20 古鏡 第十九の巻
オリエンテーション
鏡をよく見てみると、独特の特徴がいろいろとある
まずはどんなモノでも映すこと。
次に、鏡には汚れや傷や曇や凸凹があること。
そして、鏡は自身の姿を見ることができないこと。
鏡は「モノを映す」という「働き」がある。
すべてを映して(受け入れて)適応していくことができ、しかもその像は映っているだけで鏡には当たり前に痕も何も残らなず、その時だけの映像である。
鏡と像は「形と影」にも似ている。
鏡に実物にはカタチがあるが、それに映る像は影のように実体を持たない。
鏡は一切のものを差別なく映すために、この普遍性は、仏性にたとえられることもある。
鏡には汚れや傷がある。
また昔の鏡は器材が限られて手作りだったので顕微鏡で見てみると、表面が少し凸凹している。
この汚れや傷や凸凹によって鏡に映る映像は影響を受ける。
鏡とそれに映る像はいろいろなものに似ている。
たとえば鏡は自分自身、像は自分が視ている風景。
鏡は「自らを映す」ということはできない。
ヒトの場合は自分自身を視ることはできないので、自分の姿は鏡に映った像で認識できる
鏡の起源は人類と同じほど古いのではないか?
最古のそれは水鏡(水面)であるので視るモノの発生と同じであるためだ。
鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされる。
鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得た。
鏡に映った自分を自分と認識できる能力はチンパンジーやイルカやゾウやカササギやヨウムやブタ等で確認されている。
鏡に映像が「映る」という現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられた。
鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分ける境目のようなものとしても捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られる。
鏡は鑑とも書き、このときは人間としての模範・規範を意味する。
例えば、『史記』には、「人を鑑とする者は己の吉凶を知る(人を手本とする者は自分の将来も知る)」とある。
また日本語でも「鏡」と望遠鏡、拡大鏡などが同じ鏡という字を用いているし、英語のグラスもまた、ガラス、レンズだけでなく、鏡の意味も持つ。
鏡を喩え(メタファー)にすることで、主体と現象という二分法(表層)の奥にある言葉にすることができない深層を、カタチにはできないけれど、その方向だけでも指し示すことはできる。
映すとは、無意識の魂の働き。
私たちの無意識にはなんでもありのままに捉えることができる力がある。
傷や汚れとは、私たちの心(マインド)の偏り。
偏りとは、脳の自動修正による錯覚、原因・結果を結びつける安易な法則、好き嫌いのオートマティック回路、学習した条件反射
自分自身では見ることができないとは、私たちの五感と意識の限界。
自分の意識の深層にある魂はこの眼や表層の自己意識では見ることができない。
古鏡の特徴
古鏡とはどのようなものだろう。
12世紀の鏡は昔は今と違って、完璧に平面のものばかりではなく、また青銅や白銅で作られていたので空気中の酸素と徐々にですが化学反応を起こしてしまい、くもりや錆がはつくもので、長く使われていると傷があるものもあった。
雪峰禅師の言葉に「世界のひろさが一丈である時、古鏡のひろさも一丈である。
世界のひろさが一尺である時、古鏡のひろさも一尺である。」がある。
古鏡によって映るものも決まる。
古鏡の大きさ、純度、磨きによって、見える世界が変わるのである。
錆や傷や歪みがあろうと鏡は像を映すように、ヒトの脳は知らず識らずのうちに錆や傷や歪み(偏見やクセや条件反射)でモノを見ており、その歪なデータを基にして判断し、評価している。
古鏡はその人の心に映る姿の元とも言える。
古鏡には、まだほんの僅かの意識も発現していない以前をベースに、体や心や思考というTPOによって形作られた凸凹を持つ。
ちゃんと磨かれていれば外の像(景色)をそのままに映し、凸凹していればそれなりに映る。
どちらも古鏡の表面に映る映像である。
ここでいう「古」とは古い・新しいの古だけではなく、常にあらゆるものが活動・変化している事実自体は永遠不変の「いにしえ」と私の「体・心・頭」のクセがついた「古」である。
ではこの古鏡とは何を意味するのか?
古鏡とは「生命そのもの」である鏡本体と長年のクセによって表面に少し凸凹や汚れや瑕や曇のできた鏡である。
映る映像は、あるがままの姿と「その生命活動の様相(喜怒哀楽の自我)」によって少し歪んだ姿である。
空即是色、色即是空の「空」と「色」の関係や、「川」と「波」の関係のように、「鏡」を使って例えてみると、「鏡(空)」そのものは、「生命そのもの(空、川)」であり、「鏡に映じている事実(色)」が「生命活動の現象(現象、波)」である。つまり宇宙のすべてがつながっている在り方(無始無終の生命活動)が「古鏡」に喩えられる。
鏡はいかなる像にも呼応して、同じカタチを表面に出現させる。
ただ鏡面の凸凹や瑕や曇や錆に影響をうけてしまうが。
磨かれた鏡はその時々の像をそのまま映し出す。
「すべてをそのまま頂く」という「現成公案」の修行の在り方と同じように。
では、「鏡」と「鏡」が対した時には、どんな事が起こるのであろうか?
お互いの鏡が相手を映し、その対象物のない鏡だけがずっと続く。
明鏡とは?
磨かれた明鏡とは、自我がこれまでに学習してきたクセを取り去った魂が映しだす世界で、本来の生命の在り方である「すべてがつながっている世界」がそこに現われる。
明鏡は深層意識である魂であり、古鏡はこの魂を覆う汚れや錆である表層意識であり、そのままではちゃんと映らないマインドのレベルを暗喩していいる。
「古鏡」は自我活動を含む人間の生活活動であり、「明鏡」は自我活動が休止して、表面の凸凹のない本来の生命活動である。
例えば睡眠中の身体は自我意識のない明鏡である。
ここでは偏見や学習してきたかりそめの方程式を使わない。しかし残念なことに寝ていては、それを意識化することができない。
鏡そのものは「物を映す」という「働き」があるだけで「自らを映す」ということがない。
従って「鏡」と「鏡」が対した時は、映す対象が無いから映像が消える。
これが対象を求めない「すべてがつながっている世界」の在り方であり、無所得・無所悟の只管打坐の坐禅の実態である。
古鏡(深層意識+表層の自我意識)で観察しているかぎりは、自分の関心に動機づけられてしまいます。
鏡の凹凸や瑕や曇や錆が自分の関心、条件反射、好き嫌い、学習した方程式、トラウマです。
そのために何が現れてきたとしても、澄んだ鏡のように映し出して内省(魂がみるように)することはできません。
明鏡とは、特定の見地に固執していない深層のレベルです。
修行が展開するにつれて、そんな瞬間が訪れる、という。
偏りから解き放たれながら、まだ自意識によって確認できる状態に。
禅定と鏡
鏡は人々に自分というものを自覚させ、反省させます。
自分を意識すると当然、迷いが生じます。しかし、その迷いも、実は鏡というものの中、鏡という自意識の中で起こっている。
だから、迷っている鏡そのものに迷いはない。
鏡そのものになりきってしまえば、つまり身心脱落したところには、様々な悩みやこだわりが起こるわけだが、跡をとどめない。
いったい、本当の自分は何かのか、をちゃんと問うている。
禅の境地がここにある。
瞑想をしていると、体内に鏡が現れます。
まず、一時間ほど、深い禅定状態に入ります。
禅定状態にあると、物事を分析することができないので、一旦そこから出ます。
そして、バーバンガ(Bhavanga有分心)というものを見ていきます。
有分心(バーバンガ)とは、胸の真ん中の辺りを中心にしてあります。
はじめは痺れるような感覚で察知され、とても光溢れるものです。
体験していない人は、これをメタファー(隠喩)としてとらえてもらってもいいでしょう。
実際は焼けるように熱く、板のように固く、円形です。
心の門(意門)で、胸の中心にある鏡のようなものと理解してください。
アビダンマに詳しい説明があります。
アーナパーナ・サティを深めていくと、鼻のところに強い光(アナパナニミッタ)が現れます。
この光に胸にあるバーバンガが鏡のように反射して、そこにもう1つの光が現れるように見えます。
その光も消えていき、ただ鏡があるだけになります。
すると観察者である「わたし」は消えて、対象との分離がなくなります。
スポットライトを当てようとしてはいません、ただスポットライトが当たっているだけです。
そこにはスポットライトがあるだけです。