共時性と因果性  

偶然の一致は微細レベルでの因果関係なのか?  意識は現象に影響を与えるのか?

 

@時間と空間が支配的な物質世界

C.G.ユングは、著書『自然現象と心の構造』のなかで、共時性について次のように述べています。

共時的要因は、空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目としてつけ加えられるべき知的に必要な原理の存在を主張しているだけである。( p.132

 

(物理学者であるW.パウリ氏の提案のおかげで、)「私は一組の対立関係  ―共時性と因果性―  を、これら異質な概念同士にある種の関連を築くという考えでもって、より緊密に定義づけるようになった。」( p.136

 

一般的には、因果性と共時性を別の原理として考えるようですが、それは、物理学における因果性の解釈を考慮しているからです。くわしくは、後のページで述べる[※1]ことにして、ここでは『自然現象と心の構造』からの抜粋のみとします。まずは、心と体の関係にふれてから、心と物質の関係、そして心と物事の関係の因果性について考えます。

 

自然法則は統計学上の真理である。それはわれわれが巨視物理学的量を扱っているときにのみ完全に妥当なことを意味している。(中略) 原因と結果の間のつながりがただの統計学的にのみ妥当であり相対的にしか真理でないことが明らかになるなら、因果性の原理は、自然の諸過程を説明するのにただの相対的にしか役立たず、(後略)。(p.5

 

 

「因果性は空間と時間の存在と物理的変化に拘束されて」いるため、「意味深く偶然に一致する諸因子間の相互連関は、どうしても非因果的なものと考えられねばならない」(ともにp.39)

 

たしかに、生きている私たちの体が存在している物質の世界は、時間や空間が支配的で、私たちの体はそれらに逆らうことができません。そういう限定された条件のもとでは、相応の時間と労力をかけて丹念に研究すれば、ついには原因と結果の関係がつきとめられる場合もあるので、その性質を利用して高度なものづくりや医療を進歩させることができたのだと考えられます。いっぽう、心の世界は、時間や空間によって位置を定めることは、ほぼ不可能です。つかみどころがないので、原因と結果の関係も一層つかみにくいと言えます。

 

 

A心と物質の関係

ところで、相関関係ということばがあります。心と体の相関関係が、西洋医学でも広く認識されるようになったと聞きますが、くわしい因果関係が必ずしも科学的に証明されているわけではないようです。

 

では心と物事の関係はどうかというと、共時性現象の定義にみられるように、心的要因が物的・外的事象の自然発生を招くという科学的な証拠がないので、因果関係がない、または、因果関係があるかどうかは不明だとされているようです。因果性と共時性が別の原理であるという考えには、こうした背景もあると考えられます。

 

ちなみに、因果関係と相関関係は意味がちがいますが、理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、自身の論文のなかで、心身相関から心と物質の関係まで述べているので、そのほんの一部を抜粋します。また、心理学者の河合隼雄氏が、著書のなかで、デイヴィッド・ボーム氏の見解を紹介しています。

 

『量子力学と意識の役割』デイヴィッド・ボームほか著(たま出版)

記録された記憶のすべては脳細胞に巻きこまれた状態で保持されているからであり、脳細胞そのものは物質の一部にほかならないからである。(『量子力学と意識の役割』のなかに掲載されている「宇宙の明在系‐暗在系と意識」P.270

 

『宗教と科学の接点』河合隼雄著(岩波書店)

「暗在系[※]にあっては、心は物質一般を巻き込んでいる、なによりも身体を巻き込んでいると言わねばならない。同様に、身体は心だけではなく、ある意味において、物質的宇宙のことごとくを巻き込んでもいるのである。身体と心とは、したがって、より広大なる一個の亜総体のファクター(因子)と呼ばれてしかるべきであり、この亜総体が心身双方の基盤をなしていると言いうるのである」とボームは述べている。(『宗教と科学の接点』p.6364

 

[※]理論物理学者のデイヴィッド・ボーム氏が、人間の知覚世界を説明する際に使用した言葉「暗在系」(implicate order)で、対義的な語は「明在系」。「物質も意識も暗在系を共有している」「すべての事象は人間の意識とつながっている」と述べた。

 

重要なのは、ボーム氏が述べている物質は、人間の体を構成している物質であると同時に、外界の物質もさしているということです。心と体の関係、心と物質一般の関係は、心と物事の関係にも通じると考えられるのではないでしょうか。

 

リンク先のページで本の中身を読むことができます。

「輝く茜雲に後ろ髪をひかれる思いで振り向いたとき、目の前に刻々と姿を変える雲を見た。他の雲よりひときわ動きのはやい龍の体のような姿にハッと心を奪われたご仁は、素早くカメラに収めたが…(中略)その雲の姿は、あまりにもリアルで、そして、亡くなった桃太郎の姿にそっくりであったのだ。雲となった犬の目は、生き生きとご仁を見据え、さらに口元では、何事かを語りかけている姿に見受けられたという。」(『神秘の大樹 V 文字・数・色で証す新次元』より)

 

 

 

B因果性が「ない」のか、「見つからない」のか

 

『自然現象と心の構造 非因果的連関の原理』C.G.ユング・W.パウリ共著

非因果的連関の原理

以上のことをふまえて、ここからは、因果性と共時性の話に戻ります。ユング氏は「狭義の共時性は、たいていは個人的な例で、実験的にくり返しがきかない。」(『自然現象と心の構造』p.138)と述べています。たしかに、本人でなければ実感しにくいのも事実ですから、客観性[※1]がない、または、客観的には因果性がないと考えてもおかしくはありません。

 

しかし、本当は、偶然の一致(共時性現象)に因果性がないというよりも、今の科学の尺度では説明ができない[※2]と言うべきではないでしょうか。心は常に変化していて一定ではない性質があることを考慮すると、「実験的にくり返しがきかない」のは、ある意味当然のことだとおもいます。物の性質にくらべて、心の性質はいっそう不安定であると考えられるので、「狭義の因果性」という尺度ではとらえ切れないのではないかとおもうのです。

 

 このように考えると、共時的なことがら同士に因果性はないという論理(または「非因果的」という表現)には、問題点があります。たとえば、短いものさしで、とてつもなく大きな物体の寸法を立体的に測ろうとしても、正確に測ることは不可能に近いと言えます。この場合、このものさしでは巨大な物体の寸法を測れないのであって、寸法がないとは言わないはずです。これと同じように、科学の尺度で因果性を判定できないことと、因果性がないことは、同じではないはずです。

 

また、共時性現象のもつ意味が、個人的(特殊)か、普遍的かは、心の方向性が大きく関わっているようにおもいます。残念ながら科学的な客観的根拠をしめすことができないので、たいへん主観的[※3]ではありますが、縁を引きよせる当事者の心が、何を観ているのか、どこに向いているのかによって、現実に起きることがらにも差が生じると考えます。心の次元や純度、思いの深さなどに応じて、縁にも差が生じると考えることは、さきほど述べた心と体の関係、心と物質一般の関係をふまえると、さほど飛躍したものではないとおもいます。

 

 

偉大な実績を積み重ね、私たちに恩恵をもたらしてきた科学ですが、心は解明できていない部分が多いのも事実です。「意味深く偶然に一致する諸因子間の相互連関は、どうしても非因果的なものと考えられねばならない」という前提(定義)には、いまの時代だからこそ、一石を投じたいとおもいます。

 

これは私の想像にすぎませんが、ユング氏は、「空間、時間、因果性という承認されている三組の上に第四番目として」(『自然現象と心の構造』より引用)共時的要因の存在を科学的証明によって確かなものにしなければならないという科学者としての強い信念のいっぽうで、科学で割り切れない現実に対する葛藤をいだいていたのではないかとおもいます。

 

『量子力学と意識の役割』デイヴィッド・ボーム氏ら物理学者による論文を集めた本

 D.ボーム氏の論文を収録

《科学で証明されていないこと=存在しない否定すべきこと》という考えは成り立ちませんが、どういうわけか、そういう考え方が世のなかに通ってしまっているのも現実です。しかし、科学者のなかには、上記のように専門を踏まえた考察によって、心的「因子」と「物質的宇宙」を関連づけた人が存在しています。その見解は、前のページ[※5]で紹介したように、原因の集合体と、それらがうみ出す結果的状況の関係というものであり、いわば数量的・統計的な見方を超えた「客観」と「主観」[※6]の統合的考察と言えるかもしれません。

 

 

 

生命に対する見方(生命観)が問われているいま、先人の研究とその意志を正しく引き継ぐことで、時代とともに陥ってしまった「先入観」や「固定観念」の から引っ張り上げる必要があります。共時性現象は生命世界の根幹に関わるため、その社会的な価値[※7]は、一般的におもわれているものよりも、はるかにずっと大きいのです。故・ユング博士も、進歩をいちばん望んでおられるのではないかと想像しています。