29  恁麼   第十七

 

分別されているものを「一つにつながっている世界」としては、どのようにして把握するのか?

認識の構造を明確にしています。

 

オリエンテーション

恁麼とは概念化される手前の状態のことで、恁麼とは「このように」と言う意味です。

諸法実相の「如是」と同じ意味です。

 

「このように」というのは、行為が起こる前の状態です。

ここで言う行為とは、自己が行為を発動する場合の行為ではない。

まず先立つのが行為であり、その行為によって自己と対象が構成される「行為」である。

ナンノコッチャ?

そしてこの行為が「このように」つまり、在るものの在り方を規定する。

だから「わたし」の意思から始まる行為ではなく、私の自己意識が関わらない行為である。

 

「このように」とは現前するものの背後にあるもので、その根拠となる「本質」ではない。

もし認識している自己に根拠を設定すれば、「独我論」になる。

しかし自己にも根拠を求めなければ、「このように」は、自己と世界の存在を構成する土台としての「一つにつながっている世界」の次元を、分断されることで理解される脳の認識のサイドから表現する語句となる。

 

 

「このようである」という判断が可能であるためには、「そのようではない」と認識し得る事態の存在を前提しなければならない。

これがわからなければ「このように」という認識の意味がわかったことにはならない。

 

 

鈴も風も鳴らないが心が鳴る事態を「恁麼」で解釈すれば、「倶寂静」(何も鳴らない)という鳴り方になる。

 

これは、「わたし」の記憶やイメージが鈴に反応していたとしても、それは「わたし」の脳内の自動回路によって生じた反応なので、「一つにつながっている世界」から見ると、反応した理由などは求めはせずに、実際には鈴はなっていないので「何も鳴らない」と同時に、「わたし」は反応するという鳴り方をした、と受け止めるのがありのままの状態です。

ここで、理由や因果や本質を求めようとすると迷ってしまいます。

このようにありのままでいると次のような感覚がおとずれます。

すべてはつながっているのですから、ある時に「鳴らない」ということならば、それは全てに波動します。

またある時に「鳴る」ということならば、これも全てに波動しています。

二つは矛盾していますが、それは分別した世界観から見る結果そのように見えるのであって、「このように」の世界から見ると、あるがままのこのような状態をただ見て受け入れるだけです。

 

あるものが静寂であるなら、すべてのものが静寂です。

風が吹くという静寂があり、鈴が鳴るという静寂がある。

だから皆ともに静寂だといいます。

心が鳴るとは風が鳴るのではない、心が鳴るのは鈴が鳴るのでもない。

そして心が鳴るのは、心が鳴るのでもないと言わねばならない。

なぜか?

恁麼の立場では、〇〇が鳴るという了解が、実際の事態を捉え損なうからである。

事実としてあるのは「チリリーン」という音のみである。

これを言語が「鈴が鳴る」「私が聞く」というように二元図式の枠組みにしたがって分節して了解している。

ところが実際には、まず音の発生という事態があって、その相関項(主語)として、鈴や風や心が言語によって括りだされている。

仮にこの事態を無理やりに直接の言語化をするならば、「鳴るものが鳴る」と言うしかない。

これが恁麼な事態、縁起の次元の現前なのである。

鳴っている鈴は鳴らない、鳴っている心は鳴らない、鳴っているものはさらに何も鳴らない。

鳴っている鈴は言語と主客の世界で仮定されただけでしかない、鈴は鳴ってはいないのだ。

鳴っているものはそう仮定されただけでしかなく、何も鳴ってはいないのだ。

だから倶寂靜。