2 摩訶般若波羅蜜 第二
知恵と智慧では意味が180度違う?
知恵とは地球で通用する常識、
智慧とは宇宙で通用する法則
オリエンテーション
「不変の実体は存在しない」という「空」がある。
「空」があるがゆえに、この分別された世界にも固定化されたモノは存在せず、あらゆる存在は生まれるのでも滅するのでもなく、ただ変化をしている。
この世から見ると、増える減るといった事柄も、「空」から見ると、変化をしているに過ぎない。
知恵は限定された枠内の中だけで有効なもので、枠には地球という空間や現代という時間で限定される。
それに対して、智慧は「空」との繋がりで成立しているのでいつでもどこにでも「ある」
知恵とは、理性rationalityを使って、対象物を抽象的・概念的認識として作りあげる知性intelligenceの力で言語化(分別)したものを意味する。
例えば、辞書、科学、ネット情報、学問などなど。
それに対して智慧とはなんだろう?
智の字源
日(宇宙)の法則を知る。日を知るで智。
宇宙の法則であるダンマを知って、それを参照すること意味する。
慧の字源
慧の旧字は「
」で、字源の
は
上部が箒(ほうき)、下部が右手。
「彗」は箒(ほうき)を手に持つ形。
心(マインド)にあるものを掃きさった状態を意味する。
以上のことから智慧というと、
宇宙の法則を知り、その実践のためにマインドを掃き清めることを指す。
すなわち知恵が、地球では通用するニュートン力学のような近似値である「科学」であるのに対して、
智慧は宇宙で通用するありのままを体感する「宇宙の法則」の体現である。
ニュートン力学とは、絶対時間と絶対空間と言って、はじめにダイナミックな時空を固定化させるという思い切った仮定を無理矢理にした上で、その中で通用することを数値化したものである。
しかしその後の相対性理論で明らかになったように、時間と空間は固定化されず、重力によって変形する。
しかし、そんなことがないという前提でニュートン力学は成立しているので、事実を無視して因果の組み立てをしているので、これは科学というよりも、「取り決め」である。
だから、もっと精密に言えば「地球の常識」である知恵と「宇宙の科学」である智慧の違いがあると言える。
せっかく学習した大脳皮質にある知識を箒で祓い清めるというのだから、これは知恵の否定だと取る人もいるだろう。
しかし智慧は知恵を否定したりしない。
知恵が通用するTPOの領域では知恵を使い、知恵が通用しない枠組みの外では、知恵を使用しないだけである。
智慧の解釈には歴史的誤解がある。
中国仏教と日本仏教においては、智は世俗諦を知り分けるもの、慧は第一義諦(真諦)を悟るものとも意味付けられてきた。
仏教でいう智慧には3つの意味があり、
1 梵: prajñāパーリ語paññāの訳語 般若と同意
2 梵: jñānaの訳語 悟りに導く心的能力として智
3 世俗的な賢しらな識別ではなく世事を離れた叡智や、世事を見通す叡智を指す。
この文脈でいう智慧は一番目の般若の意味で使われているので、理性や智性ではなく魂性(慧性・観照)に属する言葉で、慧の字源のとおり、心を掃き清めるというダイナミックな動きであり、一切の現象や、現象の背後にある道理を直観し観照し交流する行為のことだ。
認識とは五感と脳だけの特権ではないのだ。
走性taxisや屈性tropismといって、ミドリムシや植物は光を当てると光源に向かって移動しようとする性質がある。
その他にも刺激となる圧力、化学物質、電流、重力、水、湿度、空気、磁場、温度、圧力に対しても生物は神経管(脳)を使わずに反応していることはわかっている。
つまり神経管(脳)がなくても、生物は外からの信号を受信してそれに無自覚で反応しているということだ。
これも智慧の一つである。
以上のことから、パンニャ(智慧)とは、大脳皮質を使った後は、関心(スポットライト)を外部から内部へと転換することで内観に移行し、最後にはマインド自体を祓い清めて、内臓感覚(循環器系感覚と消化器系感覚)や走性を使って、魂はブラフマン(梵)に繋がることができる境地を体感し、これを神経管でも認知する手法のこと、とする。
肉体も、ヒトの感覚作用も表象作用も条件反射作用も認識作用にも、不変の「わたし」は存在せず、自分とは常に変化を続ける「空」であると釈迦は気付いた。「空」とは、「不変の実体は存在しない」という意味である。
魂と宇宙意識が繋がっている状態の時に「空」を体感できる、と私は推定している。
カタチ(物質的・精神的)あるものは「空」と繋がる無常な存在であるから変化を続ける。
「空」という性質であるからこそ様々なカタチあるものが存在する、とも言える。
「空」があるがゆえに、この分別された世界にも固定的なものは存在せず、したがってあらゆる存在は生まれるのでも滅するのでもなく、ただ変化をしている。
美しいとか汚いといった物の見方も、それは人がそう見ているだけで、本来的に美しいものや汚いものがあるわけではない。
増える減るといった事柄も、その真実は変化をしているという一点に尽きる。
「空」頭で理解せずとも、敬うという行動によって智慧を体現することができるという話が説かれている。
思慮分別に関わることのない深淵な般若の智慧とはこのようなものである、と言う。
「優れたる長老よ、もし修行者が深淵なる智慧の完成を目指すなら、どのように学んでいけばよいだろうか」
「虚空のごとくに学べばよいでしょう」
仏法の智慧は守護すべきものではない。
「人々が真理の智慧を説くときは、その智慧が彼らを護るのです。智慧は彼らのそばを片時も離れはしません。」
般若波羅蜜多とは真実についての智慧であり、真実についての智慧とは悟りそのもの。
智慧によって真実を摑むことと、真理に目覚めて仏になることは、同じことである。
「シャーリプトラよ。悟りを開き仏として生きる人々は、真理の智慧によって仏となった。
仏とは智慧を完成させた者のことであり、その真理とは「空」である。」