4 一顆明珠(いっかみょうしゅ) 第七
大脳皮質を使って認識しているだけでは、私たちはちょうど洞窟の中だけで暮らしている者のようである、と禅(正法眼蔵)はいう。
そして洞窟そのものも仏の世界であるとして、洞窟の大切さを肯定する。
洞窟という迷いが大切であり、迷いも仏の世界そのものだという。
迷いがなければ悟りもない。
オリエンテーション
ヒトは自分の居場所を知ることで安心することができる。
その時に先人の中には、
私たちは「洞窟」の中にいて、外の世界を知らない、という者もいる。
その中の一人であるギリシャのプラトン(イデア論)は有名だが、この巻では玄沙が以下のように言っている。
僧
「『尽十方世界 是一顆明珠』を分かって、何になるとおっしゃるのです?」
あらゆるものが真実だとわかると、どうにかなるのですか?
先輩であり和尚である玄沙は
「あなた、自分が真っ暗闇のお化けの洞窟に暮らしてるようなもんだってことが分かるんですよ」
と答えた。
一見してもこれだけでは、イデア(真実)と洞窟の関係性やプラトンとの違いはよくわかない。
あらゆるところのすべて(尽十方世界)とは、どんなものなのか?
これはどれくらい広いとか、これほど小さいとかいうものではないし、四角いとか丸いとかいうものではないし、どちらかということでもないし、カタチでもないし、よく動いているというわけでもなく、どこから見ても隠れることなく現われているというのでもない。
まるで答えのないナゾナゾのようだ。
あらゆるところのすべて(尽十方世界)とは、「境や枠や限りが無い」ことを意味するので、上記のように、定義することさえもできないものだ。
枠を決めることではじめて語句になるので、枠がないと言葉として定義することができないからだ。
では一顆明珠とは何なんだろう?
「一顆明珠」とは、「全体が無色透明の珠」のことで、この世のありとあらゆるものはみな真実であり、あらゆる姿を現しながら生き続けていることを意味するための表記である。
自己意識である「わたし」から見る世界とは違い、「全体が無色透明の珠」の世界からこの世を見ると、生まれてきて死んでいくものはなく、あらゆるものは「生」と「死」が同時にあることで、この世にいることができる存在として体感でとらえられる。
ちょうど人体の細胞が、「同時」に1秒間に500万個が「滅」し、500万個が「生」まれることによって、ヒトはこの世に存在していられるように。
「全体が無色透明の珠」には、過去・現在・未来のように分断された時間は流れておらず、あるのは「いま・ここ」だけである。
過去とは、「全体が無色透明の珠」である「いま・ここ」の世界を去ったことで、はじめて計量が可能な世界になったものである。
「全体が無色透明の珠」は生死去来しないものだが、しかしその生死去来にあらざる「全体が無色透明の珠」は表層においてカタチになることで自らを顕わす。
だから「未来」や「過去」の外側に生死去来にあらざる「いま・ここ」があるのではない。
分断された時間である「未来」や「過去」の奥底に「いま・ここ」はある。
表層のカタチによって深層の大いなるものを察し、時に体感される。
たとえば「大海」は、海面においては常に生まれ消えて姿を変え続ける「波」というカタチになるように。
これが尽十方世界は「生死去来にあらざるがゆえに生死去来なり」と言われる所以(由縁)である。
この世では過去と現在は同時に存在するものではない。しかし生死去来はカタチ(仮象)であり生死去来にあらざるものゆえに過去も現在も未来も同時に存在しているのである。
「波」は生まれ消えていくが、「大海」は生まれも消えもしない、ただあるのみである。
つまり深層では時間というものがない。
表層には時間があるが、深層には時間はない。
時間のない深層は、表層ではカタチになり、これが「過去・現在・未来」と呼ばれるものになる。
尽十方世界においては外界と自己は一つである。
どういう意味なのか?
自己と外界は別々ではなく一如であり、私たちと外界はともに「一つ」の顕れである。
これを修行(ありのままを体感する練習)することで「一つ」は悟らせようとしているのである。
そしてその私たちが修行して「一つ」を体感していくことが、「一つ」がちゃんと至極になっていくことでもある。
「一つ」とは、時空がカタチになる前のもので枠がない。
これが尽十方世界であり、一顆明珠である。
この世に実在している自己と呼ばれるものは、いわば自己のようなもの、自己のごときものである。
また外界と呼ばれるものは、いわば外界のようなもの、外界のごときものである。
自己も外界も「〜のような」もしくは「〜のごとき」である。
私たちが迷うのも悟るのも「一顆明珠」が私たちを迷わしめ悟らしめているからである。
迷いというも悟りというもどちらも一顆明珠の一面を体感している顕れにすぎない。
私たちを迷わす働きも一顆明珠である。
つまり一顆明珠は私たちを迷わせて悟らせているのである。
迷いが悪く、悟りが良いともかぎらない。
こうやって思考して判断していることが、あるがままから遠ざける。
迷いの中であっても、純粋無垢に迷っているのがありのままであり、迷いをいけないと非難する気持ちが少しでもあるのならば、それは自己意識である「わたし」が現れ出てしまっているということである。
一顆明珠はこの現実をあらわし、このあらわしによって私たちを一顆明珠に悟入せしめている。
一顆明珠はさまざまな現象をこの世で顕す。
私たちを迷わせ苦しめることにより、わたしたちの改めるべきところを教えているのであり、その教えにより私たちを悟らせているのである。
迷いも悟りも一顆明珠のあらわれというと、迷いと悟りとごっちゃになってわからないという人もいるだろう。
しかしここで如ということを思い出せばいい。
悟りも迷いもともに如なのである。
迷いと悟りはともに如であって全体(実体)ではない。
つまり迷いと悟りは互いをカタチとして顕すことにより成立している。
迷悟は互いのあらわしにより互いをあらわして、その互いのあらわしにより、一顆明珠はあらわれているのである。だから一顆明珠は常に変化するので、分別して分析して一般化することができない。
これは大脳皮質による「分別」の機能では捉えきれないものである。
草木は草木そのままに一顆明珠は到来している。
山河は山河そのままに一顆明珠は到来している。
われはわれそのままに一顆明珠は到来している。
これはこれそのままに一顆明珠は到来している。
あれはあれそのままに一顆明珠は到来している。
あらゆるものはあらゆるものそのままに一顆明珠は到来しているのである。
第二部
実は、玄沙が「自分が真っ暗闇のお化けの洞窟に暮らしてるようなもんだってことが分かるんですよ」
と答える前日に、
僧 「和尚は『尽十方世界 是一顆明珠』とおっしゃったそうですが、どう理解したらいいですか?」
玄沙 「『尽十方世界 是一顆明珠』を分かって、何になるっていうの」
と答えている。
「会得してどうする?」と玄沙は僧に言うが、これは反語であって、どうするもしないもない。
すでに会得しているんだよ、ということである。
すなわち会得してどうする?とは超訳すれば「君は君にちゃんと成り切れ」ということである。
自分になりきるのである。
そしてその自分に成り切ることが一顆明珠を会得することにほかならないのだ、と玄沙は叫んでいる。
「それを得てどうする?」という問いかけを自分に対して真剣に為すと自己意識の「わたし」は崩壊する。
この問いかけは、私たちが未来に向かっている志向を「いま・ここ」の方向へと転換させる。
外部から内部へ、そして現象と私が対になっている世界から、2つが一つになっている世界へ、とだ。
そして「いま・ここ」の自らの孤独と空虚に全面的に直面させる。
この問いかけに真摯に向き合うと、対象を外部ではなく、自分の内側に向けることから始まることになる。
すると「いま・ここ」のあるがままの自分を見ざるを得なくなるのである。
普段の生活の中でヒトは「いま・ここ」である「あるがままの自分」に直面していない。
だから本当の自分が何一つわかることはない。
そして表層である自我を唯一の自分と思っている。
外部と分離してしまっている「わたし」を唯一の自分だと思ってしまっているのだ。
これは孤独と空虚に苛まれる自分を唯一の自分と思っていることになる。
だが、全面的に「いま・ここ」のあるがままの自分に直面する時、今まで唯一の自分と考えていた自我が一つのカタチ(虚構)でしかないことがわかる。
孤独と空虚が私たちを暖かく包み込み始めるのである。
玄沙は他人が自分をどう見ているのかは気にしない。
自分が悟っている人と見られているか、迷っている人と見られているか、そんなことは気にしない。
玄沙はおのれを見る人たちに対して、あなたは私であり、私はあなたなのだ、と気づいてくれることを気にしている。
すなわち、あなたも一顆明珠なのだ、と気づいてくれることを気にしているのだ。
自分が一顆明珠であると会得するとき、自己以外の一切も一顆明珠であると会得するのである。
自己が成仏する、そのとき同時に山川草木悉皆成仏するのである。
そして洞窟こそが顆明珠自身をあらわすためには無くてはならぬ一部であるとわかってくるのである。
一顆明珠は隠れている。
一顆明珠は表層のカタチに隠れて、その自らの隠れているものをもって一顆明珠自らはあらわれているのである。
ちょうど背景を点描することで、まだ塗られていない部分が浮かび上がってくるように。
一顆明珠は一切のものをあらわして、その自らのあらわしたものの中に自らは隠れて、自らは直接にはあらわれず、その自らのあらわしたものによって自らをあらわしているのである。
悩んだり疑ったり、選択したりしないも、「わたし」という小さなものさしで測って結果でしかない。
輪廻の話などを聞いて、来世の心配をすることもない。
自分で自分について判断することは、小さいものをもっと小さなものに似せるだけである。
最初から最後までそのまんまのリアルである「光る珠」は、「わたし」に見えるがままの姿かたちであるし、「光る珠」は「わたし」にとってモノを見る目である。
そこで、真っ暗闇の洞窟から出たり、また戻ったりするためには、手の中ににぎり込んだ「光る珠」が必要だ。
プラトンは洞窟の外に出ることを提案している。
正法眼蔵はそれと同時に、洞窟そのものが洞窟の外の世界と同じであることをも指摘している。
洞窟の中をちゃんと生きることで、そこに浮かび上がってくるものを体感できると言う。
これを会得するために、坐るという行為を勧めている。