56 洗面  第五十

 

洗い清めるとはどのようなことなのか?

オリエンテーション

歴代諸仏祖師が大切に受け継いできた教えがある。

洗い清めを考えることを課題として修行し、仏法の行為として証明するにはどうすればよいのか? 

 

洗い清めることを、概念化して思考し判断することなどできようもない。かといって思考し判断しなくては、どのようなことか考えることができない。

 

仏祖の伝えてきた修行に、水で身を清めるという仏法がある。

これは日常の浄だけではなく概念の不浄をも脱却する。

 

身は何によって洗われるのか?

水である。

水とは何なのか?

水とはダンマ、大自然の法則の具体的なカタチである。

ダンマ(正法)によって洗われれば浄であり、そうでなければ不浄である。

 

顔を洗わないならば罪となる。

なぜならば顔を洗わずに礼拝しても仏祖を現成させることができず、その縁起を破損させるからである。

礼拝する自己と礼拝される他者は、その存在自体が空であり(空寂)、実体はなく縁起している(脱落なり)

だからこそ、必ず洗面すべきだ。

 

永平寺では洗面前に楊枝を使って歯を磨く。

楊枝は煩悩を除き清浄となるための道具である。

次いで、一杯の桶から、両手に湯を掬い、額から眉毛、目、鼻の穴、耳の中、頭や頬、全体を洗う。

こすって洗う。

耳の裏側も洗う。眼の中も洗う。頭髪や頭頂も洗う。

 

洗面の行為は仏教者としての存在を生成する行為(仏祖の命脈)として正法眼蔵はとらえる。

あらかじめ仏教者がそれ自体で存在していて、朝起きたら教えに従って洗面したのではない。

教えに従って洗面する者がそのときに仏教者になるのである。

 

わたしは起床して洗面せずに坐っていたが、これを読んでから洗面してから坐るようにした。

すると白い光が鮮やかに見えるようになったという体験を持つ。