22  佛性  第三  

 

 

仏性を識るには悟るしかない。 

何十年かかったとしても、合理という回路を一つずつ取りさっていくし方法がないという。

 

オリエンテーション

道元は次々と厳しい言葉を投げかける。

「悟りを開いてのちに仏性を知るのでなければ仏法ではない」と言われるのはなぜなんだろう?

ここが分からなければ、悟りを明らかにすることはできず、どれだけ修行を重ねようと仏性を知ることもないままだろう。

 

仏法を見聞きし仏法を学んできた者は大勢いたが、「身に仏性が現われている」と言い得ることができただろうか。

龍樹尊者の弟子のなかでは、提婆尊者ただ一人だけであった。

頭で思い込むだけで、自分の体でもって真実を知ろうとしない者が、ついに真実を知ることができないのは、残念だがあたりまえのことと言えるだろう。

 

わたしたちは悟っていないのだから仏性がなんであるか分からない。

しかし、侘(わ)びながら、その方向を指すことはできる。

 

仏性はいつでも眼前にある、という。

目の前に広がる全世界が仏性にほかならないからだ。

だからその一切を細分化して考えるのは適切でない。

かといって、一切を1つの塊のように捉えるのもまた適切とは言えない。

 

仏性を見るとは、手を握って拳をつくるというような具体的なことであって、大小といった概念を理性で考えることではない。

知識でもって理解する対象ではないということである。

 

外からエネルギー、環境、光、水、これらと内なる「いのち」が一体になると、細胞は刻々と死に、生まれ、変わり続けていくことによって、変わらずに見えるのと同じことである。

植物の根も茎も枝も葉も、瞬時に生じては瞬時に滅するという在り方をしており、そのすべてが悉く仏性なのである。

 

仏性を見るためのキーワードは「時節の縁を観る」こと。

特別なものを観ようとするのではなく、身近な、日常生活に時節の縁を観てみる。

ただし観ると言っても、それは煩悩によって観るのではなく、煩悩の滅した智慧で観るのでもなく、悟りの智慧で観るのでもない。

「まさに観る」のでなければ真実でない。

「まさに観る」とは、観る観られるというような自他を立てず、正しく観る・誤って観るといった判断にも関わらない。

ただただ、それ自体をありのままに観ることだけを「まさに観る」と言う。

そこにはただ時節の縁しかない。

「空」が「一つにつながっている世界」になり、それが「分断された世界」でカタチになって生まれ、そして滅し、また元の「空」の世界に戻っていく。

 

まさに仏性そのものを観て、仏性という意識から脱しないといけない。

仏性とは、ただそれだけなのである。

山道を歩くことは仏性を見ていることになる。

一歩一歩ごとに変化する石、泥、土、草、傾斜、虫。

舗装路では仏性を見るのはは難しい。

道路をしっかり見なくても歩けるからだ。

 

仏性は「仏となる性質」ではない。

仏と性が分かれているのではない。

真理であるところの仏性と森羅万象は異なるものではなく、人が仏性としてあるとき、人は仏性にほかならないのである。

 

存在とは仏性そのものである。

真理とは仏性そのものである。

あるがままの事実は、なにもそこにある存在を問うだけにとどまらない。

見えるものだけが仏性なのではなく、見えなくとも、それもまた仏性なのである。

真理は隠れているわけではないが、それでは見えるものだけが真理かと言えば、そうではない。

結局、捉われるなということだ。

見えるものにも、見えざるものにも。

 

仏性について説法するというのなら、こうとしか言えない。

カタチはないのだ。

仏性というカタチはないのだが、カタチがないということを突き詰めていくと、あらゆるものが仏性を現わしていることにもやがて気が付く。

龍樹尊者の前にいた人々は、坐禅をする龍樹尊者の姿をたしかに見ていた。

見ていたはずなのだが、見て捉えるものではないので、カタチでないところの仏性を見ることはなかった。

見えるのに見えない。見えないのに見える。

こうした性質こそ、仏性の在り方と言えるかもしれない。

 

龍樹尊者の坐禅の姿を一円相として描いた画を、誰一人として誤りであると指摘する者はいなかった。

こんなにも哀しい話があるだろうか。

一円相とは、人々をつまずかせるだけの画でしかないのに。

あれほど広い中国に、あれほど大勢の人々がいながら、誰も龍樹尊者の示すところを理解せず、迦那提婆尊者の説くところを理解していないのだ。

身に仏性が現れるという意味を、まったくわかっていないのである。

龍樹尊者がその身に現した真実の姿を描こうと思うのなら、法座の上には、龍樹尊者の身に現れた真理それ自体が描かれていなくてはならない。

眉があり、眼があり、端正に真っ直ぐ坐禅をする姿、すなわち龍樹尊者の姿が描かれていなくては誤りである。

 

昔ブッダが霊鷲山で摩訶迦葉尊者に仏法を伝えたときも、坐禅をする姿のままに破顔微笑(はがんみしょう)と呼ばれる以心伝心が行われた。

仏祖の姿というのはいつでも坐禅の姿だった。

 

仏性とは学問によって理解するものではなく、禅の系譜のなかで師から弟子へと1つになって受け継がれてきたものである。

仏性というものは、悟りを開く前に把握することはできない。

必ず悟りを開いたあとに仏性を知る。

把握するためには、「わたし」の慢心を一つづつ取り払うしかない。

二十年でも三十年でも参究し続けなさい。

悟りの階段の途中で中途半端な姿勢では、満足するような仏性を理解することはできないのだから。