「宇宙生物学と脳の機能から見る人間」

 

人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。

最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

今月のゲスト
吉田たかよし[医学博士]

今回のゲストは受験生専門の心療内科クリニック院長の吉田たかよし氏。NHKアナウンサー政治家秘書、宇宙生物学、脳科学の研究者など、多彩な経歴を持つ吉田氏に生命の進化、人間の脳について問う。

“はやぶさ2”と生命の起源

萱野 吉田先生は東京大学大学院で、宇宙全体の観点から生命の成り立ちを考察する“宇宙生物学”を研究された後、医学部に再入学して医師免許を取得されました。NHKアナウンサーや政治家の秘書としても活躍され、現在は受験生専門の心療内科クリニックを開業されています。こうした極めて多岐にわたる経歴から吉田先生が「人間とは何か」についてどのようなお考えを持っているのかを、今回はおうかがいしたいと思います。まずは時事的なトピックでもありますし、小惑星探査機“はやぶさ2”の話から始めさせてください。

吉田 よろしくお願いします。

萱野 はやぶさ2が地球近傍小惑星“リュウグウ”の地下物質サンプルの採取に成功しました。このニュースは「生命の起源に迫ることができるかもしれない」と話題を呼んでいますが、そもそも宇宙の小惑星の地下物質と生命の起源がどうして関係があるのか、疑問に思う人も多いのではないかと思います。この点からご説明いただいてよろしいでしょうか?

吉田 まず、地球上に存在している生命を構成する最も基本的な物質は、水とアミノ酸です。

萱野 この2つが、生命が誕生するための根源的な必要条件であるということですね。

吉田 この2つがあれば、生命誕生の最低限の条件はクリアできます。まず、水は宇宙の至るところに存在しています。彗星は“汚れた雪だるま”なんていわれているように、ほとんどが凍った水でできていて、太陽の熱で溶けるから尾ができるのです。ですから、問題になるのはアミノ酸がどこから来たのか、ということになります。

萱野 アミノ酸といえば、結合して“タンパク質”を作るもの、というイメージがありますが。
吉田 アミノ酸から作られるタンパク質が、生物の“細胞”を構成するために最も重要な物質なんです。地球上で生きている生命はすべて、アミノ酸を組み合わせて作られた精密機械ともいえます。このアミノ酸がどこで生まれたのかという問題は、昔からさまざまな議論になってきました。かつて有力だったのは、アミノ酸は原始地球で生成されたとする説。1953年のアメリカの化学者ミラーの実験によるものです。この実験では原始地球の大気の成分とされるメタン、アンモニア、水素、水の混合気体に雷を再現する放電を行い、数種類のアミノ酸の合成に成功したんです。しかし、後に原始地球の大気にメタンやアンモニアが含まれていなかったことがわかり、ミラー説は怪しくなってきました。そこで、アミノ酸は地球ではなく、宇宙空間で合成されたのではないかという説が浮上してきます。それが何らかの方法で地球に運ばれて生命のもとになった、ということですね。私も東大工学部にいた頃、野辺山宇宙電波観測所で牡牛座暗黒星雲から飛んでくるマイクロ波の中にアミノ酸が合成される化学反応の痕跡を探すという研究プロジェクトに参加していました。しかし、アミノ酸の検出は大変難しく、これまで誰も成功していません。

萱野 宇宙空間でアミノ酸が合成されたと考えられる理由には、どのようなものがありますか?

吉田 太陽系にアミノ酸が存在する間接的な証拠はたくさん見つかっています。例えば、宇宙から飛来した隕石からもアミノ酸が見つかっています。隕石の表面には地球のアミノ酸が付着してしまっているのですが、隕石の内部からもアミノ酸が発見されているので、これは宇宙にアミノ酸が存在するという証拠のひとつです。とはいえ、隕石の内部で見つかったアミノ酸は微量なので、実験中の混入も完全には否定できません。ですから、はやぶさ2が持ち帰ってくる“リュウグウ”の地下物質が重要になるのです。もし、そこからアミノ酸が見つかれば、それはアミノ酸が太陽系に存在するという決定的な証拠になります。さらに、46億年前に太陽系ができたとき、地球などの惑星は誕生時のエネルギーでドロドロに溶けていますから、当然アミノ酸も壊れてしまっています。しかし、リュウグウなどの太陽から離れた小惑星は太古の状態をとどめているため、その地下物質からアミノ酸が検出されれば、アミノ酸は太陽系よりもさらに古いということになります。ということは、地球と同じタイプの生命が宇宙のさまざまな場所に存在していてもおかしくないわけです。そこにロマンがあるんですね。

 

木星が人類の進化に与えた大きな影響

萱野 水とアミノ酸が宇宙の至るところに存在しているのであれば、環境さえ整えば、どこでも生命が誕生する可能性はあるということですね。では、地球上の生命は、どのようなステップを経て生まれたと考えられるでしょうか?

吉田 まず細胞を再生産することができる能力を持つことを原始的な生命の定義としましょう。その誕生には複数の説がありますが、有力なのは、まず生命が誕生する前段階として細胞の原型となる“コアセルベート”という小さな袋状のものができたという説です。そこにアミノ酸が取り込まれて酵素ができ、膜の外のものを取り込む代謝の機能が生まれ、何らかの偶然でタンパク質の鋳型となる遺伝物質RNAが細胞に含まれて、再生産が行われるようになった――この生命誕生のプロセスが行われた場所として有力視されているのが、海底の“熱水鉱床”です。

萱野 熱水鉱床とは具体的にはどのようなところですか?

吉田 海底の火山活動によって熱水が噴き出し、そこに含まれる成分が冷却されて沈殿している鉱床です。ここでは水が高温高圧によって超臨界という特別な状態になっており、アミノ酸が自動的に結合することも可能です。さらに、熱水鉱床から少し離れたところでは水の温度は一気に下がっていて、この極端な温度差をエネルギー源に利用して生命が誕生したと考えられているのです。

萱野 その熱水鉱床と同じような条件が整えば、地球以外でも生命誕生の可能性はあり得るわけですね。

吉田 例えば木星の衛星エウロパには広大な海があり、海底には熱水鉱床が広がっているといわれています。そのほかにも、かつての火星や土星の衛星タイタンにも生命が誕生し得る環境があり、そう考えると、太陽系に限っても、地球以外に原始的な生命が存在する可能性は低くないでしょう。ただ、地球に誕生した生命の場合は、当初こそ熱水鉱床の熱をエネルギーにしていましたが、やがて光合成という太陽エネルギーを利用するシアノバクテリアが登場し、光合成によって地球上に酸素が増えると、今度は酸素を細胞の分裂に利用する生物が誕生――と進化を遂げていったんですね。ここでちょっとおうかがいしたいのですが、萱野先生はいわゆる“宇宙人”は存在すると思いますか?

萱野 地球外に生命が存在する可能性はあっても、人間のような高度な知性を持った生物が存在するかどうかはまったく別の話なのではないでしょうか?

吉田 そうです。地球外に生命が存在するということを、一足飛びに知的生命体が存在することと同一視してしまう人は案外多いのですが、これは全然違う話なんですね。地球上に生命が存在するのは必然だと思いますが、人間が存在するのは奇跡中の奇跡といってもいいぐらいの偶然が重なった結果だといえます。例えば、もし月がなかったとしたら、人間は地球上に存在していないでしょう。

萱野 月がなければ、地球に生物はいても、人間までは進化しなかったということですか?
吉田 月の潮汐力によって大陸まで潮が押し寄せて地殻を削った結果、ナトリウムが海に溶け出して“塩水”という環境ができあがりました。人間の体はナトリウムイオンを使って神経や筋肉をコントロールしていますが、それは生命を育んだ海水に由来しています。もし、月がなかったらこのような進化はあり得なかった。この海水の環境を作ることになった月も、太陽系ができたばかりの約45億年前、地球に原始惑星が衝突した“ジャイアント・インパクト”のときの破片が集まってできたものとされています。太陽の寿命自体があと50億年程度といわれていますが、もし月がなかったら、人類の誕生はそれまでに間に合っていなかったでしょう。

萱野 原始的な生命が誕生した約38億年前から人類の誕生まで長い時間がかかりましたが、その間には宇宙の成り立ちに関わる偶然もあったということですね。その過程をひと言で表すなら、何といえるでしょうか?

吉田 それは破壊と創造の連鎖だと思います。その意味で最も大きな影響を与えたのは“木星”の存在でしょう。

萱野 木星ですか?

吉田 木星の位置が絶妙なんです。この木星の距離が近すぎても遠すぎても、今の人類は存在しなかったと思います。人類が誕生するに至った最も大きな分岐点は、6500万年前にユカタン半島沖に隕石が落ちて恐竜が絶滅したことです。それまで恐竜に見つからないよう夜中にコソコソと活動していた哺乳類が活動領域を広げるようになり、急激に進化していきました。その頂点に立っているのが人類といえるわけです。それ以前にも何度か、隕石やそのほかの環境の変化によって地球上の生物は大量絶滅して、リセットされています。生物の進化には適度な間隔のリセットが必要なんですね。その中で人類にとって最も重要なリセットが6500万年前の隕石だったのです。もし木星の軌道がもっと外側だったら、木星の重力の影響が少なくなるため、地球に頻繁に隕石が降ってくることになります。6500万年前に恐竜がリセットされたことが哺乳類にとっては幸運だったわけですが、その後に同規模の隕石が降ってこなかったことも大きい。もし、降ってきていたら、そのときは哺乳類がリセットされて、また違う種が台頭していたはずです。ただし、高度な知性を獲得するには6500万年という年月が必要なので、リセットが頻繁だと、いつまでたっても高度な知性には到達できないはずです。逆に木星の軌道がもっと内側だったら、木星の重力に引っかかるので、6500万年前の隕石は降ってこなかった可能性が高い。そうすれば、今でも恐竜が地球を支配していたかもしれないし、少なくとも哺乳類が台頭する時代はもっと遅くなっていたはずです。

萱野 木星と地球との距離が人類誕生の大きな鍵となっているなんて、ものすごく壮大な生命観ですね。ところで、そうした隕石の落下による環境の激変も含めて、人類の誕生に至る生命の進化の過程というのは、複雑化の過程として考えられるものでしょうか?

吉田 単純に見える生物が複雑なシステムを作り上げていることはよくありますから、人間が最も複雑な生物であるとは断定できませんが、約40兆という細胞の数だけ見れば、それだけ複雑化しているということは間違いないでしょう。そしておっしゃる通り、環境の変化による大量絶滅は地球上で何度も起こっていて、その後に生まれた生物は確かにより複雑化しています。シアノバクテリアの登場によって原始地球にはなかった酸素ができましたが、当時の生き物にとって酸素は有毒でしたから、数多くの種が死に絶えました。しかし、今度はエネルギー効率のよい酸素を呼吸に利用する生物が生まれてきたのです。古生代にはカンブリア大爆発が起きて生物は一気に多様化しましたが、P-T境界で大量絶滅があって、その後の中生代で恐竜と哺乳類が誕生しています。環境の激変による大打撃で淘汰され、生き残った種が新たな環境に適応するために新たな体の仕組み、生きていく仕組みをより複雑化させるほうに進化していったといえます。

 

地球の生命を創造したもの

萱野 複雑化の結果として、地球上の生物はかなり多様化しました。ただその一方で、地球上の生命は水とアミノ酸から生まれたことを考えると、むしろ生物全体で共通しているところも多いのではないでしょうか?

吉田 これもまたびっくりすることなんですが、地球上のあらゆる生物の細胞の構造、働きは、基本的にすべて同じ。極論すると地球上の生物は“一種類”しかいないともいえます。バクテリア、原生生物、菌類、植物、動物、人、すべて細胞が生きる基本的な仕組みは共通しているんですね。

萱野 私が吉田先生の著作『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議』を読んで面白いと感じたのは、そのような基本的な仕組みのもとで人体を説明していくところでした。原子のレベルにおける基本的な仕組みから生命を論じていく宇宙生物学を見れば、人間も他の生物と変わらないという視点をとても斬新に感じました。

吉田 生命を化学的な反応から見れば、もちろんすべての生物は同等ですよね。人間だから特別な地位を与えるようなことはありません。ただ、そこには人間の“精神”や“心”という観点が欠落しています。例えば哲学者が人間を語るときは、そういった人間の確固たる意思や精神性といったものを前提にしているのではないですか?

萱野 そこは哲学者によっても変わってきますね。人間の意思や精神性を重視する哲学者がいる一方で、人間の身体や物質性を重視する哲学者もいます。両者の違いを端的に言うと、人間は信じるから祈るのか、それとも祈るから信じるのか、という違いです。私自身はどちらかといえば後者の立場です。人間の精神性はとりあえず“カッコ”に入れて、まずは“存在”としての人間がどういったものなのかというところから考えていこうという立場ですね。

吉田 それは、哲学者としては一般的な考え方なのでしょうか?

萱野 必ずしもメジャーとはいえないかもしれません。やはり中世以降のヨーロッパの哲学はキリスト教神学の発展と切り離せませんし、基本的に哲学は人間中心の学問として進展してきましたから。ただ、スピノザやハイデガー、フーコーなど、そうではない哲学の系譜も一方にはあって、そこでは逆に、人間中心の視点を一度“カッコ”に入れることではじめて「人間とは何か」を明らかにできると考えられています。

吉田 なるほど。「人間とは何か」という問いは、立場によって答えが変わってきますよね。1000の立場があれば、1000の答えがある。そして、“人間という物質”は間違いなく存在しているわけですから、その物質がどうなっているのかという側面を見る意味は大きいでしょう。
萱野 そうした吉田先生の視点には、人間中心の哲学を破壊するだけのインパクトがあると私は感じました。すべての生命を同じ仕組みのもとで見た場合、人間を特別な存在と見ることはできなくなりますよね。

吉田 物質として見た場合はそうしないと成り立ちません。

萱野 その上ではじめて、人間と他の生物の違いとは何かを考えることに意味が出てきます。その場合、その違いはやはり“環境の違い”ということになるのでしょうか?

吉田 私は“環境の多様性”こそが生命を生み出した本質だと思います。

(次号に続く)

多彩な経歴を持つ吉田たかよし氏をゲストに迎えた対談後編。生命の起源とエントロピー、人間特有の高度に発達した脳と癌の意外な関係、全世界的な脳のネットワーク拡大における危惧とは――。

萱野 前回の最後に、吉田先生は生命を生み出したのは“環境の多様性”だとおっしゃいました。それは具体的にはどういうことでしょうか?

吉田 この宇宙ではあらゆるところで常に“エントロピー”が増大しています。水に角砂糖を入れたら砂糖水になりますが、その砂糖水は角砂糖と水に戻ることは絶対にありません。これは「秩序があるものは、やがて秩序が崩壊して、乱雑な方向にしか進まない」というエントロピー増大則で、宇宙を支配している物理法則です。それを考えると生命は不思議な存在です。生きている限り生物は秩序を維持していますし、生命の進化も乱雑とは正反対の方向に進んでいます。これはエントロピー増大則に真っ向から反していることです。では、私たちがどのように生命活動を維持しているかというと、食べ物というエントロピーが低いものを摂取して、エントロピーの大きい便を排泄するという、エントロピーの差を利用しているわけです。人体のエントロピーが増大しなくても、その周囲の環境を含めた全体としてはエントロピーが増大している。宇宙全体を見ても、そんな存在は生命だけなんです。つまり、生命の本質はエントロピーの偏りといっていいし、環境がすべて一様な状態からは絶対に生命は誕生しません。

萱野 その場合、生命とは、エントロピーの低さと高さを利用して、環境の中にそれまで存在しなかった秩序をみずから創造・維持する働きとして定義できるかもしれませんね。

 

発達した脳と癌

萱野 吉田先生の著書で知ったのですが、生物の中で人間だけが「癌にかかりやすい」という特徴を持っているんですね。これは「人間とは何か」を考える上で、とても興味深いポイントだと感じました。

吉田 確かに癌にかかりやすいというのは、人間ならではの特徴のひとつです。地球上に酸素が増えたことで生物は、酸素のエネルギーを使って細胞を爆発的なスピードで増殖させる能力を手にしました。しかし、人間の体内に入った酸素の一部は活性酸素と呼ばれる不安定で反応性の高い物質となり、細胞膜や遺伝子を傷つけて、細胞が無限に増殖する癌を抑制する機能を壊してしまうのです。人間は大きく発達した脳が大量に酸素を消費するため、それだけ体内の活性酸素の量も増えてしまって癌の発症を助長しているわけです。

萱野 一般には、人間の長寿化が、癌の高い発症率の原因とされています。ただ、遺伝子がかなりの部分で人間と共通するチンパンジーの場合、人間が健康管理を行って高齢になるまで生きたとしても、癌の発症率は人間と比べて低いそうですね。

吉田 はい。チンパンジーが癌で死亡する確率はわずか2パーセントで、人間の場合、例えば日本人だと癌で死亡する割合は約30パーセントにのぼっています。この差は活性酸素の量だけでは説明できません。考えられる原因は、また脳に関わるものなのですが、“脂肪”なのです。人間の脳は膨大な情報を効率よく処理するために神経を脂肪(脂質)で覆うことで絶縁体にしており、実際、人間の脳は約6割が脂肪でできているんです。この脳の絶縁体としての脂肪を作るために、人間は進化の過程で脂肪酸を合成する高性能な酵素を獲得しました。癌細胞はその仕組みを利用することで、通常の細胞なら増殖できない低酸素状態でも、脂肪さえあれば増殖することができます。つまり、人間は脳を発達させるために獲得した酵素の働きによって、癌細胞を増殖させる能力も高めてしまったのです。

萱野 人間は、高性能な脳を手に入れることと引き換えに、癌にかかりやすくなってしまったと。

吉田 人間中心主義的に考えると、脳が大きくなって高度に発達したことは全面的に長所だと思ってしまいますが、生命全体で考えると脳が大きいことは、それだけ大量のエネルギーを消費して餓死のリスクが高まるため、大きな短所ともいえるんです。むしろ、生命進化の王道としては小さくできるものなら極力小さくしたほうがいい。ただ、約700万年前にチンパンジーとの共通祖先から分岐して以降、人類にとって癌のリスクよりも知恵を使って食べ物を得るメリットのほうが圧倒的に大きかった。人間であっても高齢になるまで癌になる可能性は低く、寿命の短かったかつての人類には大きな問題にはならなかったのです。高度な脳の機能で長寿を手にした現代人が癌に苦しめられるというのは、なんとも皮肉なことだと思います。

萱野 人間が長生きできるようになったことは人類社会の“進化”ではありますが、それによって人間は高性能な脳のリスクも大きくしてしまったんですね。

 

体外離脱と世界観の変化

 

吉田 脳が発達したがための問題ということでいえば、人間の“精神”や“意識”も重要です。人間という生命を物質的な側面から見ることも大事ですが、心療内科医として私はこちらも見落としてはいけないと思います。人間の精神構造ということに関しては、まだその糸口しかわかっていませんが、心の病の治療を通し、日々、人間の“精神の危うさ”みたいなものを実感しています。例えば、鬱病などメンタルの病から回復するプロセスの中で、患者の人格がまったく違うものになっていく。こうしたことは何度も経験していることなんですね。一番衝撃を受けたのは、私が医学生の頃です。とてもお世話になっていた大学教授が髄膜炎になって、人格が一変しました。教授は素晴らしい知性と人格の持ち主で、私も大変尊敬していましたが、入院中は性的に下品な冗談をのべつ幕なしに言うようになって、突然踊りだすような奇行を繰り返すなど、まったく違う人間のようになっていました。これは髄膜炎の症状のひとつで、病気が治ればまた元に戻ったのですが、人格や精神というものは、揺るぎなく絶対的なものではないと、そのとき実感しました。

萱野 身体の状態によって、人格や精神もまったく変わってしまうということですね。

吉田 ところで、萱野先生は“幽体離脱”を体験されたことはありますか?

萱野 ありません。それはどのような感覚ですか?

吉田 正しくは“体外離脱体験”というのですが、自分の意識が体から抜け出て第三者的な視点で外から自分を見るような感覚です。私はこれまでに2回、体験しています。一度目はNHKアナウンサー時代、テレビ番組の「シャチと仲良くなる」という企画があったのですが、その撮影でシャチに投げ飛ばされて頭を強打してしまったんです。そのとき、体外離脱を経験しました。とても生々しくリアルで、ほとんど信じていなかった超常的な現象について「あってもおかしくない」と感じるようになったのですね。それから人生観が一変して「死ぬまでにこの世に何かを残したい」という意識が芽生え、結果的に政治家を目指して加藤紘一先生の第一秘書になりました。その当時は加藤先生を総理大臣にして、ゆくゆくは自分も……と本気で考えていましたよ。

萱野 頭を強打する、という身体への刺激によって、世界観そのものまでもが変化してしまったと。

吉田 その後、脳の頭頂葉と後頭葉が隣接する“角回”という部位を刺激すると体外離脱体験が起こることがあるという研究論文を読んだのです。そこで試しに自分で角回に磁気刺激を行ってみたところ、シャチに投げ飛ばされたときとまったく同じ体外離脱体験が起き、それで再び人生観が変わってしまいました。最初の体外離脱も超常的な神秘体験などではなく、脳が生み出した幻想に過ぎなかったのだと悟って。それ以降、良くも悪くも自分の人格、自我といったものも、装置としての脳が生み出している現象に過ぎないという冷めた感覚がずっとあります。

萱野 確固とした自我や人格というものは、脳が生み出した虚構に過ぎないのではないか、ということでしょうか?

吉田 そういった自己イメージや世界観を作り出す自我そのものが、私には疑わしいものに感じられます。先ほどもお話ししましたが、鬱病の治療前後で別人のように人が変わることは珍しくありません。メンタルの病を抱えていない人でも、体調が悪くなれば憂鬱になるし、何か嫌なことがあればイライラもします。そういうときの自分と楽しいことがあってワクワクしているときの自分、その2つは果たしてまったく同じ自分であるといえるのか、そういう疑問があるのです。

萱野 意識は身体の状態によって変わり得ると同時に、環境によっても変わりますよね。具体的な環境の変化と意識への影響についてはさまざまな研究がありますが、環境によって意識や考えが変わるというのは経験的にも多くの人が納得することだと思います。その点で言えば、自我や意識を作り出す脳は単体で完結しているわけではありません。それは身体を通じて外の環境ともつながりながら、意識や精神といったものを生み出しています。

吉田 人間の脳は“外側”とのフィードバックで機能している装置なんですよ。この脳の外側には、体内と体外の2つがあります。私たちの世界で注目されているのは“情動末梢説”と呼ばれるもので、人間の原始的な感情=情動は脳で自動的に発生するものではなく、“末梢”で起こる反応が先にあるというものです。末梢とは、頭蓋骨に収まっている脳を“中枢”と呼ぶのに対し、その外側を指すものです。

萱野 具体的にはどういうことでしょうか?

吉田 この分野の研究でエポックメイキングだったのは、“デュシェンヌ・スマイル”です。これは口元を上げるだけじゃなく、目尻が下がってシワができる笑顔のこと。この表情を意識的に作ると、たとえ作り笑顔であっても、表情筋の変化が脳にフィードバックされて、本当に“楽しい”という感情が後から生まれるんです。また、逆に目尻のシワをなくそうと眼輪筋にボトックス注射をすると、望んでいた美容効果を得られたのに、表情筋が動かないために楽しいという感情が生まれにくくなって、鬱が生じやすくなるという研究論文も発表されています。つまり、人間の感情は脳だけで創られているのではなく、末梢からのフィードバックも大きな役割を果たしているんですね。私のクリニックでも、鬱病患者に対し身体の動きのフィードバックを重視した運動療法を行い、大きな治療効果が出ています。

萱野 もう一方の“体外”からのフィードバックは、どのようなものとして考えられますか?

吉田 人間の脳はコンピューターにたとえられることが多いですが、どちらかというとスマートフォンに近いと私は考えています。単体で情報処理を行うマシンではなく、他者とのコミュニケーションツールであるスマートフォンのように、人間の脳は無意識のうちに周りの人間の脳と相互のネットワークでつながり合って働いているということです。例えば、今私がこうして話していることは、萱野先生が目の前にいて、こちらの話に頷いたり、表情を変えたり、手を動かしたりする挙動のひとつ一つに私の脳が反応し、それが話の展開や口調にまで影響を与えてアウトプットされているわけです。この周囲の人間とのフィードバックというのは脳にとって非常に重要なんです。例えば何かのきっかけで引きこもりのように他者と関係を断った状態になると、脳と脳が無意識のうちに行っていた他者とのネットワークが働かなくなり、脳が隔絶されてしまうので、引きこもりから抜け出せなくなってしまうのです。

 

脳の境界が消えていく社会

萱野 悩んでいる人に対して「考え方を変えよう」とアドバイスする人がいます。「もっとポジティブに考えようよ」といったように、ですね。でも自分の考え方はそう簡単に変えられません。自分の考えを変えるためには、まずは行動を変えなくてはならない。行動を変えれば感情や意識も変わってきます。もちろんその行動には、よく笑うといった些細なことから、日常の習慣や他者とのコミュニケーションも含まれます。そういった点からも、脳が機能的に身体や環境とつながってフィードバックを重ねているということがよくわかりますね。ただその場合、脳の境界はどこにあると考えればいいでしょうか?

吉田 解剖学的には中枢神経が脳で、末梢神経は脳ではないと区別されます。これは単純に物理的な位置による定義ですが、機能としての脳の境界は、厳密に言えばどこにも存在しないと私は考えています。表情筋のような身体の動きも情動を生み出している以上、機能的には脳と一体化しているとしていいのではないでしょうか。そして、自分の周囲にいる他者も互いの脳に影響を与え合う意味では、ネットワークでつながった脳の一部になっています。突き詰めて考えれば、現代はインターネットで世界全体がつながったひとつの脳ともいえるでしょう。

萱野 その点で言うと、望遠鏡でもテレビでも、パソコンでもインターネットでも、テクノロジーとは脳がみずからの機能を拡張するために生み出したものだと考えることもできそうですね。それを通じてさらに脳はフィードバックの範囲を広げている、と。

吉田 そうです。相互作用によるフィードバックこそが脳の本質です。脳そのものも統一されたひとつの器官ではなく、大きく分けると自我を作っている前頭前野や原始的な感情を司る大脳辺縁系、さらにその中には扁体、海馬など、いくつもの部位が相互作用することで情報処理をして、全体としての意識を創り上げています。そういう意味で考えると、今の私と萱野先生は明らかに強い情報の伝達をし合っているわけで、今この瞬間は萱野先生の脳は私の脳の一部であり、私の脳は萱野先生の脳の一部になっているといえるんです。これは人間の脳にとりわけ顕著な特徴なんですね。

萱野 他者も含めた環境とのコミュニケーションが、人間の脳の本質だということですね。

吉田 他者とのコミュニケーションがインターネットとSNSの普及によって急激に広がり、質量とも大きく変化してきたことに私は一抹の不安を感じています。実際、SNSによって人間のエゴや妬みが増幅していることを検証している論文も数多く出ていますが、それも必然ではないかと。現代社会のネットを介したコミュニケーションは、人間の本来の姿から逸脱していくように感じるし、その延長線で進んでいって人間は大丈夫なのか危惧しています。

萱野 確かに現代は、他者とのコミュニケーションにこれまでにない負荷がかかっている時代だといえるかもしれません。上の世代と比べても、今の若い世代は他者とのコミュニケーションに多大な配慮を注いでいます。今後、そのストレスに人間の脳はどこまで耐えられるのか。大学で学生と接していても、メンタルで悩んでいる人はとても多い。

吉田 “メンタル面での不調”まで広げたら、現代人の9割はなんらかの形で精神的な悩みを抱えているのではないでしょうか。それは文明のあり方として正しいのか疑問を感じますし、近い未来に人類を揺るがすような大きな問題が起こるのではないかと強い危機感を持っています。

萱野 それだけ脳は他者とのコミュニケーションから大きな影響を受けるということですね。

吉田 人間のコミュニケーションは、本来、言語だけによるものではありません。表情や声のトーン、身振り手振りや匂いまで、さまざまな要素が複雑に絡んでいるものです。そのすべてが大なり小なり脳の相互作用を生み出してバランスをとっています。今の社会に不安を感じる最大の要因は、ネットによる限られた情報伝達が支配的になっているために、脳が本来持っている多様な機能がとても偏った状態に歪められていることです。私はそこに、底知れない危うさを感じます。

(月刊サイゾー11月号より)

吉田たかよし
1964
年生まれ。医学博士。受験生専門の心療内科「本郷赤門前クリニック」院長。受験医学研究所代表。東京大学大学院工学系研究科卒業後、NHKに入局。その後、東京大学大学院医学研究科・医学博士課程修了。加藤紘一元自民党幹事長の公設第一秘書、東京理科大学客員教授も歴任。主な著書に『受験うつ』(光文社新書)、『宇宙生物学で読み解く「人体」の不思議 』(講談社現代新書) など。

萱野稔人
1970
年生まれ。哲学者。津田塾大学教授。パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。主な著書に『国家とは何か』(以文社)、『死刑 その哲学的考察』(ちくま新書)、『社会のしくみが手に取るようにわかる哲学入門』(小社刊行)など。

 

 

 

 

コアセルベート (coacervate)

とは、コロイドからなる液胞の流動層と液層が入り混じった物体。

このコロイドは分裂・融合・周囲の物質の吸収などを起こす性質があることから、生命の起源や進化に重要な役割を果たしたとする説がある。

 

ラテン語の coacervatio に由来し、「集合体」や「塊」という意味をもつ。

オランダの化学者デ・ヨング(H. G. Bungenburg de Jong)により1929年に、またクルイト(H. R. Kruyt) によって1930年に命名された。

 

コアセルベートは疎水性相互作用によって形状が維持されており、浸透圧を有する。油のようなものが水からの反発によって集まった有機物の小球と言える。

 

 

発生

親水コロイド水溶液に水和作用を低下させるような物質を加えると、コロイド粒子の周辺だけに液層分子への親和力が発生し、離れた液層分子には親和力が発揮されない。例えば、ゼラチン液にアルコール類を加えるとコアセルベートが生成する(単純コアセルベート)。

 

また、コアセルベートは複数の親水コロイド水溶液の混合や親水コロイド溶液への沈殿剤投入によっても発生する。例えば、温度やpHを適当に調整した緩衝液にゼラチン水溶液とアラビアゴム水溶液を滴下すると生成する。このとき、コロイドと液層は帯電の正負が互いに異なる(複合コアセルベート)。

 

他、親水コロイド溶液と疎水コロイド溶液の混合などによっても生成する。

 

物質のミクロカプセル化が行えることから感圧紙の製造に応用されており、染料や創薬への応用も検討されている(ミクロスフィア)。

 

生命の起源説

コアセルベートは分裂・融合・周囲の物質の吸収などを起こす性質がある。また界面によって外界と自己(コロイド)を隔て、内部で取り込んだ物質の化学反応を起こしえる。さらに、ポリペプチドや糖類はコロイド溶液となりえることから、コアセルベートは細胞または生命の起源に関連しているという説が存在している。特に、この分野を科学的に最初に詳しく論じたソ連の生化学者アレクサンドル・オパーリンが生命発生の元になる姿のモデルとしてこれを取り上げたことで注目された。

 

チャールズ・ダーウィンは、現在の生命は共通祖先に由来すると提唱する中で、生命の系統樹が単純なものだとすれば、はるかにさかのぼったときすべての生命はただ一つの共通祖先(ur-organism)にたどりつき、それは非常に単純で原始的なものであろうという可能性について触れていた。ここで起こる疑問は、その最初の生き物はどこからきたのか、ということである。

 

最初の「ur-organism」がどのようにして非生物の有機物から生まれてきたかを説明するためにコアセルベートを考えたのがオパーリンであった。彼は、天然物質に太陽光(特に紫外線)が無酸素下に照射されることによって有機化合物が生成し、ときどきより大きな分子へと再結合し、それがコロイド、ひいてはコアセルベートの生成に結びついたのだろうと考えた。一見、コアセルベートは生きた細胞にも似ていることから、オパーリンはそれらが最終的に単純な生命となりえるまで複雑化したと考えた。

 

この説は、最初の生命の形成に関する現在の説にもなんとなく似てはいるが、コアセルベートが直接最初の細胞となったとは、もはや考えられていない。現在の説では、無生物から細胞に至る前にはもっと多くの段階を通過してきたと考えられているからである。