50 諸法實相  第四十三

 

二元論は間違っていて、一元論が正しいの?

真実性を担保する「本質」とは何なのか?

 

オリエンテーション

「諸法は実相である」とは、諸々の存在は「そのまま・ありのまま」で真実の姿をしている、ということ。

すると、諸々の存在には、その真実性を担保する何らかの「本質」が備わっているということになるだろう。

仏教の中でもそれを「本質」、つまり仏性だと言う宗派は多い。

しかし、正法眼蔵の解釈は、そうではない。

 

物事が「このように(如是)」存在する、というとき、この「このように」の在り方を何が規定すると道元は言うのか?

道元の解釈は、私たちの「究尽」にかかっているという。

究尽とは、残るところなく徹底的にきわめること。

 

「究尽」する行為、すなわち修行することで現前する物事の在り方、これが「このように(如是)」なのである。

ということは、諸法の実相は究尽という修行において生成され、その実相の現前が仏祖の現成だと言う。

ならば、結局「究尽」の修行が「仏祖」と「実相」を生成することになる。

 

究め尽くすには、一途一心(いちずいっしん)、あらん限りの手数をひたむきに尽くす。

ちょっとの知ったかぶりでは、核心に失礼にあたる。

「私たちは無知によって道に迷うことはない。自分が知っていると信じることによって迷うのだ。」(ルソー )

知らないことではなく、知っていると思い込むことが人を迷わせる。

どんなに学んでも、これで学び尽くしたなんてことはあるはずもない。

 

道元の恩師である天童禅師の頌(教え)

今夜も多くの修行者(牛)が黙々と修業をつづけている。

そこに金色に輝く釈迦如来が現れて実相の教えを説く。

このような貴重な出来事にふさわしい価値がつけられないはずがない。

いまホトトギスがひとひらの雲の上で一声鳴いた。

この光景こそ、実相であり、釈尊の教えに等しいものである。

鳴き声が「実相」になるのは、この道場で日々繰り返す修業によってのみである。

その修業によって世界は実相に見えるのであり、そう見ることができる者を仏と呼ぶ。

これは二元論の一元論化ではない。

一だろうが二だろうが「元」論は無効なのである。