84 三時業 12巻本 第八
仏教の因果とはこの現世だけではなく、前世や來世や来来世世まで及ぶという。
仏教が科学的事実で構成されていると言ったのは誰だ?
仏教には信仰を強いられる教えも少なくない。
前世や来世を含めた因果を持ち出したら、検証ができないから、もうただ深く信じる以外にない。
オリエンテーション
例え話がある。
善行の人が、自分を地獄の途中へ追い込む話がある。この原因となる業が何で、それを行ったものが誰かはわからない。
この時に善行の人が最も大切にすることは、彼の行く末の問題ではなく、因果の道理が確かに機能しているかどうかである。
旧約聖書のヨブの場合の方がよっぽどシンプルもしくは可愛い。
苦しみの後はちゃんとカミの寵愛を受け、神への疑いもなくなり、これまでの自己の罪をもヨブは理解できた。
ヨブは現世のスパンの中で因果関係が成立しているので、彼は納得して死んでいけるのだから。
こんな話もある。
一生悪行の人が臨終のときに「悪行ばかりしていたので地獄へ行くのかと思ったらどういうわけか天上への途上である」と思った。
この考え方は因果の道理を否定することになる。
これは間違った邪な考え方なので、命が完全に尽きた時にこの人は地獄で生まれ変わることになった。
悪行の人は現状をみて思ったことを言葉にしただけのつもりであろうが、これは仏教の因果という宇宙の法則を蔑ろにしている証とされたのである。
自分は悪いことしかしてきていないのに天上界に生まれようとしている、と思ったのは多分、いっさいの善悪の区別ができていないのだ。
この善悪の区別を無視するのは仏教の因果の存在を認めていないからである。
そして、このほうが、悪行よりも罪が厳しいことになる。
悪行の人が地獄に堕ちたのは、前世や現世の悪行のためではなく、仏教の因果の道理を無視して、善悪の区別を性急に否定したからである。
悪を理解して悪行をすることのほうが、善悪の因果などは無いと思うよりもずっとマシだというのだ。
恐ろしいことが書かれている。
たとえ無限というほどの長大な時間を経たとしても、一度造られた業は亡びることはない。
条件が満たされれば、必ずその身に還ってきて、自ら果報を受けることになる。
知るべきである。
悪事だけを行ったなら、悪い果報を受ける。
善事だけを行ったら、善い果報だけを受ける。
善事も悪事も行ったならば、善い果報も悪い果報も受けるだろう。
だから修行者は悪事を行うことを避け、まさに善事のみを努力して行うべきである。
しかし同時に救いの言葉もある。
悪業は仏法にしたがって懺悔すれば滅する。
または重い果報が転じて軽くなる。
善業はそれが他人の善行を見て歓喜することでも、その功徳は増長する。
このように因果の道理が確かに作動することを「亡びない」と言うのである。
果報がないわけではないのである。
前世や來世はいつ必要とされるのか?
三時業は、修行者が自らの修行の限界を自覚したときに必要とされる。
限界の自覚は発心と未来を求める。
つまり未完の修行の継続を願う意志が來世をリアルに要請する。
自分の力の限界を自覚すれば、関心事は過去への反省に向かう。
そして涅槃に行けそうもない原因がわからないとすれば、修行への意志が切実であればあるほど原因を知りえない過去に求めざるを得ない。
ここに前世が現前する。
修行への意志と教えへの確信がなければ前世も來世も無意味な概念でしか無い。
正法眼蔵が因果や業を論じているのは、修行の持続の重要性を強調するためである。
仏法においては、修行者が個人的にどういう生涯を送り來世でどうなるかは、まったく関心がない。
関心があるのは、宇宙にあまねく因果の道理が可能にしている仏法の存続である。
「自業自得」の自が単に個人を意味するのではない。
仏法においての「自」は修行や信仰の行為者という意味である。
「自業自得」の「自」とは自己意識のことではなく、修行や信仰を遂行する器のことである。
だから、自己意識は一度休ませて、「一つにつながっている世界」から再構築させて、自を器とし、修行する当事者となることで、未来と過去を切り開く。