14 山水經 第二十九
常に変化している自然の中で暮らしていると、「わたし」を基準にして、これに頼っていても生きてはいけない現実が眼の前に当たり前にある。
そこで、先住民や山や森の中で暮らす人たちは「わたし」に頼らない時空をも生きている。
これを当然としているので、文明人がこれを「悟り」の1段階として大事にしているとは知る由もないし、関心もなく、自らが悟っていることを自覚せずに暮らしている。
オリエンテーション
「わたし」(自己)も対象(世界)も「一つにつながっている領域」だと実感できれば、言語の使い方は180度ひっくりかえってしまいます。
日常生活で使う言語とは意味を運搬する役目を持つツールですが、
「一つにつながっている領域」では、
関係性がカタチという言語を創り出すので、自分(主体、自己)と世界(客体、対象)との関係の変化に基準が置かれます。
言葉を変えれば、日常の言語は、私と世界が別々にあって、私の見る世界であったり、私の生まれる前や死んだ後の世界を基準にしている領域であるのに対して、
「私と世界がつながっている領域」は、私は世界によって、世界は私によって、変化しつづけていることを基準にします。
ですから、言葉もその時その時の「私と世界がセットになったことで常に変化し続ける」ので固定化されることがない。
たとえば、草を抜くプロセスにおいて、草の根の張り具合によって、私の手と草の間の力(テンション)の具合は強まったり弱まったり、震えたり、スッとしたりして、同じテンションが続くことはない。
このテンションにスポットライトを当てれば、その瞬間瞬間のテンションに「草と私の間柄」を察することが出来る。
同じように言語にスポットライトを当てると、この世のTPOは唯一無二で、その時空だけにある「多様で多層な関わり」が一つの言葉として表現される。
そして、次の瞬間にはまた違う新たな言葉になる。
しかし、言葉を変え続けるのは不便なので、言葉は同じままにしておくが、実際にはその中味が同じ状態であることはない。
ただ外見が同じだけで、内側の一部は消えては顕れ、また死んでは新たに出現する。
近くの川を人工衛星から見たら同じ川に見えるが、実際に川辺に立ってみると眼前の川は藻、小魚、砂、浮遊物が常に変わるので、二度と同じ川などがないように。
そう、「生き」ている。
たしかに言語は私と対象との関係を決める作用があり、言葉を確定することで、自己と世界(対象)のあり方が決まるのです。
「山は動かない」という認識とは、地上の人間の短い期間を基準にした視点を固定化することでうまれてきます。
これは観察者が感じている、ありのままの視点ではなく、はじめから山が存在していることを前提にした視点です。
これが山を実体(常に変わらず、普遍的で、一般的で、観念的、経験により学習したイメージ)として見ているということです。
しかし、舟に乗って川を下れば、そこから見る山は「歩いている」。
また時間のスパンを長くすれば、アフリカ大陸は南アメリカ大陸よりユーラシア大陸へ「歩いてきた」そして今も「歩いている」。プレートテクトニクス plate tectonicsとして。
関係が変われば対象世界のあり方は一変し、そのときには人のあり方も一変する。
自分が歩くことを始めてみると、世界が変化し続けていることを体感できるので、山の歩みを経験できる。
また、永劫の時間感覚が持てれば、宇宙の変化をそのまま見ることもできる。
「〇〇が☓☓である」とは、ある行動パターンが固定化された一定の条件においてのみ成り立つ言い方である。
「わたし」を基準にすれば、山は固まった姿になってしまう。
しかし、「一つにつながっている領域」の自己意識は「わたし」だけを基準にしない。
山は「わたし」から解放され、元のあるがままの姿に戻る。
この山は常に移り変わり、大西洋を歩いて渡ってくるのだ。
「わたし」は怖がり屋さんだ。
悠久な時間の流れを無視して、ほんの一瞬だけに時空を固定化させて、他者を勝手に自分の都合がよい枠の中に閉じ込める。
これが「わたし」のしているお仕事だ。
「わたし」を中心にした見方から跳び出ることで、はじめて自分のもっと奥にあるモノに出逢うが体感がそこにある。