95 八大人覺  12巻本 第十二

 

 

仏教の考え方はなんとなくわかったような気になったし、もう果てしなく読むのもめんどくさい。

では具体的には何をどうすればいいの?

 

オリエンテーション

ここに実践の王道が説かれている。

 

1・少欲(欲をわずかにす)

2・知足(足るを知る)

3・楽寂静(寂静を楽[ねが]う)   平常心upekkaを楽しむ

4・勤精進(精進を勤める)      自利に執着しない努力→自分のためには頑張らない

5・不忘念(念を忘れず)       気づきsatiを怠らない

6・修禅定(禅定を修める)      瞑想をマスターする

7・修智慧(智慧を修める)      宇宙の法則dammaを学び、自己意識を掃き清める

8・不戯論(戯論せず)        実相を究尽   あるがままを知る 莫妄想

 

この巻は、仏垂般涅槃略説教誡経 / 鳩摩羅什訳 The Bequeathed Teaching Sutra

からの引用を大部分としている。、

 

 

 

言葉とは存在への捧げ物である。

水と名付けられなければHOは水ではない。水はH2Oに張り付いたラベル(標識)ではなく、H2Oを存在させる供養である。

供養とは パーリ語pYjanD の訳語で英語のveneration、 崇敬の念をもって捧げること。

供犠することで名を持ち、実体をもつことになる。

名を持つということは、「一つにつながっている世界」から「分別された世界」でカタチのあるものに移行したということ。

カタチを持たないと誰からも認識されていないと、それは存在していないことになる。

そのためには、念(意識)によって大切に承認される必要がある。

 

 

不在から始まる仏教   

智慧を修めるとは自己を祓い清めること。

大脳の認識による「わたし」なんか本当はないんだよ、ということから仏教の教えは始まる。

そしてこの「ないんだ」、という自覚が、内蔵意識や深層意識の「わたし」を呼び起こす。

そして脳による決めつけられた言語ではなく、ありのままのH2Oに対して崇高な念を持つことで「一つにつながっている世界」から「分別された世界」で名を持つことになる。

死者に人形を供養するように。

深層意識(魂)の「わたし」が供養することでカタチになり、脳の「わたし」が存在する。

 

しかし「分別された世界」だけでカタチに接すると、カタチとは金、名誉、愛、正義、神といった元の「一つにつながっている世界」であることを蔑ろにしてしまい、脳の「わたし」の単なるモチベーションの源になる。

そして深層意識(本当)の自分(身体、魂、心)まで供養すると、表層の「わたし」の存在を強いることになる。

これは「一つにつながっている世界」から切り離されたカタチになってしまう。

何事であれ強いられて行うことは苦役である。

自己であることは課された苦しみであると仏教は教える。

 

そうさせられているにすぎず、そうせざるをえないと仏教は真っ向から断言する。

切り離された「わたし」には理由がない。

 

仏教は自己の苦しみを解決するのではなく、表層意識である自己を消去することにかける。

それなのに消去する自己はいなくてはならない、と言う。

この消去する自己とは「ならうべき自己」である。

段階があるのだ。

ステップを踏まないでいきなり自己を忘れることはできない。

まずは自己をならう(習う・慣らう・馴らう・倣う)。

そして表層意識と深層意識の間の一瞬にいることのトレーニングをはじめる。

はじめは難しい。たった一瞬でしかないがその一瞬を拡げる練習をする。

 

「仏道をならうとは、自己をならう也。自己をならうといふは、自己をわするるなり。」