39 道得 第三十三
言えないことを言うのは必要なのか?道元は肯定し、ウィトゲンシュタインは否定する。
中世の日本は言わざるを得ない変動期であり、20世紀の欧州は嘘を言いまくる嵐が吹き荒れていた。
オリエンテーション
真理や悟りを言葉にすることができるのか?
道元はできると言う。
「言葉にできない真理」なるものがあったとしても、それは「言い得る」という瞬間のために、言い切り・言い直し・言い続ける不断の意志と努力をすれば、それに対する抵抗力として真理は現前する、という。
「一つにつながっている世界」は言語によって決して定式化されないが、言語化の土台を否定したりはしない。
言い得ることだけを言い、言い得ないことを言わない。
言語化を遂行する修行に対してのみ、リアルに言語が現前する。
言語化することで言語化不可能な領域を現前させる。
自らの言説を自ら裏切りつつ展開していくという、言語化の絶えざる試みと不可避な失敗とさらなる更新によって、言語化の手前の領域である「一つにつながっている世界」は現前する。
これが「道得」の主題である。
道得とは、「言い得る」を意味し、また「言いえられたこと」を意味する。従って真理の表現、真理の獲得の意味にもなる。
道という漢字には古来「いう」という意味があり、現代中国語でもそれは受け継がれている、という。
このあたりのことを知っている方は教えてください。
白川静は、「道」とは首を手に持って行くことの意味するという。古い時代には、他の民族のいる土地には、その氏族の霊がいて災いをもたらすので、異族の人の首の呪力で祓いながら進み、清められたところを「道」という。
後になって、当然の筋道としての「道理」として用い、華道や茶道では「いう」の意味に用いられた。
道とはまず「言う」である。従ってまた言葉である。
更に真理を現わす言葉であり、真理そのものである。
菩提すなわち悟りの訳語としてもこれが用いられた。
道元はこれらすべての意味を含めてこの語句を使っているようだ。
その点でこの語はかなり近くLogos に対等する。
繰り返され続けるジャンプこそが、「一つにつながっている世界」が現前していることで、そこに向かって修行に努力することで、修行の仕方に応じて、自己と対象が新たに構成され直されていく。
まさに脱落がなされたときには、そこには必ず、自覚として、新たな「道得」がある。
言語化のない修行はありえない。
単なる成長とは違い、自ら問い考えることが修行(トレーニング)である。
修行者の沈黙はいつか時が来れば、「道得」として爆発する。
それは自ずから言語化されていく。
当人からしてみれば特別に変わったり、不思議なことではない。
当然のことなのだから。