「いのち」のエッセイ

動機  意識論と人口密度論を結ぶ

 

いのちは、生まれ、華が咲き、再生し、流転するもの。

いのちとは、「分ける」ことができないもの。 

だから意識では捕まえることができない。

認識できるいのちはリズミカルに揺れ、顕れては消える。

この宇宙はいのちであり、全ての時空にあり、全てこそがいのち。

 

第一章 いのちの特徴 

リズム、サイクル、波  リズムの生まれ方 呼吸 昼夜 回転の重なり 周波 月の軌道 山と谷の法則

図にしてみると    形    波と再生 螺旋  三角関数と波動   複素数  全体曲線と部分折れ線

振動 周波数 振りこ ゆらぎ 生命の証拠  

意識のルールの外と内側にあるもの

意識でみえるもの 非意識でみえるもの  科学的表記   方丈記

エントロピーに反するもの コスモス、エロス、ロゴス

死と再生のサイクル

加速といのち    スピード 等速・加速   微分値  

 

第二章  いのちと形

力と形の関係性  1 二元論 生に対する死 2 一元論 ここにあるということは生と死が同数あること 

二つの間   電子の真空と形  空と色   ゲーテとニュートン 闇と光

中立一元論 Neutral monism

「空」に含まれている「色」  

 

 

 

コラム

方丈記 鴨長明

再生が必要な理由  緑が赤になる   清ければ清いほどひどくなる。

外力と慣性力    ダランベールの原理

いのちを数値化するならば確率論しかない

波なのに粒子、粒子なのに波

フェルミオンとボソン

どこもかしこもがスピン

 

第一章 いのちの特徴 

リズム、サイクル、波  リズムの生まれ方 呼吸 昼夜 回転の重なり 周波 月の軌道 山と谷の法則

手を胸の上に置くと、鼓動で掌がかすかに振動する。一定の間隔と強さが繰り返されリズムが生み出されている。

昼寝をする時に胸の前に手をしばらく置いていると、一定のリズムにもゆらぎがあることを感じる。びっくりした時や興奮している時は、鼓動の間隔は早くなり心持ちか少し強くなったように感じ、眠る寸前のリラックスしている時は鼓動はゆったりと落ち着いている。

このような一定でありながら時に揺らぐリズムは、日常生活の中のあちこちで感じる。

生きている間は繰り返される息の吐き吸い

振り子の左右に揺れる動き

海岸に押し寄せる波

昼と夜を決める日照時間

 

このリズムはどのようにしたら生まれるのだろう?

エンジンのピストン運動のように、周期ごとに爆発が起きると確かにリズムが生まれる。

爆発以外にはリズムは生まれないのだろうか?

例えば一つの回転からもリズムは生まれる。

円柱を転がして、一点の上下を見つめているとそこになだらかなリズムが見てとれる。

また二つの回転が結びついてもリズムは生まれる。

太陽系の外から地球の周りを公転する月の軌道を見ると、なだらかなリズムが見てとれる。

 

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目には見えないが観測機を使えば、この宇宙は周波でできている。

周波数

 

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この周波のほんのごく一部だけをヒトは五感を通して感覚で捉えることができ認識することができる。

 

 

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自分の外側にあるリズムを感じた時にヒトは不思議な感覚が湧き、時に共鳴したり同調したりすると、言うも言えない感動に包まれることがある。そこには任せきることによっておきる安心や安定がある。

 

この山と谷のあるリズムがどこにでもあることがわかると、慌てなくてもよいことが増えてくる。そしてその周期や強さがわかれば、もっとゆったりとしていられる。

 

図にしてみると    形    波と再生 螺旋  三角関数と波動   複素数  全体曲線と部分折れ線

振動 周波数 振りこ ゆらぎ 生命の証拠  心臓の揺れ

 

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意識のルールの外と内側にあるもの

意識のルールは

囲み

分けて

籠に入れて

因果関係をみつける

 

これが意識のできること。

囲ったものを対象の他者として扱い、その一面を切ることでしか認識することができない。

囲ったものに溶けたり、同化したり、包んだり、抱きしめたりすることができないのが意識の限界だ。

意識の外側とは他者を対象物として扱うのではなく、他者と一体になることから始まる。

「私」が、意識と感じるもののはざまに自らを没入すると、観る者という立場に体験者にいう同化した立場も加わり、意識で見たものは対象としてあるのではなく、自分自身が認識となる。

このように意識の内側と外側では認識するルールが異なります。

そして意識を使っている時と使わない時、そしてその中間の場合と変化があり、これに対応する血圧や心拍や消化機能をグラフ化するとこれもリズムの曲線になります。

 

自律神経

血圧

心拍

グリコゲン

胃液分泌

インスリン

小腸消化

意識

交感神経

上昇

上昇

分解

低下

低下

便秘

非意識

副交感神経

下降

下降

合成

上昇

上昇

下痢

 

 

意識でみえるもの 非意識でみえるもの 超空間平行宇宙 時間の逆流 多次元時間 科学的表記  方丈記

意識の世界観はなんでも分けることなので、時空という一つのものを時間と空間に分けることによって意識によって認識できるようになりました。

それに比べてアインシュタインの時空は、一つのままなので、光速に近いスピードで移動すれば空間は縮まり、ゆっくりと時間が流れるところでは空間が拡がります。この一体となった時空では、時間とともに変化する空間なので、宇宙自身が動くにはそれよりも大きな舞台が必要となる。それが超空間で、三次元でも四次元でもない「無限」の次元であり、どの点をとってもひとつの完全な三次元世界を構成しており、すぐ隣の点は、これとわずかに異なるべつの三次元を構成している。 Chase, L.B.  1972  University A Princeton Quarterly

電波望遠鏡や粒子加速器を使うとデータがニュートン力学では奇妙になり、これを説明するためには理論も奇妙になってしまう。

 

ジオメトロダイナミクスの空間は、ゆったりとうねっている風景の一面に敷きつめられた泡の絨毯のイメージだ。

新しい泡が生まれては古い泡が消えていく。これが空間の量子的ゆらぎを象徴している。

特質は「多重結合」である。素朴な三次元ではたがいに遠く離れてみえる二点がトンネルのような「穴」を通して、一時的に直接つながることがある。この穴はwormholeと呼ばれ、現れては消え、消えては現れ、絶え間なく形態を変える。宇宙の万華鏡である。

Wheeler,J.A. 1967 Battelle rencontres

 

鴨長明が書いた

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。

との類似点は驚くばかり。

非意識でみたことがある者なら不思議でもなんでもなく、古今東西で人種も民族が違っても同じものが認識されます。

これらはどのようにして認識されたのでしょうか?

意識で見たわけではありません。

 

エントロピーに反するもの 

私たちの五感に入ってくる情報では、いのちのないものは、エントロピーの法則に従っています。秩序あるものは散逸(カオス)に向かう方向性があり、覆水は盆に返りません。

しかし、生命体はエントロピーとまったく逆の方向に力が働きます。いのちは秩序に向かう方向性を持っています。一粒の種が大きな樫の木になるように。

 

古代ギリシャでは、これらのいのちの特徴をコスモス、エロス、ロゴスと表現しました。

コスモス 個体維持である成長  無形が有形に、単純な要素から複雑な構造が構築に向かう能力です

エロス  種族維持である生殖

ロゴス  万物が流転する循環

 

死と再生のサイクル

意識から見た「いのち」の特徴は

1 自らを複製し、その情報を確実に次世代の分子に伝える遺伝の機能がある

2 親とは少し異なる子の分子の誕生が可能な可塑性に富む柔軟性の能力がある。

3 スイッチのオンオフを決定できる触媒機能がある。

これらを持つリボソームRNADNAに進化していった推定されています。

 

いのちの特徴は継続と断絶が同時にあるということです。

個体から見れば死によって断絶がありますが、生命体の種から見れば死と再生のサイクルが続くことが、いのちの象徴です。

 

加速といのち    スピード 等速・加速   微分値  

力の平衡状態の原理(=慣性力の存在とダランベールの原理)が、宇宙界を説明するのに的確であるとされています。すべての動力学は静力学で説明ができるということです。

床の上のボールの接点は極めて強力な電気力が互いに溶け合うことを拒んで闘っている。静の中の動である。

しかしこれだと何も動いていないので図にすることはできません。

図(言葉)にするためには、少し工夫が必要です。

この工夫が加速度です。加速度に焦点を当てることでリズムを表現します。

慣性の法則の等速だけでは「いのち」の揺らぎをグラフ化できないので、加速度を縦軸、時間を横軸に取ることで周波の波が表現されます。

微分そのものは差を見つけることですから意識の象徴だが、そこで加速度という常に変化をする「いのち」と交わる

周波、三角関数、複素数、加速度、意識と非意識、これらを一つにまとめる関係性を記述化していきたいですね。

 

 

コラム

ダランベールの原理

 

 

 

第二章  いのちと形

いのちと形の関係性  二元論 生に対する死 と一元論 ここにあるということは生と死が同数あること 

「形のない力」と「形」については、多くの科学者、文学者、詩人、哲学者が語ってきたテーマで、形の方は物質、モノ、実体などをはじめとした呼び名があるが、「形のない力」については語る人の数だけの呼び名があるので、これが同一のものであるのか認定するだけでも大変なことだ。

 

アリストテレス「エンテレキー」生命の原理または機能 

ガレノス 形態形成力

ガルバーニ 生命力

ライプニッツ モナド

ゲーテ 闇

ベルグソン 生命躍動 ニラン・ヴィタル

ヴォルトレック 漸進的進化 アナモルフォーシス

ホワイト 形態原理

シュレディンガー 負のエントロピー

セント・ジェルジ シントロピー

L.L.ホワイト   形態原理    

三木成夫 根原現象

クラーゲス リズム rheein(流れ)

仏教 空

ユダヤ・キリスト・イスラム 神

ヒンドゥー教 存在なき存在 出典ヴェーダ

古代インド哲学 輪廻転生

古代ギリシア哲学 パンタ・レイ(万物流転)

 

あまりに多くの表記があり、これが同一のものかどうかは、ヒト(存在)の限られた特殊性の中でしか体験できないものなので、推定するしかない。しかし二つの関係性について、はっきりと違いがある。

このエッセイでは「形のない力」を独断で「いのち」と呼ぶことにする。

この関係をどう理解しているかは、その人の死生観を聞くと推定することができる。

生と死の関係について二通りの捉え方がある。

1 生に対する死という二元論 

2 ここに「ある」ということは生と死が同時に同数あるという一元論  

1の二元論はわかりやすく、多くの場合はこのように生と死は別々ものと捉えて、死ぬまでの生きている間は夢を実現し、すべきことをしっかりとやっていこうと考えている。

ところが時々、ふとした時に、死と生が重なることを感じる時がある。

例えば、これを科学的に説明すると、ヒトの体は一秒間に500万個の細胞が死に、同時に500万個の細胞が生まれることで、この世に「ある」ことができている。このような恒常性はホメオスタシスhomeostasisと呼ばれ、平衡を保つことで生命体はこの世に存在できている。

この死と生を同時に受け入れることが「形(生きている体)」の正体で、「いのち」とはこの死と生の両方を成り立たせている力である、という考え方だ。別の言い方をすると、形のない「いのち」が全てを覆いつくし、その中に死に逝くものと産まれ出るものがある、という捉え方である。こう考えると生と死は相反するものではなく、この二つがお互いに補うことで、この世に「形」が存在でき、これらは「いのち」によって支えられているということになる。

 

宗教で言うと、キリスト教を二元論だという神学者もいるが、

悪魔が堕天使であり大天使ミカエルの敵対者だとし、神は全宇宙に存在していることから、

(参照 堕天使については「エノク書」「ヨハネ黙示録」第12813、「イザヤ書」1412-15、大天使ミカエルについては「ダニエル書」1013-21、同121、「ユダの手紙」19、「ヨハネの黙示録」127「エノク書」)

仏教やヒンズー教の概念を使えば、悪魔を死、大天使を生、神を「空」と解釈できるならば同じ一元として捉えている。旧約聖書や新約聖書の中で二元論で語る時もあるが、それは聴き手の状況に合わせた表現だと解釈することもできる。

参照 アウグスティヌスは『自由意志論』の悪について論じた部分で、悪は善の反対物であるというよりも、善の不在にすぎないと述べている。つまり悪はそれ自体としては存在しないと言明している。

ものなのである。

 

二つの間  電子の真空と形  空と色   ゲーテとニュートン 闇と光

還元主義は、限られた適用範囲や切り取られた範囲では、精密科学として有効な手段である。だからといって、この考え方を生命体や量子力学に適応して一つの側面ですべてを「○○にすぎない」としてしまっては、意識の外側にアクセスすることができなくなる。

次に起源を探してそれで説明する方法も、意識は騙せても非意識には通用しない。

一側面や起源で説明することに満足する人がいて、これを一元論と早とちりする人もいるが、これは単純な間違いだ。

例えば唯物論や物理主義などがなんでもモノに還元して説明するので、それはおかしい、精神があるでしょう、と単純なデカルトが行った肉体と精神を分ける二元論でこの世界を見ようとした。

すると確かに物理的には便利にはなったが、それと同じだけの不都合(環境、社会、精神病、科学、家族)があることに気がついてきたので、道教の陰陽思想や般若心経の陰の中に陽があり陽の中に陰があるという、どちらも相補して成り立っていると考え方を目指す世界観が改めて芽生え始めた。

ところが、言葉による知の普遍化(義務教育、大学の指導法、インターネット、パソコン、マスコミ・ミニコミ)により、実際の社会では、すぐに結果が出てわかりやすい白黒を作ることが目指している。喩え話でいうと、灰色のままにして黙っていたり、わからないことはそのまま風呂敷に包んで頭の隅にずっと置いておいたり、喉に引っかかった納得できない異物を長年放置することで石化させて体の一部にするような悠長なことをヒトは好まなくなった。シンプルに健康的に明るくプチ・潔癖症としてスッキリと生きていくことを選択した。

仲間や家族や自分の体が致命的なダメージがない人はこのままでもいい、しかしついに痛みだけでは済まされなくなったヒトたちには、古くからあって新しい「二つの関係」と「二つの間」との付き合い方も、24時間のうちの1時間だけでもとりいれてみるのはどうだろう?

むずかしいことではない、内容はこれまでに書いてきた、川の泡や人体では常に細胞が死に同時に生まれているという話だ。地球のすべてのものに共通している電子をみてみたい。

モノは形としては多様なものでも、その素粒子のレベルにおいては全てのものに共通性とつながりがある。この視点に立ち、形と「形のない繋がり」の二つの間にいるという立場がある。

 

電子の世界

電子electronは最初に発見された素粒子で、物質の基である元素に電子のないものはない。陽子や中性子の周りをぐるぐる回り、電気が流れる時の電流の担い手で、自由電子はマイナス極からプラス極に移動する。

質量(静止質量) me9.109390×1031kgがあるのだが、消えたり顕れたりするので、意識の論理ではとらえることができない不思議な存在である。

そこで意識は「波動」という概念のレッテルを貼ることで納得することにした。

物質なんだけど物質ではなく、波なんだけど波ではない、という表現を使って。

物質の基本構成要素なのだが、二面的な実在で、ある条件下では硬い微粒子のようにふるまうが、べつの条件下では非物質的な媒質中の波のようにふるまうのだ。

古典物理学では粒子は常に位置と速度を有していなければならなかったが、素粒子のレベルでは状況が一変した。

電子の位置を正確に測定しようとすればするほど、速度は不確定になり、逆に速度を正確に測定すれば位置がぼやけてしまった。

「粒子」であり「波」である電子固有の二重性が、位置と速度の同時測定を、現実にも、理論的にも不可能なものにした。

素粒子レベルではどんな瞬間でも未決定の状態に有り、つまり「自由」である。何も確定的ではなく、ただ確率的でしかない。極致の世界では、確率の法則が因果律に取って代わった。「物質は予言できない」のである。

電子はの消えたり顕れたりするので、顕れる瞬間をつなげるとアニメーションのように動いているように見えるし形にもなる。

 

電子と真空

真空とは粒子とエネルギーの生々流転する舞台のこと。

日常会話では一切何も無い、という意味で使われているが、「場の量子論」quantum field theory では、「真空」とはありとあらゆる粒子がその中に埋め込まれている「全て」「豊穣」のこと。

日常生活では「何もない」のに「豊穣」である、という矛盾している表現になるが、量子力学ではこれを基準にすることで成り立っている物理学であり学問である。

 

電子の発見   粒子と反粒子   光子の反粒子は光子自身の粒子

高エネルギーの二つの光子を衝突させると、「真空」(無数の粒子が既に準備済みの対象として深く静かに眠っっている。真空はあらゆる粒子の母胎であり、最低のエネルギーの状態であり、唯一の安定な存在)に揺さぶりをかけると、この二つの光子は「この世」から完全に消滅して、「真空」の世界に去っていく。これを対消滅と呼ぶ。

この時に、同じ量のエネルギーが、「真空」に粒子と反粒子を産み出す。これを対発生と呼ぶ。

二つの光子が消えて、電子と陽電子(電子の反粒子)が生まれる。

電子の反粒子は陽電子である。電子は単独では安定で崩壊しないが,陽電子と衝突して消滅し数個の光子に転化する(電子対消滅)。また逆にγ 線が物質にあたったとき,あるいは十分のエネルギーをもつ荷電粒子が原子核の周囲で急に曲げられると電子,陽電子の対がつくられる。これはエネルギーが物質に転化する過程である。これを電子対生成 electronpair creation といい,32 C. A. ウィルソンが宇宙線の霧箱写真において最初に見いだしたもので真空放電のとき陰極から陽極に向かう流れ(陰極線)が見られるが,この流れは電場,または磁場を作用させると曲がることから電荷をもつはずであり,また曲がる向きから負に帯電していることがわかった。さらに陰極線は陰極をつくっている物質や,放電管内の気体の種類に関係なく同じ性質をもつことから,1897 J. J. トムソンにより,陰極線の粒子はすべての原子に共通に含まれる基本的な粒子であると結論され,この粒子に電子の名が与えられた。ただしエレクトロンの名は,1891 G. J. ストーニーが,自然界に存在する電荷の量はある量(電気素量)より小さくは分解できないことを見いだし,この電気素量に対して命名したものである。

 電子の本質は質点ではなく波動であり、波動としての電子(電子波という)の波長 λは,プランク定数を h,電子の運動量を p としてド・ブロイの関係 λ=h/p で与えられるが,その波長は可視光に比べてはるかに短い。波動であるが,一方,量子性により1個,2個と数えることができ,1個の電子の質量,電荷が意味をもつのである。

無(空)から有を産みだす

「真空」にエネルギーを与え、揺り動かすと、「真空」はエネルギーを粒子と反粒子という形で「この世」に送り出す。一方、粒子はその形のエネルギーを開放すると、この世から姿を消し、「真空」にもどっていく。

正確には値の決まっていないエネルギー

厳密に定まった時刻のエネルギーの値は正確には決まらず、値には幅がある。

「真空」は瞬間的にエネルギーを借りて粒子と反粒子を生成し、次の瞬間には粒子と反粒子は消滅して、形のないエネルギーとなる。これらの粒子と反粒子は具体的には測定できないので仮想粒子とも呼ばれる。

 

多くの物理学者も固定化されているはずだった物体の基本要素やその舞台を説明するのに苦労した。

 

素粒子の姿を想像で現出させようとしたり、視覚的にとらえようとしたりするから、素粒子を誤解してしまう。

原子は「もの」ではない。原子の殻を形成する電子は、もはや古典物理学的な意味での「もの」、つまり位置、速度、エネルギー、大きさ、といった概念で確定的に記述できるものではない。原子のレベルでは、時間と空間の中の客観的世界など、もはや存在しないのである。

Heisenberg,W      1971 Der teil und das ganze   The part and the whole

 

こうして改めて電子を見てみると、電子も「いのち」の象徴である。

 

素粒子を集めて原子核を形成すれば、もはや素粒子では説明できない新しいものが創造される。この核の周囲に電子を配置して原子を作り上げたり、原子を集めて分子を形成した場合等にも、同じことが繰り返される。無生物界は、単純な分子といった低レベルの編成で止まっている。しかし生物界ではこれが続行して、分子が集まって巨大分子となり、巨大分子が細胞内小器官(ミトコンドリア、葉緑体、細胞膜、リボソーム、細胞核など)を形成し、ついにはこれらがすべて集まって、偉大な想像の神秘である、びっくりするような内部規制を備えた細胞を形成する。つぎにこの細胞が寄り集まって「高等動物」やますます複雑な個体(たとえば、あなた!)を作り出す。各段階ごとに、より複雑で繊細な性質が産みだされ、最終的には、基本的な(物理学と化学)規則は不変であるが、無生物界には例を見ない特性がうまれる。

セント・ジェルジ  Szent-Gyorgyi 「in Synthesis1974

 

 

ゲーテ 対 ニュートン   

白と黒の交じった独楽を廻したことはありますか?

   

 

1895年にイギリスのベンハムが販売した白色と黒色のコマを回すと、回転数により色が変わるように見える。

主観色(錯視)の実験として有名で、見る人によて淡いオレンジや緑や青色が見える。

機械で測定しても白と黒の周波数しか感知できないのだが、ヒトの目には確かに淡い色がついているように見えるのだ。

原因は完全に解明されてはいないが、人間の目の仕組みは、錐体で色を感じる(稈体は光の強さ)ので、応答する光の変化率がそれぞれ異なっているからではないかとも考えられている。 

例えば、夕焼けの時の影が緑色になることを経験したことはないだろうか?影に赤色の波長が交じり、これに錐体が反応して、補色である緑や青色を作り出し大脳皮質に信号を送るためだとされている。

ポイントは、メカニズムではなく、科学とヒトの感覚とのギャップである。

これについてニュートンとゲーテは意見を交わしているのだが、ここには各自の宇宙観が関わり、これが「いのち」の問題も浮かび上がらせてくれて面白い。

ニュートンの立場は、「色とは光によって導かれる現象の一つです。光がなければ色は存在できないのです。科学が求めているのはこうした普遍の真理です。」

ゲーテの立場は「色は自然の中にあります。人間の目を通して景色を眺めるとき、そこに色が立ち現れるのです。

科学は人間のため、人間があってこそ存在します。科学的な真理とは自然と人間の間にあるのです。」

ニュートンの光学は白熱灯の光を研究し、波長を数値化して分化することに研究を傾けました。

それに対して、ゲーテは色彩論farbenlehreの中で、「プリズムで光は色に分かれなかった。色彩を生じさせるためには境界が必要なのだ。光は闇から生み出される 色はこの二つの境界線の中にある。」と書いています。

虹を見たらわかるように、赤と黄色の間に境界線はなく、虹の色を3や8など民族や神話によって違いがあるのもこのためです。ニュートンは分光器によって数値化した後に計算して色を決めています。現代のニュートン光学も何種類の色にするのか先に決めておいて、それに合わせて数値を出したものです。分かれていない一塊の光を強引に分けているのです。キリスト教徒であったニュートンはその分ける数を7としたのは、当時のオクターブの数や聖書から決めたと言われています。例えば6はキリスト教にとって悪魔の数である666を連想するので、選択肢から意図的に初めから消去していたと思われます。これほどプリズムの色の数に限らず、音をはじめとする意識を通して認識できる情報は意図的なものなのです。

そこでゲーテは、「ニュートンよ、暗室から出て太陽の下で光を見ればいい。」

「友よ、暗室を離れたまえ、光を歪める暗室、複雑怪奇な像にひれ伏せるばかり、あの惨めな暗室」

全ての波長の光がほぼ均等に含まれている太陽光とオレンジのような長波長の光が多く含まれている白熱灯の欠点と同時に、闇に対しての考え方を提示しようとしています。

ニュートン光学はあくまで光だけを研究し、闇とは単なる光の欠如でありので、研究の対象になることはありませんでした。

しかしゲーテにとって闇は、光と共に色彩現象の両極をになう重要な要素でした。もしもこの世界に光だけしかなかったら、色彩は成立しないといい、そして、もちろん闇だけでも成立しない。光と闇の中間にあって、この両極が作用し合う「くもり」の中で色彩は成立するとゲーテは論じました。

ニュートンは光と闇を二分し、必要のない闇を排除することで研究を進めたのに比べ、ゲーテは闇があっての光であるので、この二つは対立するものではなく、闇が光を含んでいるという捉え方をしました。

晩年に書いた「ファウスト」にはこんな箇所があります。

「光は闇から生まれた。光は母なる闇と本家争いをしているが勝ち目はない、何故ならば光は物質にしばられたものだからである。」          参照 ウォルター・ハイトラー「人間と自然科学的な認識」

 

二つの間とはどう付き合うの?

電子の波動と粒子、ゲーテの闇とニュートンの光、ビッグバンの以前と以後、このエッセイで言う「いのち」と形、天と地、どのようにこの二つと付き合うのがいいのだろう。

二つを足して二でわる平均でもないし、代わりばんこにする交代でもないし、状況で割合を変えるバランスでもない。二つの間に居続けるという時空だ。

平均値

物理の実験ならいざ知らず、「いのち」すなわちヒトに関わることならば、統計の平均値や正規分布図やポアソン過程ほど私にとって頼りにならないものはない。一般的な普遍性の信者はそこに集まって試行錯誤して、各自にあったやりかたをトライand修正するのがいい。頼むから普遍性を誠実な顔をして押し付けてくるのはやめてください。どうしてもというのならば、個々は違いの中でしか生きていけないのだから、個々のために多大な時間と誠実な労力を持ってその人用にしっかりとアレンジしてから、トライアンドエラーをしてみませんか。

デジタルとアナログ

新聞の写真を5センチの距離で見たことがありますか?そこには灰色はなくただの黒点と余地の白色しかない。

同じ原理がテレビ画面やダウンロードできる楽曲でも使われている。遠くから見たり聞いたりしても違いがわからないほど精巧で便利なので日常生活にはこれで十二分だ。それにそれを感知する私たちの神経だってこの原理を使って、モノを視たり、記憶したり、思考したり、運動したりしている。だからデジタルというのはとっても自然な原理で生命体はこれを上手に活用してサバイバルしている。しかしだからといって、なんでもデジタルと宇宙や自然や生命体と接してしまうと、大きな間違いになる。写真ぐらいならば実害はないが、「安全か、安全ではないか」と白黒はっきりさせるような問いは企みや謀らいや意図を隠しているだけだけだ。虹に境界線がないように、「いのち」はデジタルでは体験できない。対象物として認識するにはデジタル、同化して融ける体験するにはアナログだ。

半分づつ

半信半疑のように一つのことを半分ずつ受け入れる方法がある。一日を昼と夜を分けるように、これまでは簡単で有効的な方法だった。昼は働き、夜は寝ていればよかった。ところが昼間、光、意識、善を過大評価して重宝するようになってからは、これまでのやり方ではうまくいかなくなってしまった。人によっては自己を二分割して多重人格者となり、純粋な信者と純粋な疑者を交互に演じる。半信半疑では信じることと疑うことの間を愉しむ境地ではない。

バランス

このバランスの意味の解釈がいろいろな誤解を産んでいる。

秤などで左右の釣り合いが取れていることをバランスとしているが、限界を感じているバランスの方法は、時間で区切って陰陽を行い、その運動量を同じにすること。

古くて新しいバランスは、同じ時間の中で陰陽を行なう。時間でわけないのだ。方法は後で説明する。

同時に陰陽をすることで第三の視点を使うことができ、そこで力を練ることで、時間と場所で分けていたバランスとは違うものが体験できるので、一度ぐらいは試してみる価値はあるだろう。この体験を練習すると、陰陽の強弱を変化させることで、TPOの状況と同調する愉しみがある。

 

中立一元論 Neutral monism  宇宙には精神的なものと物的なものとの区別はない

世界の究極的な実在として、物理的でも心的でもない一種類の中間的なものを考える立場。唯物論や観念論と対立しつつ、その両者の中間的位置を取る。

バートランド・ラッセルも提唱した、両者は同一であるという見解です。中立的一元論Neutral monismです。精神と物質は、ちがって見えるけれどもメビウスの輪の両面のようなもの実は同じという考え方です。

物質と精神は世界を記述する別々の方法で、どちらもそれ自体で完結しています。それは光が粒子としても波動としても記述できるの同じようなものです。この二つは全く違うように思えるにもかかわらず、どちらも正しいので、どちらの記述が正しいかと問うのは無意味です。

 

 

「空」に含まれている「色」  

仏教徒である龍樹の空観で量子力学を見るとどのようになるのだろうか?

元素の電子を「空」शून्य, śūnyaとしてみると、多くの場合は影も形もない空虚な状態なのに、時々それが顕れて形、すなわち「色」 रूपrūpaになる。「色」の状態は一瞬なのだが、ヒトはそれを形とみる。それは水蒸気が冷えて一滴の水滴になるように、水滴は水蒸気の中に初めからあったのであって、この二つを並べるのではなく、水蒸気に含まれている水滴として体感することがある。これは「空」と「色」を対立させるのではなく、はじめに「空」という形がないのに全てが生まれてくる充満したエネルギーがあり、それが時々放電して「色」という形になる。普段の放電していない時は「無」であるが、その「無」の状態の時にでも「空」によって包まれている。

もしくは内在しているとか、「ある」とか溢れているとかビッグバンの起きる前の形はない力の状態だけど、全ての形が潜在している、といった表現がいいのだろうか。

宇宙を解明するには星だけではなく、星と星の間の「なにもない」スペースを研究する。

体験している人はお互いの経験談を共有させてください。

 

二つの間にいる練習の仕方

私の場合は、はじめのヒントは旅の生活で得た。都会と郊外の生活、郊外と田舎の生活、田舎と野原の生活、野原と山の生活を往復し、二つの国の間での生活、先進国と後進国の生活、と二つの間での暮らしを続けているうちに、叫び苦しんでいるだけではなく、徐々にその中で快適に生きていく方法を学んでいった。単なる旅では気がつかないものが仕事をするなどして生活になるとじっくりと躰にしみこんでくるからだ。

 

天と地の間

これは簡単な方法なので、とくに訓練も必要ありません。

私たち人間は天と地の間にいるということを胸に刻んで生きていくだけで大丈夫です。

やってはいけないのは、自分を体と精神に分けて、精神は天、体は地に属していると思ってしまうことです。

あくまでの天と地の間にいるので、わからないことは天と地に聞くしかありません。それでもわからないことがあります。すると無知の知という、わからないことがわかります。

そしてできれば丹田は地球の重心に身を任せ、胸は緩めて人と交わり、頭上は天とつながって、座り立ち歩くのが二つの間にいられるコツ。

 

重心を確認する体操  参照 コロン山を歩く

朝おきたらする体操  参照 躰の聲を聴く

呼吸法        参照 呼吸法

瞑想法        参照 瞑想法

意識と非意識     参照 意識のエッセイ

 

例えば、長い時間と短い時間

長い時間 地球を始め太陽系の消滅  

短い時間 今日の切羽詰った生活(衣食住・エネルギー)

長い時間の結果を基準にして、短い時間の意味のなさを知って何もしない

短い時間の結果を基準にして、長い時間の意味を考えようとはしない

道はどちらも大切にして、どちらにも行けて、どちらも同時にあって、どちらにもこだわらず、二つの間にいること、二つの違う世界を自由に摩擦なく移動変換できるのがバランスがいい。言葉を変えると振り子の錘のように無駄なく位置とスピードのエネルギー変換ができること。

片方に注目すると、そのように見え、反対に注目すると反対のように見える。二つを足して二でわる平均でもないし、代わりばんこにする交代でもないし、状況で割合を変えるバランスでもない。二つの間に居続けるという時空だ。

私が青年だった頃に好きだったフレーズがある。

「あした私の頭上にそして世界中にミサイルが降り注ぐことが分かっていても、俺は今日、庭に豆の種を撒く」

 

 

 

 

コラム

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