89 深信因果 十二巻本第七
因果を信じるな(大修行の巻)と言ったけれど、
ここでは因果を信じろ、と言う。
この矛盾のメカニズムとは?
オリエンテーション
因果を無視するか、もしくは因果を信じるかの問題にスポットライトが当てられれている。
因果に落ちないとは、因果を無視し否定しても良いことを意味し、
因果に迷わないとは、因果を実体視せず、方法として重視することを意味するとする。
この二つの混同は誤りとなるので、後者の因果を重視することこそが、「深く信じる」という行為になるとする。
鳩摩羅多尊者は説く。
「善業悪業の報いには三つの場合がある。現世の行いが現世に、現世の行いが、次の世に、現世の行いが來世の次の世に現れるケースである。
しかし凡人は性急で、この世のケースだけに関心をいだき、因果の道理を否定し、後々に罪や幸福という果報のあることを虚しい教えだと考える。
原因と結果が、モノに影、音に響きがあるように互いに不可分であることを知らず、この因果の道理がたとえ無限の時間を経過しても摩滅することがないことも知らない。」 出典
因果の否定が因果の実体を認める見解に陥ると説いている。
これは大修行の巻で、因果を実体視すると間違いを招くと述べているのと好対照である。
2つを照らし合わせてみると、これらは矛盾しているのかどうか、ベン図を書いてみよう。
二元論で暮らしている人の受け取り方(思考法)

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因果の実体視は間違い 因果の否定が正しい
言語が持つ二元論に囚われていると、因果の実体視はいけないと聞くと、因果のすべてを否定してしまう。
すると、頭で因果を否定しても生活の中で事実となる因果があることが体験的にわかるので、無意識の内に因果を生活に取り入れてしまうのだが、その時に、ニセの因果と道理のある因果の区別を体験しなかったので、ニセの因果をも実体視してしまうことになる。
仏教の思考法


A 確かな因果 試すことで確かめられる因果 トレーニングによる修証
B 信じる因果 試しても確かめられない因果 深信因果 前世、来世
C 実体視してはいけない因果 試しても確かめられない因果 「わたし」を基準にした因果
仏教の思考法は、因果の中には、
試すことで確かめられる因果Aと、
試すことはできないが諸仏や祖師から伝わっている因果Bと
一見すると因果関係があるように見えるが、試したら無効である因果関係が無いCがある。
そこで、
このCの否定とAの修行を、大修行の巻で説かれ、
このBの肯定を、深信因果の巻で説かれている。
別の区分の仕方は、縦軸は試すことができるかどうか、横軸はそれが宇宙法則の因果関係であるかどうかで図を
書くこともできる。


A 確かな因果 試すことで確かめられる因果 トレーニングによる修証
B 信じる因果 試しても確かめられない因果 深信因果
C 実体視してはいけない虚構の因果 試しても確かめられない因果 「わたし」を基準にした因果
D 実体視してはいけない虚構の因果 試しても確かめられない因果 仏教は思考の断念を要求する
悪業を造る者は悪い世界に堕ち、善業を修行する者は良い世界へと上がっていく。
もし仏教の因果の道理を虚しいものとするならば、諸仏がこの世に出現することはなかったはずである。
だが現代都市文明は、善も悪も枠を作らないとカタチにならないのを知って、都会の都合に合わせて枠を作る。
都会の中だけに通用する悪と善を作り出したのに、これこそが真理だと固く妄想し、これを都会の外にまで強要することで、他者を踏みにじっても気がつかない時代に突入して久しい。、
すみやかに様々な因果の道理を学ぶべきである。
何を自らの行為の原因とし、何を結果として行動するのかを考えることが、トレーニングの根本的方法だから