14 山水經 第二十九
本文研究
而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高廣なるをもて、乘雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。
いまここにある山水は、諸仏の説法にほかならない。山水というカタチをとって出現され説法しておられる。
言語認識をする時に、信号を五官感覚が知覚して、心(マインド)が「〇〇」であると判断して、意味を了解する。
変わらない意味=本質が、ヒトの知覚において記号=現象として現実化し、それを心(マインド脳)が判断する結果、意味を理解する。
この時、意味=本質は記号以前にそれ自体として存在し、お互いの関係も因果律や矛盾律などで確定しており、一つの秩序を持った体系=世界として完成している。これらの意味に言葉はレッテルのごとく一対一で対応しして全体をありのままに写し取っている。
しかし・・・・。
而今(にこん):今日唯今、今の今。 「いま・ここ」
法位(ほうい):法としてのあり方。 ありのままの状態、縁起の次元、いまここ、一つにつながっている世界
冗尽(ぐうじん)の: 究極の。
功徳 :性質。現世・来世に幸福をもたらすもとになる善行。善根。恵み。
空劫已前(くうごういぜん):仏教の宇宙観では一つの世界が誕生し、成長し、寿命を終えて次の世界が誕生するまでを4つの期間(四劫、しこう)に分けて説明する。
朕兆未萌(ちんちょうみぼう):この世の萌芽すら発生していなかった永遠の過去。宇宙創成以前。
朕兆未萌(ちんちょうみぼう)の自己:考えられないくらい古い昔からの歴史をもつ「本来の自己(魂)」。
消息 :消はきえる。息はうまれる。消息は動静、進退、起居、様子の意。
活計:生き生きとしたいとなみ、生き生きとした活動。
透脱: 透徹解脱。
大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生兒。
山はそなはるべき功徳の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。さの運歩の功徳、まさに審細に參學すべし。青山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、青山の運歩をうたがふことなかれ。
山は歩き、石像は子供を産む。
うまずめ【不生女・石女】妊娠しない女。子を生めない女の可能性はないのか?
自己も世界も縁起するものだと考えれば、言語の了解はひっくりかえる。
関係が存在を生成する世界観では、言語とはある物体の使い方、つまりそのモノへの関係の仕方のことだ。
言語は意味の運搬役というツールではなく、言語は「わたし」と対象の関係を作る役目を担っていて、言語を確定することで、自己と世界(対象)のあり方が決まる。
「山は動かない」という表現は、地上のヒトに視点を固定し、次に、ヒトの視点と関係なく実体として客観的に存在している山を前提にしている。
しかし、舟に乗って川を下れば、そこから見る山は「歩く」。
関係が変われば対象世界のあり方は一変し、そのときにの人のあり方も一変する。
いま佛祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辨すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。
「つねに歩いている」という教えを研究してみる。
歩いていることで山の常の在り方が現われる(現成している)。
山の歩みの速さは風よりも速い。
しかし山中の人は悟りを開いていることに自覚はない。
山が歩くことを当然として暮らしているので、これが悟りとは思わないからだ。
山外の人も自覚しない。
同じ自覚がない状態でも、こちらは常に「わたし」からモノを見たり考えたりするので、山が歩いていることに気づきようがないのである。
仏祖の説道:仏祖とはここでは芙蓉道楷禅師を指している。 芙蓉道楷禅師の示衆。
得本なり: 本家本元である。根本である。
究弁: 参究し弁別すること。
其疾如風(ごしつにょふう): その疾きこと風の如しの意味。
世界裏の華開(けかい): 我々の心の華(悟りの華)の世界が花開くこと。
山中人(さんちゅうにん):青山常連歩を大悟徹底した人。
山中人は不覚不知なり。:青山常連歩を大悟徹底した人は悟りが自己と一体化しているので
悟りらしいものが意識に昇らず不覚不知のように見える。
山外人(さんげにん):青山常連歩が分からない凡夫。無眼子。
山外人は不覚不知なり。:山外人は文字通り青山常連歩が分からない凡夫である。
もしの運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。
山の歩みを疑うなら、自分の歩行もわかっていないのだ。自分の歩みの何たるかを知らないし、わかっていないのである。
自分の歩くことで世界が変化することを体感しているのならば、山の歩みを経験している。
青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩、および自己の運歩、あきらかに検點すべきなり。退歩歩退、ともに検點あるべし。
いく法界:無尽法界。無限の法界。
有情にあらず、非情にあらず。:有情(生物)、非情(無生物)の分別差別が起こる以前の絶対の真実である。
量局(りょうこく):範囲。くぎり。
照鑑:参究。
退歩歩退ともに検点あるべし。:進歩だけではなく退歩も点検しなければならない。
青山は生き物でも物体でもない、自己もまたそうである。
青山の歩みと自己の歩みをよくよく検証する。
歩みを進める、あるいは退くことも。
未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に、運歩しばらくもやまざること、點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす。
言語による文節が始まる前(「一つにつながっている世界)では、進んだり退いたりの歩みが一時も止まないことを検証する。
日常会話の「歩む」は限定された条件の下で有効であるにすぎない。
この常識以外の意味を、佛祖は説き、その教えが今日までもある。
上句の進むと退くは逆向きではない。退くことも進むことと逆行しない。
この「一つにつながっている世界」では、山は流れるし、流れる山もある。
つながっているので、退くも進むも方法は違うが相反するものではないし、
山が主体になって流れる時もあれば、対象となって流れている時もある。
青山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は青山の參學なり。青山の身心をあらためず、青山の面目ながら廻途參學しきたれり。
青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、青山を誹謗することなかれ。低下の見處のいやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。小聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。
しかあれば、所積の功徳を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。青山の山兒を生ずる時節あり、青山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。
たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるる時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功徳と見現成の頂𩕳をうとも、如實これのみにあらず。各各の見成は各各の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一隅の管見なり。
轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。
石女夜生兒は石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。
「夜」がそれ自体存在して、その中で児を産んだのではない。児を産んだ時間を「夜」と呼ぶのである。そういう「夜」を出現させるのが「石女」なのだ。
石女が児を「産める」ように「産む」という語の意味を仕立て直してみる。
石が児を産むのだから、男を補い女を補い、天を補い地を補う石もあるかもしれぬ。
仏法から言えば、親が子になってしまうときこそが、児が産まれることの意味を修行し証明している、と学び究める。
雲門匡眞大師いはく、東山水上行。
この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷盧等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髓、修證活計に透脱ならん。
この一句では、すべての山を東山と呼んでいる。
縁起による世界では、須弥山、海が現成し、これが仏法の修行と証明なのである。
縁起において現成する山をすべて東山と呼ぶ、と口にした禅師はどうやって常識から脱却して理解できたのか?
修行して体得しない者には、このような言語表現は一切通じない。
いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小實の撃不能なるところなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話のごときは、無理會話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかかはれる語話は佛祖の禪話にあらず。無理會話、これ佛祖の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會およびがたく、念慮にかかはれず、これを朕兆未萌已前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。
杜撰(ずさん):まちがいだらけ。でたらめ。
小實(しょうじつ)の撃不能(げきふのう)なるところなり:多虚は小實の撃不能なるところなりと言う意味。
大声で嘘を多く言うと小さい声で真実(小実)の言葉を言ってもでは立ち向かうことができないという意味。
嘘でも多数回言うとそれが真実になってしまい、少ないけれど小さい真実(小実)の言葉では立ち向かうことができないという意味。
理会(りえ):理解・会得の意味。
無理会話(むりえわ):理性や知性では理解できない話。
葛藤(かっとう):葛(くず)や藤(ふじ)の蔓が複雑に絡みあうように、
葛藤断句(かっとうだんく):複雑に絡み合って錯綜した思惟や難問を一言の下に立ち切り解決してしまうことができる威力ある言葉。
朕兆未萌已前の大悟:生命の歴史が始まる以前の太古に遡る「真の自己」の悟り。
宋には支離滅裂なことを言う禅僧の類が群れをなしている。
真っ当なことを説いても意味がわからないほどである。
彼らの問答は考えて理解するのが無理な話であるが、これこそ祖師の意味した話である。
だからこそ黄檗和尚が棒で殴ったりする話が伝わっているわけだ。
これらは理性では理解が及ばない、思考を超えた、知的分別以前の大いなる悟りと言うものである。
南泉の鎌子話(けんすわ):南泉普願禅師の鎌についての次のような問答である。
南泉普願禅師が南泉山の麓で作業をしていた。
作業中の人が南泉普願禅師だと知らずに1人の修行僧が尋ねた、
「南泉山へ登るにはどの道を行ったら良いのでしょうか?」
すると南泉は答えた、「この鎌は30文で買ったのだ」。
そこで僧は言った、「鎌のことを聞いているのではない。南泉山へ登る道を聞いているのだ」。
すると南泉は言った。「この鎌は良く切れるよ」。
解釈
「鎌を30文で買った」という行為は、馬祖禅の<日用即妙用>の禅的世界を指している。
そして、南泉は、この鎌は良く切れるよ」とも答える。
南泉は鎌の切れ味が良いと言うことで<作用即性>の禅的世界を示している。
南泉は修行僧の質問、「南泉山へ登るにはどの道を行ったら良いのでしょうか?」
を単なる場所や道に関する地理的質問ではなく,
「南泉禅師の禅の境地はどのようなものでしょうか?その境地に達するにはどう修行すれば良いでしょうか?」
という禅的質問に置き換えて解釈し、答えているのである。
南泉禅師は
「俺はここにいて、南泉の禅とその世界を直示しているではないか?
南泉山へ登るにはどの道を行ったら良いのでしょうか?
とかいうつまらない地理的質問にいつまで拘るのか。
何故南泉の禅の本質を求めようとしないのか」と言っていることが分かる。
しかし、僧は南泉が何を言おうとしているの全く分からない。
しかも修行僧はそのことに全く気付かないという迂闊さである。
かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。いふにたらざる小ガイ子なり。
小ガイ子(しょうがいす):馬鹿者。幼稚な愚か者。
宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれむべし、佛祖の大道の癈するなり。これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりもおろかなり。俗にあらずにあらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろかなり。禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛祖はしかあらず。
仏道を学ぶ畜生よりも愚かである。
魔子:悪魔の弟子。
六群禿子:ブッダ在世の時、6人の悪比丘がいて徒党を組み、教団の規律を乱した言う。
所解(しょげ):理解するところ。
声聞(しょうもん):声を聞く者のことで,元来は釈尊の直接の弟子をさす。
また,みずから悟りを求めるとともに他を救済することを目的とする大乗仏教の求道者 (菩薩 ) に対し,釈尊の教えを忠実に実行はするが,自己の悟りのみを追求する出家修行者,すなわち部派仏教の修行をする者をいう。
禿子(とくし):頭を剃って外見が僧侶に見える者。
なんぢに理會せられざればとて、佛祖の理會路を參學せざるべからず。たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。たれかなんぢにをしふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。
畢竟(ひっきょう)じて:究極のところ。
念慮:想念や思惟。
透脱:透過し超越していること。
師範:師匠。
所陳:述べるところ。所見。
自然の外道見:自然の外道の見解。
気の毒にも宋朝の諸方には、意味(念慮)が言葉(語句)であることを知らないし、言葉が意味を離脱することを知らない。
意味とは言葉=言語記号であり、言葉は意味を離脱する。
ある立方体は、椅子である可能性を排除してはじめて机として確定する。
机であることは机でないものとの違いから規定される。
この確定こそが机という意味を持つ言語記号の成立であり、命名である。
つまり意味と言葉の成立は同時であり、先に意味があり、そこに言語記号が貼りつくわけではない。
Aである、ということは、非Aではないものという差異から滲み出した示差的諸関係の凝固体である。
この時の意味を担保する(差異の認識)ための原基的な役割を果たすのが身体行為である。
対象が何であるかを区別し規定する際に、それに対応する行動パターン(行為)こそが、意味を基礎づけている。
あらゆる生命体は、その内と外で境界線を引き、内と外を交換することでこの世に存在している。
自分の中に取り込めるものには近づき、害を与えるものからは遠ざかる。
この交換する、近づく、食べるという実践的行為によって、各自の差異=意味の体系を編成している。
ヒトの場合は、これらの行為を定式化する記号の一つである言語が他と比べると群を抜いて発達している。
行為パターンが変われば差異=意味が変わる。
行為によって世界は構築されるので、それを表現する言語体系も変わる。
たとえば造語ができたり、同じ言葉に新たな意味をもたせ、これまでの統辞法や文法を無視した表現を許容する。
これを「語句の念慮を透脱すること」と言う。
しるべし、この東山水上行は佛祖の骨髓なり。諸水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂𩕳は諸山なり、向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を躍出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證即不無なり。
行動パターン(行為)の変更によって見方も変わり、水が山の足元に現れ、山が雲に乗って天を歩き、水の頂上が山になる。
躍出(やくしゅつ):躍り出ること。
七縱八横:縦横自由自在であること。
修証即不無:修証が無い訳ではない。
「修証即不無」という言葉は南岳懐譲(677〜744)と六祖慧能(638-713)の問答から「六祖檀経」
懐譲「私は以前和尚(慧能)の問いに答えることができませんでしたが、その後の修行で悟るところがありました。」
慧能「何が分かったというのだ?」
懐譲「説似一物即不中(説似すれども一物として中(あた)らず。何かと言えばもう的を外れているという意味)」
慧能「それには修行による証明が必要なのか?」
懐譲「修行による証明が必要ないとはいいません(修証即不無)。
しかし、心が汚染されていてはこのように答えることはできません。」
慧能「ただこの不汚染の境地は諸仏が護念する所である。
お前はこの不汚染の境地に居る。私もそれと同じだ」と懐譲の境地を褒めた。
懐譲はこの慧能の言葉を聞いて豁然と契会した。
懐譲はその後慧能の下で15年間修行し、大悟した。
懐譲は修行が終わった後慧能の下を辞して南嶽山に入り禅宗を大いに盛んにした。
上の問答に見られる懐譲の言葉「修行による証明が必要ないとはいいません(修証即不無)」が
「修証即不無」という言葉の由来である。
水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動靜にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融しては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功徳をあやしむことあたはず。
これまでの水の認識は常識であってそれが正しいという根拠付である「本質」は持たない。
行動パターンが変化したことによって現成してきた水の在り方の表現を怪しむ必要はない。
金剛:ダイヤモンド。
しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を參學すべし。人天の水をみるときのみの參學にあらず、水の水をみる參學あり、水の水を修證するがゆゑに。水の水を道著する參究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。他己の他己を參徹する活路を進退すべし、跳出すべし。
著眼看すべき時節:著眼して看る時節。
人天:人間と天人。
道著する:語る。
自己の自己に相逢する通路:自己が真の自己に会うための方法。
参徹:参究しその教えに徹底すること。
跳出:超越、離脱、パラダイムシフト
人や天人が水を見る場合だけではない。そもそも水が水を見る研究がある。
水が水であると自身で言うことがあることを学ぶのだ。
自己が自己に逢う道筋を現成すれば、これがわかる。すなわち他者が他者であることを徹見する道を進み退き、跳ね出しなさい。
「〇〇が〇〇である」とは、ある行動パターンが固定化された一定の条件においてのみ成り立つ言い方である。
「一つにつながっている世界」では自己意識は「わたし」を基準にしないことで自分の魂と出逢い、
他者は「わたし」がいるから他者なのではなく、「わたし」がいない場合の他者はあるがままに他者であること、そしてこれが水が水であることを実感するためには、「わたし」を中心にした見方から跳び出ることではじめて体感することを言っている。
おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみるものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、樓臺とみる。あるいは七寶摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清淨解脱の法性とみる、あるいは眞實人體とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺活の因縁なり。すでに隨類の覰見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。
妙華:美しい花。
膿血(のうけつ):血の混じった膿(うみ)。
龍魚:龍やこれに類する魚。
楼台(ろうだい):高い建物。また、あずまやなど、屋根のある建物。
七宝:七つの宝物。経典によって説が分かれるが,「無量寿経」では,金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・しやこ・瑪瑙(めのう)・珊瑚(さんご)をいう。
「法華経」では,玻璃・珊瑚を除き真珠・まいかいを入れる。七珍。
摩尼珠:宝玉。神秘的な力をもつ玉。摩尼珠。摩尼宝珠。
七宝摩尼珠:七宝でできた如意珠。
牆壁(しょうへき):石・煉瓦(れんが)・土などで築いた塀。垣根。
法性:仏法の本性。万有の本体。真如。実相。法界。
真実人体:人間の身体そのもの。
身相:身体の外形。
心性:心の本質。精神。
殺活の因縁:人を活かしたり殺したりする原因や理由。
隨類の覰見不同なり:物を見る主体の違いに従って見られるものが同じでない。
疑著すべし:疑問を持ってみるべきである。
一境をみるに見しなじななりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂𩕳にさらに功夫すべし。しかあればすなはち、修證辨道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般なるべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。しかあれども、隨類の諸水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、依自にあらず依他にあらず、依水の透脱あり。
しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、色聲香味觸法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかかれると道著する、わがまことにあらず、他のまことにあらず。小見の測度を擬議するなり。かかれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。
仏法の修行と悟りも一つや二つではあるまい。
究極の境地も数しれぬ種類があろう。
水の種類は多いとは言えても、「本物の水」など無い。
様々な水の在り方は、見る者の心でも身体でも過去の体験から生じるものではなく、主観でも対象そのものによるのではない。
その在り方はそれ自体を根拠づける何ものもない。
一境:一つの客観的対象。同じ一つの対象。
諸見:諸種の見方。いろんな見方。
諸象:いろんな現象。
誤錯:誤解すること。誤ること。
功夫:努力し探究すること。
本水なきがごとし:本来の水はこれという決まったものがないようだ。
修証弁道:仏道を修証するための弁道。
一般兩般なるべからず:一筋や二筋で足れりとしてはならない。
依自にあらず依他にあらず:主観に依存している訳でも、客観に依存している訳でもない。自他のいずれに依るものではない。
依水:水はただ水だということ。
依水の透脱あり:ただ水はただ水だということであり、そのまま透脱して存在しているだけで、それが本来の面目の姿である。
以下の現代語訳は
https://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/sansuikyou2.html
佛祖言、一切諸法畢竟解脱、無有所住(一切諸法は畢竟解脱なり、所住有ること無し)。
しるべし、解脱にして繋縛なしといへども諸法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、流注してとどまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。
文子曰、水之道、上天爲雨露、下地爲江河(水の道、天に上りては雨露を爲す。地に下りては江河を爲す)。
いま俗のいふところ、なほかくのごとし。佛祖の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す。水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。
上天爲雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり。雨露は世界にしたがふてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞經なり、あるいは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいたるなり、覺知佛性裏にもいたるなり。
下地爲江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河の精よく賢人となる。いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地するとき、江海の功徳をなすのみなり。
また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべからず。一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。しかあれば、佛土のなかに水あるにあらず、水裏に佛土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかかはれず、法界にかかはれず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。
佛祖のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、佛祖かならず現成するなり。これによりて、佛祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。
しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は、上下縱横に通達するなり。しかあるに、佛經のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火風のゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざれども、四大五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。
しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿樓閣の欄露柱は、かくのごとくの説著ありと保任することもあらん。この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透脱を學せざれば、凡夫の身心を解せるにあらず、佛祖の國土を究盡せるにあらず。凡夫の國土を究盡せるにあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。
いま人間には、海のこころ、江のこころを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま學佛のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。すすみて佛道のみづを參學すべし。佛祖のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか覰見すると參學すべきなり、佛祖の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。
青山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに青山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。ただ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂𩕳眼睛はるかにことなり。不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところをうる、他類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を佛祖に學すべし、驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一はこれ不流なり。一囘は流なり、一囘は不流なり。この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。
古佛いはく、欲得不招無間業、莫謗如來正法輪(無間の業を招かざることを得んと欲はば、、如來正法輪を謗ずること莫れ)。
この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。
おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獸靈秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。
帝者おほく山に幸して賢人を拜し、大聖を拜問するは、古今の勝躅なり。このとき、師禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強爲することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。〇〇華封のそのかみ、黄帝これを拜請するに、膝行して廣成にとふしなり。釋迦牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあやしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強爲せず。しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑著せん。
あるいはむかしよりの賢人聖人、ままに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古來水中の風流なり。さらにすすみて自己をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるるあるべし、道につらるるあるべし。
むかし徳誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。
世界に水ありいふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一莖草中にも有序世界あり、一圭杖中にも有情世界あり。有情世界あるがごときは、そのところかならず佛祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく參學すべし。
しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強爲するがゆゑに。水は水の如是實相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちまちに現成するなり。
山も寶にかくるる山あり、澤にかくるる山あり、空にかくるる山あり、山にかくるる山あり、藏に藏山する參學あり。
古佛云、山是山水是水。
この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。
かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。
正法眼藏山水經第二十九
爾時仁治元年庚子十月十八日于時在觀音導利興聖寶林寺示衆
超訳
言語認識をする時に、信号を五官感覚が知覚して、心(マインド)が「〇〇」であると判断して、意味を了解する。
変わらない意味=本質が、ヒトの知覚において記号=現象として現実化し、それを心(マインド脳)が判断する結果、意味を理解する。
この時、意味=本質は記号以前にそれ自体として存在し、お互いの関係も因果律や矛盾律などで確定しており、一つの秩序を持った体系=世界として完成している。これらの意味に言葉はレッテルのごとく一対一で対応しして全体をありのままに写し取っている。
しかし・・・・。