「点」からみた梵我一如と仏教の違い

 

数学の点  点はあるのかないのか?

点の定義   直線が交わるところ   面積も体積もない

 

点はある  アートマン   スピリチャリズム  数学的実在  未来永劫的に存在する 部分関数

点はない  どこにあるの? 現実にはない

仏教     釈迦 どっちでもいい

 

点とは「この私」

生まれ変わり思想では、100年前と今との点が同じで、時空を超えて点が永続的に存在する、と考える派がいる。

 

実無限   宇宙に無限(点)が大量があります   最初から無限があってヒトがそれを発見する

可能無限  計算方法がわかるから無限がある 無理数  無限に続く アルゴリズム(数学の規則の集まり)

 

 

 

点の存在

自我

宗教

目的

ウパニシャッド哲学

点はある

点とは自我

スピリチャリズム

神への回帰

仏教

どちらでもいい

自我は分けた時に出現

原始仏教

離脱

 

 

 

「輪廻転生からの離脱」の解釈

どちらも輪廻転生からの離脱を説くが、

ウパニシャッドでは、形のある世界への輪廻はないが、形のない世界には輪廻し、大帰滅という100億年単位の生滅には形になって顕れるように説いているように、私には思える。(今の所では)

対して、仏教では完全離脱を唱えている。

しかし、それは太陽系からの完全離脱であり、それより上位の世界には存在するので、その影響が地球にも現れるのではないか、と私には思える(今の所では)

 

 

 

バラモンのウパニシャッド哲学  二つが一体である

大我 ブラフマン  宇宙の本質      

小我 アートマン  部分関数  バラモン

 

釈迦はこれを否定

 

どっちでもいい

毒矢のたとえ

分析よりもまずは毒矢をぬけ   霊や死の話よりもまずは現実や機能や役割

 

中観思想 

この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる

このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。

こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。

こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も (そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。

上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。

そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見・断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「中」(中道)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。

この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。

 

 

最小の数

プランク定数が最小単位

点の大きさ  プランク定数Hだから10のマイナス3乗

6.62607004 × 10-34 m2 kg / s

 

プランク秒

5.39116(1310−44 s

=刹那

 

 

自我とは部分関数である

部分関数とは「分ける」関数のこと。

関数とは入力に対して決めった法則によって出力される装置のこと。

 

例えばイーブン(偶数)という部分関数があったとすると、この関数に自然数nが1からnまで入力されると「2,4,6,8…2n」と偶数を出力する。

この部分関数を「人間とは何か?」というと問題に使ってみる。

 

ヒトという部分関数に宇宙を入力すると宇宙中の全ての人間を出力することになり、人間という部分を太郎に置き換えて宇宙を入力すると、宇宙中の太郎が出力される。

地球以外にも太郎がいたら(例えばM78星雲のウルトラマンタロウも出力される)他の星の太郎も出力される。

 

宇宙を入力して全ての「太郎」が出力される部分関数。この全ての太郎には、それぞれの属性がある。何処に住んでいて、どんな仕事をしていて、どんな家庭で、どんな趣味でと。そして、この人はこういう事を考えて、自分の事をこういうふうに思っている、と存在としての定義がある。

これを自分=自我に置き換えてみる。自我は自分を定義するもの。自我という部分関数に、宇宙を入力すると、自分(自分を構成する全ての定義)が出てくる。存在の価値は、宇宙と等価である。自分を構成する総数を入力すると、逆関数として宇宙が出てくる。それぞれの定義が宇宙サイズに広がる。よって、この様に、自我とは部分関数で表される。

 

 

バラモン教に異議を唱えた仏陀とその後の大乗仏教

釈尊が入滅後、500年ほどした紀元前後100年に大乗仏教というのが興るのだが、この大乗仏教経典の教理とウパニシャッド哲学に似たような思想がある。似ているというか大乗仏教がウパニシャッド哲学的教理を取り入れたとも、その反対だとも言える。

梵我一如
梵我一如というのは、宇宙の根本としてブラフマン(brahman、梵)と個人の本体であるアートマン(atman、我)は同一不異であるという思想、つまり根本としてのブラフマンと個人であるアートマンは別々な形で存在しているが、実質的には同じということです。
アートマンをもう少し詳しく説明すると自分にとって永遠に扱えるもの(魂も含めて)をアートマンと呼んでいました。噛砕いて言えばアートマンが個人の魂で、ブラフマンがそれが帰依する所と考えることができます。



原始仏教
釈尊が悟ったものは、万物はみな空であり、諸行無常であるという内容(他にも様々な事を説かれていますが。)
解りやすく現代科学の言葉を用いて説明すると、宇宙のあらゆる物質は分子レベルで時間とともに変化しており、どんなものでも永遠なんてものはないと説いたわけです。

前の梵我一如の思想はアートマンという永遠を認めるが、釈尊はこれを否定する為にアートマンという固定的実態(永遠性)は存在しないとする「無我」(非我と書いた方が意味的には正しいのですが。)を説きました。

ここで注意して欲しいのが釈尊はアートマンそのものを否定したわけではなくて、アートマンの永遠性を否定したとされており、アートマンの有無については釈尊は答えていないと言われています。ですから、非我と書いた方が正しいのです。

大乗仏教
大乗仏教になると原始仏教とは教理の内容が大きく変化していきます。経典にも教理が様々なのですが、ここではウパニシャット哲学に似た教理を紹介します。

一切衆悉有仏性、如来蔵思想(真如縁起)
一切衆悉有仏性とは生きとしけるものすべてに仏性があり、それによって成仏できるという考え方で、仏性は永遠と説きます。これはアートマンの永遠性に似ているものです。

如来蔵とは仏になる可能性、仏性のようなものとして最初説かれたのですが、この考えが発展いていき真如縁起という宇宙論的な思想が説かれるようになっていきます。真如縁起とは、万物は如来蔵から発生するという考えです。これはアートマンに似ているものです。

 

ウパニシャッド哲学はどんなことをいっているか。

まずは人間の生死について。人は死んだらどうなるか。回答「輪廻転生」。

すべての生きとし生けるものは生と死を永遠に繰り返します。死んだら、またどこかでなにかに生まれ変わってくる。生き続け、また死にまた生まれ変わる。永遠に回転しつづける車輪みたいなものです。

 

死んでも生まれ変わることをインド人はどう捉えたかというと、これは苦です。死ぬことが苦しみなのは理解しやすいですが、インド人は生まれること、生きていることも苦しみと考える。飢饉、疫病、戦乱、天災、あらゆる不幸が人生にはついてまわる。生きることは苦痛とセットなんです。

現代でも生まれついたカーストによってはつらい人生が待っている。

「今度生まれ変わっても同じ人生を歩みたい」なんていうセリフとは無縁な世界です。絶対生まれ変わりたくなんか無い。こういうセリフが出てくる日本の風土はやはり暮らしやすいから。

死んだあと何に生まれ変わるかということですが、これは生きている間にどんな行いをしたかで決まる。

生きているということは、なにかの行為をしているわけで、その行為を「業(ごう)」といい、どんな業を積んだかによって、次の生が決定される。簡単に言えば悪い業を積めば、虫けらに生まれるかもしれない。よい業を積めばましな生き物、たとえば人間に生まれ変われる。

しかし、人間に生まれたとしてもやはり人生は苦であるので、人々の願いは二度と生まれ変わらずにすむこと。

クルクル廻る輪廻の輪から抜け出すこと、これが最高の願い。抜け出すことを「解脱(げだつ)」という。

「輪廻転生」と「業」、そして「解脱」。これが一つ目のポイント。

 

二つ目は宇宙の真理についてです。ウパニシャッド哲学では、宇宙の根本真理が存在すると考えます。

これを「ブラフマン」といいます。これを中国で漢訳したのが「梵(ぼん)」という言葉です。

当然修行者たちはこの真理「ブラフマン」を自分のものにしたい、つかみたいと思う。

この宇宙の真理ですが、ユダヤ教やキリスト教でこれを神と考えるが、それは外にあるもので人間はそれに向かって少しでも近づくようにと考えていた。

 ところが、ウパニシャッド哲学では、宇宙の根本真理「ブラフマン」をつかもうとわれわれはどこかを探すのですが、考えてみれば「私」も宇宙の中の一部です。宇宙に根本原理があるならば、「私」も宇宙の一部なんだから、「私」の中にも宇宙の根本原理が宿っているはずなんです。どこか遠いところに真理があるのではなく、自分の中に真理はある

 

この「私」の中の真理を「アートマン」といい、「個人の根本原理」で漢訳では「我(が)」。

私の中に「アートマン」=「我」があって、それが「ブラフマン」=「梵」と究極的には同じモノであるとウパニシャッド哲学は教えます。これを「梵我一如(ぼんがいちにょ)」とう。

誰もが自分の中にアートマンを持っているわけですがそれが簡単には自覚することができない。

なぜかというといろいろな物質や欲望によって心が曇っているからです。だから、修行によって心の曇りを取り払い、自分の中に「アートマン」を見つけだしたらどうなるかというと、それは「ブラフマン」と同じなわけですから、二つは一体化する。

一体であることを「私」が理解する。その瞬間に「私」は「宇宙」と一体となる。一体となるということは、言い方を変えると自分が消えるということ。

 

自分が消える、ということは「業」がなくなるということ。自分が宇宙と一つになるんだから、私の行為というのも消えてしまう。

「業」が消えたらどうなるか。輪廻転生の原因は「業」なので、私が消え「業」が消えたら、そこには輪廻するものがなくなってしまう。これが解脱ということで、究極の目標。

 

これがウパニシャッド哲学の大雑把なところです。この思想に基づいて多くの修行者が梵我一如実現のために修行生活に入っていったのが現在まで続いている。

どうすれば、心の曇りを取り払い「アートマン」を自覚するかというと、これは色々な人が色々な方法を唱える。仏教もその方法の一つだし、ヨーガもそういうモノの一つである。ヨーガにも色々な種類があるが、よく知られているのが健康体操みたいなものだが、本来は身体と精神を極限まで追求して、欲望などの余分なものを捨て去ったその後に残る最後のものを「アートマン」として体感しようとしている。

このような思想が前500年をはさんだ数百年くらいの間に生まれて、インド世界に広まった。

梵我一如とか輪廻転生、業、解脱、という考えはインド人の常識になって、この後インドに生まれる多くの宗教はこの思想を下敷きにしている。

 

ジャイナ教

ウパニシャッド哲学を土台にした新宗教が前5世紀頃に登場した背景は、

1経済力や武力は無いが神々の儀式をしきって威張っているバラモン

2農業の発展にともなって特にガンジス川流域にいくつかのクシャトリア身分の王国が成長

3交易も活発化し、、商業の担い手だったヴァイシャ身分の中には王侯貴族に劣らない経済力を持つもの

 

そこで、クシャトリア、ヴァイシャは、バラモンの権威を否定してカースト制を打ち壊してくれる宗教や思想を待ち望んでいた。

 

森林にはウパニシャッド哲学を深める修行者たちがたくさんいて、この中から新しい時代に合った宗教が生まれて来た仏教とジャイナ教。

この二つの宗教の共通点はともに開祖がクシャトリア出身であること、バラモンの権威を批判しカースト制を否定したこと。

 

ジャイナ教の開祖はヴァルダマーナ(前563〜前477ころ)。尊称をマハーヴィーラ(偉大なる英雄)

輪廻の原因である業を身体にくっついた物質と考え、苦行をすることによって前世からくっついている業を消し、新たな業がくっつかないようにできると考えた。そのために苦行と徹底した不殺生を説く。

 

不殺生、なぜ、生き物を殺さないかというと、輪廻転生をインドの人は信じていたので、死んだら何か別のものになって生まれ変わる。

菜食主義も同じ発想から生まれてきます。

 

ジャイナ教は徹底した不殺生です。絶対に生き物を殺さない。資料集のジャイナ教徒の写真があるから見ると、。息を吸うときに空中の虫を吸い込んで殺さないためにマスクしている。それから、歩いたら蟻とかを踏んで殺すといけないので、できる限り歩きません。

どうしても歩かなければならないときはほうきを持って、一歩一歩地面をはいて虫がいないことを確認してから足を踏み出すのです。ゆっくりしか歩けない。

マハーヴィーラ自身は素っ裸で、一切の財産を持たないので、服まで捨ててしまう。

 

苦行の方は基本的には断食。業を消したあとは新しい業が身に付かないように断食しながら餓死することをすすめていたよう。

梵我一如を実現したら生きている意味もないからそのまま死んでしまいましょうということです。

インド独立の父として尊敬されているガンジーもジャイナ教徒の家に生まれている。

 

仏教

仏教の開祖はガウタマ=シッダールタ(前563〜前483頃)。尊称はブッダ。生没年は色々な説があってホントのところはよく分かりません。どうせ生死を繰り返すので年代を記録することに執着しなかったようである。

ブッダというのは「悟りをひらいた者」という意味。ガウタマ=シッダールタ以前にもブッダになった者がいたとも伝えられている。

よくお釈迦様といいますが、シャカというのはガウタマの属した部族の名前で、シャカ族の王子に生まれます。嫁さんももらって、子供も産まれ何不自由のない生活を送るんですが、人生の無常を感じて国や家族を捨てて出家して修行の道に入ります。

 森に入れば似たような修行者がたくさんいて、ガウタマは仲間を見つけて修行の日々に明け暮れた。このころからすでにヨーガがあって、ヨーガの先生についたこともあった。断食もやったようです。仲間がこいつ死んだんじゃないか、と思うくらいの断食だった。

 

  ところがいくら過激な苦行をしても、ちっとも悟れないのです。そこで、ガウタマは苦行によって悟りをひらくことをあきらめて、里に下りてきます。仲間たちはあいつは修行が苦しくなって逃げたんだ、なんて言うんですが。

 里に下りて川の畔でガウタマが一息ついているときです。修行をやめてきたばかりだからガウタマは多分ガリガリに痩せていてフラフラしていたんだろう。村の娘さんが「お坊さん、どうぞ」とミルクを恵んでくれました。その、村娘の名前がスジャータ。

仏教でもジャイナ教でも何でもインドの宗教に共通ですが、悟りをひらいて解脱できるのは、出家して修行している人だけで、在家で、普通の暮らしをしている人は決して解脱できません。在家信者も救われる仏教が生まれるのはあとのことです。

では、在家の人たちの救いはどこにあったか。それは、修行しているお坊さんにお布施をすることなんです。解脱はできないけれど、解脱を目指している人のお手伝いをすることでよい業を積むことができる。よい業を積めば今度生まれ変わるときに今より少しでもよい所に生まれ変わることができる、そういう考えです。

 

さて、スジャータからミルクをもらい生命力がよみがえったガウタマは、菩提樹の下で瞑想します。そうしたらついに悟ってしまったんですね。ブッダとなりました。

 

ここから先が後の仏教の展開にとって大事なところです。

悟ったガウタマはこう考えた。この悟りは、とても言葉で表現できるものではない。言葉で説明しても誤解されるだけだ。だから、人に教えるのはやめておこう、とね。

ところが、すぐに思い返します。いやいや、悟りに近いところにいながらあと一歩のところで悟れない人がたくさんいる。私が教えを説くことによってそういう人々が悟れるようになるかも知れない。水面すれすれで咲いている蓮の花をチョイと引っ張り上げてやることで水上で咲けるようにね。水上が悟りの世界です。

というわけで、布教を開始します。布教を決心して最初に出会ったのが苦行時代の仲間。ガウタマが来るのを見て、「苦行から脱落した奴だから、相手にせずにおこうぜ」とかれらは示し合わせるのですが、近づいて来たガウタマの顔を見て「こいつは変わった」と思う。さらにガウタマの説法を聞いて彼の悟りを確信して最初の弟子になったということです。

 

ガウタマの説いた仏教とはどんなものだったか。

キーワードは四諦(したい)と八正道(はっしょうどう)です。

まず四諦。これは四つの真理という意味です。まず一番目の真理、人生は苦である。ウパニシャッドの基本と同じである。二番目、苦しみには原因がある。三番目、原因を取り除けば苦しみも消える。四番目、原因を取り除く方法は八正道である。

八つの正しい道です。一、正しく見る。二、正しく考える。三、正しく話す。四、正しく行動する。五、正しく生活する。六、正しく努力する。七、正しく思いめぐらす。八、正しい心を置く。

これはいったい何なんでしょう。当たり前のことじゃないか、と思いませんか。そうなんです。でもこれが仏教の特徴なんです。ブッダは苦行を否定します。極端を避ける。中道という。

ジャイナ教に比べるとハッキリしない教えのように感じますが、当時の人にとってはこのことが逆に新鮮だったんではないかと思います。だって、命を落とすほど苦行するのが当たり前の中でブッダは苦行を否定して、理論によって悟る道を示したんですから。

 

仏教もジャイナ教も王侯貴族、クシャトリアやヴァイシャに保護されて発展していきました。たとえば平家物語のはじめにでてくる祇園精舎というのは有力商人がブッダの教団のために寄進した庭園を漢訳したものです。

 

13世紀初め,仏教の教団根拠地であったビクラマシラー寺院というのがイスラム勢力に破壊されてインドの仏教は消えました。寺が壊されたくらいで無くなってしまうということは、もうすでに一般民衆の信者がほとんどいなかったと推察される。

 現在のインドの仏教徒はアンベードカルに始まります。アンベードカルは不可触民解放の運動を続けて、結局カースト制がある限り差別はなくならないと考えた。カースト制を否定するインドの思想を調べて仏教に巡り会ったんです。カースト制のないインド社会を作るため仏教に改宗した。みんなにも改宗をすすめました。

ただ、改宗したのはアンベードカルと同じ不可触民のカーストの人が多い。