新陳代謝

この瞬間に体の細胞が死んでいる。一秒間で500万個。

そして同じ瞬間に500万個が生まれる。

ここに「いる」というのは死ぬことと生まれるのが同時にいること。

そう、呼吸のように、吐いて吸う。

そう、心拍のように、出して入れる。

 

死に対して生があるのではない。

死は悪いものでも怖いものでも苦痛でもない。

 

この世の目的は、ここに「ある」こと。

生きることと死ぬことが同時にある。

生きるとは分裂すること、成長すること、進化すること

死ぬとは消滅すること、省略すること、進化をシンプルにすること

 

生きることだけに意識をおけば、そこには流れ下る時間しか流れない。直線だけの世界だ。

死ぬことにも意識をおけば、そこには駆け上がる時間も流れる。すると直線が螺旋になる。

 

新陳代謝による細胞の入れ替わり

私たちの体を形づくっている60兆の細胞は、栄養を基に一定のスピードで新しい細胞と入れ替わっています。つまり、今がどのような食生活をしていても、健康は食事によっていくらでも作り替えることができます。

 

           入れ替わりの早い細胞          遅い細胞

脳          1ヶ月で約40%             約1年

胃の粘膜          3日

腸の微絨毛        1日

肝臓         1ヶ月で約96%             約1年

腎臓         1ヶ月で約90%             約1年

筋肉         1ヶ月で約60%            約200日

皮膚            1ヶ月

血液        4,5〜5の血液は100〜120日間で全て入れ替わる

骨        幼児期では1年半、成長期2年未満、成人2年半、70歳以上は約3年

(「健康を支える栄養学」参考佐藤和子)

 

ではなぜ顔のシミがなくならのか?

それは死んで消えていく細胞の後にできる新しく生まれ出る細胞が、周囲の環境に適応しようとして、元の状態にふさわしいように自分自身を変化させているからです。

新しい細胞が生まれたての状態のようになるには、周囲の環境や空気に合わせる必要がないことを伝えなければなりません。それには幼児期や少女期のように、新しいことや好きなことに胸を躍らせながら体を動かすのが有効のようです。

テレビや映画や本は脳は喜びますが、体は喜びません。しかし見ないことによってストレスに感じるのならば、見ないよりも見たほうが体には有効です。何故ならば、心が嫌なことをすると、交感神経が働いて、内分泌や運動神経や酵素を通して体に影響を与えてしまうからです。

体が喜ぶ環境をつくるのが私たちの意識ができることです。

体は温まり、血流は体内を巡り、呼吸は深く、体は緩み、心は暖かく、脳はリラックスしている状態をいかに作るのが意識の見せ所です。

 

医学      分けられない生命体        

前世紀から医学の問題が周囲にも溢れかえっている。別に医学だけが悪いわけではないのだが、医学は命を扱っているのでその判断や治療には直接に生死にかかわってくるのだから、俎上にあげられることも多くなる。そしてついに医学の判断によって自分や家族の命まで危うくなってくると、黙っているわけにはいかなくなる。人様といえど自分の命をただで預けるわけにはいかない。それも受験、国家試験、病院というマニュアルで学んできたことを条件反射で行動に移す人に対してはことさらである。医学の矛盾と恐ろしさを知らない者は、優秀で誠意があり一生懸命だ。そしてますます人の命が危なくなる。

 

なぜこんなことになるのか?

答えはシンプルで明快だ。

一つ目は、命に関わる判断をしなくてはならないから。職業柄なのでこれは仕方がない。

問題は二つ目の医学そのものにある。正確に言うと命にかかわる学問そのもの、もっと詳しく言うと「全体」に関わる言葉と意識そのものの扱い方が間違っていることからはじまる。

この認識がない限り、これからもずっと命は医師によって危険に冒される。

これからの医師には医学だけではなく、この意識の仕組みと全体性について理解をしてもらった上での判断と治療でないと、これまでと同じように引き続き命の力を弱めることを続けることになってしまう。

逆に言うと、命という全体性をどう認知するかということさえ習得すればいいのだから、難しいことはない。

 

言葉は「囲む」ことによってはじめて成り立つ。例えで言うと、小腸は十二指腸の下からはじまり大腸の上まで続く器官だが、範囲を決めてその中のモノに名をつけることによってしか言葉にすることができない。認知するとは、二つ以上のモノの共通点を見つけ、それを土俵としてその上に並べ、二つの違いを第三者が見つけて、それぞれに記号をつけることだ。

別の言い方をすれば、暗闇にスポットライトを当てて、そこを分割して名前をつけるということだ。これが「分かった」ということであり、理性ができる認識だ。

 

これのどこが問題なのであろうか?全ての言語はこの過程を踏むことで認識されないではないか?

確かに、これでしか言葉にする方法はない。

だが、これが言葉の限界なのだ。囲ったり、線を引いたり、して区別することでしか言葉にならない。

区別、すなわち分けることをしない限り、言葉にはならないのだからしょうがない。

 

他の言い方で言うと、自己意識というのは変化し続けるものは認識することができないから、生きている空間(変化しづける場所)を閉じて、その中を分けて名前をつけるこで分かることができる。つまり、本体は自己意識ではとらえることができないから、閉じ込めて・固定化させて・バラバラにすることで理解したつもりになって、「私」は満足して安心している。仮の世界を作り上げて(虚構して)、歩きやすいようにかんたんな地図を作るようなもの。常に環境が変化するから地図を常々に更新する必要があるんだけど、更新しないで、絶対のものとか権威にしてしまうヤツがいる。

そう、自己意識なんてその場しのぎの単なる仮の地図でしかない。本物はとらえることができないから、カタチだけを写したものだし、そのカタチも常に変わっていってしまう。だから幻といえばまさしく幻。

ただこんな便利なものはなく、あれば目的地に早く無事に到着できる確率が画期的に上昇する。効果があるから本物といえば確かに本物だ。

 

こんな自己意識によって、言葉にされてしまった器官たちをまた元のように繋げても元々の有機体にはならないのだ。たしかに機械はエンジンのようにパーツごとに分解して、ピストン、シャフト、シリンダーと組み立てるとまた元に戻る。しかし有機体は、車のようにダメになったパーツを交換できる機械とは違うのだ。有機体は流動的、循環的、可逆的、自律的、自己組織的、全体的、統合的、なおかつ必然的だ。

全体を強引に分けることはできるが、それらをくっつけてもまた同じものにはならないのが有機体の特徴だ。

分けたり、一部を取り去ったりすると、内なる宇宙が壊れてしまうか、もしくはお互いを補うために自律的に変化してしまうのだ。だから一部取り去ったものを元に戻しても、元の状態にはならない。

有機体が元の状態に戻るには新陳代謝という秘密兵器がある。

有機体の更新は新陳代謝で毎秒に何百万の細胞が死に同時に同じ数だけの細胞が分裂して新しく生まれている。

フィルヒョウやメンデル・モルガンの理論などで分けることを当たり前にして固定化させてしまっている現代医学はこの有機体の新陳代謝の柔らかさと弱さと奇跡を体感する必要がある。

 

分けられるものはいい、金属、数字、無機物は何も問題ない。ところが生きているものは分けると死んでしまう。正確に言うと、各パーツはお互いに関係し合って、共依存しているので、一つだけを取り出してその機能を説明しているだけで、全体の中では他のパーツとの関係から複数の機能があることもまだ見つけられていない場合がある。例えば呼吸と肺と心臓と同化作用には強い関係性がある。また小腸と微生物と瞑想と悟りと酵素のあいだにも強い関係がある。しかしどれもまだ法則化されていないので社会ではこれらの知られていない機能については意識化されていない。分けられないものを分けるとこのような問題が出てくる。

分けるとバランスが崩れ、すべてが機能しなくなってしまうこともあるのだ。

 

日本をはじめ各大陸の先住民たち、そして16世紀以前のヨーロッパにもからだの中身や内蔵を指す言葉は極めて少ない。命あるものを分ける不合理さとそこからくる矛盾と問題をわかっていたからだと、私は推定する。

和語には「ほね、しし、ち、うみ、ゆばり、くそ、ふくろ、きも、ふくふくし(肺・心臓)」ぐらいしかない。

腹わたも和語ではあるが、個別の臓器ではない。

しかしついに西洋医学が病理解剖学を基礎として発展することになった。

病とは異常であり、異常とは正常に対していう言葉である。その異常の証明が形態学的、器質的な変化として捉えられてきた。

X線診断にしても、現在ではまだ形態学が主流であって、X線機能学は遅れている。機能異常だけの疾患は未だ熟慮されていないのだ。

消化器系や循環器系のような自律神経の支配を受ける臓器は、臓器自身の異常の他に自律神経の異常が関与してくる。心因が発病や疾病の経過に大きな影響を与えている。 情動が自律神経の中核に影響を及ばし、自律神経系や内分泌系に異常を起こし、ストレス潰瘍をはじめ、いちいろの機能的、またさらに器質的病変を生ずることも東洋医学において「気」という概念が用いられてきた。

西洋医学では病変を追求し、これを証明して治療するように訓練されてきた。 それと並行して東洋医学では気と血、機能と物質、用と体と生命体を理解し、この調和を健康、不和を失調とする。民間医学では人の考え方や気持ちや情感や学習してしまった認識や自律神経やホルモンや酵素や体内信号や末梢運動神経のパターンまでも治療の範囲として扱っている。

そして自己治癒力の世界では、この瞬間にも新たな細胞を何百万という単位で生み出し続けている。

 

情報量が増加し、人間の能力に限りがあるので、次第に個々の臓器の医学への分化の道を進むことになった。

全体の中から部分だけを切り出して、その範囲内での法則を作って実用化をしてきている。しかし全体は部分のよせあつめではない。

ひとつの細胞から機能に従って分化していったものである。

生命現象は流動的、循環的、可逆的、全体的、統合的、なおかつ必然的だ。

 

医師はいつも忘れてはいけないものがある。

厳密に言うと生命体は言葉で捉えることができない。ただ便宜上、囲んで言葉にしているに過ぎない。命に関わる言葉は全て論理学では捉えることができないモノの集合体なのだ。実ではなく虚の言葉なのだ。

そのためには囲った言葉を固くするのではなく、逆に囲いを柔らかくして呼吸させてやらねばならない。

命がちゃんと働くためには真正面から真向って、一緒に交感するしかない。

 

意識にできること

西洋医学で現状を分析して知ることも大切である。意識はリスクと時間がつきものの遺伝子操作に向かっている。

東洋医学で全体として捉え、血流に経絡に注意を払うことも大切である。

民間治療で考え方と気の持ちようと学習してしまった条件反射の修正を考慮に入れることも大切である。

自己治癒力を理解し、少しでもこの力が活性化できるように、生活習慣を意識が喜ぶものだけではなく、体が喜ぶ状況を意図的に創り出すのも大切だ。これは細胞(遺伝子・ミトコンドリア・ゴルジ体・小胞体・リゾーム)の自己組織化にお願いしてただ任せることでしかない。

そのための環境づくりが意識のできるせめてものことだ。

 

精神医学の現状

命と同様、自我も分けることができないものだ。

それらなのに勝手に健全な自我(主体性)を想定して、それ以外を精神病者とすることにした。

閉じられた自我がつくった精神のビョーキを、フロイト以来の20世紀の精神分析学はかえって封印するか、歪んで取り出してしまったいるという問題だ。ドゥルーズ=ガタリは、もしそのような問題があるのなら、それは、精神分析学というものが本来の欲望の動向が示すものが何かを見届ける前に、そこに"健全な主体性"というものを設定して、そこからずれるものを心の病いにしてしまったのが原因になっているのではないかと見た。それなら、これを告発するぞと決めたのだった。

総じてフロイト心理学というものは、無意識がうまくコントロールされずに外にはみ出してしまった心理現象をもって、これを精神病と規定した学問である。

 

フロイトの父殺しとは何でしょうか?殺したのは父ではなく、そこで暮らしている人を殺したのだ。母親と繋がりたいのではない、そこで暮らしている女をやったのだ。正義でいたい為に、捻じ曲がることは必要ありません。世の中はシンプルです。

正義をいうのをやめ、善人面して行動することを止めればよいだけのことです。静かに洞窟に閉じこもり、神に身を委ね、祈り続ければよいのです。あ、それとユダヤ教は一神教ではありませんよ、旧約聖書を原語のヘブライ語で読むと。ヤウェは彼らだけの守護神みたいな神であって、宇宙の神と同じではありません。すべての神は宇宙神とつながっているからといって途中から一緒にしちゃって誤魔化すのはもういいんじゃないですか?

 

分裂症でもリビドーでも情動でも健全なる主体性でも何でもいいのが、どれも塀の中で苦しんでいる事例だ。

 

今の資本主義だって塀の中でのルールでしかない。中にいることだけを前提に正常と異常を決められたらたまったものではない。

都会のルールが合わないのならば、田舎のルールを、それが合わないのならば森のルールを適用すればいい、しまいには「空」のルールだってある。ただし同時に体と心と技を鍛えなければならないけれど。

 

精神分析医をはじめとした科学者たちよ、無意識をコントロールしなきゃあんたは未熟だっていうのはインチキよ。自分が得意なところに穴掘って弱っている奴を待っているアリ地獄みたいな戦法よ。あんたたちは強靭ないけずの根性と金と環境と肩書きなんかで世間の中での居場所をキープできるけれど、わちきらは関心ないんだから。 そっちで勝手に仲間内で遊んでいてよ。

ヒステリーも神経症も人間には必要なのよ。やっとこれで意識から解放されて体が元気になれるんだから。 これらは山では、沙漠では、森では、村では、自然との交流の大切なメソッドの一つなんだから。都市に必要ないからって病院にぶち込むのは止めてください。そんな時の哀れみの表情や優しい態度や悲しみのため息がわちきらの心に刺さって痛くて、それで本当に気が狂っちゃうよ。

 

たしかにライプニッツは前半期にあっては、人間の本性や知性を神に近づけるという構想も発想ももっていたけれど、結局は人間の知性に限界を感じたはずなのである。そうでなければ、このバロックの天才があんなにも多彩大量の情報発信をしなかったのである。また、二進法を発明しようともしなかったはずなのだ。古代このかたの神秘主義は等しく今日まで横並びにどこかで“店頭公開”されているはずなのである。そうではなく、薔薇十字の幻想はつねに「何かの代わり」として、あるいは「何かの組み合わせの相手」として、多様な局面にあらわれてきたのだ。薔薇十字とは、われわれがたえず置き去りにしてきた生命体のことだ。

 

「自然医学の基礎」森下敬一

「(西洋思想の土台となっている)二元論というものは、物理の世界では大変重宝な考え方である。車やロケットなど機械を扱う分野で役に立つ。そういう世界では、この分析的、直線的、不可逆的、排中律的な考え方で十分通用する。

しかし生命の世界はこの考え方ではダメだ。生命の世界は、機械のそれとはまるっきり反対のものだからだ。

生命現象の本質は一言でいうと波動であり、ラセンである。生命の世界には直線も直角も存在しない。また生命の世界においては、すべては可逆的である。たとえば病気になっても、しかるべき処置を施せば必ず『治る』という現象が生じる。

『治る』ということは『元へ戻る』ということで、すなわち『可逆』ということである。よく今の医学は特定の慢性病に対して"不治の病"とか、"絶対に治らない"などというが、それこそまさに西洋思想なのだ。アタマが痛いとか下痢をしたというような症状に対しては、たいてい一過性で終わることから、さすがの現代医学も『治る』と考えているが、膠原病とかがんなどの難病に対しては、彼らは『治らない』と考えている。

いろいろと理屈はつけるが、基本線としては『治らない』という考え方をすえている。一度病気になったら治らない・・・この直線的思考こそ西洋思想の真骨頂だ。

けれども実際には決してそんなことはない。生きている限り、いい替えれば生命現象が存在する限り、必ず元に戻りうる。条件さえ整えば、病気は必ず治るものだ。がんも例外ではない。この元へ戻るということが生命現象の最大の特徴である。

にもかかわらず、現代の医学者自身が西洋思想にかぶれてしまっていて、直線的で不可逆的な考え方をしているから、『この病気はもうダメですよ』などということを平気でいうのである。これは実に重大な間違いである。『どんな重症ながんの場合でも、生きている限り必ず治るチャンスがある』ということを、私は口がすっぱくなるほど患者さんに話している」