10諸惡莫作  第三十一

 

 

絶対の悪や善ってあるの?

オリエンテーション

 

物事は縁(居場所、立場、状況、関係性、時間のスパン)によって、善になったり悪になったりする。

 

日常では、善悪があらかじめ決められているので、それに従って判断すればいい。

しかし、仏教では修行者の善悪は修行で決まることなので、善悪は主体化される。

主体化とは、本人の行為と善悪が一体になることなので、決められた絶対の善悪はなくなってしまう、ということです。

これが可能になるのが「仏教の因果」です。

絶対の善悪がはじめからあるのではなく、たとえ親切であっても善とは限らず、たとえ殺生であっても悪とは限らず、その個別のTPOにおける本人の行為によって、意味は決定されます。

 

仏教では因果の実体化を否定する。

因果が実体だとすると、原因に囚われて、人は自分で考え行動する意欲や努力がなくなってしまう。

もしこの世の因果関係を実体視してしまうと、宿命論や超越神論や偶然論に捕まってしまいます。

 

それに対して、修行者は、

「為されるべきことと為されるべきではないことを確実に認識し、それを忘れることなく護ることができなくてはいけない」

釈尊は修行者自らがなすべきことを意欲し、それに向かって努力することを肯定します。

 

ここに因果の本来のあり方(面目)がはっきりと現れる。

この世でいう因果ではなく、あの世を含めた因果です。

 

これが悪いことをしない(莫作)ということであり、

生起しないこと(無生)、

永遠不変ではないこと(無常)、

間違った認識にとらわれないこと(不昧)、

因果の概念的な理解に落ち込んでいないこと(不落)である。

因果とは実体としてそれ自体で存在するものではないからだ。(脱落)