2 摩訶般若波羅蜜 第二
本文研究
1節
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空是空なり。百草なり。万象なり。
現代語訳
観自在菩薩は智慧の完成を目指しひたむきに修行を続けた結果、人間を構成する物質的要素と精神的要素のいずれにおいても、その本質は「空」であることを明らかに悟った。
物質的要素である肉体も、精神的要素である感学作用も表象作用も意思作用も認識作用も、そのどこにも不変の自分は存在せず、自分とは常に変化を続ける「空」であったと気付いた。
ここで言う「空」とは、「不変の実体は存在しない」という意味の真理の言葉である。
この真理を示すために、『般若心経』では「色即是空、空即是色」という言葉が用いられた。
すなわち、形あるものは「空」なる無常な存在であるから変化を続け、変化を続ける「空」という性質であるからこそ様々な形あるものが存在するのだと。
野に咲き乱れる草花から、この世界に存在するあらゆるものにまで「空」の真理は行き渡り、変化をしないものは何一つとしてこの世界には存在しない。
2節
般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、静慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行住坐臥なり。
現代語訳
『般若心経』には真理に関する12の智慧がある。
眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの感覚器官と、それぞれの器官が知覚する対象である色・声・香・味・触・法の6つ対象の、そのどれもが「空」であるという智慧である。
また18の智慧がある。
6つの感覚器官と、それぞれ6つの対象が出会うことで、6つの認識の世界が生まれるという智慧である。
人間が感じている世界とは、あくまでも感覚器官と対象が出会うことで生まれた認識上の世界でしかない。
また真理に関する4つ智慧がある。
人生とは苦悩を抱くものであり、思いどおりにしたいという思いが叶わないときに苦悩するが、思いどおりにしたいという思いさえ抱かなければ苦悩はなく、そのために八正道という修行に励むべきだとする智慧である。
また修行に関する6つの智慧がある。
言葉や物を人に施すこと。
生きる指針を守ること。
未熟な部分を自学すること。
正しく向上することを目指すこと。
静かに坐り自分に向き合うこと。
真理についての智慧を持つこと。
また1つの智慧が今ここに存在している。
比べることなどできない尊い悟りがそれである。
また時間の認識には3つの智慧がある。
過去・現在・未来の3つをいう。
現実に存在する時間は、今この瞬間を示す「いま・ここ」だけであってほかにはないが、過去と未来に思いを巡らせて生きることは無意味でない。
また存在の認識には6つの智慧がある。
土・水・火・風の4つの要素から物質は構成されており、さらにそこに「空」の性質が加わり、精神作用を有する生物はさらに「識」の要素が加わるという智慧である。
このほかにさらに4つの知恵がある。
我々人間は毎日、歩き・留まり・坐り・寝ている。
そうした何気ない日常生活を仏の心で行じるところに、仏としての人生があるという智慧である。
3節
釈迦牟尼如来会中有一苾蒭、竊作是念、
「我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅、而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、解脱知見蘊施設可得、亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得、亦有独学菩提施設可得、亦有無上正等菩提施設可得、亦有仏法僧宝施設可得、亦有転妙法輪、度有情類施設可得」
仏知其念、告苾蒭言、
「如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測」
而今の一苾蒭の竊作念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いわゆる戒定慧乃至度有情類等なり、これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。
現代語訳
昔、お釈迦様の説法を聴いていた修行僧の一人が、次のようなことを考えた。
「私はお釈迦様が説くこの深淵な教えを厚く敬い礼拝したい。 この教えのなかでは、あらゆるものに生滅は無いと説かれている。また、生きる指針となる『戒』を学ぶことができ、精神の平安である『定』を学ぶことができ、真理を見抜く『慧』を学ぶことができ、煩悩から離れた解脱を学ぶことができ、捉われのない自由な精神を学ぶことができる。
また、仏道修行による成果を知ることができ、独力によって悟りを感じることもでき、お釈迦様の仏法を受け嗣いで悟りを開く道も示されており、仏法僧の三宝を敬うことの意味も理解することができ、仏法を説くことで人々にやすらぎを与える方法も学ぶことができる」
すると、お釈迦様はこの修行僧の思うところを知り、こう語りかけた。
「そうだ、そのとおりだ。しかし真実を見抜く智慧とはじつに優れたるもので、頭での知識理解でそのすべてを捉えようとするのは難しい」と。
この話に登場する修行僧は、教えを敬い礼拝することによって、あらゆる存在に生滅はないという『般若心経』の「不生不滅」の理を体得することができた。
教えを敬うことの素晴らしい利点はここにある。
頭で理解せずとも、敬うという行動によって智慧を体現することができるという点である。
そこに現れてくる智慧とは、生きる指針となる「戒」であり、精神の平安である「定」であり、真理を見抜く「慧」であり、または人々を導く手法などである。
そしてそれらもまた、「無」と体得することが可能となる。
思慮分別に関わることのない深淵な般若の智慧とはこのようなものである。
考察
疑問?戒定慧乃至度有情類等を無といふ。
慧の字源
慧の旧字は「
」で
は 上部が箒(ほうき)、下部が右手。
「彗」は箒(ほうき)を手に持つ形。
心(マインド)にあるものを掃きさった状態を意味する。
智の字源
日(宇宙)の法則を知る
宇宙の法則であるダンマを知って、それを参照すること意味する。
以上のことから智慧というと、
宇宙の法則を知り、その実践のためにマインドを掃き清めることを指す。
智慧の解釈に誤解がある。
中国仏教と日本仏教においては、智は世俗諦を知り分けるもの、慧は第一義諦(真諦)を悟るものとも意味付けられた。
仏教でいう智慧には3つの意味があり、
1 梵: prajñāパーリ語paññāの訳語 般若と同意
2 梵: jñānaの訳語 悟りに導く心的能力として智
3 世俗的な賢しらな識別ではなく世事を離れた叡智や、世事を見通す叡智を指す。
この文脈でいう智慧は一番目の般若の意味で使われているので、理性(知恵)や智性(智慧)ではなく魂性(観照)に属する言葉で、慧の字源のとおり、心を掃き清めるというダイナミックな動きであり、一切の現象や、現象の背後にある道理を直観し観照し交流する動きをともなっている。
また、このパンニャは無常と苦と無我が共にあることで会得できる修行やその方法(乗り物)を指す。
ヴィパッサナー(洞察)という瞑想法をつかって、ヒトの深層意識にある魂性と直接に繋がる交流法の実践をpaññāと呼ぶと私は今のところ解釈している。
パーリ語辞典
http://dictionary.sutta.org/browse/p/pa%C3%B1%C3%B1%C4%81
paññā
insight (vipassanā,q.v.),i.e.that intuitive knowledge which brings about the 4 stages of holiness and the realization of Nibbāna (s.ariyapuggala),and which consists in the penetration of the impermanency (anicca,q.v.),misery (dukkha,s.sacca) and impersonality (anattā) of all forms of existence.
ラリー・ローゼンバーグは英語では苦労しながらひとまずinsightと訳している。
以上のことから、パンニャ(智慧)とは、大脳皮質を使った後は、関心を外部から内部へと転換することで内観に移行し、最後にはマインド自体を祓い清めて、内臓感覚(循環器系感覚と消化器系感覚)を使ってはじめて魂とブラフマン(梵)に繋がることができる境地を目指す手法のこと。
4節
天帝釈問具寿善現言、
「大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、当如何学」
善現答言、
「憍尸迦、若菩薩摩訶薩、欲学甚深般若波羅蜜多、当如虚空学」
しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。
天帝釈、復白仏言、
「世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説、我当云何而守護。唯願世尊、垂哀示教。
爾時具寿善現、謂天帝釈言、
「憍尸迦、汝見有法可守護不」
天帝釈言、
「不也、大徳、我不見有法是可守護」
善現言、
憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深般若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深般若波羅蜜多、常不遠離。当知、一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空」
しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。
先師古仏云、
渾身似口掛虚空、
不問東西南北風、
一等為他談般若。
滴丁東了滴丁東。
これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。
現代語訳
帝釈天がお釈迦様の弟子のなかの長老、須菩提尊者にこう問いかけた。
「優れたる長老よ、もし修行者が深淵なる智慧の完成を目指すなら、どのように学んでいけばよいだろうか」
須菩提尊者は答えた。
「虚空のごとくに学べばよいでしょう」
このようであるから、須菩提尊者の言うように、智慧を学ぶということは「空」を学ぶことにほかならない。
「空」こそが智慧なのである。
帝釈天はまた、お釈迦様にこう申し上げた。
「釈尊よ、もし善き人々がこの深淵なる智慧を受持し読誦し、真理のままに考察し、他の人のために説き聞かせるとしたら、私は彼らをどうのようにして守護すればよいでしょうか」
それを聞いた須菩提尊者は、帝釈天に言った。
「あなたはこの仏法の智慧の何を守護すべきだと思うのですか」
帝釈天は答えた。
「長老よ、私はこの智慧についてこれ以上何も守護すべき点を見いだすことができない」
そこで須菩提はこう言い聞かせた。
「人々が真理の智慧を説くときは、その智慧が彼らを護るのです。
智慧は彼らのそばを片時も離れはしません。
どのような人が彼らを誘惑しようとしても、智慧の人に煩悩を起こさせることはできないことでしょう。
帝釈天よ、この真理の智慧を守護しようというのは、「空」を守護しようというのと同じことなのです」
このようであるから、我々は知っておかなければならない。
仏の教えに沿って生き、その教えを唱え、真理について考える営み自体が、とりもなおさず智慧を守護することにほかならないことを。
我々が智慧でもって生きることが、智慧を守護することにつながることを。
私(道元)の師である如浄禅師は、次のような詩を詠じたことがあった。
「風鈴は、全身を口にして空にかかり
東西南北の風を問うことなく
ただ誰かのために真理を鳴らしている
チリン、チリン、またチリン」
風鈴は風に吹かれて真理の音を鳴らしている。
これこそ、歴代の祖師方が弟子に伝え続けてきた真理そのものである。
全身全霊で智慧を語っているのであり、聴く者に智慧を開かせるのであり、自分が智慧と同一になっているのであり、世界中へ響く智慧なのである。
5節
釈迦牟尼仏言、
「舍利子、是諸有情、於此般若波羅蜜多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅蜜多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅蜜多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅蜜多。般若波羅蜜多、即是仏薄伽梵。仏薄伽梵、即是般若波羅蜜多。何以故。舍利子、一切如来応正等学、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切菩薩摩訶薩、独学、阿羅漢、不還、一来、預流等、皆由般若波羅蜜多得出現故。舍利子、一切世間十善業道、四静慮、四無色定、五神通、皆由般若波羅蜜多得出現故」
しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄、不増不減なり。この般若波羅蜜多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。
正法眼蔵 摩訶般若波羅蜜
現代語訳
お釈迦様はこうも言っている。
「弟子のシャーリプトラよ。人々は、真実を見抜く智慧を、仏様を敬うかのごとく大切にするべきなのだ。
なぜなら、智慧によって真実を摑むことと、真理に目覚めて仏になることは、同じことだからである。
般若波羅蜜多とは真実についての智慧であり、真実についての智慧とは悟りそのもの。
悟る、あるいは仏として生きるとは、この智慧に基づいて生きることにほかならない。
シャーリプトラよ。悟りを開き仏として生きる人々は、真理の智慧によって仏となった。
シャーリプトラよ。菩薩や聖者と呼ばれるような人々は、真理の智慧によってそう呼ばれるようになった。
シャーリプトラよ。この世界に生きる善き人々、精神を統一させた人々、執着から離れた人々、優れた能力を持った人々は、真理の智慧によってそのような人生を歩むようになった」
以上のようであるから、仏とは智慧を完成させた者のことであり、智慧の完成とは森羅万象の真理であり、その真理とは「空」である。
「空」であるがゆえに、世界に固定的なものは存在せず、したがってあらゆる存在は生まれるのでも滅するのでもなく、ただ変化をしている。
美しいとか汚いといった物の見方も、それは人がそう見ているだけで、本来的に美しいものや汚いものがあるわけではない。
増える減るといった事柄も、その真実は変化をしているという一点に尽きる。
こうした「空」の真理でもって世界を生きるということは、仏として世界を生きることにほかならない。
だから私たちは真理を問い続けなければならない。智慧を学び続けなければならない。
智慧を敬うということは、仏にまみえることと同じなのだ。
そして、まみえたところに、「空」の真理が実現するのである。
参考資料
「摩訶般若波羅蜜」という言葉は天台大師が権大乗教に位置づけた般若心経に由来している。般若心経は文上脱益、すなわち変幻極まりない一瞬一瞬の生命(三諦円融の実在)を恣意的に分断した三諦隔別の観念論なのである。分かりやすく説明しようとすればするほど幾重にも文上に還元され、ますます実在からずれていくことになる。
道元は正法眼蔵(法華経の真髄)、すなわち妙法の視点から、その法理の文底を明らかにしているのだ。それは森羅万象と通底する。通底といっても森羅万象とその奥底が別々に存在しているわけではない。森羅万象(諸法)はそのまま奥底(実相)であり、奥底(実相)はそのまま森羅万象(諸法)なのである。文上の言葉を使ってどのように文底に迫るか。そこに譬喩と曼陀羅という言語の戦略、文底独一本門の方法的原理が展開されている。
観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時(ぎょうじんはんにゃはらみったじ)は、渾身(うんしん)の照見五蘊皆空(しょうけんごうんかいくう)なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香身触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施・淨戒・安忍・精進・静慮・般若なり。また一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
道元は爾前権教の従因至果の視点を法華経文底の従果向因の視点に転換して、釈尊一代の諸経を位置づけている。「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時」とは、色心不二・久遠即末法なる時である。「渾身の照見五蘊皆空」とは随縁不変・一念寂照の修行である。五枚、十二枚、十八枚、六枚、一枚、三枚、六枚、四枚の般若とは、一念三千の生命の全体である。只管打坐する自己の色心は「渾身の照見五蘊皆空」となる。この「皆空」は唯心ではなく色心不二である。「五蘊」は空諦の一面、「照見」は仮諦の一面、「般若」は中諦の一面であり、色心不二・三諦円融を表す。それを道元は「色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり」と展開している。
爾前権教で説かれた「十二入」(十二因縁)も「十八界」(六根・六境・六識)も「四正道」も「六波羅密」もすべて般若波羅密(妙法)の働きなのである。「一枚の般若波羅蜜、而今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり」(一枚の般若波羅蜜が今、ここに現成している。それは阿耨多羅三藐三菩提である)というテクストは、般若波羅蜜がそのまま阿耨多羅三藐三菩提であることを示している。それは色心不二・久遠即末法なる妙法の曼陀羅にほかならない。時間を過去・現在・未来に分節して認識する働きも、般若波羅蜜、即ち妙法の曼陀羅なのである。妙法の曼陀羅が人間の「行・住・坐・臥」、すなわち日常の振る舞いとして現成している。
〈釈迦牟尼如来の会(え)の中に一の苾蒭(びつすう)あり、窃(ひそ)かに是の念を作(な)す、我、甚深般若波羅蜜多を敬礼(きょうらい)すべし。此の中に諸法の生滅無しと雖も、而も戒蘊(かいうん)・定蘊(じょううん)・慧蘊(えうん)・解脱蘊(げだつうん)・解脱知見蘊(げだつちけんうん)の施設可得(しせつかて)あり、また預流果(よるか)・一来果・不還果(ふげんか)・阿羅漢果(あらかんか)の施設可得あり、また独覚菩提(どっかくぼだい)の施設可得あり、また無上正等菩提の施設可得あり、また仏法僧宝の施設可得あり、また転妙法輪・度有情類(どうじょうるい)の施設可得あり。仏、其の念を知(しろしめ)して苾蒭に告げて言(のたまは)く、如是如是、甚深般若波羅蜜は、微妙にして測(はか)り難し。〉
而今の一苾蒭の窃作念(せっさねん)は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅(すいむしょうめつ)の般若、これ敬礼なり。この正等敬礼時(しょうとうきょうらいじ)、ちなみに施設可得の般若現成せり、いはゆる戒定慧(かいじょうえ)乃至(ないし)度有情類等なり。これを無といふ。無の施設、かくのごとく可得なり。これ甚深微妙難測(じんじんみみょうなんしき)の般若波羅蜜なり。
道元は最初に大般涅槃経の経文(獅子吼菩薩品)を掲げ、その内容を事本物迹の視点(文底の方法的原理)でとらえ直している。最初に「釈迦牟尼如来の会の中に一の苾蒭あり、窃かに是の念を作す」と書かれている。釈尊の説法の席で一人の僧が窃かに次のように念じたという。この「窃かに」とは自分以外の誰も知らない心の内でということである。しかし経文の中では釈尊がそれを知り、経文を読む者もそれを知ることになる。文上は虚構を浮き彫りにしている。
道元は事本物迹の視点から「一苾蒭の窃作念」を、「而今」すなわち〈今、ここに〉開く己心の一念ととらえ返している。「諸法を敬礼するところ」がそのまま「雖無生滅の般若」となり、「雖無生滅の般若」がそのまま「敬礼」となる。「雖無生滅」は色心不二・久遠即末法、すなわち〈今、ここに〉を表す。「雖無生滅の般若」とは、法華経文底の妙法の曼陀羅にほかならない。「施設可得の般若」とは妙法を根本に正しく位置づけられた釈尊一代の聖教(八万宝蔵)である。「戒定慧」はそのまま「度有情類等」となる。「そのまま」ということを「無」というのである。「甚深微妙難測の般若波羅蜜」は、そのまま妙法の曼陀羅を示している。
〈天帝釈、具寿善現に問うて言(いは)く、「大徳、若し菩薩摩訶薩、甚深般若波羅蜜多を学せんと欲(おも)わば、当に虚空の如く学すべし。」〉
しかあれば、学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。
〈天帝釈、復(ま)た仏に白(もう)して言(もう)さく、「世尊、若し善男子善女人等、此の所説の甚深般若波羅蜜多に於て、受持読誦し、如理思惟し、他の為に演説せんに、我、当に云何にしてか守護すべき。ただ願わくは世尊、哀れみを垂れて示教したまえ。」其の時、具寿善現、天帝釈に謂(いい)て言(いわ)く、「憍尸迦(きょうしぎゃ)、汝、守護すべき法の有りと見るや不(いな)や。」天帝釈言く、「不也(いななり)。大徳、我、法の是れ守護すべき有るを見ず。」善現言く、「憍尸迦、若し善男子善女人等、是の如くの説を作さば、甚深般若波羅蜜多、即ち守護なり。若し善男子善女人等、所説の如く作さば、甚深般若波羅蜜多、常に遠離せず。当に知るべし、一切人非人等、其の便りを伺求(しぐ)し、損害を作さんと欲(おも)わんに、終(つい)に得ること能わじ。憍尸迦、若し守護せんと欲わば、所説の如く作すべし。甚深般若波羅蜜多と、諸(もろもろ)の菩薩は、虚空を守護せんと為欲(する)に異なること無し。」〉
しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は、受持読誦なり。
経文に説かれている天帝釈(憍尸迦)と具寿善現の問答についても、道元はその文底を掘り起こし、「学般若」はそのまま「虚空」となり、「虚空」はそのまま「学般若」となり、「受持読誦・如理思惟」はそのまま「守護般若」となり、「守護般若」はそのまま「欲守護」となり、「欲守護」はそのまま「受持読誦」となるという法理を明らかにしている。
先師古仏曰く、渾身は口に似て虚空に掛れり、東西南北の風を問わず、一等に他の為に般若を談ず。滴丁東了滴丁東(ていちんとうりょうていちんとう)。
これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身(うんしん)般若なり、渾他(うんた)般若なり、渾自(うんじ)般若なり、渾東西南北般若なり。
道元は先師天童如浄の言葉を「仏祖嫡嫡の般若」ととらえる。この時、「先師天童古仏」は釈尊、「渾身は口に似て虚空に掛れり」は法華経虚空会の説法となる。「一等に他の為に般若を談ず」は〈今、ここに〉妙法を説くことにほかならない。道元はそれを「渾身(うんしん)般若なり、渾他(うんた)般若なり、渾自(うんじ)般若なり、渾東西南北般若なり」と展開している。
〈釈迦牟尼仏、言(のたま)わく、舎利子、是の諸(もろもろ)の有情、此の般若波羅蜜多に於て、応(まさ)に仏住の如く供養し礼敬(らいきょう)すべし。般若波羅蜜多を思惟すること、応に仏薄伽梵を供養し礼敬するが如くすべし。所以は何(いかん)。般若波羅蜜多は、仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は、般若波羅蜜多に異ならず。般若波羅蜜多は、即ち是れ仏薄伽梵なり、仏薄伽梵は、即ち是れ般若波羅蜜多なり。何を以ての故に。舎利子、一切如来応等正覚は、皆、般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。舎利子、一切の菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等、皆、般若波羅蜜多より出現することを得るが故に。舎利子、一切世間十善業道・四静慮・四無色定・五神通、皆、般若波羅蜜多より出現することを得るがゆえに。〉
しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり。不垢不浄不増不滅なり。この般若波羅蜜多の現成せるは、仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉ごん承事するなり、奉ごん承事の仏薄伽梵なり。
道元は釈尊と舎利子の出会いを過去性・他者性の存在ではなく、〈今、ここに〉現成する己心の師弟の出会いと受け止めている。経文は「一切如来応等正覚、一切の菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等、一切世間十善業道・四静慮・四無色定・五神通、皆、般若波羅蜜多より出現することを得る」と説き、「般若波羅蜜多は即ち是れ仏薄伽梵なり、仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅蜜多なり」と宣言している。そこに出現するのは物ではない。事物不二の事である。いずれも生命の働きをプラスの面からとらえた言葉であり、〈今、ここに〉脈動する法理を示している。
道元はその法理を「仏薄伽梵は般若波羅蜜多なり、般若波羅蜜多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり。不垢不浄不増不滅なり」と展開する。その時、「般若波羅蜜多」を問取・参取・供養礼拝することがそのまま仏薄伽梵、すなわち般若波羅蜜多を奉ごん承事することとなり、奉ごん承事がそのまま般若波羅蜜多、すなわち仏薄伽梵となる。「この諸法は空相なり、不生不滅なり。不垢不浄不増不滅なり」は、色心不二・久遠即末法なる妙法の曼陀羅を示している。
正法眼蔵摩訶般若波羅蜜第二
爾時天福元年夏安居日 在観音導利院示衆
寛元二年甲辰春三月廿一日、侍越宇吉峯精舎侍司写之。懐弉
建治三年夏安居日、書写之。