確率で判断すると充実感は減少するのか?

もしくは、生命体らしからぬ生き方になる?

 

 

環境の変化を判断の基準にする

自分の人生に心底から満足できず、何か充実感のなさを感じることは誰にでもあることです。

それにはいろいろな要因がありますが、

もしかすると、それは「確率のデータで判断している」ことが一つの原因なのかもしれません。

 

確率のデータで判断することは、客観的で科学的で理性的なことだと一般的には思われています。

ところが、そのような判断をして暮らしているのは、自分自身ではなくマシーンに判断を委ねて、この世を生きてしまっているのではないか、というお話です。

 

確率と充実感の間に因果関係があるかどうかということではなく、

「考え方は、行動の要因と結果の核である」ということを再確認する論理ゲームだと思って、このエッセイを読みすすめてもらえると嬉しいです。

データとの接し方でこちら側の心持ちも変わり、もしかすればそれによって、気楽にゆったりとおおらかに軽やかになる可能性があるかもしれないという試み(エッセイ)です。

どこに行き着くはまだわかりませんが、もし軽やかにならなければ試みは失敗なので、また他の方法でチャンレンジすることにします。

 

 

先日、自分の大切な人と一緒に近くの山に行きました。

楽しい時間だったので、また山に行く話をしていたのですが、来週は雨が降ったら行かない、その理由は道で滑る確率が増えるから、ということでした。

表に出る言葉とは深層意識の氷山の一角に過ぎないので、「行きたくない」という結果が先にあり、それをサポートするいろいろな理由付けを後からすることも多々あるのですが、このエッセイでは、実際に滑ることだけを理由に判断したものだとしてみます。

 

仮に、山道を歩いて滑る確率を、晴れている時は100人に1人、雨の時は10人、凍っている時は49人にいるとします。

転倒率は雨ならば10倍、凍っていたら49倍に増えるので、このデータを基準にして雨の日には山に行かない、と判断するのは冷静で理知的な判断のように思われます。

 

しかし、もう一度、同じデータを他の角度から見てみると、他の数字も見えてきます。

100人のうち、晴れの時は99人、雨の時には90人、凍っている時には51人の人が転んでいないというデータです。どの条件でも過半数の人は転倒していないということがわかります。

また転倒率で見ると雨の日では転ぶ確率が10倍に跳ね上がりますが、人数でみると90%の人が転ばずにすんでいます。

このように、どこにスポットライト当てるかによって、受ける印象も大きく変わります。

 

そして次からがこのエッセイ(試み)のポイントです。、

なぜ転ぶ人と転ばない人がいるのでしょうか?

雨や雪という条件で転ぶ人が増えますが、転ばない人も過半数以上いることがデータから分かります。

どうしたら転び、どうしたら転ばないのでしょうか?

 

そこには転ぶ理由と転ばない理由があるからです。

滑る路と滑らない路、滑る石と滑らない石、滑る苔と滑らない苔、滑る木質と滑らない木質。

また、転ぶ体重移動と転ばない体重移動、転ぶ足運びと転ばない足運び、転ぶ着地と転ばない着地、転ぶ靴と転ばない靴などいろいろな要因があります。

 

転ぶ人は転ぶ理由があります。

晴れている時には転ばないのに、雨や雪では転ぶ理由は、環境が変化しているのに、晴れている時と同じような歩き方をその人がしていた可能性があります。

 

条件によって転びやすい確率が次々と増えていっても、これらの条件に対して、一つづつ対処していけば、雨の日に100人中90人、雪の日に100人中51人がしていたように、環境に適応して歩き方を変えると転ばなくなる確率が上がります。 

 

たしかに、転倒率が10倍や50倍になると危険性が増加するということを判断の基準にすると、行動を中止するというのも一つの選択です。

この判断のメリットは転倒の確率がゼロになること、そして面倒くさい環境の変化に対応しなくていいことです。

 

デメリットは環境の変化に対応する楽しみを体験できないことです。

変化に対応していると、各自の体格や性格に適応した自分独自の歩き方をするようになり、その間は転ばないように、その瞬間瞬間を真剣に生きています。

 

生命体は常に環境に応じて適度に対応しているのですが、反応や工夫をしないで、それまでのやり方を固持する考え方を基準にすることは、変化に対応する自然の摂理と喜びから遠ざかることになります。

 

確率という他人のやり方を集計して割り出したものを基準にするクセがつくと、眼の前の事実ではなく、過剰に一般化してしまう「思考パターン」に心身を委ねて依存してしまい、自由意志を実行したり、自分自身の生き方を工夫する喜びや自分独自になる機会を失い、「いま・ここ」を生きる充実感から気づかないうちに離れてしまうことに繋がっているのかもしれません。 

 

 

自分の行動はその人の気持ちと技術次第でどのように変えることができますが、天候を始めとした自然は人の気持ちではどうしようもなく、それに対応する仕方を学ぶか、もしくは接点を持たないようにするしか方法がありません。

山で暮らしている人たちにとっては雨や雪の日も学校や仕事や買い物に行かなければならない必然性があるので、環境の変化に対応する方法を学ぶことは大事なことです。

しかし、平野で暮らしている人にとっては、雨の日に山道を歩くかどうかというのは、各自の趣味の範疇なので、特に大事な問題ではなく、そのような対応を学ぶ必然性はありません。

 

しかし問題は晴れていても天候が急に変化する場合が山間部には多くあるということです。

平野では曇りであっても、その雲が山に当たって霧や驟雨になることは実によくあります。

 

ですから自然の力が強い領域に入る時には、それに対応する練習をすることで、無意識のうちに不安になっていることがあっても、それがゆったりと解放されて、心が安らかになっていくことがあるのかもしれません。