいる。
菌の群れに、寄生種を加えると無性の完全勝利とは限らずたまにではあるが有性が無性に勝つ例が生まれてきた。
ビル・ハミルトンのシミュレーションでは、寄生種に対する抵抗性と毒性を決定する遺伝子を増すと有性が勝つ確率が高くなった。
パラサイトへの抵抗に永久に有効な遺伝子はない。パラサイトも常時変化するためだ。
そのためには遺伝子の組み換えを前提にした有性生殖が不可欠である。
無性生殖が二倍の速度で子孫を増殖できても、組み換えができなければあっという間にパラサイトの餌食になってしまう。
性とはパラサイトと闘う、もしくは共生する、もしくは進化するためのものである。
3 区切った枠の中での因果関係(確率)なので、枠の外は想定できない
論理性とは、理由を見つけることなので、二つの事柄が結ばれていることを説明する時に使われる。
それには説得力があるので、首を縦に振って納得してしまうことも多いが、次のような例はどうであろう。
今までの市場にはなかった巨大で糖度の高いイチゴを開発したとしよう。この果物の成分分析や来年の市場でのシェアや利益率やマスコミでの露出性や県とのタイアップなどについては論理的に話をすることができ、共同体は銀行から融資を受けて大きく栽培面積を増やすことはできる。この時にこの行動を推し進める上で論理性は大切な武器である。これがないと銀行からの融資も受けることができない。
しかし論理性の限界は区切られて世界の中での情報を分析して未来予測するだけでしかない。例えば、大手の集団農業組合がこのイチゴよりも20%増しの量と糖度の商品を開発していて、同じ来年の市場に勝負をかけてくるとしよう。このような情報は勿論、外部に漏らすことはない。すると融資のために役立った論理性でも、実際の経済では大負けして、投資が回収できないことも考えられる。
論理性とは内部では通用しても、外部と勝負しなければならない商売では、成功予想はできないという事実だ。
ここで注目したいのは論理性というのは、その時にある情報で組み立てるしかないので、あたり前のことだが、入ってこない情報についてはどうしようもないのである。
論理性があるからと言って大きな融資を受けた場合、成功すれば大儲けだが、失敗した場合は大損である。
常に変化するこの世に対しての論理性の弱点はこんなところにある。
次の例えが論理性の脆弱性がよく分かる。
モンティ・ホール問題
ここに、3つのドアがあります。
どれか1つには、ドアの向こうに豪華賞品があり、それ以外はハズレ(空)です。
どのドアの裏に豪華賞品があるかは、司会者のモンティは知っています。
参加者は、まず、3つのうち、どれか1つを選び、司会者のモンティに伝えます。
モンティは、それを受けて、残りの2つのドアから1つ、空のドアを開けます。
そして、あらためて参加者に、どちらかを選ぶように伝えます。
今、参加者が、ドア@を指定しました。
モンティは、残りのドアA と ドアB から、ドアAを開けました。
参加者は、ドア@ か ドアB をあらためて選ぶことになります。
どちらが確率的に有利でしょうか?
1.ドアが3つあります
2.その中に 当りが1つ、ハズレが2つ あります
3.あなたは、ドアをひとつ選べます
4.あなたが選んでいないドアを司会者が開けます
5.開けられたドアは 必ず「ハズレ」です
6.あなたは、ドアを選びなおす権利があります
7.選びなおさない権利もあります
問い・・・あなたはドアを選びなおしますか? 選びなおした方が、勝率が上がると思いますか?
「選びなおさない」派の気持ち
・残った どちらのドアも 確率的には 1/2 なので、直感を信じる
・もし、選びなおして「ハズレ」ると、後悔する
「選び直す」派の気持ち
・選びなおした方が勝率が上がるから
・ドアを開けられた時点で、確率が変動するから
豪華賞品のある確率は、各ドアとも1/3 ずつです。
つまり、参加者が選んだ以外のドアは、2/3でした。
その内の、一つが無くなったので、選んだドアが1/3、そうでないほうが2/3です。
直感的に、分かりづらいかもしれません。
その場合には、ドアの数を増やせば、納得がいきます。
ドアが1000個あった場合に、選んだドア以外から、モンティが、998個の空のドアを開けたとします。
残った2つのうち、どっちに豪華賞品がある確率が高いかは、直感的に分かりますよね。
→
4全体を見ない部分的な賢さ
植物は酸素を生産しない
私が午前中にカジノで1000万円勝っても、午後に1000万円負ければ、だれも私が儲かったと言ってくれない。
物事は一時的なところを注目することも大事だが、総合的に見ることを常識としている。
では樹木は酸素を生産するので、二酸化炭素を減らして酸素を増やすために植林する、という論理はどうであろう。
樹木を人間の一生のように、幼児期、青年期、成熟期、老齢期として4つの段階で見てみることにする。
幼児期と青年期で大きく成長し、成熟期で大きさが一定し、老齢期で枯れて、倒れていく。
光合成でCO2を吸ってO2を吐き出している。
6CO2 + 12H2O → (CH2O)6 +6H2O + 6O2
では取り込んだCすなわち炭素はどこに行ったのだろう?
また空気中に戻った?地面に蓄積している?
だったらライターを近づければ、石炭や石油のように燃えるはずだけど燃えません。
炭素は植物の「ご飯」なので、これを体内に取り入れて、根や茎や幹や枝や葉や花や実にしているんです。
Cが植物そのものになっているんです。
ですから、前半の幼児期と青年期には体がどんどんと大きくなって成長して、二酸化炭素を取り入れ、酸素を外に出しています。
ところが後半の成熟期になると、取り入れる二酸化炭素と呼吸によって吐き出す二酸化炭素の量の差があまりなくなるので、成長は止まり、大きさ変化がなくなります。
そして老齢期になると、キノコや微生物に侵食せれて、樹木は分解され枯れていきます。また野菜ならば食べられたり、ヒトに切り倒されて燃やされることもあります。このキノコや微生物や腸内菌の分解や焼却とはCが酸素と結びついてCO2が発生するということになります。前半で体内に貯めた炭素は最期には酸素と結合することで、元のCO2に戻るということになります。
全体で見ると取り込んだ炭素はそのまま全部放出してしまうことになります。ちょうどプラスマイナスがゼロということです。
一番はじめにカジノの話をしました。普段ではヒトは他者を評価する時に全体のバランスシートで判断します。
すると確かに植物は前半で酸素を生産していますが、後半は反対に二酸化胆を生産するので、植物の一生で見ると、酸素を生産しているとはいえません。
意識というのは分けてモノの差を見つけるのが商売なので、ついつい「違い」に私たちの意識は向かってしまい、そこに注目してしまいます。ですから、光合成という動物ではできない機能を見て、それに驚き、いつも酸素を生成しているように錯覚してしまうようです。
実際には光合成による酸素の生産は昼間の天気の良いときだけで、そうでない時には植物は生物の一部なので、動物と同じように呼吸をしているので、酸素を吸って二酸化炭素を吐き出し、また植物の最期では、微生物に分解されたり、燃やされたりして、吸収した炭素を全て元の大気に戻しています。飛ぶ鳥跡を濁さず。
論理的思考の落とし穴 ロジカルシンキングとは内輪を騙すテクニック でも外部には通用しない
論理的思考とは根拠があるということ。
論理的に考えるということは、世界を正しく認識することだと思う人がいますが、論理的思考には落とし穴があります。
論理的とはどういうことでしょうか?
簡単にいえば明らかな根拠があるということです。
では根拠があるとはどのようなことでしょうか?
根拠とはなにかについては、17世紀のドイツの哲人ライプニッツが称えた充足根拠律が有名です。そして、この充足根拠律を鋭い視点で発展させた19世紀のドイツの哲人ショーペンハウアーは「根拠律の四つの根について」という論文のなかで、根拠があるということを以下の4つに分類しました。
生成の充足理由律 – 「新たな状態には、充分な先立つ状態がある」(原因結果)
認識の充足理由律 – 「ある判断がある認識を表現するには、その判断はある規則に従っていなければならない」(論理)
存在の充足理由律 – 「時空間に存在するには、位置や継起の関係において規定しあう」(数学)
行為の充足理由律 – 「行為にはある充分な動因がある」(理由帰結)
根拠とはつまり人間の認識能力の限界である
では論理的であるということ、つまり根拠があるということは、どのような意味をもっているのでしょうか。
はたして論理的であるということは世界の正しい仕組みのことなのでしょうか?
ショーペンハウアーの結論は
「物質的なものはさまざまな制約を受けきわめて間接的に与えられたもの、したがって単に相対的に存在するものにすぎない。なぜなら、物質的なものは、脳の機構と工程とを一度はくぐり抜けているからである。つまり時間、空間、因果性といった形式へ一度は入り込んでいるからである。この形式の力を借りて、物質的なものははじめて空間のなかで広がりをもち時間のなかで働くものとして示されるようになるのである。」
意志と表象としての世界 第一巻 第七節 ショーペンハウアー 中央公論新社
これを別の言い方にすると、「論理的である(根拠がある)ということは、人間の認識能力の限界にすぎない」ということです。ヒトの脳が満足する形、脳の自己満足、脳の安心、脳の錯覚ということです。
では、論理が人間の認識能力の限界にすぎないとして、なぜ論理的思考ではうまくいかないのでしょうか。
ショーペンハウアーは続けてこういいます。根拠にとらわれない唯一のものが「意志」であると。
論理的思考ではうまくいかない理由がここにあります。仕事も家庭も会社も法律も宗教も人間関係もマーケットも、人間社会の基礎を作っているものはすべて、その根拠にとらわれない「意志」なのです。
ショーペンハウアーの「意志」の定義はよく知りませんが、自然の働きの一つ一つに、根拠があるかどうかなんて、脳にはわかりませんもんね。こう見ると根拠がある方が不思議な事で、特殊なケースに限って根拠があるように見えるというのが事実に近いのではないでしょうか?
ロジカルシンキングの弱点 ロジックを超えたロジックの話
ロジカルシンキング(論理的思考)とは、一貫していて筋が通っている考え方、あるいは説明の仕方のこと。
物事を体系的にとらえて全体像を把握し、内容を論理的にまとめて的確に伝える技術だと説明されてたりします。
現代社会の多くの意思決定において、ロジカルシンキングはとても大事です。例えば、社内で新規事業をする時に担当者がプレゼンする場合や、経営者が投資家に説明する場合などです。
筋が通らない矛盾があれば却下されるでしょうし、大多数が 納得できるようなロジカルな説明ができれば、意思決定はスムーズに進みます。
しかし、ロジカルシンキングの弱点は、他人を説得する際には絶大な力を発揮する一方で、物事の成否を見極めるには、それほど役に立たない点だと思います。他人を説得する上では有効だが、自分がうまくいくかを検討する際には頼りにならない、ということです。
枠で囲った内側では効果的ですが、外側では通用しない、ということです。
ロジカルシンキングが未来予測にも効果的だと思っている人は、
「他人も自分も納得できる ≒ 成功の可能性が高い」ということを結びつけてしまった錯誤をしていることから来る印象でしょう。
注目したいのは、ロジカルシンキングの説明の中でよく出てくる「体系的」や「全体像を把握」といった箇所です。
果たして人間は「全体像を把握」したり、物事を「正確に認識」したりすることが本当にできるのか?
よくある新規事業を例に考えてみます。
仮に、新規事業を検討している担当者が社内でプレゼンテーションをするとしましょう。海外ではその市場は注目されており、まだ日本では誰も手がけていないビジネスだとします。
担当者は、そのビジネスの可能性を、市場の成長性・海外プレイヤーの成長率・自社が参入した場合の競争優位性などを材料に、経営陣にプレゼンを実施します。経営陣はその説明をもとに自分達でも成功角度を見積もり参入の意思決定を行います。
もし、この時に同じことを検討している会社が100社あったらどうでしょう?
市場は一瞬で競争過剰に陥り値下げ合戦に巻き込まれて充分な利益が出せなくなるでしょう。ただ、今現在に誰がどんな事を考えて何の準備をしているかをリアルタイムで知ることは、世界中を監視できる立場にないと不可能です。この時点で、競争環境を判断する材料が抜け落ちていることになります。
さらに、ロジカルかどうかの ” 判断 ” はその母集団のリテラシーに依存します。例えば、意思決定を行う経営陣の中に「大手企業が来月に参入する」という具体的な情報をキャッチできる立場の人物がいれば、計画を再検討するように言うかもしれません。
つまり、構築できる「ロジック」はその人がかき集めれられる情報の範囲に依存し、それを見て「納得」するかどうかは意思決定を行う母集団の背景知識に依存してしまう、という事になります。
論理的思考の問題点は、人間が自分達が認識できる現実の範囲を「全体像」と捉えてしまう点にあります(実際はそれが「一部」であったとしても)。
ロジックを構築する土台となる材料自体が不正確さを含んでしまっているので、しばしば人間の将来に対する認識はあっさり裏切られてしまいます。
周囲を納得させるロジックを形成するための「思考」と、それがうまく行くかを判断するための「思考」は分けて考える必要がありますが、現状では意思決定においてこの2つが混同してしまう点に問題があります。
これまでの蓄積のデータと未来におきること。内側のデータと外側の可能性。これらをしっかりと分けて意思決定をしないと勝負に勝つのは容易ではありません。
自分の認識のほうを疑ってみる
自分の過去の意思決定にしても、とてもその時点ではロジカルではないことばかりです。
昔のある時点では事例も資料も示せないので「納得」できるロジックを示すことは難しかったのですが、時間の経過と共に当初は認識していなかった事が明らかになっていき、結果として ”後付け” の納得感が形成されていきます。自分がやっている事は変わらないのですが、”ロジカルさ” のほうが後から付いて来るのが実情です。
ヒトは自分の認識をもとに論理的な筋道を作っていますが、そもそも自分の認識はそんなに信用できるものなのか、というよりも、人間に現実を正しく認識する能力はあるのか、改めて考えてみるのもいいことだと思います。
すると一つの仮説が立ちます。
社会は、人間が現実を正確に認識でき、論理的に説明できることを前提に作られている
しかし、現実の複雑さは人間の理解力や認識能力を常に超えている
そのため、人間の認識は何度も裏切られるが、後付けで合理性を作ることで人間は現実を理解できることにしてきた
つまり現段階で得られる情報は常に不完全であり、自分自身の認識も誤っている可能性を常に考慮に入れた上で、思考する必要があるということです。
動き出せば、新しい情報が手に入り「認識」が常時アップデートされるはずです。むしろ、限定的な情報や認識しか持ち得ない開始前の段階で、完璧に矛盾の無いロジックを構築できるのならば、常に情報を更新するという手間を省いてしまいがちで危うい可能性があるということです。
そのため、”人間の認識には限界があり、そこから作り出される「ロジック」にも限界がある” ということをまず前提とします。そして、将来的に新しい認識が得られるであろうことを考慮に入れた上で、一定の論理的な矛盾や不確実性を敢えて許容しながら、現在のロジックを構築します。
つまり、現在ではなく将来を起点にロジックを作ろうとするので、その時点での ”ロジカルな納得感” はある程度犠牲にするしかありません。
人間の理性の限界を指摘した人達
フリードリヒ・ハイエクというノーベル賞を受賞した経済学者が『自生的秩序』でこの事を指摘していました。
人間の合理性には限界があり、将来を正確に予想したり計画したりできると思うのは理性の傲慢であると言っています。
例えば、TwitterのCEOが卒業生に向けたスピーチでは下記のように語っています。
「人は誰も自分にどんな可能性があるか、社会にどんな影響を与えるかなどと予想することも計画することもできない。物事の意味は、事後に他者が決めるもの。勇敢な選択をして、賭けに出て、とにかくやってみれば、世の中に影響を与えることになる。」
スティーブ・ジョブズの有名なスピーチの『connecting the dots』の話も、同じ事を語っています。
大学時代に先を見て『点を繋げる』ということは不可能でした。しかし、10年後に振り返ってみると、実ははっきりとしているのです。繰り返します。先を見て『点を繋げる』ことはできない。できるのは、過去を振り返って『点を繋げる』ことだけなんです。だから将来、その点が繋がることを信じなくてはならない。
ロジカル過ぎると選択肢が狭まるかも
現在の選択も論理に頼ってしまえば、過去の認識が作り出したパターンをなぞるだけの将来になってしまいかねません。
「認識」とは、自分が今いる階数のようなものだといつも感じています。2階から見える景色を前提にあれこれ議論するよりも、早く50階に行くエレベーターを見つけたほうが良さそうです。50階であれば2階では見えなかった様々な景色がきっと見られるでしょうし、そこからは全く別の答えが導き出せる可能性があります。2階から見たら「海」だと思い込んでいたものは、50階から見たらただの「湖」であることがわかるかもしれません。
ただ、このエレベーターがどこにあるかは誰も教えてくれないし、探してみないとなかなか見つからない、そんなモノのように感じています。
個人的には、限られた認識をもとにロジックの緻密さを詰めるよりも、認識を広げることに最大限の努力をしたほうが近道だったことが多い気がします。
実は「論理性のない」現実
理性の限界を認識した上で意思決定するのがシンプルです。
例えば、スタートアップへの投資を行っている『Ycombinator』創業者ポール・グレアムは自著で、「どのスタートアップが大成功するかなんて誰にもわからない」と言い放ち、一定の基準を超えたスタートアップには等しく投資を実行しています。その中から、『Airbnb』や『Dropbox』のような1兆円規模のメガベンチャーを輩出します。
普通、自分がうまくいくと確証が得られるから投資をします。先見の明に自信がある賢い人ならなおさらです。しかし、グレアムは「将来を正確に予想することは誰にもできない」という前提の上で、自分も例外扱いしませんでした。
つまり、グレアムは自分も認識できない可能性に投資することでリターンを得ている人と言えます。
一方で、長年の勘と経験をもとに、事業計画の妥当性と企業の成長性を自分達が納得いくまで数ヶ月も議論して ”ロジカル” に投資決定をする多くの人が、グレアムのリターンに届かないのは、また何とも「あべこべ」な話です。
ITや株式投資などの物理的な制約を受けにくいビジネスは上位1%が全体の99%の利益を稼ぎだす非対称性を持つ傾向が強いです。グレアムはここに潜む矛盾をうまく突いています。まるで他人のロジックのさらに向こう側にロジックを構築しているようにも見えますね。
見渡せば、一貫して論理的に機能しているように見える社会も、実は様々な矛盾を抱える非論理的なものであります。
ロジカルシンキングは説得ツールと割り切る
現在の意思決定プロセスにおける問題は、他人を納得させるための技術が、いつの間にか意思決定をする上での「判断軸」としての役割を期待されてしまった事にあると思います。
ロジカルシンキングは他人を説得するための手段としては非常に優れたツールと言えますが、物事の成否を見極めたり将来の可能性を探るための手段には適していません。
科学がまだ充分に発達していなかった頃は、人間は今よりも「世界は解らないことだらけである」ということを深く認識していました。文明の発達で、人類が世の中を「理解できる場所」にしていった結果、論理を拠り所に物事を考えるようになっていき、理解できないものや不確実なものを意識の外に追いやっていくようになりました。
人が、自分はなぜ今のような人生を歩んでいるのかと考えたときに、単なる偶然の連続と捉えるのか、自分の「認識」にその要因を求めるかは、最終的には個人差があるような気がします。
これまでの人生がうまくいってると考えてる場合は認識を疑う必要はないですし、あんまりうまくいってないなーと感じる場合は認識を疑ってみたりするかもしれません。
認識というのは、客観的に見つめようと努力しても主観的な感覚とは切り離せるものではありません。認識とは主観そのもののことですから。
『ロジカルシンキング』の本の概要
(照屋華子・岡田恵子, 東洋経済新報社, 2001年)によってMECEなどのテクニックが広く知られるようになり、ロジカルシンキングに関するビジネス書のブームが起きた。本節の末尾に関連する書籍のいくつかを示す。
一連の書籍で共通に紹介される手法およびキーワードには次のものがある。
MECE(Mutually Exclusive and Collectively Exhaustive)
情報や分析対象をグループ分けする際に、「重複なく・漏れなく」行うべきであるということを示した指針。(詳細はMECEを参照)
So What / Why So
結論と根拠が適切につながっていることを確認するためのテクニック。「So What?」はその根拠がどういう結論を導くのかを、「Why So?」はその結論の根拠が適切かをそれぞれ確認するために用いる。
ピラミッドストラクチャ
結論と根拠を多段に組み立てることによって作られる構造で、ドキュメントの骨子全体の構造を表現するものとされる。
ロジックツリー
問題の分析や、課題の整理の結果をツリー構造として表現したものであり、目的によって様々な種類がある。
フレームワーク
コンサルティングを行う際に広く使うことのできる構造のひな形であり、項目はMECEになっているとされる。3Cや4Pといったものがその具体例として示されることが多い。
こうした手法における論理的の意味は、学問的なものではなく、むしろ日常的に使われる意味に近いもので、より理解しやすく説得力のある説明をするために、適切な根拠付けがどうあるべきかという指針を示すことを主眼としている。
MECEおよびピラミッドストラクチャの概念は、バーバラ・ミント氏の書籍『考える技術・書く技術』(原題は『Minto Pyramid Principle』)にも見られるが、この書籍中の主要なアイデアは、1973年に米国で執筆 された『Pyramid Principle』に遡ることができるとされる。
一連の書籍の出版以降、様々な書籍やセミナーによる普及活動が続き、これらの手法は経営コンサルティングを始め、企業経営・企画に関わる関係者にとって広く知られるところとなっている。