79 大修行 第六十八
同一性や因果関係を疑わない人は多い。
でも「同じだ」とか「そりゃあ理由はね」とか「あれでこうなったんだよ」と言うことをたやすく信じちゃいけない。
どうして?
これを読む人は第七 深信因果も読んでほしい。
私たちは因果関係を自分の体験で確かめるために大修行をしている。
オリエンテーション
何が仏教の因果だと言えるのか?
因果関係があることを信じる前に自分を使って何度も一つの因果を繰り返して試してみること。
条件を変えて、立場を変えて、場所を変えて、時期を変えて、気持ちを変えて、関係性を変えて、何度も。
自己をならって、修行する。
「ならう」とは、漢字の【習う・慣らう・馴らう・倣う】で「なれる(慣)」から派生したもの。
何回もくりかえして常のことになる、さらに、それによって身につけることが「ならう」の意味である。
見たり聞いたり教えてもらって受け入れるのではなく、自分で何度も繰り返して行うことで確かめることだ。
この因果の確認をあらゆる条件のもとで試行していくことが、大修行の意味。
正法眼蔵は、物体の同一性を担保する実体は認識できない、と宣言する。
過去と山と現在の山の同一性は、物質としての山を根拠にしてはいない。
無常のこの世で、物質のそのもの自体が同一であることはない。
例え話では、山よりも川のほうがわかりやすいかもしれない。
川も人工衛星から見れば同じに見えるが、岸辺に立つと、目の前に流れている川は一瞬前と今とで違うものだ。
川に浮いているもの、波紋、原子成分、小魚、アオコ、川底や沿岸の砂の様子、プランクトンの種類や量は違っている。
ではどうやって、同一性が保証されるかというと、ある人の「同じだ」という認識においてのみ、初めて成立するものだ。
つまり同一性とは観念なのであって、経験的事実や物理としては存在しない。
昨日の自分と今日の自分の同一性を判断できる根拠は、自分自身や第三者がそう思うかどうかにかかっている。
この同一性の意味を見逃すと、修行の意味さえわからなくなる。
何を修行しているのか?なぜ修行しているのか?
つまり、修行者の主体性がどう構築され直されているかが、わからなくなるのである。
虚構の観念(同一性)に頼っている傍観者が、それに気づいてそこから脱却を目指す当事者になることが修行者である。
この同一性が、因果の問題と繋がっている。
何かの使用前と使用後が同じであれば、原因と結果は同一なので、始めから原因と結果という概念は成立しない。
次に原因と結果が狸と狐のように別のものならば、二つは無関係であり、因果関係にはならない。
因果関係が成立するには、原因と結果は異なるものの、そこに同一性や共通性がなくてはならない。
例えば病気の狐と健康な狐のように。
この同一性を思考脳が仮設することで、現象を法則(因果関係)として固定化させることで、安心したがる人たちがいる。
実体視された因果関係を原理として、機械のように正確で自動的に作動するものとして理解して疑わない、もしくはそれを商売にしている人たちである。
しかし仏教では、教えに従って同じ修行を繰り返しているという事実と認識が、仮設された同一性を担保する。
信仰者や傍観者から、行為する当事者に成り代わることで、リアリティを確認するのである。
思考脳の仮設をそのまま信じるのではなく、実際に自分で繰り返して試してみることで、はじめてその仮設を受け入れたり拒否したりする。
言葉を変えると、因果が繰り返す修行がリアリティを可能にする。
この「仏教の因果」は、先達からの教えによって目指す方向を設定し、修行によってその効果が検証されることでのみ、そのリアリティが維持されている。
だから問いが繰り返されるということが、根本的に重要なことになる。
仏教の因果とは、実際に修行してみて、その有効性を検証しなければならない。
これが「修証」すなわち修行して証明するという、仏教の実践である。
仏教で重要なことは、試行しない「傍観者」ではない、ということである。
因果を客観的な原因と結果の単なる自動回路として捉えてしまわないためには、傍観者が当事者になることで、はじめて因果が客体から主体に変わることになる。
このような「自己をならう」行為が仏教の因果である。
一番始めに、「信じるな」と書いたが、実は仏教者も「信心」がないとやっていけない。
仏教の因果は、成仏し涅槃に達することを目指す修行者の主体性を導く。
だが成仏が簡単に成功しないのならば、成功するまでは、仏教の因果を「信じる」ことを必要とするためだ。