11 有時    第二十

 

 

本文研究

 

 

古佛言、

有時高高峰頂立、

有時深深海底行。

有時三頭八臂、

有時丈六八尺。

有時挂杖拂子、

有時露柱燈籠。

有時張三李四、

有時大地虚空。

 

意識と結びつた時がカタチを創り出す。

如来や菩薩はTPOで臨機応変、様々な手段で大自然の「空」をカタチにして、それぞれの状況に同調し、共鳴する。

 

 

 

いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。丈六金身これ時なり、時なるがゆゑに時の莊嚴光明あり。いまの十二時に習學すべし。三頭八臂これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時に一如なるべし。

 

 

時は即ち存在であり、存在はみな時である。この時を有時という。

今という時の一日について考えよ。

三頭八臂の阿修羅像(欲望を持つ者)はそのまま現在の時である。

阿修羅の姿はそのまま時であるから今という眼前の一日と全く同じである。

 

 

 

有時とは、パワーであり、ベクトルであり、存在である。仏身も有時であり、荘厳な輝きがある。

 

こちらがすることで、何かはあり方を決める。

たとえば机がそういうものとして扱われている限りにおいて机である.

これが有時がカタチを創り出す働きである。

 

存在「と」時間が一つになっているのを体験されるだけで、頭の概念でつなげることはできない。

有時には「と」がない。坐禅が開く体験があるからだ。

坐禅を「する」と自己意識が融解して、分別機能はほぼ停止し、「〇〇がある」というパターンでの認識は無効になる。

そうなると残るは走性。 主体とも対象とも言い難い感覚の連続と明滅である。

「存在」にしろ「時間」にしろ、言うも無意味である。

 

「する」ことが変われば、認識機能が働かないこともあり、存在の仕方も時間との付き合い方も一変する。

 

 

「あるとき」には或る時と有る時という二つの意味がある。

通常で使っている或る時とは過去の話。この或る時の時間は過去・現在・未来と流れる。

過去の自己を現在の自己に対応させ、未来の自己を推定している。

 

 

それに対して有る時は、「いまここ」に、有る時空を意味する。

有る時とは、時(いまここ)が有(存在)であり、「存在がいまここ」である、ということ。

過去の存在は過去の自己にしか対応しない。

有時(時節)は常に「空」から因縁によって湧き出るもので、このときこのときに在り方がある。

つまり、ことごとくすべての存在が「いまここ」でしかない。

法位のことです。ダンマの法則。宇宙のあり方。

 

時節因縁のいまここでやるべきことをしっかりとやる。

これも修行であり、仏性を活性化する行為である。

急に言われると信じられないことだけど、

「有る時」の力は未来だけではなく過去も変える。

苦しみを過去のものにしない、苦しみも仏性なのだから、その仏性とちゃんと生きることを大切にしようと、道元は言う。

終活など馬鹿らしい。まだ生きているのだから、生きている時はしっかり生きて、死ぬ時はしっかり死ねばいい。

これが道元の言う「有時」です。

私たちはいまここにしかない。映画のフィルムやテレビのフレームを連続させることで見える幻影ではなく、一コマ一コマ、一フレーム一フレームを見るのがいい。

 

マッジマ・ニカーヤMajjhima Nikāya  経蔵の内の、第2番目の「部」である中部の131

過去を追うな。

未来を願うな。

過去はすでに捨てられた。

未来はまだやってこない。

だから現在のことがらを、

いまこことして観察し、

揺らぐことなく動ずることなく、

よく見きわめて実践せよ。

ただ今日なすべきことを熱心になせ。

誰か明日の死のあることを知らん。

 

 

 

 

 

 

 

十二時の長遠短促、いまだ度量せずといへども、これを十二時といふ。去來の方跡あきらかなるによりて、人これを疑著せず、疑著せざれどもしれるにあらず。衆生もとよりしらざる毎物毎事を疑著すること一定せざるがゆゑに、疑著する前程、かならずしもいまの疑著に符合することなし。ただ疑著しばらく時なるのみなり。

 

 

一日二十四時間が長いか短いか広いか狭いか、きっぱり量りもせずに、人はこれを一日と言っている。日常の一日が朝に来て、夜になれば去るはっきりしたものであるから

人はこれに疑いを持たず、しかし疑いを持たないからと言って知っているわけではない。

このように、人は見当がつかない諸所の物事にいちいち疑いを持つとは限らないから、また疑いというものは対象を定まった像に結ぶことがないことによって「疑い」であるから、本来はっきりとわからない状態の「疑う前」と疑いを持った今の「疑い」とは必ずしも一致することがない。知っているようで実は知らないということも、定まらないままの形相としてやはり時であるほかはない。

 

 

 

 

何かを疑うとする。すると以前と以後では対象が必ずしも同じように見えるわけではない。

「する」(行為)とは、有時の力で「空」からカタチを創ることである。

あらゆる行為は有時である。

疑うという行為も有時である。行為によって対象はそれに準じた存在の仕方をする。これが「有時」の働きであり、力であり、意味だ。

正法眼蔵でいう有時は、あくまでも行為において自覚されるもので、独立した抽象的かつ実体的な流動体の時間ではない。

ならば、「わたし」(主体)と対象の関係性が別々にあるのではなく、2つは直接につながり一体である。

私の意識が有時の力で、現前のカタチを創り出しているのだから。この一瞬に顕れ、この一瞬に消える。

「いま・ここ」にしかないカタチの生死。

 

われを排列しおきて盡界とせり、この盡界の頭頭物物を時時なりと見すべし。物物の相礙せざるは、時時の相礙せざるがごとし。このゆゑに同時發心あり、同心發時あり。および修行成道もかくのごとし。われを排列してわれこれをみるなり。自己の時なる道理、それかくのごとし。

 

「する」は有時の力で、「空」からカタチを創る出すこと。

これらを秩序づけて首尾一貫に構成すると、「わたし」ができる。

逆に言えば、「わたし」によって首尾一貫に並べることを止めれば、カタチも時間も実体がなくなる。

ところが、自己が志を起こすと、有時が世界(「わたし」と対象)を一挙に創り出す。

修行や発心も同じことである。

「する」ことで有時が働き、カタチは変化して顕れることになる。

 

 

 

 

 

恁麼の道理なるゆゑに、盡地に萬象百草あり、一草一象おのおの盡地にあることを參學すべし。かくのごとくの往來は、修行の發足なり。到恁麼の田地のとき、すなはち一草一象なり、會象不會象なり、會草不會草なり。正當恁麼時のみなるがゆゑに、有時みな盡時なり、有草有象ともに時なり。時時の時に盡有盡界あるなり。しばらくいまの時にもれたる盡有盡界ありやなしやと觀想すべし。

 

しかあるを、佛法をならはざる凡夫の時節にあらゆる見解は、有時のことばをきくにおもはく、あるときは三頭八臂となれりき、あるときは丈六金身となれりき。たとへば、河をすぎ、山をすぎしがごとくなりと。いまはその山河、たとひあるらめども、われすぎきたりて、いまは玉殿朱樓に處せり、山河とわれと、天と地となりとおもふ。

 

たとえば、歩いていくと川を過ぎ山を過ぎて行く。

そして目的地の立派な家に到着しても、今も山川はもとの所にあるだろう。

普段(凡人)はこのように、山や川と自分は、それぞれ別にに存在する、と考える。

一つの目的に向けると前後に秩序づけられた行為とその結果が生まれる場合の時間である。

しかし、それだけが時間ではない。

 

 

しかあれども、道理この一條のみにあらず。いはゆる山をのぼり河をわたりし時にわれありき、われに時あるべし。われすでにあり、時さるべからず。時もし去來の相にあらずは、上山の時は有時の而今なり。時もし去來の相を保任せば、われに有時の而今ある、これ有時なり。かの上山渡河の時、この玉殿朱樓の時を呑却せざらんや、吐却せざらんや。

 

 

この道理だけではすまない。山を登り河を渡ったとき、その時に自分が「いる(存在)」のだから、その時の自分にはその時があったはずである。

自分がその時に存在したのだから、その存在からその時は離れることがないはずである。

時が去来するものではないのならば、山に登った時は「有時の而今」である。

時が去来するものであるならば、「わたし」は「いま・ここ」で生きているので、「有時の而今」がある。

時の去来があるかないかに関わらず、どちらも有時である。

かの山に登り河を渡った時は、今の邸宅住いしている時を呑み込みもしないだろうし、吐き出しもしないだろう。

 

 

 

「する」が「わたし」と対象を生成するので、まず山に登ることが「わたし」である。

「わたし」において時間が存在する。

「わたし」がここにすでにあるということは、時間が自己と別に流れ去るわけがない。

 

時間を直線型に認識しなければ、山に登る行為のその「時」は、存在と時間の一致を自覚する体験である「而今」である。

直線型の時間は来たり去ったりするが、而今は来たり去ったりしない。 

「する」ことで立派な楼閣もみすぼらしい四阿も現前させる、

これが「有時」の事態の象徴である。

而今=有時とは、存在と時間が一致していることを明瞭に自覚している事態のこと。

「わたし」と対象物が渾然としている事態のこと。

「空」が常にカタチを生み出し続けている事態のこと。

カタチが常に「空」に消滅し続けている事態のこと。

 

カタチと別のカタチは前後の秩序を持たない。

カタチは「空」となり、その「空」から新たなカタチが生まれでてくる。

即ち過去・現在・未来の時間構造を持たない。

この而今は、目的に向けるために行為を前後に整序する意識を解除すると現出する。

而今は旅行や航海ではなく、放浪や漂流の行為に発現する事態のことだ。

時間と言わず事態と言うのは、これが直線上の時間を微分して得られる点的瞬間としての「今」とは異なるからだ。 

だから時間に「流される」こともない。

 

 

 

三頭八臂はきのふの時なり、丈六八尺はけふの時なり。しかあれども、その昨今の道理、ただこれ山のなかに直入して、千峰萬峰をみわたす時節なり、すぎぬるにあらず。三頭八臂もすなはちわが有時にて一經す、彼方にあるににたれども而今なり。丈六八尺も、すなはちわが有時にて一經す、彼處にあるににたれども而今なり。

 

山に入って高みから峰々を見渡すようにすると「時」は流れ去るようにすぎない。

記憶の整序をしなければ、流れ過ぎる時間は現前しない。

目的もなく漠然と電車に乗っている者にとっては、いつどこに着くかはまったく問題ではない。

車窓の景色は窓枠内で移り変わっているにすぎない。

その景色を後から思い出したとしても、記憶に明確な前後の秩序はなく、あれこれ見えたなあ、程度の話になるだけである。

 

 

しかあれば、松も時なり、竹も時なり。時は飛去するとのみ解會すべからず、飛去は時の能とのみは學すべからず。時もし飛去に一任せば、間隙ありぬべし。有時の道を經聞せざるは、すぎぬるとのみ學するによりてなり。要をとりていはば、盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり。

 

そうであるから、松も時である、竹も時である。時とは飛び去るものとだけ理解してはならない、飛び去ることが時のはたらきとだけ考えてはいけない。

時というものがもし飛び去るだけであったなら、飛び去った跡に時ではない隙間ができるはずだ。

有事という真理に耳を傾けないのは、時とは過ぎ去るモノとだけ考えるからである。

要をとっていえば、全世界にある処の全存在は連なりながら「時」である。時は即ち存在であり存在はすべて時であることによってわが実存は時である。吾有事である。

(私というものが、本当にあるのか、あるいは時計の針で生きているのか、内面的な感情で生きているのか、実感でいきているのか、そういうことを考えること自体、すべて時の中にある。

時という漠然としているように見えるけれど、決して過ぎ去っていくものではない。

宇宙とは永遠の今そのものだ。

自分もまた永遠の今そのものだ。そこのところを修行することによって、我々は永遠の今という瞬間の中で、永遠そのものと合体し一致した体験を得ることが出来る。そこに禅の極意がある。それが究極の覚り、即ち真理そのもである。)

 

 

有時に經歴の功徳あり。いはゆる今日より明日に經歴す、今日より昨日に經歴す、昨日より今日に經歴す。今日より今日に經歴す、明日より明日に經歴す。經歴はそれ時の功徳なるがゆゑに。

古今の時、かさなれるにあらず、ならびつもれるにあらざれども、青原も時なり、黄檗も時なり、江西も石頭も時なり。自他すでに時なるがゆゑに、修證は諸時なり。入泥入水おなじく時なり。

 

分節する以前の「いま・ここ」の時間意識を而今(じこん、にこん)といい、この運動が連続された軌跡を「経歴」という。

有時の見方では、あえて「古今」を言うにしても、それは積み重なるものでも、並び積もるものでもない。

なぜならその順番が言える以上、直線運動と基本的な構造は同じで前後関係を持つのだが、昨日と今日には直接の関係はなく、「空」が昨日になり、「空」が今日になっただけである。

2つの間に直接の因果関係があるわけではないので、ここに時間はない。

取引や競争などの目的に向かう行為によって、通常我々が意識する時間が構成される。

 

 

いまの凡夫の見、をよび見の因縁、これ凡夫のみるところなりといへども、凡夫の法にあらず、法しばらく凡夫を因縁せるのみなり。この時、この有は、法にあらずと學するがゆゑに、丈六金身はわれにあらずと認ずるなり。われを丈六金身にあらずとのがれんとする、またすなはち有時の片片なり、未證據者の看看なり。

 

「わたし」(凡夫)を拘束しているのは見方・考え方だけである。

拘束されている間は、流れる時間や自分の体はそれ自体で存在していると考える。

拘束されなくなると、この時間もカタチあるものも、ただある一定の期間だけ保持されているように見えるだけ、ということを実感する。

すると、如来はそれ自体で存在するものではなく、如来と「わたし」は本質的に別のものという認識も出てくる。

だからといって如来と自分とは別ものと錯誤するのも、これまた「有時」のうちである。まだ仏教の確証を掴まぬ者の暫時の考え方にすぎない。

 

 

いま世界に排列せるむまひつじをあらしむるも、住法位の恁麼なる昇降上下なり。ねずみも時なり、とらも時なり、生も時なり、佛も時なり。この時、三頭八臂にて盡界を證し、丈六金身にて盡界を證す。それ盡界をもて盡界を界盡するを、究盡するとはいふなり。

 

一定の条件の下に、段取りをしているから、そのようになっている。

条件とは「時は金なり」のごとき、時間や秩序など分別を必要として、いまだ「する(行為)」のパターンの範疇にあることである。

有時の時は「三頭八臂」という化物(潜在性・可能性)がいまここに「ある」ことで、自ら全存在を生成するものであることを証明している。

これが「窮め尽くす」ということである。

 

 

丈六金身をもて丈六金身するを、發心修行菩提涅槃と現成する、すなはち有なり、時なり。盡時を盡有と究盡するのみ。さらに剩法なし、剩法これ剩法なるがゆゑに。たとひ半究盡の有時も、半有時の究盡なり。たとひ蹉過すとみゆる形段も有なり。さらにかれにまかすれば、蹉過の現成する前後ながら、有時の住位なり。住法位の活鱍鱍地なる、これ有時なり。無と動著すべからず、有と強爲すべからず。時は一向にすぐるとのみ計功して、未到と解會せず。解會は時なりといへども、他にひかるる縁なし。去來と認じて、住位の有時と見徹せる皮袋なし。いはんや透關の時あらんや。たとひ住位を認ずとも、たれか既得恁麼の保任を道得せん。たとひ恁麼と道得せることひさしきを、いまだ面目現前を模索せざるなし。凡夫の有時なるに一任すれば、菩提涅槃もわづかに去來の相のみなる有時なり。

おほよそ籠とどまらず有時現成なり。いま右界に現成し左方に現成する天王天衆、いまもわが盡力する有時なり。その餘外にある水陸の衆有時、これわがいま盡力して現成するなり。冥陽に有時なる諸類諸頭、みなわが盡力現成なり、盡力經歴なり。わがいま盡力經歴にあらざれば、一法一物も現成することなし、經歴することなしと參學すべし。

 

 

經歴といふは、風雨の東西するがごとく學しきたるべからず。盡界は不動轉なるにあらず、不進退なるにあらず、經歴なり。經歴は、たとへば春のごとし。春に許多般の樣子あり、これを經歴といふ。外物なきに經歴すると參學すべし。たとへば、春の經歴はかならず春を經歴するなり。經歴は春にあらざれども、春の經歴なるがゆゑに、經歴いま春の時に成道せり。審細に參來參去すべし。經歴をいふに、境は外頭にして、能經歴の法は東にむきて百千世界をゆきすぎて、百千劫をふるとおもふは、佛道の參學、これのみを專一にせざるなり。

 

 

「有時」の連続はたとえば春のようなものである。春にはさまざまな景色がある。景色とは別に流れている時間などでは無く、「有時」が次々と新芽を大地から覗かせる。

移り変わること自体が春ではない。この移り変わりこそは、春の「有時」がカタチを湧き上がらせる。

ここのところを繰り返して探究するのがいい。

「有時」の連続とは、対象でも、それ自体で存在するものでも、主体でも、方向があるものでも、経過するものでもない。

有時が宇宙の意識と一体になることでカタチが生み出され続けることをいう。

 

 

 

藥山弘道大師、ちなみに無際大師の指示によりて江西大寂禪師に參問す、三乘十二分教、某甲ほぼその宗旨をあきらむ。如何是師西來意(如何ならんか是れ師西來意)。

かくのごとくとふに大寂禪師いはく、

有時教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむ)、

有時不教伊揚眉瞬目(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしめず)。

有時教伊揚眉瞬目者是(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむる者是)、

有時教伊揚眉瞬目者不是(ある時は伊をして眉を揚げ目を瞬がしむる者不是なり)。

藥山ききて大悟し、大寂にまうす、某甲かつて石頭にありし、蚊子の鐵牛にのぼれるがごとし。

大寂の道取するところ、餘者とおなじからず。眉目は山海なるべし、山海は眉目なるゆゑに。その教伊揚は山をみるべし、その教伊瞬は海を宗すべし。是は伊に慣習せり、伊は教に誘引せらる。不是は不教伊にあらず、不教伊は不是にあらず、これらともに有時なり。

 

 

 

山も時なり、海も時なり。時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壞すれば山海も壞す、時もし不壞なれば山海も不壞なり。この道理に、明星出現す、如來出現す、眼睛出現す、拈花出現す。これ時なり。時にあらざれば不恁麼なり。

 

 

山も時である、海も時である。時でないなら山も海も存在しない、

山海の「いま・ここ」にあるのも有時のためだ。

有時が働かなければ山海も壊れる。

有時が機能していれば、山海も消え去ることはない。

この道理によ覚りはり明星のように出現する。

真理は出現する。仏道は出現する。釈迦の伝法は出現する。

これが時である。時の顕在化でなかったならば、こうした出現はない。

 

 

 

葉縣の歸省禪師は臨濟の法孫なり、首山の嫡嗣なり。あるとき大衆にしめしていはく、

有時意到句不到(有る時は意到りて句到らず)、

有時句到意不到(有る時は句到りて意到らず)。

有時意句兩倶到(有る時は意句兩(ふた)つ倶(とも)に到る)、

有時意句倶不到(有る時は意句倶到らず)。

 

日常に流れている時間は前後の出来事という秩序によって作り出されている。

これで因果概念が作られる。

不可逆的な前後関係が確定するのだ。

因果関係があるというのは日常の時間であることを意味する。

 

言語は時間に決定的に作用する。道元の言う句とは言葉、意とは意味のことだ。

 

ある時は、意味を言葉が十分捉えていない。

または、言葉は尽くされるのだが、意味ははっきりわからない。

またある時は、言葉の表現も適切で意味もよく分かる。

またそうでない時は、言葉も足りないし、意味もわからない。

 

この4つの文には根底に一つの共通点がある。

それは対象には本質があり、それが自己の感覚器官に現象として受容され、マインドがその現象から本質を判断している、という現象と本質の二元論である。表層と深層と言ってもいい。句と意味と言ってもいい。

この場合、本質が意味で、感覚器に受容されるのは現象である音節や文字の「句」になる。

これは基本的に、一対一の対応があらかじめ言語秩序の全体系から保証されている、という考え方である。

しかし「而今」の観点はこの考え方を覆す。

 

 

 

意句ともに有時なり、到不到ともに有時なり。到時未了なりといへども不到時來なり。意は驢なり、句は馬なり。馬を句とし、驢を意とせり。到それ來にあらず、不到これ未にあらず。有時かくのごとくなり。

 

意味も言葉も同じく「有時」としての存在である。

ならば、本質と現象や「わたし」と対象のように各々を別の存在と考える二元論を前提にして、十分であるとういう「到」とまだ十分ではない「不到」を分けたとしても、どちらも「有時」によるものでしかない。

 

意味と言葉が正確に対応することで言語秩序が成り立ち、これを前提にして言語そして論理思考に対して否定する。

意味と言葉は正確に対応していないし、秩序は表層のカタチであって、深層ではどちらも差があるわけではない。

意味と言葉の一対一対応の具体を確定する基準がないので、「到」「不到」を判断する基準となるものが、それ自体として存在しない。

だから「到」や「不到」と言っても、それは言語活動のあれこれにすぎない。

 

ただ言い表すという「到」と「不到」の表現行為こそが、言語を作っているだけのことである。

あえて何かを言おうとする行為が、そのたびに言語と意味を産出してしまうだけである。

ならば言葉が意味を作り出し、意味が言葉を引き出すこともあろう。これが「有時」としての言語である。

 

 

到は到に罣礙せられて不到に罣礙せられず。不到は不到に罣礙せられて到に罣礙せられず。意は意をさへ、意をみる。句は句をさへ、句をみる。礙は礙をさへ、礙をみる。礙は礙を礙するなり、これ時なり。

 

「到」「不到」との対比で考えない。どちらも言葉にすることで現成した言語行為の結果である。

「一つにつながっている世界」から「分別されている世界」を見ると、「そういうものとして成立する」のであって、「到」が限定されているのは「到」の定義によってであり、それと対立する「不到」ではない。

「一つにつながっている世界」では2つは対立していないだけど、有時によってカタチ(概念化)されると2つは対立しているように見えるだけなんだから。

分別されたいる世界で、存在するものはそれが存在するように存在している、ということである。

 

礙は他法に使得せらるるといへども、他法を礙する礙いまだあらざるなり。我逢人なり、人逢人なり、我逢我なり、出逢出なり。これらもし時をえざるには、恁麼ならざるなり。

又、意は現成公案の時なり、句は向上關捩の時なり。到は脱體の時なり、不到は即此離此の時なり。かくのごとく辨肯すべし、有時すべし。

 

有時の観点、すなわち「一つにつながっている世界」から見ると、「わたし」ということを思ったから「わたし」ができた。これを自覚していることを「我逢我」と言う。

また、あらゆる意味は「その存在への問」を明らかにカタチ(枠に嵌める)にする「有時」で作られる。

言葉は、常識的な言語秩序(關捩)を超えていく、その「時」として現成する。

だから先の「到」もなにかの基準を持つものに保証されて言われているのではない。それ自体で存在するものという二元論的考え方を脱却している、そういう「時」においての事態である。

「有時すべし」 

有時は動詞である。

意識が有時と出会い、行為になる。

「する」ことがカタチを創り出す(行為が存在を生成する)。

これは、一つにつながっている世界から分別された世界の繋がりのメカニズムを端的に言い切るものである。

 

向來の尊宿ともに恁麼いふとも、さらに道取すべきところなからんや。いふべし

意句半到也有時、

意句半不到也有時。

かくのごとく參究あるべきなり。

教伊揚眉瞬目也半有時、

教伊揚眉瞬目也錯有時、

不教伊揚眉瞬目也錯錯有時。

恁麼のごとく參來參去、參到參不到する、有時の時なり。

 

正法眼藏有時第二十

 

寛仁治元年庚子開冬日書于興聖寶林寺

元癸卯夏安居書寫 懷弉

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

宗門人、つまり特定の宗派に属する私には、道元禅師の曹洞宗でなくて佳かった、というのが現在の正直な感想である。禅師はあまりにも巨大であり、しかもその巨大さが著書として残っているからである。

 イエス・キリストも釈尊も、自分ではものを書き残さなかった。そのことで、どれだけ後世の宗教者に地域や時に応じた自由な説法の余地が与えられたか、計り知れない。

 宗祖の巨大さは組織そのものの成り立ちにも影響する。我が臨済宗が十四もの大本山が並立しているのと違い、曹洞宗には整然たる総本山制がある。それも道元禅師の巨大さのせいだろう。だから、かなりの違いでも家風として受け容れてしまう臨済宗と違い、おそらく私のようなはみだし者には住みにくかろうと思えるのだ。

 しかし蘭渓道隆は「済洞(臨済と曹洞)を論ずることなかれ」と言った。道元禅師にもその心がある。私にとっても禅師は多くの教えをくださった偉大な祖師である。しかも私が禅師の宗門に属さなかったことで、その出逢いは却って鮮烈であったように思える。私だけでなく、おそらく人は義務で学ぶことより勝手に学んだことのほうが心に染みやすいのだろう。

 最初の出逢いは耳からだった。まだ僧侶になるまえ。知人のお通夜で聴いた「修証義」のなんとリズミカルで緻密だったことか。むろんそれは禅師の著作そのものではないし、高校生くらいだった当時の私にどれだけ理解できたかも疑わしい。しかし確信に満ちたその口調と隙のない言語、そしてそこに鏤(ちりば)められた禅師の言葉の力は、故人を導く杖として相応しいような気がした。 

 愛語能く廻天の力あるを学すべきなり。それはお通夜から離れても忘れられない言葉になった。そして振り返って教科書に載っている禅師の肖像を見たが、精緻な思考を窺わせる眼光と意思の強そうな顎のラインがきわめて強い印象として迫った。

 その後は折に触れて『正法眼蔵』を読んだ。ただ通読したことはないため、気がつくとどうしても似たような部分を読んでいる「坐禅儀」「現成公案」「渓声山色」「諸悪莫作」「虚空」「生死」などだが、最も頻繁に開いたのはやはり「有時(うじ)」だろう。

 ハイデッガーの『存在と時間』も、道元禅師の「有時」も、理解できたとは思っていないが、それでも「有時」は短いこともあり、噛みしめるように繰り返し読んだ。そして「唯識」を学んでから読み返した最近になって、ようやく「有時」が臍(ほぞ)落ちした気がする。

 客観的存在も客観的時間も存在せず、世界は吾有時(わがうじ)そのものであると禅師は云う。「尽界にあらゆる尽有は、つらなりながら時時なり。有時なるによりて吾有時なり」

 私は「有時」を理解するために、「物語」という言葉を使ってみた。

 たとえば「昨夜寝て今朝起きた」と、我々は簡単に言う。しかしそのことは、「寝たときの今」と「起きたときの今」を「排列」してできた認識である。換言すれば「昨日寝て今朝起きた」という小さな「物語」なのだ。我々はそうした「物語」を産むことで時間をあらしめ、また自己存在を認識することになる。

 むろん「排列」する際には省略も含む。たとえば「最近私はとても調子がわるい」という時間と自己を提出しようと思えば、たまたま調子がよかったことは全部省き、美味しかった夕食もはずし、面白かった映画や彼女との会話も削ぎ落としてようやく成立する「物語」なのだと知るべきだろう。つまりあらゆる時間もそこでの自己存在も、厳密な意味ではフィクションなのである。

 過去・現在・未来と、時が一つの方向に流れていくなどと思うのは、仏道を専一に学んでいないからだと禅師は云う。三つの時制は実は「つらなりながら時時」と並んでおり、それを我々は「経歴(きょうりゃく)」している。この「経歴」こそ、「排列」からさらに複雑化した「物語」と云えるだろう。一つの「物語」を語るために、我々は無数の「有時」を如何様にもアレンジし、改変すると云うのだ。

 痛快なことに、禅師は「修正」即ち悟りも一つの「物語」、「物語がないという物語」に過ぎないのだと喝破する。このときこそ明星が輝き、如来も出現する。しかし思弁的になりすぎないのが禅師の凄さだろう。結局「物語」を離れては生きられない我々のために、「住法位の活鱍鱍地なる、これ有時なり」と、説示してくださる。これは私には、これまでのあらゆる時におけるあらゆる私(尽時の尽有)が、活発に活き活き溌剌してくるような己のあり方を模索せよ、と聞こえる。我々はどこまで行っても時間的存在であることを免れない。それならば、という懇切なる説諭である。しかし「尽時の尽有」を剰(あま)すところなく「究尽(ぐうじん)する」というのは、遥かな道である。

 禅師の言葉のとおり、目の前の松も竹も、かつて見た山も海も、あらゆる体験「彼方にあるに似たれども而今(にこん)なり」である。それならば道元禅師もその著作も常に而今(たった今)にあると言わねばならない。我々はいつでも道元禅師に聴くことができるのである。

 自力と他力について考えていた時もそうだった。一遍さんも「自力他力は初門のことなり」と言う。「往生と名づけ見性と云う、あに両般有らんや」とは白隠禅師。盤圭さんは「我宗は自力他力を越えた我宗でござる」と仰る。しかし私には、道元禅師の言葉が解りやすい。「自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」この「現成公案」にある言葉こそ、自力から他力、迷いから悟りへの推移を語って余りあるように思えるのだ。

 臨済は「黙照禅」と曹洞宗を貶し、曹洞は「看話禅」と言って臨済宗を貶した時代があった。しかし「只管打坐」をも巨大な公案として見れば、その違いは論ずるに足りないことではないだろうか?

 我々の幸福は、白隠さんの機法と道元さんの誠実とを、共に而今にもつことである。所詮は人生という巨大な公案のまえで、我々は方便も用い、しかも根源を見据えて「未悟」のまま「有時」していくしかないのだろう。

 こんなことを書くと、またすぐに禅師のお叱りを憶いだす。「おおよそ仏法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために説法することなかれ」(「深信因果」)そう言われると坊主も作家もやっていられなくなるが、しかし禅師は「半究尽の有時も、半有時の究尽なり」と言ってくださる。我々の中途半端なありようも、途中のありようとして認めてくださるのである。

 むろん究極のあり方も、禅師ははっきりお示しになっている。

 「ただわが身をも心をもはなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこなわれて、これにしたがいゆくとき、ちからをもいれず、心をもついやさずして、生死をはなれて仏となる」(「生死」)

 私もただその時を夢見て、排列したり尽力経歴したりしながら「有時」してゆこう。

有事の有は存在であり、時は時間である。

時間には客観的な時間と主観的な時間がある。

人はその思いによって、時間が長く思えたり、短くなったりすることを経験的に知っている。

 

 

 

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第二十 「有時」巻

 

まず「有時ウジ」とは、尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の一時的具体的な相・姿(仏性)であり、正法眼蔵涅槃妙心(尽十方界真実)の実態である。つまり宇宙全体の具体的な在り方が「有時」である。

即ち「時」は「心」と同義である。要するに「有」とは、事件(法)であり、ありとあらゆるものの生きている姿、存在である。

「存在()」とは、あらゆるものの生命活動の姿・形であり、その姿・形を常に努力(「諸行無常」と言う)している「時」の姿(相)である。

例えば、奇異な表現と思われるだろうが、石は石のかたちを努力(四大因縁和合)して石しているのであり、その努力している実態が「時(心)」のすがたである。

従って仏法には「物体」という概念はない。

さて、この巻は、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」(時の姿が存在であり、あらゆる存在はすべて時の姿である)と説示している。

そして「丈六金身(仏)これ時なり、時なるがゆゑに時の荘厳光明(真実は絶対的)あり。いまの十二時に(日常生活の現実において)習学すべし。三頭八臂(人間の欲望の姿)これ時なり、時なるがゆゑにいまの十二時(現実の生き方)に一如(そっくり)なるべし」と「時」の具体的な在り方を示すと共に、全てのものにおいて真実の絶対性を学ぶべき事が説かれている。

 

因みに「十二時中不依倚フエイ一物」(日常生活の中で尽十方界真実の実践を完結させていく)は同趣旨の言葉である。

更に、「われを排列(尽十方界自己)しおきて尽界(尽十方界)とせり(誰でも尽十方界真実を生きている)、この尽界の頭頭物物(尽十方界の物物)を時時(生き続けている事実)なりとチョ見す(つかむ)べし。物物の相礙せざる(各々が尽十方界真実存在として絶対的)は、時時の相礙せざる(皆尽界として生きている)がごとし。このゆゑに、同時発心(尽十方界真実の修行)あり、同心発時(心に同ずる修行)なり。および修行成道もかくのごとし」とあるのは、「我と大地有情同時成道」という釈尊の悟り(「悟」の項の釈尊の悟道参照)の内容と同趣旨を述べたものである。

そして、「われを排列してわれこれをみるなり(我々の活動は尽十方界を見ているようなもの)。自己の時なる道理(尽十方界の様相・動き)、それかくのごとし。恁麼(尽十方界真実)の道理なるゆゑに、尽地(尽十方界)に万象百草(あらゆる形態)あり、一草一象(どんなものも)おのおの尽地にある(尽十方界を生きている)ことを参学すべし」ということになる。

 

なお注意を要するのは、「時」は「時間」とは根本的に異なる事である。既述のとおり、尽十方界(真実)に「時間」の概念は無い。何故なら宇宙・大自然に「主人公」は無く、「期待」するものが無いから無時間である。時間の概念は人間の自我(欲)から生まれたものである。

即ち人間は未来を考え、未来を期待し結果を待つ。どの位待つのかということから時間を考え、時計を持つようになる。

従って人間のような自我を持たない動物達に時間は無い筈である。

 

ところで、この巻は、我々が考える「過去」や「未来」は現在における脳の働き(心識)が展開する概念に過ぎないことを教えている。過去を問題にする事も「現在(而今ニコン)」の有時のすがたであって、「過去の時」が今有るのではない。しかも「現在(今)」というものに時間的長さは無い。言わば無の一点とでも言うべき「時」の姿(相)である。従って現成公案の世界においては、ただ「如是(真実そのもの)」という尽十方界の在り方だけである。

 

この巻の本文は、「松も時(尽界の姿)なり、竹も時なり。時は飛去(過ぎ去る)するとのみ解会(理解)すべからず。…(中略)…要をとりていはく、尽界にあらゆる尽有(尽十方界の活動・事件)は、つらなりながら(形を努力している)時時(時の姿)なり。有時(尽十方界の活動のすがた)なるによりて吾有時(吾という自己が存在する)なり」と説いている。

更に続いて、「有時に経歴キョウリャクの功徳(働き・真実)あり。いはゆる、今日より明日へ経歴す、今日より昨日に経歴す、昨日より今日へ経歴す、今日より今日に経歴す、明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるがゆゑに。…(中略)…自他(私も貴方も)すでに時(生命の事実)なるがゆゑに、修証(真実の実践)は諸時(生命活動)なり」と述べている。

 

つまり「経歴」とは、現実に生き続けている事実、形を努力し続ける事実ないしそのような在り方のことであり、端的に言えば「刻刻常に今今」という時の在り方のことである。

要するに経歴とは「現成」(現実そのままが完全な真実)のことであり、有時(宇宙の生命活動)ということである。

「今日より昨日に経歴す」とは、現実に有時(生命活動)している事実によって昨日もあった、現実に有時している事実を昨日やっていたということである。

そして「いま世界に排列(目前に展開)せるむま(馬)ひつじ(羊即ちあらゆる事実)をあらしむるも、住法位(全てのものの在り方)の恁麼なる昇降上下(差別・区別の真実)なり。ねずみも時(真実)なり、とらも時なり。生も時なり、仏も時なり。…(中略)…尽時を尽有(あらゆる存在はすべて時である)と究尽するのみ、さらに剰法(余分なもの)なし」と説示している。

「住法位」とは、全てのものは大自然に生かされており勝手に存在しているのではないという事である。

また「究尽」とは完全無欠なる尽十方界真実という事を意味する。

(なおこの後の本文は割愛する。)但し割愛した本文中に、「尽力経歴」という言葉が出てくるが、「尽十方界の活動」即ち「生き続けている」という意味である。

 

因みに「百尺竿頭進一歩」という言葉について言えば、「百尺竿頭」(百尺の竿の先)とは「常に現在」にある今、自己は常に「今」に生きているということである。つまり日常の自分の自己意識を考えてみれば分かる事であるが、目覚めた時が今、何事をなす時もそのなす時が今であるという事実を述べた言葉である。しかも「今」は、時間空間以前、無限絶対、人生問題(自我意識)以前の事実である。

また「進一歩」とは、個人的な自我に生きるのではなく、尽十方界の真実を生きることである。

従って「百尺竿頭進一歩」とは、尽十方界真実の実修実証即ち只管打坐の坐禅を行ずることである。

 

 

 

 

 

 

第二十 「有時」巻

「有時ウジ」とは、尽十方界(宇宙・大自然)の生命活動の一時的具体的な相・姿(仏性)であり、尽十方界真実の実態である。つまり宇宙全体の具体的な在り方が「有時」である。

即ち「時」は「心」と同義で、この心とは「わたし」が感じていることです。この「有」とは、事象(法)であり、ありとあらゆるものの生きている姿、存在である。

「存在()」とは、あらゆるものの生命活動の姿・形であり、その姿・形を常に諸行無常として変化している「時」の姿(相)である。

例えば、石は石のかたちになるように努力?(四大因縁和合)して石になっているのであり、その形になろうとしている実態が「時(心)」のすがたである。

従って仏法には「物体」という概念はない。

「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」(時の姿が存在であり、あらゆる存在はすべて時の姿である)のことである。

仏(丈六金身)の時は、荘厳光明(真実は絶対的)あるのと同じように、人間(三頭八臂)の日常生活の時も、有時である。この2つは一如(そっくり)だという。

 

釈尊の悟りである「我と大地有情同時成道」が有時の体感と同じことになります。

 

「時」は「時間」とは根本的に異なる。

人間は未来を考え、未来を期待してその結果を待つ。どの位待つのかということから時間が必要となり、時計を持つようになる。

このように時間の概念は人間の期待から生まれたものである。この期待を自我と言ってもいい。

自我はいろいろな言葉に変えることができる。基準、主体、欲、幻想、分別、理念、計らい、エトセトラ。

どれもが正しいが、どれもが自我の一面性でしかない。

尽十方界に「時間」の概念は無い。何故ならば宇宙・大自然に「主人公」は無く、期待するものも後悔するものも無いので時間は発生せず、無時間となる。

ここで一つの推定がある。自我を持たない生命体には時間は無いのではないか?と。

たとえば微生物。

この巻は、我々が考える「過去」や「未来」は脳の働き(心識)が展開する概念に過ぎないことを教えている。過去を問題にする事も「いま・ここ(而今)」によって形になったもので、「過去の時」が現前に有るのではない。

「いま・ここ」には時間的長さは無い。無の一点とでも言うような「時」の姿(相)である。

 

「有時に経歴の功徳あり。」とある。

「功徳」とは働きや真実のこと、

「経歴」とは、現実に生き続けている事実、形が生み出され続ける在り方や常に物事は変化し続けるので、確かなことはこの一瞬の「刻刻常に今今」にしかない。

而今ことだ。この「今」は、時間空間以前、無限絶対、自我意識以前のありようだ。

経歴とは「現成」(現実そのままが完全な真実)のことであり、有時(宇宙の生命活動)ということである。

「今日より昨日に経歴す」とは、現実に有時(生命活動)している事実によって昨日もあった、現実に有時している事実を昨日やっていたということである。

「住法位」とは、全てのものは大自然に生かされており勝手に存在しているのではないという事である。

また「究尽」とは完全無欠なる尽十方界真実を意味する。