ソマティック・マーカー
ソマティック・マーカー仮説 somatic marker hypothesis 池田光穂
ソマティック・マーカー仮説とは、神経学者アントニオ・ダマシオ(1994, 2005)が主張する説で、外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情(心臓がドキドキしたり、口が渇いたりする)が、前頭葉の腹内側部に影響を与えて「よい/わるい」という ふるいをかけて、意思決定を効率的にするのではないかという仮説。この仮説にしたがうと、理性的判断には感情を排して取り組むべきだという従来の「常識」に反して、理性的判断に感情的要素はむしろ効率的に働くことになる。
ダマシオ(2005:x-xi)の簡潔で要を得た説明によると「感情(=情緒=情動, emotion)は理性=知性あるいは理[ことわり](reason)のループの中にあり、一般に考えられているように感情は推論のプロセス (reasoning process)を有無を言わさず邪魔するというよりも、むしろ助けているかも知れない」という仮説である。(I advanced the hypothesis(known as the somatic marker hypothesis) that emotion was in the loop of reason, and that emotion could asissist the reasoning process rather than necessarily disturb it, as was commonly assumed. )ただしダマシオ(2005:156)は、高度な知性と豊かな感情を併せ持ち情報処理をおこなう人間の生物の進化の帰結として、このループを、脳と身体の ループ(body loop)だけとみず、脳の中で身体に感じることを脳だけで推論する「そうであるかのような」ループ("as if" loop)などがあると、巧妙な説明もまた付け加えている。
[難点]ダマシオのこの仮説は、情動と理性の相互連関――彼の表現ではループ――を証明するために、一旦操作的に、情動と理性の場――前者は脳幹部・前脳基底部・扁桃体・前帯状皮質そして視床下部、そして後者は前頭前皮質とそれに連携する腹内側部を割り当てて――が「注意とワーキングメモリ」という機能を持つ背外側部という部分を媒介して、一種の機能の局在部位と連合というものを想定してしているということである。しかしながらこの立論の問題は、感情(情動)と理性=知性を機能的かつ対比的にわけ、それらが神経学的には相互に関係しているということを述べたに過ぎず、依然として感情と知性が「一般に考えられている」ようなデカルト的二元論を前提にして、それらの連合をもって批判できたと考える、いささかマッチポンプ的な議論をおこなっているからである。自分の仮説を持ち上げるために、デカルトを引き合いに出し、さらに心身合一説をもつスピノザを持ち上げるかのようなタイトルの本 ("Looking for Spinoza." 2003)を出している点でもその疑念がなかなか晴れない。哲学史に馴染んだ人なら、ソマティックマーカーの議論のやり方は、松果体という「局在」を、背外側部を媒介とする「ループ」に置き換えた、都合のよい理論上の継ぎはぎのような心証さえ与えてしまう。
ソマティック・マーカー説に従うと、ミートホープの元社長は、長男の重役から偽装の有無について述べるよう に、記者会見の席上で突然詰問されたが、その時の動揺(=感情体験)は結果的に社長の理性的判断(=正直に述べることがより合理的である)の効率性を促したということになる。
中途半端な心理学風の説明であると、その時点で社長の外堀は埋められていたので、長男の説諭に正直に答えるほうが、パフォーマンスとして有利に自分の行動を導いたと解釈することが可能である。しかし、あらゆる心理学風の衒学同様、この説明は(脳生理学的な説明がうまくいく)瞬間的な社長の判断にも、また中長期的には、社長は会社の経営を破綻させ法的に処罰させられるという(中長期的な視座をもつ法社会学な解釈ではうまく説明されるような)ことを上手に説明することができない。おまけに、社長は(たとえ弁護士の勧めがあったとしても)控訴をせず、罪に服したという事実もまた、正直に長男の説諭に反応したことのなかに、感情と理性の調和をその行動のなかに読みとることができる。つまり社長は本人が仮に社会的体面で「偽装」を積み重ねていたとしても、本質(=脳に)おいては至極誠実(=よき道徳をもつ)であったと言うことができる[彼は自分が犯した罪だけを償えばよいことになる]。ソマティック・マーカー説は(十分に証明されていない科学的実証を先送りにはするが)そ れほど荒唐無稽とは言えまい。
長男の臨機応変のこの説諭劇は、やはり少なくとも重役のレストランがミートホープの関連企業である印象を軽減し、レストランの経営危機――消費者が「このことを知らない」場合は危機にはならない――から救うことになったと、結果的には言える。事実、長男は、この後で自分の経営するレストランの顧客にわかるように店頭でミートホープからの食材の納入は行わないことを宣言している。
【おことわり】
この内容のもともとのオリジナルの出典は「ゴッフマンと情報公開とミートホープ事件」からです。ソマティックマーカー仮説について偉そうなことを言っていますが、それほど真面目に研究したわけではありません。むしろ、ダマシオの言説実践のフーコー的分析と、科学史・科学社会学的な言説批判に興味があります。そのため、私のプロジェクトの関心は「嘘あるいは学術的法螺話と遭遇する」というテーマにあり、ソマティックマーカー仮説の是非を論じるところにはありません。
無意識の脳・自己意識の脳The Feeling of What Happens アントニオ・ダマシオAntonio R. Damasio
講談社 2003 [訳]田中三男
エモーション(情動)とフィーリング(感情)。
アイデンティティ(自己同一性)とパーソナリティ(個性)。
脳には、たくさんの自分が棲んでいる
デカルトの心身二分論以来、ココロ男とカラダ女が別々にいる。
そんなところへ、ソマティック・マーカー仮説。
アントニオ・ダマシオのちょっと小粋な脳科学。
これって編集的自己リロンじゃん。
まあしばらく、黙って覗いてみてほしい。
それは自己意識の暗闇の奥に咲く、「花の御所」の蕾(つぼみ)に似ているね。
SM 今日はアタシでいいですか。
MS いいよ。久しぶりだね。
SM 何でも尋ねていいですね。
MS うん。
SM じゃあ、さっそくいきますよ。松岡さんが一番大事にしているヴィジョンって何ですか。
MS えっ、そうきたか。うーん、ヴィジョンではなくて、僕の場合は方法ですね。主題的ヴィジョンなんて、あやしいよ。だって平和についてとか音楽についてとか言っても、これは平和と反対の戦争を突き詰めても、音楽じゃなくてノイズを突き詰めても、同じだからね。主題はいくら変わっても、その変化の函数の中にあるんです。だから方法的な思考そのものが一番おもしろい。
SM 一番大事なのは思考方法? でも思考方法っていっても、いろいろですよね。
MS ぼくがずっと考えてきたことは「編集的自己」(editing self)の可能性や役割についてのことです。
SM ずっと?
MS 35年間くらいはね。まあ、4、5年おきに集中的に考えている。最近またそのシーズンになっているかな。
SM なぜ、そんなに重視するんですか。
MS いろいろ理由はあるけれど、ぼく自身が編集的であるとしか感じられない思考や行動をとりながら日々を暮らしたり、仕事をしたり、遊んできたというのが最大の理由だね。
SM その編集的自己ってどういうものですか。松岡さんそのものですか。だったら、たんなる自己や自己意識とどこがちがうんですか。ひょっとして隠れ自己愛?
MS ハハハハ。でもね、ぼくはぼくの自己や自己意識なんて説明できないと思っているし、それを説明する興味もほんとんどないんだよね。どうしてもというのなら、ぼくのリフレクティブな活動をあれこれ見てほしいということになりますね。たとえば、ぼくがつくってきた雑誌や書籍で見せた編集感覚を感じてもらい、この「千夜千冊」をせめて50夜ぶんくらいは読んでもらい、ときにはぼくのいささか実験を志した語りをナマで聞いてもらうなんていうのは、むろんありがたい。
SM それは方法というより、松岡さんの才能でしょう。
MS ほれほれ、そういうふうに勘違いされるのがオチだよね。
SM 才能ではないとは言わせませんよ。
MS それがどっこい、才能によって説明できることは実はとても少ないんだね。だいたいぼくは記憶力が悪いし、かなりのアガリ症で、機敏な行動はさっぱりで、おまけに生活感に乏しく、サバイバル能力がない。アフォーダンス理論でいうところのマイクロスリップもはなはだしく多い。
SM それって、ちょっとずるい。でも、アガリ症なのは知ってる。
MS そうだろ。
SM そういう松岡さんが、どうして「編集的自己」などという難しそうなものだけにはめざめたんですか。自己愛しにくいじゃないですか。
MS だから自己愛じゃないっていうの。
SM じゃあ、何ですか。
MS 自分が何かを感知したり認識したり、あるいはそれを再生したり表現したりするにあたって、ずいぶん以前からトレーニングしてきたことがあってね、そこからいろいろなことが積み重なってきただけだろうね。そのトレーニングが編集的だったんです。そこからぼくが、孫悟空だか天狗だか冬虫夏草だか粘菌類のように派生してきたようなもんだね。だから編集的派生自己。それが松岡正剛ですよ。
SM ちょっとよくわからない。ごまかされているのかも。
MS わからなくてもいいけれど、それ以前のぼくはむろんあったけれど、それ以前を含めて、ぼくはそのトレーニングの中で「編集的自己という松岡正剛」になったわけですよ。プロ野球選手だって、三沢光晴だって、マイケル・ジャクソンだって、そういうもんだよ。みんな、そういう編集的自己でしょう。
SM ま、本人がそう言うんだから、いいか。じゃあ、そうなったきっかけは何ですか。
MS いまはヒミツだな。ぼくの若いころ、ある知人が脳の障害をおこして、ぼくがそれにかかわったということです。でも、その話はまだしにくい事情があるんでね。
SM それ、なんとなく聞いた感じもするんですが、まあ、いいです。じゃあ、そのトレーニングについて話してください。
MS そのごくごく一部については『知の編集工学』(朝日文庫)の174ページ以下に紹介してあるんです。そうだなあ、今夜は、そのことをアントニオ・ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」とその周辺をめぐるいくつかの変わった仮説とともに話してみようかな。
SM 誰? ダマッチオ? ダヌンチオ?
MS ダマシオ。
SM ゴマシオみたい(笑)。誰ですか、それ。
MS ポルトガル生まれの脳科学者で、お医者さんです。ぼくと同じ歳で、リスボン大学やハーバード大学で脳科学や認知神経科学の研究をして、とくには脳障害者の治療と研究をすすめたのち、いまはカリフォルニア大学の「脳と創造性の研究所」のメインキャラクターになっているのかな。イケメンだよ。
SM そのダマシオさんのソマティック・マーカー仮説? 癌マーカーの、あのマーカー?
MS うん、マーカーはそれに近い医学用語だけれど、ダマシオを有名にした脳の仮説だね。自己意識に関する「ソマティック・マーカー仮説」(somatic marker hypothesis)というもので、ソーマ(soma)というのはギリシア語の「身体」という意味でしょう。その身体的なものを脳はどういうふうにマーキングしているのかという仮説。
だから、これを訳せば“脳における身体的記譜仮説”とでもいうものになるのだろうけど、とりあえずわかりやすくは、「自己意識は脳のなかでの身体的なマーキングをともなっている」という仮説と思ってもらえばいいだろうね。そのダマシオの仮説と、ぼくがどんなふうにトレーニングによって「編集的自己」に関心をもっていったのかということを、今夜はちょっと重ねてみようかな、と。それでいい?
SM はい、そっちのほうの話からしてください。
脳が受け取る感覚信号の種類
感覚信号の種類は体液性のものと神経的なものという
二つの異なる伝達径路によって分けられる
またこれら全ての信号には外界と身体という二つの源がある
脳の体性感覚システムは、接触、温度、痛みといった外側の感覚と
間接位置、内蔵状態、痛み、といった内側の感覚の双方を感知する
MS おおざっぱにいうとね、かつてぼくが自分自身に試みたトレーニングには二つの編集的基本型があってね、それがあいついで重ね合わされていくんです。でも、最初の基本はカンタンなもの。
ひとつは、自分のアタマの中で動いている編集プロセスをリアルタイムで観察して、それをちょっとおくれてから再生し、またしばらくたってから再生するというもの。まあ、自分のリアルタイムな意識変化をどのくらいトレースできるかというエクササイズだね。
SM そんなことできますか。だって自分で自分を精神分析するみたいなものでしょ。
MS むろん、とうていうまくいかないんだよ。それから、これは精神分析とはまったくちがっていて、むしろ逆で、深層に入るんじゃなくて、出てくるものを見るんだね。途絶えない流れのほうをね。ウィリアム・ジェームズやプルースト(935夜)やジョイスの「意識の流れ」のほうに近い。
SM ふーん、じゃあブンガクと同じ?
MS べつだん作品にまとめたいわけじゃない。発表するわけでもない。
SM シュルレアリスムのオートマチスムでもない?
MS あれは学生時代にかなりやったけれど、それこそすぐにブンガクできるので、つまらなかった。
SM じゃあ、何のためですか。
MS これを何度もくりかえしているとね、いったい自分の観察や思考といっても、いったい何が肥大して、どこでズレがおこって、どういう語感が曖昧になり、どんな印象がまったく抜け落ちてしまうのかといったことが、だんだんわかってくるんです。たとえば、ぼくはいま珈琲を飲もうと手をのばしたわけだけれど、その数秒間のあいだにいろいろなことがアタマの中を走っているわけだよね。そこには記憶の突出もあるし、次に話す言葉をさがしてもいるわけだ。そのようなことを見てみたかったんだね。
SM マジに? ええっー、わかんない。それって何のためですか。
MS さっきも言ったような知人の事故に立ち会って、記憶がなくなった人の意識の中に何があって何がないのか、そのサポートを頼まれたのと、あとは空海(750夜)の言語論や禅の公案にひそむ意識論や三浦梅園(993夜)の反観合一の条理に関心があったからだろうね。まあ、ぼくのアタマの中が見えないままで、何が思想か、何がブンガクかと思ったんだろうね。
SM そうか、やっぱり何か深いワケアリですよね。それは聞かないでおきましょう。で、そういうことをして、それがうまくいかなくていいんですか。
MS これはトレースだよね。エディティング・トレース。でも、そのトレースさえうまくいかない。けれどももまったくできないのではなくて、あとで気がつくんだけれど、編集的自己にとっては、その「失落」や「誇張」の特徴のほうが大事なんだね。
SM シツラクエン。あ、ごめんなさい。まだ狙いがよくわからなくて。で、二つあるって言ったもうひとつのトレーニングは?
損傷をうけると推論と情動のプロセスを阻害する領域群
イメージの統合と記憶の想起の間に身体が関与している
MS もうひとつは、外から入ってくる刺激や情報を実況中継することをした。街を歩きながらいろいろ試してみたんです。見えてくること、聞こえていること、感じたこと、その場その時に思い出したことなどを、これもリアルタイムでアタマの中でかたっぱしから実況放送するんだね。
SM そんなことして、おかしいヒトと思われませんでした?
MS まあ、ブツブツとはしなかったから、なんちゃっておじさんにはならないですんだ(笑)。アタマの中で実況していたから。
SM ああ、そうか、それって考えてみれば誰だってしてますよね。アタマの中では。でも、信号渡っているときに考えていたことなんて、次々に忘れちゃう。
MS それもそうなんだけれど、もっと問題なのは、刺激によって知覚されてくる情報の質量とスピードに、言葉が追いつくわけはないでしょう。発話言語だって思索言語だって、すっごく遅いからね。追いつかないだけではなく、それにまして知覚情報と言葉情報とはほとんどぴったりしない。思いつきの言葉というものは、どうにもだらしないものなんだよね。まったくがっかりするほどなんだね。ところがね、それでも、言葉をちょっとは意識的につかおうとすることが、そもそも編集的な自分をブーツストラッピングしているのだということだけは、だんだんわかってくるんだね。だからこういうエクササイズをいろいろな場面で徹底していると、自分が選んでつかう言葉や思わずつかう言葉の連結ぐあい(リンキング)、イメージしている事柄のおおざっぱなドメインの範囲(フィールディング)、認識と表現とのあいだのいちじるしい欠損の度合い(ルナティング)というものが見えてくる。
SM リンキング、フィールディング、ルナティング、ですか。うーん、カッコいい。はい。それで、どうなっていくんですか。
MS おおざっぱな編集的自己の骨格のようなものが見えてくる。でも、まだなんとなくちがっていた。
SM まだちがうの? ドリョクしているのにね。
MS 急にタメグチだね。ま、いいか。ちがっていたというのは、この二つのエクササイズには、実は大きな欠陥があったんだね。それはアタマの中での処理に片寄っているということなんです。ヘタすりゃドードーめぐりだものね。
SM ヘタしなくてもドードーめぐりです。
MS そこである時期からは、スタッフやゲストと喋っているときに、この逐次トレースの反応を口にしたり、相槌だけにしたり、投げ返したり、感想をすばやく話したり、ノートをとりながら対話してみるということをやってみたんです。それも半年くらい続けてね。またときにはそれらをドローイングにしたり、ラフな図解にしてみるということをしましたね。
SM 何か変わってきましたか。
MS 自分では気づかずに、あることは繰り返しループに入りこみ、あることは適当な笑いですませ、あることはしっかり語句変換したり、急にアタマの中にラフな図解が浮かんだりしていたことが見えてきましたね。そしてそれらのことを、またあとで追想し、再生してみたわけだ。
こうしてやっとわかってきたことがあった。情報的体験というものはね、アタマの中だけではなく、「アタマの中の何かのしくみ」と「体を含めた何かのマーキング」とが、かなり連動しているらしいということだったわけだ。それが口元や手の動きとしてとか、言いよどんだフィーリングとしてとか、口がカラカラになった感じとしてとかね。そういうノンバーバルな言葉以外のものとけっこう結び付いていたんだね。
SM うんうん、それはわかる。
MS それから、その日のトータル・エモーションの調子の波の起伏なんかとも関係がある。あるいは相手の気持ちに感応しすぎているとかね。というわけで、自分の現在トレースというかんたんなことだって、実は脳とカラダのあいだのさまざまなファクターやファンクションによって何らかのマーキングをうけていたということなんだね。
SM なるへそ、なるへそ、それでダマシオさんですか。
MS そうだね、編集自己トレーニングで感じたことは、カラダとの関係のことだけじゃないんです。 情報の体験的編集には「場」もおおいに関係があった。当時はカラダの関与のことよりも「場」との関係やそのコンフィギュレーション(配置)のほうが関心があったかな。で、そうこうしているうちに、ぼくはそのようなマーキングや場とともに編集的自己をもっと拡張しながらトレースしようとしていくわけだね。
SM まだ懲りてない。(笑)拡張というのは何ですか。
MS 一番わかりやすいのは読書だね。本を読んでいるときにこのエクササイズを同時にやると、とんでもなく多重化してくるんだね。
SM どうして?
MS だって、本の著者が書いていることがまずアタマに入ってくるんだけれど、それをまたぼくがいろいろ想像したり、とびはねたりするわけだから、その流れをトレースすると、かなり立体的になる。文脈を追うだけでじゃなくて、ぼくの視点の動きがザイテンになる。
SM ザイテン?
MS 在点。ポイント・オブ・ビューの視点じゃなくて、ポイント・オブ・ビーイングの在点。ま、ブラウザーが多重になっていくということかな。それをプラトン(799夜)読んでもやって、湯川秀樹(828夜)読んでもやって、ともかくいろいろ読んで、それをまた多重化してトレースするもんだから、どんどん拡張して、重層化していくんだね。
視覚情報のトレース実験
ある図柄を見せて実験動物の視覚皮質に活性化を引き起こさせる
視覚皮質のマーキングパターンと動物が見た図柄に
著しい相関があることがわかる
SM そうすると、松岡さんの「編集的世界観」というのは、そういうところからつくってきたんですか。
MS そうだねえ。
SM それって知識の積み上げからじゃなかったんですか。
MS そういう人はいっぱいいるだろうけれど、ぼくは「読み方」という方法のザイテン化から入ったから、結果としては知識もふえただろうけれど、むしろ最初から「関係の多重ブラウザー」をつかっていたということのほうが大きいね。どちらかというと、白川静(987夜)さんの方法に近い。白川さんは最初から「詩経と万葉集を同時に読む」という方法と、甲骨・金文を関係的にトレースしつづけたわけでしょう?
SM あれっ、アタシ、急にわかってきた。それって、やっぱりすごいですね。でも、なんちゃっておじさんと紙一重なんだ。
MS まあ、アンタのアタシにかかると、そうだろうね。
SM では、今夜の本論、ダマシオさんに行きますか。その前に聞きたいのは、脳の科学ってつまらなくありません? だって、人間の本質も心の本質も、生きるも死ぬも、サルもヒトも技能もアーハも、何だって脳だなんて、茂木健一郎(713夜)さんのせいかもしれないけれど、そんな答え方ってインチキじゃないですか。最近の脳死の問題だって、ちょっと変。
MS 何だって脳の問題だというのは、たしかにおかしいね。脳死でも死を決めるのも、おかしい。生命のシステムは連続的で、しかも自律分散系で複雑適応系だからね。ただ、脳でわかることも、仮説できることも多少はあるわけで、ダマシオだけじゃないけれど、それはそれでかつての量子力学や宇宙理論のように、かなりスリリングな分野ではあるんだね。
それに「自己」とか「意識」というのが、そもそもあやしいよね。よくわからないものだよね。そのあやしさの原因のけっこう大きな部分は唯脳論にあるんだから、あやしさはあやしさをもって破墨(はぼく)されなくちゃいけないわけで、そういう意味では「脳に勝手なことを言わせない」という仮説も大事なんだねえ。
SM 多様性を多様性で破るということですか。
MS そうそう、その責任を脳や脳科学者にとらせなくっちゃ。
SM それでダマシオさんは、カラダを持ち出したんですか。
MS まあ、そうだね。ただし、自己や意識の輪郭的正体や概念的正体を議論するのにあたって、身体や身体感覚を持ち出すことはめずらしくないんです。すでにアリストテレス(291夜)からベルクソン(1212夜)にいたるまで、スピノザ(842夜)からメルロー・ポンティ(123夜)にいたるまで、かなりたくさんの哲人や思想者たちがそのこと、それを「心身問題」っていうんだけれどそれを議論してきたよね。
ところが脳科学や脳医学において重視されてきたカラダは、その多くは脳の部位やニューロトランスミッター(神経伝達物質)がどのように運動機能や連絡機能と関連しているかというようなことを指摘するにとどまってきたわけだ。脳のどこかに障害がおこるとどこかの運動機能が損傷するというふうにね。だから、身体という概念のモデルや身体の動きの全像のモデルを、脳がなんとかしようとしているというような見方は、ほとんどなかったわけだ。そういうあたりに、アントニオ・ダマシオが脳の中の出来事によってソマティックなマーキングの証拠をあげだしたということです。
身体から脳への信号の伝達
モード認知と関連想起に変化を起こす誘発部位と
感情に対する直接的基盤を構成している身体マップに
変化を引き起こさせることで、身体が感情形成に影響を与える
SM で、今夜はダマシオさんの何をとりあげるんですか。
MS 『無意識の脳・自己意識の脳』という本だけれど。
SM なんか、堅いなあ。
MS いちいちうるさいね。原題は“The Feeling of What Happens”というもので、けっこうカッコいいんだよ。むしろ「フィーリングの正体とは何か」というんだね。
SM それならちょっとおもしろそう。でも、無意識とか自己意識って、その用語そのものかつまらない。
MS それはね、みんなが「自己」(self)をもっていると思っていること、そんなふうに子供のころから思いこまされていることが、つまらないというか、片寄った見方だからだろうね。それをしかもアイデンティティ(自己同一性)があるとも、パーソナリティ(個性)があるとも言っているよね。これまた哲学的にも科学的にも、またぼくの実感からしてもたいへんあやしい用語なんだけれど、それはひとまずおくとして、その自己は意識(consciousness)で充満している、あるいは意識とその隙間をもって埋められているとも思われているわけだ。それで、それをまとめて「自己意識」(self consciousness)とも言ってきた。だから、その正体に切りこむためにも、いったんはこの用語とぶつかるしかないわけだねえ。
SM ダマシオさんはマジでぶつかったんですか。「編集的自己」に徹したんですか。
MS かなりマジに、ぶつかってはいるね。たとえば、よくフィーリング(感情)とかエモーション(情動)と言うけれど、脳科学はついついフィーリングを個人的なもの、エモーションを類的で本能的なものと分けたよね。でも、これは何かすっきりしない。いろいろ注文をつけたいはずなのに、これまで脳科学はこのあたりをできるだけおおざっぱに見るようにして、責任をとってこなかった。
しかし、それがよくなかったのではないかとダマシオは考えた。そして、そのように自己像や意識像をよくいえば大目に、わるくいえば無責任に見逃してきたのは、この自己意識をめぐる議論に“脳内の身体像”の関与がなかったからだと考えたわけだ。こういうところはちゃんとぶつかっている。
内蔵、筋肉と関節、神経物質を生産する核からの神経信号が
大脳皮質に届くこと、
また内分泌系の化学的信号が血流などを介し中枢神経系に届くこと、以上のソマティックなマッピングにより脳は情動を感知することができる
SM それがソマティック・マーカー仮説?
MS いや、それだけじゃない。ただ、ソマティック・マーカー仮説については『生存する脳』(原題『デカルトの誤り』講談社)という本のほうが詳しくて、最新のものは『感じる脳』(原題『スピノザを探して』ダイヤモンド社)が邦訳されているので、以下、適度にまぜながら案内することにするね。
SM はい、どーぞ。で、ダマシオさんって有名な科学者なんですか。アタシが知らないだけ?
MS アメリカやヨーロッパではベストセラーになっている。日本ではまだだねえ。さいわいにも、日本語の訳者はいずれも旧知の田中三彦さんで、この人はね、ぼくが20年以上も前にアーサー・ケストラー(946夜)の『ホロン革命』(工作舎)で翻訳をお願いした人だった。お世話になったのだけど、その後はほとんど再会できていない。こんなところで、どうもお久しぶりでしたと再会するのもおかしいけれど、まあ、紹介するんだから勘弁してもらおうね。これでダマシオ本も売れていくでしょう。
SM それではセンセー、ごくごくわかりやすく言ってもらうとすると、ソマティック・マーカー仮説って何ですか。
MS 脳には“ソマティック・ブレイン”ともいうべき「脳が身体を表象しているしくみ」があるだろうということだね。これがアントニオ・ダマシオの出発点の発想です。実際にはさまざまな脳障害患者の詳しい事例研究から出発しているんだけれど、そういう研究のなかから、けっこうたくさんの仮想概念をつくりだしていった。そこがちょっとおもしろい。
SM どういう概念?
MS あのね、われわれはつねに「注意のカーソル」(cursor of attention)をめまぐるしく動かしているよね。それは何をしているかといえば、次々に決定しなければいけない脳の中のオプションを選択しようとしているからでしょう。
しかし、注意のカーソルがどんなふうに動こうとも、それによって自己意識がすぐにひっくりかえったり、解体したり、おかしくなったりするようでは困るよね。だって連想ゲームをすればわかるけれど、注意のカーソルはいま「リンゴ」と思っても、次には白雪姫になり、札幌になり、大倉山シャンテになって、骨折の思い出になったりするからね。それでもそういう連想を支える何かが脳のどこかにないと、ヤバイよね。じゃないと、カーソルが飛ぶたびに自己解体がおこってしまう。
それでダマシオはそんなふうにならないための一種のホメオスタシス(恒常性)のような維持のしくみがあるはずだと考えたわけだ。脳が、脳によって表象されている事柄や出来事をフレーミング・インしたりフレーミング・アウトしたりするための、小さいくて柔らかいだろうけれども、しかしきわめて重要なホメオスタシスのようなものをね。
ダマシオはそのホメオスタシスのようなものを支えているのがソマティック・マーカーだと考えたんです。
SM 脳のなかでの身体的なアフォーダンスのようなもの?
MS うんうん、そういうものに近い。そのモデル化だね。そこにココロとカラダの按配をうまく調整しているマーキングの作用があるはずだと仮説したわけだ。
SM たとえば、どんなふうにですか。
MS ちょっと専門的になるけれど、ダマシオが突き止めつつあるいくつかの候補のソマティック・マーカーの重要なひとつには、前頭前皮質に始まるマーキングがあるみたいね。
前頭前皮質というのは感覚領域からの信号の大半をうけとっている領域で、われわれの思考をつくりだしているんです。そこには体性感覚皮質も含まれるんだね。これはわれわれの触知感をつくっている。それとともにその前頭前皮質は、脳の中のいくつもの生体調節部位からの信号も同時にうけとっている。ドーパミン、ノルエピネフリン、セロトニンなどをばらまくニューロトランスミッター放出核からの信号とか、扁桃体、前帯状回皮質、視床下部からの信号とかをうけとっているんだね。
こういうような任務をはたすことによって、前頭前皮質はわれわれがどんなに注意のカーソルを動かしても、平気の平坐で“自己意識身体”とも“自己身体意識”ともいえるようなソマティックな表象を維持できるようにしているというんだね。
SM それって、脳の部位をいろいろ刺激してMRIなんかで見ると分かってくるという、例のやつですよね。
MS それだけじゃなくて、実際の患者さんのデータとかいくつもの症例の重ね合わせとかもあるんだけれど、まあ、脳科学実験で見えてきたということだよね。ということは、それをもって自己意識がソマテッィクに支えられているとは、まだいえないよね。
SM はい、そんな気がします。そうすると、どこがダマシオさんはおもしろいんですか。
MS そこに理論的な仮説も加えていって、一種のソマテッィク・ワールドのプロトタイプをモデル化していったということかな。
SM そのことのために仮想概念をいろいろ想定したんですか。
MS そうだね。
SM たとえばどういう概念ですか?
MS 「原自己」(proto self)とか、中核意識(core consciousness)とか、延長意識(extended consciousness)とかね。
SM なんか理屈っぽ〜い。
MS またまたうるさいんだよ。あのね、仮想概念は理論モデルだけのためでもあるんだよ。でも、仮想概念といっても、パウリのニュートリノや、湯川さんの中間子じゃないけれど、ほんとうにあるのかもしれい。
SM その前に、リロンだけでもおもしろくしてください。
MS じゃあ、ちょっとだけ順序を追っていうと、そもそもダマシオは、これまで脳科学は自己意識については、ほぼ次のことまでをなんとかあきらかにしてきただろうと整理をつけたんです。
第1には、意識のプロセスのいくつかは脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけられるだろうっていうことだね。これはまさにMRIなんかで確かめられることだ。第2には、意識と注意や、意識と覚醒を分けることは可能だろうということだ。なぜなら信号を渡るときや卵を割ってオムレツをつくるときに動いている注意のカーソルは、そのつどそのつどは意識の全体にはたらなくてすむようになっているし、眠っているときの意識は起きているときの覚醒感覚とは一応は分離されているだろうからね。だから、意識は注意や覚醒とは異なっている。そこもわかってきた。
それから第3には、けれども一方、これまでの脳科学では意識とエモーション(情動)とは分離しがたいのではないかということも見えてきた。ここをちょん切ってはいけないんじゃないか。だから、ダマシオはあとでこの問題にとりくんでいく。第4に、意識は単純なものと複雑なものというふうにいくつもに分けられるだろうし、それでいてまた複合しているのだろうということで、これもなんとか技術的にもコンピュータを駆使してわかってきた。そして第5に、意識はコンベンショナル・メモリー(通常記憶)やワーキング・メモリー(作業記憶)に依存するものと、依存しないものとの両方をもっているのではないかということだね。
だいたいはこの5つは見えた。でも、これではとうてい自己意識の形成のしくみには届かないだろうと考えたわけだ。他方、さっきも言ったように従来の脳科学で脳のなかの身体像というものはまったく想定できていなかったから、ダマシオはなんとかソマティック・ブレインのモデルを導入しようと思っていた。まあ、ざっとはこういう手順で、これらのあいだをつなぐものとして、まずは原自己とか中核意識とか延長意識のようなものを想定したわけですね。
身体と脳の相互作用で意識の形成のプロセスを描く
ソマティック・ブレイン・モデル
SM うまくいったんですか。
MS まだまだ実証レベルじゃないから、うまくいったというわけにはいかないけれど、その前に、まずもってはこういう説明概念がうまくつながるかどうかだね。でも、ぼくが「編集的自己」という見方でトレースするかぎりは、ちょっとおもしろい。
SM どこ? どこがおもしろいんですか。
MS まあ、そう焦らない。おもしろいところへいく前に、ちょっと説明しておくと、「原自己」というのは自己意識の前兆のようなものなんです。意識そのものじゃない。ニューラル・ネットワークのパターンとして示された生物学的な先駆けみたいなものだね。でも、それがソマティックな信号を最初にマッピングするんだね。
実際にも脳幹核がその有力な候補であるらしい。信号が脊髄路・三叉神経・迷走神経・最後野を通ってきて、最初の身体的現在表象をキックするのがここのようなんだね。そこに、モノアミン核やアセチルコリン核や、それから視床下部、前脳基底部、島皮質、内側頭頂皮質も関与しているらしい。これはけっこうなレパートリーだよ。
原自己に関係するいくつかの構造位置 身体から脳への各信号伝達の構造ダイアグラム
重要な信号のかなりの部分が、脊髄と脳幹の三叉神経核からの径路により伝達される
SM はあ、そういうものですか。
MS 次の「中核意識」は、脳のなかの生物的な現象や作用による意識をさしていると思えばいいかな。だから人間に特有なものじゃない。高等生物にそなわっているものと見たほうがいい。したがって、中核意識はコンベンショナル・メモリーやワーキング・メモリーに依存していないほうの底層の意識ということになるね。ということは、この中核意識は仮に人間的な意識が壊れたりしても、生物的な意識として身体を維持しようとすることになるわけだ。
さっきちょっと話したけれど、ぼくの親しい知人は事故によってほとんどすべての記憶を喪失していわゆる植物人間状態になったようだったけれど、いや、そのように当時の医学では判断されたんたけれど、必ずしもそうじゃなかったんだね。というのは、その植物人間状態めいたときは、中核意識だけでしばらく生活をしていたわけで、それが生き生きと作動していたからこそ、その後にふたたびそこに人間的な自己意識の花を咲かせることになったんだね。
SM なんとなく見当がつくんですけど、それって記憶がよみがえったということですね。
MS それもあります。実はその記憶の移植を手伝ったのがぼくだった。大学時代のことだけれど、それがぼくの“初の脳科学体験”だったんだね。まあ、さっきも言ったように、いつかこの話をしても許される日がきたら、詳しいことを話したい。この体験があったから、ぼくは「編集的自己」に突き進むことになったんですね。
SM はい、うすうすそんな気がしていました。
中核意識の連続パルスが意識の流れを生む
無数の対象との相互作用が常に原自己を修正することから
イメージの強調をもたらす統合的なニューラルバターン
(二次マップ)が形成される
MS 次の「延長意識」はその名の通りでね、脳のなかの時間や時制にかかわっているものですね。「いま・ここ」というところに生じた意識や、かつての「いま・ここ」に生じた過去の意識を、その後も「そこ」や「むこう」に持って行っても保持できるデバイスのことをいう。ぼくなら”here-there デバイス”とも言いたいところだけれど、これによってダマシオは前にも後ろにもアトサキ自在な「自己」が有機的に編集できているんだと考えたんだろうね。
というようなわけで、こういう仮想概念によってソマティックな脳のしくみの説明を試みたわけです。けれども、まだ何かが足りない。なぜ脳の身体像は維持できるのか。それがなかなか壊れにくいのはなぜなのか。これはけっこう難問だったろうとおもうけれど、そこで、ダマシオはここまでのソマティック・マーカー仮説に、ちょっと大胆な脳内デバイスをくっつけた。これが小粋だった。
SM 小粋だった? あっ、ついに小粋な姐さんが登場するんですね。
MS いや、これまでもおもしろいところはあったと思うけれど、この仮想デバイスはもっといいね。
SM 何ですか、その可能デバイスって。
MS 「あたかも身体ループ」というものなんです。ぼくはこれにいたく感激した。
SM 「あたかも身体ループ」? うーん、小粋というよりナマイキそう!
MS 田中三彦さんがさぞや苦労して翻訳しただろう邦訳用語だろうけれど、もとの英語はね、“as if body loop”となっている。これは、いいよ。AS-IFデバイスとでも大文字にしたいくらいだよね。まさにソマティック・マーキングのどこかに出没しているはずだと思わせる「あたかもデバイス」ですよ。これ、かつての雑誌記事などでは「仮想身体ループ」などと訳していたけれど、田中訳のほうがずっといい。
SM はいはい、あたかもの門ですね。
MS いや、門というより、擬似モデルとか擬同型モデルといったほうがいい。実際には、この“あたかもAS-IFデバイス”は脳の中の体液的な信号と電気化学的な信号との二重性を処理しているようで、それならぼくにはなおさらありそうに思われるのだけれど、さあ、これでダマシオは一挙にシナリオをひととおり描くところにきたわけだ。
SM やっと流れが見えてきましたね。
延長意識と自伝的(編集的)自己は
中核自己の連続的パルスと自伝的記憶の連続活性化とに、二重に依存している
MS まあ、ダマシオは今夜とりあげた3冊の本のなかのどこにも詳しいシナリオは書いていないんだけれど、それはどういうものかというと、おそらくはこういうものでしょう。
まず原自己が駆動する。そうすると、この原自己は発生学的に古い脳構造のほうにプロトタイピングされるというんだね。でも、例のジュリアン・ジェインズ(1290夜)のバイキャメラル・マインドというわけじゃない。そこには生物的な中核意識が待っている。他方、このとき、トポグラフィカルなAS-IFループが動きだして、これによって基本的な自己意識の母型が維持できるようになっていく。しかし、脳に決定的な障害があると、これらが壊される。
ここまででプロトタイプとしての原自己は何をしたかというと、身体表象を一次的に準形成したということになるわけだ。それとともに、おそらくはAS-IFループをつかってのことだろうけれど、二次的な身体表象を二重、あるいはもうちょっと多重かもしれないけれど、ともかくそれをホログラフィックな“つくり”のように形成して、ソマティックな表象を強化するんだろうね。
こうして、われわれが日常の日々において自在に注意のカーソルを動かしても急には壊れない経験自己像にもとづいた自己意識というものが可塑化されていく。
SM ほう、ほう、ピー、ピー、ついに一気呵成になってきた。
MS うん、そうなるとね、ここにダマシオがさらに仮想していた「自伝的自己」(autobiographical self)のようなものが駆動するか生成するか、もしくは形成されるんだね。これも、わかりやすすぎるほどの仮想概念だけれど、ちょっとなるほどと思わせる。だってここまでくると、もう、「自伝的自己」のうえに推論デバイスがどのように動こうとも、どんな刺激によって連想の矢印がどんな動きになろうとも、記憶のなかの情報はまさに編集可能状態になっていくからね。
というわけで、ぼくのかつての編集的自己のトレースは、このソマティックな自己意識をずっと相手にしていたということになるわけですね。以上、わかったかな。いろいろつながったかな。
SM ええーっ、それで話はおわるんですか。それじゃ松岡青年は、ずっとダマシオの手の中でがんばっていただけだったということじゃないですか。
MS ふっふっふ、いっときはそうだったろうね。
SM いまはどうなの?
MS あれ? またタメグチになったね。
SM タメグチじゃないけれど、気になるの。
MS いまはというよりも、こういう仮説は科学だからね。科学としてトレースすればいいんです。そもそも世阿弥(118夜)や梅園や、ウンベルト・エーコ(241夜)やマイケル・ポランニー(1042夜)の翼がはえたような仮説からすれば、脳科学そのものが、まるごと科学ゆえの縛りのなかにいるんです。それはそれで科学の宿命。それはそれで香ばしい。
SM でも松岡さんは、世阿弥にもダマシオにもいる? そのほかの科学のシナリオの中にもいる?
MS いなくてどうする?
SM どんな科学の?
MS それは「千夜千冊」でもさんざんふれてきた。オートポイエーシス(1063夜)とか、ミームマシン(647夜)とか、M理論(1001夜)とかね。もう、いいだろ。
SM ほかにもあるんでしょ? 脳のほうだって。
MS それはまたのおたのしみに待ってなさい。だって「花の御所」には幕あいがあるでしょう。それが複式夢幻というものでしょう?
Dの誤り ダマシオ批判
いまや流行と言っても過言ではないが、 現代ニューロサイエンスは、人間の「考える」という活動に対して、生理学的な脳にその能力の根拠を見い出そうとする。人間の思考の動きのすべてを、脳の科学的な反応として説明する「科学」は、たいへんにもてはやされているようだ。
このような考えの根底には、人間を一個の機械とみなそうとする素朴な唯物論がある。それにたいしては正当な批判を加えるべきだし、実際にいくつかの批判が哲学、精神分析の分野から行われているが、実は神経科学者の中にも、思考を脳の問題に還元する傾向に反対する主張をもつ者がいる。その一人がアントニオ・ダマシオである。
ダマシオは現代において最も注目を浴びている脳に関する権威の一人で、各界から注目を浴びており、それは精神分析家一派も例外ではない。2004年には国際精神分析学会の総会に呼ばれて発表を行い、大喝采をあびたそうだ。
当時の様子を伝えるexpress誌には
「会場は満杯で、拍手が鳴りやまなかった。ダマシオのような人の考えとpsyの間に障壁はないということである 」
とある。
精神分析と脳科学はそれまで相容れない関係にあると考える人も多かった。だが、ダマシオはダマシオのおかげで両者の和解がはかられるのだろうか。
日本でもある臨床家がダマシオとフロイトとの出会いにたいしてある期待をかけている、と述べる記事を最近目にした。だがこの記事にはダマシオに対する精神分析的な観点からの正当な評価がなされてはいない。単にダマシオの紹介程度にとどまっている。
そこで本論は、精神分析的な立場から、ダマシオの主張をどのように評価できるかをみていきたい。
【ソマティックマーカー仮説】
ダマシオはもっぱら人間における情動の役割の重要性についての探求を深め、ソマティック・マーカーと言われる仮説を立てた。この仮説こそ彼に知名度を与えたものだ。
それは、人間が何かを判断するときには純粋に知的な水準だけでなされているのではない、知的な判断にも身体的な情動の重要な関与があり、情動の指針なしでは判断が困難になる、というものである。
一般的に私たちは、理性的判断をするにおいて感情・情動はじゃまになる場合が多いと考えている。
たとえば癌の兆候があるのに、癌だと宣告されるのが怖くて検査を受けることを引き延ばし、結局手遅れになってしまう場合などだ。私たちは往々にして、感情に流されて純粋に理性的に考えればやってはならないことでもやってしまうことがある。
では感情・情動がなくなれば私たちの判断力は飛躍的に向上するだろうか。
冷酷無情な人間は、利益のためにすべての判断を誤らずに下すかもしれない。感情を持たないロボットは、機械的に物事を総合して判断するから間違いはないかもしれない。
そうした見方に反対してダマシオはこのソマティック・マーカー仮説を提案するのだ。
彼が自説を支持するためにの根拠としてとりあげるフィアネス・ゲージのケースは脳科学において最も有名な事例の一つであろう。
ゲージは25歳になる建設工事現場監督で、まじめで有能な仕事ぶりから周囲の高い評価を受けていた。ところが、ある日彼は仕事中に発破の爆発事故に遭う。左の頬に重さ6.2キロ、長さが108センチもある鉄棒が突き刺さり、その棒は大脳の前部を貫通し、頭を上方に突き抜け、30メートルも離れたところに脳みそと血にまみれて着地するというすざましい出来事であった。ところが事故の悲惨さにもかかわらず、奇跡的にもゲージの生命には別状はなく、事故の直後においても話すことができ、歩くこともできた。そして様々な質問にも全く理性的に答えることができた。しばらく治療に専念していたが、それも二ヶ月後には治癒が宣言された。
ところが問題は彼のその後の状態であった。事故前には倫理的、社会的に全く問題のなかった彼の性格が、事故後には「邪悪」とも言えるものになったのだ。夢想にふけり、将来のことも考えず、自分にとっての利益さえ鑑みない、社会的慣習も無視するような人間となりはて、周囲から顰蹙を買っても気にかけなかったし、女性に対してひどく下品な言葉を平気ではいた。「ゲージの知的な能力と表現の中には子供がいて、同時に彼には強い男の動物的感情がある」と、担当した医師ハーロウは報告している。そしてとりわけ意志決定をすることが困難となった。しかし知的には彼はなんの損傷も被ってはいないのである。
このケースでダマシオが注目したのは意志決定の困難さである。こうした変化の原因を探るためにダマシオはゲージと同じような脳の損傷を受けた症例を集めて検討した結果、ゲージに起きたような変化に類似した障害がそれらにも認められた。前頭前皮質が破壊されると情動の面で大きな障害が生じ、情動・感情がなくなる。ではこの情動面での障害は、意志決定という知的な脳の作用といかなる関係があるのだろうか。患者は知的な損傷を受けておらず、様々な質問にも正常に答える。それにも関わらず理性的な判断や意志決定ができないのはなぜであろうか。
ソマティック・マーカー仮説とはこうした問題に対してダマシオが提案する返答である。それは推論と決断に関するもので、彼は「推論の目的は決断すること、そして決断の本質は一つの反応オプションを選択すること、つまり、ある状況のある瞬間に考えられる多くの可能性の中から特定の非言語行動、言葉、文、あるいはそれらの組み合わせを選択すること」だと定義する。
決断するための推論を純粋に知性的に考えると、まずすべきことはすべての可能な判断を採りあげ、それぞれのシナリオを十分に吟味し、互いのシナリオを比較した上で最も経済的、効果的に有利なものを選ぶということになろう。この場合決断すべき行動がたとえば空腹を満たすとか落下物をよけるといった場合にはまず問題はなく、判断はすぐになされるはずである。
ところが仕事を選ぶ、数学の問題を解くなどについての判断はそれほど簡単にはいかない。反応オプションのシナリオの多さ、複雑さから、それらをすべて検討し比較するのには膨大な時間がかかるはずである。人生においてすべての判断をこのように網羅的に行うことはできないし、私たちは実際にそうはしていない。直感というものがそこに作用して一気に、もしくは比較的短時間で判断にもっていける。
私たちが「問題解決に向けて推論を始める前にある重要なことが起こる。たとえば特定の反応オプションとの関連で悪い結果が頭に浮かぶと、いかにかすかであれ、ある不快な「直感」を経験する。[・・・]その感情は身体に関するsomatic[・・・]一つのイメージをマークmarkerするもので[・・・]特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果に我々の注意を向けさせ、[・・・]自動化された危険信号として機能する。[・・・]この信号は、われわれがネガティブな行動を即刻はねつけ、他の選択肢から選択するようにし向ける」。
簡単に言うと、身体が過去の不快な経験を記憶しており、何かの判断の折にはその不快な経験をもたらすような選択方向に対してフィルターをかけオプションを最小限にして、決断を下すことを容易にさせるという自動的な身体メカニズムである。
こうしてダマシオは脳が関与する知的作業も実は身体的な情動と深く関わっていることを示そうとした。たしかに、彼の考えは注目すべきものを持っており上で言う脳中心主義に反対して、人間における身体の重要さ、そして身体と脳の関係の相互性をはっきりを示してくれる。彼の考えは心と身体の緊密な関係を強調し、デカルトの言うような心身二元論を否定するものでもある。そこからこの本の題名「Descartes' Error」の選択がなされたのだ。
【デカルトの誤り】
ダマシオが言うデカルトの誤りとは何を指すのであろうか。デカルトの主張の中でも彼にとって最も過ちとして指摘するべきものは、あの有名な「コギト・エルゴ・スム」つまり「我思う、ゆえに我在り」である。
ダマシオにとって、「この言明は心の起源や身体との関係について私が真実であると考えていることとまさに正反対のことを言っている。それは思考、そして思考の自覚が存在の真の基盤であることをほのめかしている。また、デカルトが思考を身体から完全に分離した作用であると考えていたことからしても、確かにそれは、心、すなわち考えるもの(コギタンス)と、思考しない身体、すなわち延長と機械的部品を有するもの(エクステンサ)、との分離を公言している* 」。
デカルトにとって思考が存在の真の基盤なのだとダマシオはデカルトの言明を解釈している。存在を思考の上に打ち立てられているものだと考えるのはまさに観念論であり、唯物論的であるべき科学者のダマシオには、たしかに受け入れられない主張である。
だからデカルトにたいして彼は反駁する。人間は「進化のある時点で、基本的な意識が生まれた。その基本的な意識とともにまず単純な心が生まれ、心がより複雑になるにつれて思考の可能性が生まれた。[・・・・・・]当時、まずあったのは存在であり、思考するようになったのはそのあとのことである。また現在のわれわれも、この世に生まれて育つとき、まず存在からはじまり、その後思考するようになる。まず存在し、それから考える。思考は存在の構造と作用によって引き起こされるから、われわれは存在するかぎり思考するのだ* 」。ダマシオの言うのは全くもっともであり、常識的でさえあるといえよう。しかしそうだとすると、大哲学者とされるデカルトがこのような基本的な間違いを犯すと考えるということ自体あまりにも単純ではないだろうか。コギトは本当にダマシオが解釈するような意味なのだろうか。
ダマシオにとってコギトの意味は明白である。それは「私をして私たらしめている精神は身体とは完全に別のものであり、身体よりもずっと意識しやすいものであること、そしてたとえ身体がないとしても、精神は精神たることをやめないことを知った* 」というデカルトの言明通りなのだ。
そしてそれが「デカルトの誤りである。すなわち、身体と心の隔絶。形をもち、機械的に動き、限りなく分割可能な身体と、形を持たず、押すことも引くこともできない、分割不可能な心との断絶。推論や道徳的判断、そして身体的痛みや情動的高揚から生じる苦しみは、身体から離れて存在するという考え。つまり、心のもっとも精緻な働きが生物学的有機体から分離しているということ* 」である。
デカルトの心身二元論における身体の捉え方は主体的次元を排除する現代科学の基本になっている考えであり、それによって医学は一つの生物学的機械としての人体を扱うようになっている。ダマシオはそれによる西欧医学の弊害を指摘する。身体の病気の心理的帰結、心理的葛藤の身体への影響はほとんど考慮されていない、と。こうしたデカルト的誤謬は、「生物学的には複雑な、しかし脆弱で、有限で、ユニークな有機体の中にある人間の心の起源」を見えにくくしている。そしてそれに対して彼は、「真に身体に統合された心はそのもっとも洗練された作用レベル、すなわち精神(soul)と魂(spirit)からなるレベルを放棄していない。私の考えでは精神と魂も、その気高さにもかかわらず、一個の有機体の複雑かつユニークな状態だと言うことになる」ということを忘れないように説くのだ。
【ダマシオの誤り】
上で述べたようにダマシオのようなやり方でいわゆるデカルトの心身二元論を否定することは非常に簡単であり、また現代ではほとんどすべての科学的見地は同様な仕方で心身二元論を否定している。ただそれはあまりに単純なやり方であって、デカルトの思想を正しく把握してその上で正当な批判をしているものだと言うことはできない。デカルト哲学に多少ともまともに取り組んだことのある者ならば、そうしたアプローチには全く賛同できないであろう。デカルトは近代哲学の祖として哲学史上でも認められた哲学者なのであり、そのような哲学者はいつの世になっても通用する普遍的なものを常に備えているからだ。
そもそもデカルトが「我思う、ゆえに我在り」を言い出したのは、存在論的に何が最も最初であるかを言うためではない。彼は、当時支配的だった懐疑主義から抜け出すために、何か絶対に疑うことのできないもの、これから世界を考えていくためのアルキメデスのてこの支点にも相当するような確信を与えてくれる絶対点を探していたのだ。
デカルトのコギトを理解するには、まずコギトには何の実体も備わっていない、コギトは何らかの存在ではない、ということを前提に置かなければならない。デカルトにとって世界の中に存在するすべての実体的なものは彼の根源的な懐疑によって確証を失い破壊されてしまう。それゆえにコギトに何らかの内容を認めようとしてもそれは否定されてしまうので、コギトとは全く内容のない空虚なものでしかない。それは「何かを考える」というよりも純粋な思惟であり、存在を持たないもの、空なのだ。デカルトの過ちはどこにあるかといえば、コギトから「我在り」という結論を引き出したことにある。
コギトによってデカルトは確信の点を見つけた。では、そこから世界をどのように考えればよいのだろうか。世界には様々なものが存在するのだが、コギトが空っぽなものならば、どこから人間の身体、動物、植物、その他諸々の世界の諸物はどこからその存在の保証を得ることができるというのだろうか。コギトからは何も出てこないのだ。
そこでデカルトは神を持ち出してくる。神がすべての存在を与える、と。ここで神を持ち出してきて説明しようとするのは、まるでデウス・エクス・マキナのようで、なにかごましのような印象を受けるが、じつはこれは合理的な考えである。諸物が存在するのは別に何らかの理由があるわけではなく、ただそこに在るとしか言えない。それはわれわれ人間には理解できないことであり、それをわれわれがあえて理解しようとすると結局形而上学的な意味を与える以外には説明がつかない。それはすべてのものに理由があるという前提で世界を捉えようとする人間の悲しい性である。そうした問いは際限なくくり返される。諸物の存在理由を問うことは無意味なのだ。どこかでその問いを打ち切らなければならない。そこで神の思し召しだと言うことは、実際には何の説明にはならなくともそこで存在の根拠についての問いに一旦ピリオードを打つことに相当する。神という私たちの理解を超えたものに諸物の存在理由を預けて、私たちはもうそれに煩わされず、単に世界はあるとその存在を認めることに通じるのだ。
したがって、デカルトの二元論というのは、じつは、一方では空虚な思惟主体があり、もう一方では身体を含むすべての存在の場所である世界があることになる。それが身体と心の二元論という対立に還元されてしまうと、ダマシオの批判のようなものの下に容易にさらされてしまう結果となるのだ。
デカルトのコギトはそれゆえに存在の世界からは切り離された主体、超越的主体であると言える。ダマシオの過ち、ダマシオだけではなくすべての脳科学、神経科学者が見誤るのはこの超越的主体で、それは科学がこの世界の事象を扱う限り排除しようとするものなのだ。だが人間というものを扱う場合にはこの次元を見逃すことはできない。これがない限り人間は一つの生物学的機械でしかないからだ。だからダマシオが知性と情動の関係という形で脳と身体の関係、心と脳の関係を扱ったとしても、やはりそれは生物学的機械としての人間が扱われているにすぎない。
デカルトの主体は常に心理学的な自律性を持った主体として解釈される恐れがあり、また実際にそのような解釈が中心的になされてきた。それに批判を加え、主体をより純粋な形で取り出してきたのがカントである。ジャック=アラン・ミレールはカントの超越的主体性についてこう言っている。
「ある意味で『実践理性批判』のカント的主体は、客観的因果律・科学的決定論において空である。この主体は直接知覚されない。カントの有名な定言命令としてのみ、そして単にシニフィアン的事象としてのみ現れる。それを言い表すことはできない。超感性的主体、科学的因果律から逃れる自由な主体の存在を措定しなければまったく説明が付かないのだ・・・カントこそが、科学的因果律やニューロサイエンスのヘゲモニーに対抗するため、そして主体をまったく別の次元で考えるために、私たち[精神分析]が必要としている拠り所である。主体の自律性について語るということは、主体があらゆる客観的条件から分離可能なものとして消去されている[barré]ということを意味する。だからといって、それは自律的主体だと言うことが問題なのではない。なぜなら、主体は自らの固有の次元において依存しているからである。重要なのは主体の依存が別の次元、つまり、カントが定義したように、超感性的次元であるということを強調することである* 」。
デカルトの心身二元論安易な批判の根底には、コギトと「心」とか「魂」といわれるものとの同一視がある。ところがコギトはカントが言うように超越的な次元にあるもので、私たちの感性的な経験に現れるものではない。したがって科学の対象になるようなものではない。それにたいして、「心」とか「魂」と言われるものは私たちが経験できる経験的対象であるゆえに、科学の対象としても成立可能であろうし、ある程度はニューロサイエンスで解明できるかもしれない。このようにコギトと心は全く違ったものである。デカルト自身もの両者の違いを明確にしているわけではないので、彼にも責任はあるだろうが、それらを同一視するところからデカルトへの誤解が生じるのである。
ニューロサイエンスが扱う人間は結局生物学的な次元でのみ考察される。そして場合によってはそこにスティーブン・ピンカーの展開するような進化心理学が接ぎ木されて人間のさまざまな活動分野の解明が行われる。そこには主体性の入る余地は残されていない。ダマシオの理論もその例に漏れるものではない。
ダマシオの研究は情動に関するテーマを中心にしており、『生存する脳Descartes' error』、『無意識の脳、自己意識の脳』、そして『邦題、感じる脳Looking for Spinoza』と三部作をなしている著作のなかで精細に展開している。デカルトとスピノザの名前がそのうちの二つの題に使われているのが興味深いが、この二人の哲学者はそれぞれダマシオにとって特別の意味を持っている。デカルトにたいしては上述のようにむしろ単に二元論的展開に批判を加えるためである反面、スピノザにたいしては特別の思い入れがあるようで、彼はスピノザの哲学を自分の理論の支えになるものだと考えている。『Looking for Spinoza』では彼がスピノザの生家を訪れるシーンに始まり、脳科学的な記述とは別にスピノザの生涯についても多くのページを割いている。
スピノザは存命中デカルト主義者と見なされたこともあったが、じっさいには両者の哲学的見地はかなり違っている。たとえば、デカルトが精神と延長(身体)を二つの実体と考えた二元論者であるのにたいして、スピノザは実体を唯一神のみに認め、精神と延長は一つの実体が有する二つの属性だと考え一元論を推進したことで有名である。当然、脳に代表される精神と身体的な起源を持つとされる情動の間に緊密な関係を認めるダマシオにとって、スピノザの一元論は非常に魅力的なものに映るに違いない。彼は生理学を通して現代のスピノザであろうする。だがスピノザは哲学者であるのにたいしてダマシオは科学者であり、両者の間にはやはり一つの溝が認められる。ダマシオは厳密なスピノザ研究を行った哲学者というより哲学愛好家であって、彼のスピノザ理解は脳科学者としての自分の考えを支えてくれる思想をスピノザの中に見いだすためにダマシオ流の解釈がなされている。
ダマシオのこの三部作は身体的なものが精神的、知的なものをの土台となって支えているということを三つの視点から説明しようとしている。その点で彼の試みは唯物論的だと言えるが、結局彼はすべてを身体的なもの、生物学的な次元に還元している。
最初の『Descartes' error』ではすでに見たように、知的な判断は身体的な情動によって条件づけられているというものであった。そして次の『無意識の脳、自己意識の脳』ではいかに意識と自己が身体的な情報から階層構造をとりながら成立するかということを説明しようとしている。そして最後の『Looking for Spinoza』では情動と感情の関係が問題となる。
情動と感情のちがいについて言えば、ダマシオにとって何らかの刺激で生み出された心的イメージ* の身体的知覚が情動であり、この身体的条件に対する心的知覚が感情である。これを簡単に言えば、怖さで体が震えるのではなく、体の震えという情動的身体表出から怖さという感情が引き起こされるということになろう。このようなダマシオのシステムにとって他者は必要ない。たとえば愛情というものを感じたとしてもそれは誰かにたいする愛情ではなく、愛情に相当する身体状態を表すニューラルマッピングによって引き起こされた感情でしかない。憐憫の感情にしても誰かかわいそうな人にたいして感じるというのではなく、身体の情動的変化によって引き起こされるのだ。ダマシオはこれを「情動は身体の劇場で演じられ、感情は心という劇場で演じられる* 」と言う。それは外に開かれてはおらず、閉じられた体系なのである。
二つの劇場は脳のどこかに位置づけられる二つの部位なのであり、相互に繋がり合い対応しあっているので、一元論は保たれる。結局彼の考える人間はホメオスタシスによって調整される生物学的な機械であり、デカルトの延長に相当するものの次元においてすべては進行するのである。したがって、ダマシオの身体はスピノザ的な一元論というよりもラメートリーの人間機械論的な一元論的唯物論によって説明ができるものであろう。
ダマシオだけではなく、一般的にニューロサイエンスや生物学だけで人間を説明しようとする試みはすべて同じ過ちを犯している。真に人間的な次元を扱うには、人間世界は自然界との切断によって生まれる、あるいは、語る存在としての人間は生命体とは切り離されている、さらにあるいは、主体とは身体とは超越したものであるということを前提にしなければならない。
ではこの超越性はどこからやってくるのか、どうしてそれは人間だけのものであるかという問いに答えるためには、人間は言語世界に住んでいるということを忘れてはならない。人間は生まれて言語に遭遇することで根源的な変容を蒙る。生物学的な肉体が言語によって支配されることを許すことで、自らの本質をなすものを失い、そこで主体が誕生するのである。言語と生体、この二つの次元の衝突から人間的世界が生まれる。
【ソマティック・マーカー仮説、続】
もう一度ソマティック・マーカー仮説に立ち戻ってみよう。この仮説は人間における知的判断が効率よくなされるためには身体的情動のマーカーが必要だということであった。ところが、少し視点を変えてみるとこれは人間の判断は中立ではないということを示していることがわかる。そもそも知的な判断というものはすべての選択を考察した上で下されるべきであるが、この仮説によると知的な判断の前にすでに情動的な判断によって選択がある程度なされているのであるから、ここでは知的な判断と言えども中立的なものとは言えない。結局、見たくないものは最初から考慮に入れないのであるから偏向した判断である。
精神分析的にこれを見てみると、分析理論にも似通った機制があることに気がつく。抑圧がそれに当たる。抑圧とは主体が自ら見たくないもの、知りたくないものを無意識に押し込んで、自分はもうそれに関知しないという態度である。
フィアネス・ゲージの事例を挙げたさいに、事故の後、彼の性格が変わってしまったという事実を強調しておいた。それは上の文脈とはあまり関係なかったのであるが、あえて言及した。その理由は、ソマティック・マーカー仮説と抑圧との関係で触れるつもりであったからだ。ゲージの事故による性格の変化は極端であった。「事故前には倫理的、社会的に全く問題のなかった彼の性格が事故後には「邪悪」とも言えるものになってしまい、夢想にふけり、将来のことも考えず、自分にとっての利益さえ鑑みない人間となり、社会的慣習も無視するようになった。また、女性に対してひどく下品な言葉を平気ではいた」。確かに事故はゲージを変えてしまった。では彼のこの邪悪な性格はどこからやってきたのであろうか。事故がそれを作り出したとは考えられない。彼がそうなったとすると「邪悪」な要素はすでに彼の中にあったと考えるべきであろう。こう言ったからといってゲージを人間的に劣った人間だと貶めようとするものではない。こうした「邪悪」な性格は実は万人に備わっているものなのだ。フロイトは「文化への不満」の中でこう言っている。
「われわれにとって隣人は、単にわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりではなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手をその同意を得ずに性欲の道具として使用し、相手の持ち物を奪い、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ」* 。
隣人の中にあるものは当然私の中にもある。ただ私は自分の中にそのような恥ずかしい感情が潜んでいることを知らないし、そのような性向を持っていることを認めようとしない。そうしたファンタスムは無意識の中に抑圧されるのだ。したがって、ゲージが事故の後でこのような恥ずかしい感情を何の臆面もなく出すようになったのは抑圧がとれたせいだと考えることができる。こうして、ソマティック・マーカー仮説は思わぬ方向で精神分析理論と繋がりを見いだす。
ダマシオにとってソマティック・マーカー仮説は個体が生きていくための基本原則であるホメオスタシスの機能の一環である。ホメオスタシスは「恒常性」とも言われ、生体の諸器官が、気温や湿度のような外部環境の変化に応じて、内部環境(体温、血液の流れ、血液の成分など)を一定の範囲に保っていることを言う。哺乳類では、ホメオタスシス維持は自律神経と内分泌系が中心になって機能する。ダマシオによると情動はホメオタスシスを維持するために重要な役割を果たしている。脳内には現在の内部環境を評定するシステムがあり、評定が悪いときはネガティブな感情が、よい時はポジティブな感情が起こり、評定を改善するように誘導される、理性や推論などの高次脳機能にもそれはあてはまる。感情の動きに導かれて評定がなされれば、生存する確率が高まることになるからである。
こうした機能に類似しているものをフロイトの理論の中に探してみるとそれは快感原則だということになろう。快感原則は興奮が高すぎると下げ、低すぎると上げて、生体が興奮を一定の範囲に収めようとする機能である。簡単に言うと、フロイトにとって心的興奮が緩和されることがすなわち快感であり、快感を求めるのが人間の行動原則だということなので、これはホメオスタシスと類似の機能と見てよいように思われる。
では、ダマシオの展開するようなニューロサイエンス的な人間の基本的傾向と精神分析的見地から見たそれとは基本的に同じものだと考えるべきであろうか。つまり双方とも人間を動かしているのは一元的な傾向だと捉えるのだろうか。だが、先ほどは両者の間には一元論立場と二元論的、超越論的立場の根源的な対立があるということだった。
この対立はここでもやはり有効である。というのも、精神分析では快感原則の彼岸という次元を想定するからである。フロイトは実践を重ねるにつれて人間の根源的な性向には何か自ら苦痛を求め、自分自身を破壊し、生体を死に向かわせようとするような傾向があるのを認めた。そしてそれを死の欲動と名付け、それに人間のもう一つの基本的傾向としての生の欲動を対立させ、両者の間の葛藤が人間の行動を決定している根源的傾向であるという仮説を立てた。以後、フロイトは欲動の二元論を精神分析理論の基盤において分析実践の解明に当たるようになる。
【スピノザとカント】
一元論とか二元論は単に抽象的な理論上の意見の違いではない。そこにフロイト的精神分析と他の諸精神療法との本質的な違いが宿っている。だが、精神分析を一元論的考えようとした分析家もいる。たとえばユングである。ユングはリビドーが性的な意味を持つことに反対して、それを人間の一般的な生のエネルギーと見なし、その上に自らの治療理論を打ち立てた。その結果彼が得たのはオカルト的な要素を含む、たとえば集合的無意識という考えなどにも現れている、非合理的な理論である。集合的無意識とは簡単に言えば人類全体に共通した普遍な心で、それによると無意識下ではすべての人間は通じ合っていることとなる。一種のテレパシー的な現象を認めることにもなる考えである。
ニューロサイエンス的に一元的に人間を把握するやり方は、さすがにユング理論のようなオカルト的なものとはならないが、物理学的、生物学的な身体から精神的な次元のものを何のギャップもなしにすべて説明しようとするとやはりそこには無理が生じるであろう。そこから神経科学者がたとえば意識やクオリアの問題、または倫理的問題を扱っうときには常に何か理解しがたい印象を受けるようになる。そこには論理的飛躍が認められ、結局、すでに批判し尽くされているはずの脳内の小人、ホムンクルスなどが持ち出されるのである。ダマシオの理論では脳内で心的なイメージが構成されるということが理論の一つの重要な要となっている。そうすると脳内においてそれを知覚する何かが必要となるはずで、結局ホムンクルスの再来ではないだろうか。ダマシオはもちろん従来のホムンクルスは否定しているが、果たして彼はそこから抜け出しているのだろうか。
人間の意識、情動、感情などの主体的次元のものを扱う場合、単に生物学的基体からそれを説明することはできない。カトリーヌ・マラブーはこう言う−「神経的なものから心的なものへの連続性は、その本質に関して理論的混合物であることを思い出そう。すなわちダマシオがその分析の中で物語とテクストというメタファーに訴えていたことが示す通り、この連続性は同時に実験的かつ解釈学的な審級である。したがって以下のことは明らかである。神経的なものを心的なものから、あるいは原自己を意識の諸形態から隔てる空間や断絶は、シナプス間隙−移行を決してじゃますることなく可能にする間隙−とは正確に言って比較できず、むしろ理論的裂け目と比較されうるのであり、科学的説明はこの裂け目を還元するために、解釈によって引き継がれることを必要とする」。彼女が言うのは、生物学的基体と主体的次元との間には理論的には埋められないギャップがあり、それは物語的に説明されるしかないということだ。
一元論では最終的にこのギャップを埋めようとするのにたいして、二元論ではそれを超越論的に切り離して考える。そこから世界の統一的な原理を求めるアインシュタインのような科学者たちのスピノザへの傾倒が生まれる。だが忘れてはならないのは、科学は超越的な主体を排除しなければ成り立たないということだ。したがって、科学者の一元論的な見方は原理的に規定されているのである。しかし人間の主体的な次元を考慮に入れて考えるにはそれでは難しいであろう。やはりデカルト、そしてその継承者であるカントのような考えを必要としているのだ。
『セミネール11巻』のなかでラカンはこう言っている* 。
「人が誤って、スピノザにおける汎神論と形容できると考えたもの、それは実は、神の場をシニフィアンの普遍性へと帰することでした。ここから、人間の欲望にかんして他に類をみない穏やかな超然性が生まれてきます。スピノザは「欲望は人間の本質である」と述べ、この欲望の基礎を心的属性の普遍性−これはシニフィアンの機能を通してしか考えられない普遍性です−に対する根源的依存の中に据えます。その結果この哲学者は類例のない立場に到達し、自らを一つの超越的な愛と混ぜ合わせるまでになりました。これは彼が自らを育んだ伝統から引き離されたユダヤ人であった、ということと無関係ではないでしょう。
我われにとって、この立場は維持しがたいものであって、経験の示すところによれば、カントの方がより事実に近いと言えるでしょう。すでに論証したように、実践理性に関して書かれたカントの良心の理論は道徳的法則の一つの明文化を示していますが、よく調べてみますとこの道徳的法則は純粋状態の欲望にほかなりません。そのような欲望こそまさに、人間の優しさという点での愛の対象をすべて生贄に捧げることに通じます。私の言っているのは単にパトロギッシュな対象の拒絶と言うだけでなく、その殺害、生贄へ通じている、ということです。だからこそ、私は『カントとサド』を書いたのです」。
この引用においては上で引用したジャック=アラン・ミレールの言葉 *のなかで言及されているカントの超越的主体が問題になっている。それは実践理性の道徳的法則が適用されるような主体であって、感性的には捉えられない主体である。ここではスピノザとカントにおける欲望の違いがはっきりと示されている。スピノザにとって欲望は人間の本質をなし、欲望とはコナトゥスつまり自己保存の努力である。すなわち、人間が人間自身において存在する限り、自己の存在に固執しようと努めることが欲望なのである。このようにスピノザにおいては人間の欲望と存在が何の矛盾もなく繋がっている。このことをラカンは「人間の欲望にかんして他に類をみない穏やかな超然性が生まれてきます」と言う。それに対して、精神分析的に見る欲望は、自らに矛盾を秘め、自分自身を引き裂き、一定の場所で静かに止まってはいられないもので、常に他のものを求めてやまない。カントが実践理性の実現の不可能性として表しているところに、ラカンは純粋欲望の現れを認め、精神分析的観点との共通点を見ているのだ。
【超越論を超えて】
人間存在を考えるにおいてニューロサイエンスが取っているような機械的一元論は、精神分析にとって受け入れることができないとこれまで述べてきたのであるが、逆に超越的な二元論にも問題があるのは間違いない。さもなければすべてが二元論者になるであろう。それは、人間はやはりこの物質世界に生きており、その内的な因果の枠内で説明されるべきであって、何らかの超越性を持ち出すのは最終的に神的なものによりどころを求めることになるからである。
こうした超越性の批判は、上でデカルトが神に物事の存在理由をあずけたということの批判ではない。デカルトの態度は、ニュートンが物理学を研究するにおいて、引力がどうして存在するかなどの、解決できない問いに対する返答としての仮説を拒否し、「私は仮説を設けないhypothesis non fingo」と言っていたのと同じように、実証的なもののみを考慮しようとする科学的態度に通じるものである。
宗教につながるようなこうした超越論に対して、現代哲学においてドゥルーズのような内在論者が主流になるのは、したがって、世界の科学的な潮流からはうなずけるものである。そうした中で、精神分析だけが超越論を主張できるだろうか。ところが、じつは、精神分析においても内在論が生まれている。もちろんそれはユングの理論のようなオカルト的なものではない。どこにあるのかというと、他ならないラカンの理論的考察の中でそのような傾向があるのだ。
後期のラカンはボロメオの輪を基にし理論的展開を試みたことで有名である。ボロメオの輪とは、イタリア・ルネッサンス時代の有名なボロメオ家の紋章として用いられていたのところからそう呼ばれている。ボロメオの輪は三つの輪から構成されている形態で、それぞれの輪は完全に分離していながら、三つの輪で一つのものとしてまとまっている。つまり、それぞれの輪はお互いに超越していながら、一つのものに内在するというわけだ。したがって、ここには超越論と内在論を超えたひとつの構造がある。ラカンはそこに精神分析を理論的に捉えるためのすばらしい手段があると考えた。これによってラカンは全く別の角度から精神分析にアプローチすることができるようになり、それまでの概念をことごとく覆すような考え方を生みだした。ラカンは精神分析を哲学とはっきり区別し、哲学を支配者のディスクールとみなして、自分のやっていることを哲学とは違うものだという立場を取っていたが、ボロメオの輪を基にした考え方を採用するようになってからは、はじめて自分は哲学をやっていると認めるようになった。哲学的考えはプラトンの昔からずっと、内在論と超越論、一元論と二元論、観念論と実在論などの一定の対立したパターンによって分類できるものだが、ラカンはボロメオの輪に既存の哲学的観点を超える可能性を認めたのであった。
私たちが身体を捉えるにおいてもこのボロメオの輪を基にして考えられないだろうか。そうすれば今までの観点を超えた把握が可能になるかもしれない。