27 坐禪箴 第十二
なぜ坐禅なんかするの?ゴールはあるの?
坐禅とはiPS細胞のように初期化された姿のこと?
オリエンテーション
坐禅とは必ず「仏になろうとする」そのこと自体である。
坐禅とは「仏になる」ことを「目指す(圖)」行為である。
しかし、仏になるのが「目的」になると、坐禅とはもう無関係である。
「目的」とは、つねに概念でしかない。
「いま・ここ」でを生きていないと「目的」が必要とされる。
そんな生きたものを固定化して概念化してしまう「目的」を捨てるのが、坐禅。
目的(ゴール)がない世界に通じる道が坐禅である。
それなのに、瓦を磨いて鏡にしよう、と禅師は言う。
坐禅修行(瓦研き)が「一つにつながっている世界」(鏡)を現成するのだから。
これって目的じゃないの?
どうやら目的はだめだが、目指すのは良いらしい。
なぜか?
2つは一見には似ているようだが、実は全く別のものであるからだ。
目的はカタチだが、目指すのは行為だから。
目的は無理に固定化された概念だが、目指すのは動きある「いのち」で切実であるから。
次のステップでは目指すことにも問題があるという。
坐禅によって如来を目指すのではなく、坐禅修行で「一つにつながっている世界」が現成することで如来として存在することになる。
すると問が生まれる。
坐禅の修行にによって自分を初期化したので「次はどうするの」という問が現われてくる。
初期化されることで、土台の出現する。
これが、それ自体が「この上に何を建てるのか」という問いかけになる。
極意の問がある。
それは「ではどうすればよいのでしょうか?」
如何という問いは、坐禅の意味そのもの(即是)である。
如何とは非思量を意味する。
つまり「一つにつながっている世界」の現前であり、それこそが坐禅である。
だめな問もある。
「どちらが正しいのか?」
どちらもよし、というのが眼の前にある現実でないか。
坐禅の修行で「一つにつながっている世界」にいると、このように言えるようになる。
TPOに合わせて、主体に合わせて、関係性に合わせて、順番に合わせて、どちらもよし、と。
坐禅による体感に普遍性はない、だからといって自己の主観の限られたものでもない。
あるものが現れたら現れたと認識し、別のものが来たら、また現れたとおりに現れたと認識する。
これを二元化も概念化もしない。シンプルなものだ。
坐禅して「一つにつながっている世界」を開いたら、それが「悟り」でもう成仏したのだと錯覚してはいけない。
坐っている仏とはどういう仏なのか学ばなければならない。
坐禅が開いているのは土台に過ぎない。
「一つにつながっている世界」を自覚しつつ、仏法に則して主体を再構成していく全過程こそが「さとり」続けるものなのであり、そこに刻々と対応し続ける主体が仏である。
坐っている仏とはゴールではなく、やっとスタートを切ることができるということだ。