20  古鏡   第十九

 

 

 

 

本文研究

 諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳(どうぞうどうしゆ)なり、同参同証す。胡来胡現(こらいこげん)、十万八千、漢来漢現(かんらいかんげん)、一念万年なり。古来古現し、今来今現し、仏来仏現し、祖来祖現するなり。
 第十八祖伽耶舎多(がやしやた)尊者は、西域の摩提国(まだいこく)の人なり。姓は鬱頭藍(うつずらん)、父名天蓋(てんがい)、母名方聖(ほうしよう)。母氏かつて夢見にいはく、ひとりの大神、おほきなるかがみを持()してむかへりと。ちなみに懐胎す、七日ありて師をむめり。師、はじめて生ぜるに肌体(きたい)みがける瑠璃(るり)のごとし。いまだかつて洗浴(せんよく)せざるに自然に香潔(こうけつ)なり。いとけなくより閑寂(かんじやく)をこのむ、言語よのつねの童子とことなり。むまれしより一の浄明(じようみよう)の円鑑(えんかん)、おのづから同生(どうしよう)せり。
 円鑑とは円鏡(えんきよう)なり、希代(きたい)の事なり。同生せりといふは、円鑑も母氏(もし)の胎よりむめるにはあらず。師は胎生す、師の出胎する同時に、円鑑きたりて、天真(てんしん)として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとくありしなり。この円鑑、その儀よのつねにあらず。童子むかひきたるには円鑑を両手にささげきたるがごとし、しかあれども童面かくれず。童子さりゆくには、円鑑をおほうてさりゆくがごとし、しかあれども童身かくれず。童子睡眠するときは円鑑そのうへにおほふ、たとへば花蓋(かがい)のごとし。童子端坐(たんざ)のときは円鑑その面前にあり。おほよそ動容進止(どうようしんし)にあひしたがふなり。しかのみにあらず、古来今(こらいこん)の仏事、ことごとくこの円鑑にむかひてみることをう。また天上人間の衆事諸法(しゆじしよほう)、みな円鑑にうかみて、くもれるところなし。たとへば、経書にむかひて照古照今(しようこしようこん)をうるよりも、この円鑑よりみるはあきらかなり。

 

受持:受領保持。

単伝 :一系に伝承すること。

古鏡:古は古今を憲味し、永遠を意味する。鏡は外界の事物を映し出す道具として、祖仏が具有する無分別智を象徴するものと考えられる。

同見同面:もろもろの祖仏と同じように見るが、見た対象もまた全く同じ姿であるという意味。面は外見、姿。 

同像同鋳:像はかたどる(平面の場合)。鋳もいる、かたどる (立体の場合)。同像同鋳は平面的にも立体的にも同じ形であること。

同参同証:参は参ずる、参加する。証は体験する。同参同証は同じ事態に参加し、同じ事実を体験すること

胡来胡現:胡来れば胡現ずの意味。

胡とは胡人、西域の諸民族を指す言葉。中国人に対する異邦人のこと。

胡来胡現とは胡人が来れば、胡人の姿が鏡に映るという意味。

十万八千:非常に大きな数の象徴。ほとんど無限に近い数を憲味する。

漢来漢現: 漢来れば漢現わるの意味。漢とは中国人の代表としての漢人を意味する。

中国人が来れば中国人の姿が鏡()に映るというの意味。

一念万年 :一念は極めて短い時間の単位、転じて現在の瞬間をいう。

万年は極めて長い時間を表わし、永遠を憲味する。

一念万年は現在の瞬聞とともに永遠の時間を言っている。

古来古現:過去が来れば、過去を思い出すという意味。

今来今現:現在が来れば、現在を思い出すという意味。

仏来仏現:祖仏が来れば祖仏を思い出すという意味。

祖来祖現:祖師が来れば祖師を思い出すという意味。

迦耶舎多尊者: 摩詞迦葉尊者から数えて第十八番目の仏教教団の指導者。

西域: 中国人が西方諸外国を総称するときに使用した呼び名。

元来、西方地域という意味で漠然と使われた語であるが、広義では今のイソドーイラソ地方や小アジアーエジプト地方をも含む場合があり、狭義では新弧省南半のターリム盆地を中心とする地方を特称する場合がある。  しかし概括していえば、いにしえの中国人の知識に入った西方諸国の総称で、その中心地域は中国に隣接する中央アジア、すなわち、いわゆるトルキスタン地方であったと解される。 ただしここではインドを指す。

摩提国:  摩訶陀(マカダ)国か。摩訶陀は梵語Magadhaの音写。仏典に現れる摩訶陀国(マカダ)国と同じ。

瑠璃:  珠の名。七宝の一つ。青色の宝玉。

香潔: よい香がし、清潔であること。

いとけなく: おさなく、あどけなく。

閑静 : おっとりとして静かなこと。落ち着いて静かなこと。

浄明: 浄はけがれのないこと、くもりのないこと。明はあかるいこと、光り輝くこと。

円鑑: 円い鏡。古鏡のこと。

奇代: 希代に同じ。世にまれな、世に類いのない、めずらしい。

天真:  天から与えられた純粋な木性、人の本性。

現前: 現に眼の前にあること、現実にあること、現在すること。

調度: 手まわりの小道具。

華蓋:  はながさ、きぬがさ、天子のかさ。

動容: たちいふるまいのかたち、動作容儀。

進止: たちいふるまい、挙動、挙止。

古来今: 過去・未来・現在。

仏事: 仏教行事。

照古照今: 過去を照らし、現在を照らすこと。過去を知り、現在を知ること。

他那裡: 遠いあの国においては。

親族: ちかしい種族、われわれの同族、人類。

莫怪:  怪しむこと莫れの意。奇異と考えてはならない。

遠慮: 広範囲に思慮をめぐらすこと。

若樹若石:大涅槃経巻十四聖行品に見える言葉。

黄紙朱軸: 仏教の経典。

 

  〈諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡〉という〈説著=道得〉に、〈仏道=悟道〉の真髄が示されている。〈同見同面、同像同鋳(どうぞうどうしゆ)、同参同証、胡来胡現(こらいこげん)、十万八千、漢来漢現(かんらいかんげん)〉は〈諸法実相=色心不二〉を表し、〈一念万年、古来古現、今来今現、仏来仏現、祖来祖現〉は〈久遠実成=久遠即末法〉を表す。〈色心不二・久遠即末法〉とは、〈一瞬一瞬〉の生きる場に脈動する〈在りのまま〉の〈存在〉である。それは〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。


 
〈妙法の曼荼羅〉は〈法華経〉となり、〈法華経〉は〈妙法の曼荼羅〉となる。〈法華経〉は〈正法眼蔵〉となり、〈正法眼蔵〉は〈法華経〉となる。〈正法眼蔵〉は〈伽耶舎多〉となり、〈伽耶舎多〉は〈正法眼蔵〉となる。〈伽耶舎多〉とは、〈妙法の曼荼羅〉の〈譬喩〉なのである。このようにとらえるとき、〈伽耶舎多〉の故事が示す〈文底〉の意義が明らかになる。〈姓は鬱頭藍(うつずらん)〉は〈中諦〉、〈父名天蓋(てんがい)〉は〈空諦〉、〈母名方聖(ほうしよう)〉は〈仮諦〉を表す。〈第十八祖〉の〈十八〉は、〈六根=空諦〉、〈六境=仮諦〉、〈六識=中諦〉が〈相呼応〉する〈十八界〉に通じている。〈言葉〉はすべて、〈宇宙=生命〉の〈眼頭尖〉となり、〈文底〉への〈入門=出門〉となる。
 
〈伽耶舎多〉の〈母〉は、〈夢〉に大きな〈鏡〉を持つ〈大神〉を見て〈懐妊〉し、その〈七日〉後に〈伽耶舎多〉が生まれたと言う。〈夢に見るもの〉はすべて、〈夢を見る人〉にほかならない。〈母〉は夢に見る〈大神=鏡〉となる。〈七日後〉の〈七〉は、〈南無妙法蓮華経〉の〈七字〉に通じる。〈母〉は〈七字〉の〈南無妙法蓮華経〉となり、〈南無妙法蓮華経〉の〈七字〉は〈母〉となる。〈浄明の円鑑〉が〈同生〉するという〈譬喩〉は、〈童子〉が〈浄明の円鑑〉となり、〈円鑑の浄明〉が〈童子〉となることを示している。天真爛漫の〈童子〉は、〈浄明の円鑑〉となる。
 〈テキスト=言述〉が展開する〈譬喩〉を〈譬喩〉のまま読み返し、〈四大声聞=三周の声聞〉のように、〈独自〉の〈譬喩〉でとらえ返さなければないのだ。〈道元=諸仏〉も〈諸仏=日蓮〉も、〈三周の声聞=四大声聞〉の〈嗣法=弘法〉を承継している。その〈仏道=悟道〉を学ぶことなく、〈自己〉が〈幻想〉する〈師=虚仏〉を崇める者は、度し難い〈権威主義的ナルシスト〉となる。〈虚仏〉を〈幻想〉したり、〈虚仏〉で〈自己〉を飾る者は〈虚仏〉にほかならない。

 しかあるに、童子すでに出家受戒するとき、円鑑これより現前せず。このゆゑに近里遠方(きんりおんぽう)、おなじく奇妙な理と讃歎す。まことに此娑婆世界(このしやばせかい)に比類すくなしといふとも、さらに他那裡(たなり)に親族のかくのごとくなる種胤(しゆいん)あらんことを莫怪(もつけ)なるべし、遠慮すべし。まさにしるべし、若樹若石(にやくじゆにやくせき)に化せる経巻あり、若田若里(にやくでんにやくり)に流布する知識あり。かれも円鑑なるべし。いまの黄紙朱軸(おうししゆじく)は円鑑なり、たれか師をひとへに希夷(きい)なりとおもはん。
 あるとき出遊するに、僧伽難提(そうぎやなんだい)尊者にあうて、直(じき)にすすみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、汝が手中なるは、まさに何の所表(しよひよう)かある。有何所表(うかしよひよう)を問著にあらずとききて参学すべし。師いはく、諸仏大円鑑、内外無瑕翳(ないげむけえい)、両人同得見(りようにんどうとつけん)、心眼皆相似(しんげんかいそうじ)《諸仏の大円鑑は内外瑕翳なし。両人同じく得見あり、心と眼と皆相似たり》。しかあれば、諸仏大円鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生来(しようらい)は大円鑑の明なり。大円鑑は、智にあらず理にあらず、性にあらず相にあらず。十聖三賢等の法のなかにも大円鑑の名あれども、いまの諸仏大円鑑にあらず。諸仏かならずしも智にあらざるがゆゑに諸仏に知恵あり、知恵を諸仏とせるにあらず。

 

 

 

〈出家受戒するとき、円鑑これより現前せず〉とは、〈出家受戒〉が〈円鑑〉であり、〈円鑑〉が〈出家受戒〉であることを意味する。

〈遠慮〉とは〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉を幾重にも参学することを言う。樹や石に関する〈書物〉や、〈田園の生活〉を支える〈伝統〉や〈慣習〉など、すべて〈円鑑〉にほかならない。〈作麼=何か=如是〉が〈書物〉を生みだし、〈如是=何か=作麼〉が〈慣習〉や〈伝統〉を伝えるのだ。〈書物〉や〈樹石〉の〈文上=表層〉にとらわれるとき、〈古鏡=円鑑〉は見えなくなる。


  〈僧伽難提(そうぎやなんだい)〉と〈伽耶舎多〉の出会いは、〈釈尊=諸仏〉と〈諸仏=迦葉〉の〈嗣法=弘法〉の〈譬喩〉となる。〈難提=釈尊〉の〈有何所表《何の所表(しよひよう)かある〉という〈問処=道得〉に対して、〈迦葉=伽耶舎多〉は〈諸仏大円鑑、内外無瑕翳(ないげむけえい)、両人同得見(りようにんどうとつけん)、心眼皆相似(しんげんかいそうじ)《諸仏の大円鑑は内外瑕翳なし。両人同じく得見あり、心と眼と皆相似たり》〉と〈答処=道得〉している。

 

 

難提尊者は聞いた、「お前の手中にあるものは、何を表わしているのか?」と。

この「何の所表かある(何を表わしているのか)」という言葉は、質問ではないと聞いて参学すべきである。

なぜ質問ではないと、道元は強調しているのか?

 

 

〈内外瑕翳なし〉は〈色心不二〉、〈両人同じく得見あり〉は〈自他不二〉を意味する。

内外とは鏡に映る像と像そのものを指しているのか?

心と眼はよく似ている、というのは、鏡に映っている像と像そのものが相似であるということを指しているのか?すなわち、鏡に凸凹や錆や曇がないことを意味しているのか?

 

 

〈非知・非理・非性・非相・非十賢三聖〉と説かれる〈円鑑=古鏡〉とは、無量義経徳行品が説く〈釈尊=諸仏〉の〈徳行〉、すなわち〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。〈諸仏に知恵がある〉とか、〈知恵を諸仏とする〉という〈言語表現〉は、〈主体〉と〈客体〉、〈主語〉と〈述語〉を分離する〈思考〉であり、〈生の分断化〉の影を引きずっている。

 参学しるべし、智を説著(せつじや)するは、いまだ仏道の究竟説(くきようせつ)にあらざるなり。すでに諸仏大円鑑、たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いはゆるこの大円鑑、此の生に接すべからず。他生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髄鏡にあらず。円鑑の言偈(ごんげ)なるか、童子の説偈(せつげ)なるか。童子この四句の偈をとくことも、かつて人に学習せるにあらず。かつて或従経巻(わくじゆうきようかん)にあらず、かつて或従知識(わくじゆうちしき)にあらず。円鏡をささげて、かくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀(じようぎ)とせるのみなり。生知の辨恵(べんえ)あるがごとし。大円鑑の童子と同生せるか、童子の大円鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。大円鑑は、すなはち諸仏の功徳なり。

  〈智=無智〉について〈分別=解説〉するのは、〈爾前権教〉の〈方便・仮説〉であって、〈仏道=悟道〉の〈入門=出門〉を閉ざすことになる。〈諸仏大円鑑〉は〈非玉鏡・非銅鏡・非肉鏡・非髄鏡〉であり、〈非此生・非他生〉なのである。〈私=われわれ〉が〈童子〉の〈説著=道得〉と見る〈四句の偈〉は、〈童子の説偈〉でもなく、〈或従経巻(わくじゆうきようかん)〉でもなく、〈或従知識(わくじゆうちしき)〉でもない。それは〈釈尊=諸仏〉の〈求道=悟道〉、すなわち〈森羅万象〉が〈法華経〉を説き、〈法華経〉が〈森羅万象〉を説くという〈肯定即否定・能動即受動〉の〈法理〉にほかならない。〈われわれ=私〉にとって、〈師の幼稚のとき〉とは、〈いま、ここに〉脈動する〈始源の時〉以外にない。〈鏡に向かう常儀〉とは〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉、すなわち〈妙法の相貌〉を〈有りのまま〉に〈見つめる〉ことなのだ。それを〈生知の辨恵〉と言う。

 このかがみ、内外(ないげ)にくもりなし、といふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。心(しん)と眼(げん)とあひにたり。相似といふは、人の人とあふなり。たとひ内の形象も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは両人の相見(しようけん)なり、両人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。 心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば、心眼各相似といはんがごとし。いかならんか、これ心の心に相似せる。いはゆる三祖六祖なり。いかならんか、これ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙《道眼、眼の礙を被る》なり。いま師の道得する宗旨(そうし)かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲(ぶごん)する本由なり。その宗旨を挙拈(こねん)して、大円鑑の仏面祖面を参学すべし、古鏡の眷属なり。

 

出遊:戸外へ出歩くこと。

僧迦難提尊者:僧迦難提は梵語Sanghanandiの音写:

A monk to whom is attributed the Vutti of Kaccāyanas grammar

vuttif[Skvtti] 行為,生活,慣習.

Kaccāyana m[SkKātyāyana] 大迦旃延(かせんねん),摩訶迦旃延[十大弟子の一]

仏の教えを広く解りやすく、義を分別して広説し、釈迦仏から讃嘆された。幾人かの王に四姓(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラ)の平等を説いて回ったといい、南方所伝の仏教でも釈迦滅後も弘教に努めたといわれる。

彼の出身などにはいくつかの説がある。

西インドのアヴァンティー国、ウッジェニー(現ウッジャイン)の婆羅門出身(クシャトリヤ説あり)で、チャンダパッジョータ王の帝師の子で、王の命により釈迦仏を招くために、7名の王臣と共に仏所に赴き出家した。

南インドの婆羅門出身で、かつて釈迦誕生時に相せし阿私陀仙(アシタ仙人、釈迦が将来、仏となると予言した)の弟子で、師の娘を娶り、また師の遺命により仏弟子となった。

UdānaV.6によると、アヴァンティ国のクララガァーラ・パパータ山に住み、ソーナ・コーリヴィーサ(億耳)を出家せしめたという。

第十七祖。伽耶舎多尊者の師匠に当る。

有何所表:これは「どのようなものが表現されているのか。」という質問の意味ではなく、

「どのようなものが表現されておろうか。」という反語の憲味であって、難提尊者はまさに見られたままの難提尊者であり、内に蔵されているものなどが別に何もないことをいっている。

諸仏大円鑑:諸仏諸祖が具有している大きな丸い鏡の意で、諸仏諸祖が保持している無分別智を象徴的に指している。

瑕翳(かえい):瑕はきず、玉のくもり。翳(えい)もかげ、くもり。

内外無瑕翳とは内も外も同じようにくもりがなく、内とか外とかというような区別のない状態をいう。

両人同得見:両人とは見る者と見られる者との両人のこと。ここでは伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の2人を指す。

同得見 とは両人が同じように祖仏に内在している特性を見ることができるという意味。

心眼皆相似:心も眼も皆相似であるの意。

心は見るという働きの感覚中枢である精神。眼は見る働きをする感党器官。

相似とは、心が心に相似であり、眼が眼に相似であるという意味で、精神もそのあるべき本然の姿を何の作為もなしに自然に露呈しており、眼もまた眼として、そのあるべき姿をそのまま露呈していることを表わす。

師の生来は大円鑑の明なり:伽耶舎多尊者の生来の資質は諸仏の智慧の光明と同じである。

同参同見なり:同じように参じ、同じように見るのである。

諸仏は大円鑑の鋳像なり。:諸仏はこの大円鑑が形をなしたものである。

十聖三賢:大乗仏教で、菩薩(ぼさつ)の修行階位のうち、聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢)のこと。未だ、仏知見に到達していない修行者を総称して述べる場合に用いる場合がある。

或従経巻:或いは経巻を学ぶことによりの意。

或従知識: 或いは高徳の僧侶の教えによっての意。

生知 :生れながらにして知ること、学ぶことなしに生れながらに真理を知ること。

弁慧:弁舌と智慧。

生知の弁慧:生れながらの弁舌や智慧。

同生:同時に生れること。

前後生:同生ではなく、大円鑑と前後して生れ出ること。

外にまつ内:外に対しての内。

内にくもれる外 :内部に対比して相対的に考えられている外。

而背:裏と表。

常儀:日頃の習慣。仕来(しきた)り。

依報・正報(えほう・しょうほう):

仏教で、過去業の報いとして存在する身を正報といい、その正報が依り所とする世界を依報という。

つまり国(依報)と人間(正報)を仏教的に見た言葉である。

極楽(依報)と阿弥陀仏(正報)のことにもいう。

正報とは、過去の業の報いとして受けた我が身と心をいい、依報とは、正報の拠り所である環境・国土をいう。

一念三千の構成要素となる三世間の五陰世間と衆生世間は正報となり、国土世間は依報となる。

依報は環境、正報は主体のこと。

両箇:見る者と見られる者。

三祖・六祖:三祖は中国禅の第三祖、鑑智僧サン禅師のこと。六祖は中国禅の第六祖、大鑑慧能禅師のこと。

いずれも仏祖の代表としてここに挙げている。両人はいずれもその呼び名の中に「鑑」という字があることも関係している。

道眼被眼礙<道眼は眼の礙を被る>:眼は外に現れた外見などを見ることしかできない。

本來の自己は眼で見ることができない。そういう外見しか見ることができない眼の働き自身にしばられ本質を見る道眼が邪魔されているという意味である。眼は眼の自己拘束によってこの世にあることを意味する。

奉覲:お眼にかかること、相見すること。

本由 :本来のいわれ。

眷属:一族、親族。

 

 

  〈内外(ないげ)にくもりなし〉とは、〈諸法実相=色心不二〉を表す。この〈説著=道得〉を、道元は〈外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。心(しん)と眼(げん)とあひにたり〉と展開している。〈私=われわれ〉が地球上で発見してきた〈生命進化〉の痕跡を、〈事本物迹〉の視点でとらえ直すとき、〈六根〉と〈六境〉と〈六識〉が〈葛藤=調和〉を繰り返し、〈内外相似=依正不二〉となる〈機能〉や〈形態〉を〈創出・形成〉してきたことが見えてくる。イカやタコ、昆虫、植物に見られる擬態はそれを裏づけている。
 
生物の機能や形態は遺伝子によって決まる。どのように決まるのかは、〈言語=思考〉による〈分析=統合〉によって、ある程度〈解明〉されてきた。しかし遺伝子が〈なぜ〉出現したのかを〈把握〉することはできない。〈釈尊=仏道〉はそこに眼を凝らし〈恁麼=如是〉と〈説著=道得〉しているのだ。〈いま現前せる依報正法〉とは、〈依正不二=内外相似〉であり、そこに現出する〈十八界〉である。植物には植物の〈十八界〉が開き、動物には動物の〈十八界〉が開き、類には類の〈十八界〉が開き、種には種の〈十八界〉が開き、人間には人間の十八界が開く。いずれも〈眼晴=妙法〉の〈霹靂=眼頭尖〉なのである。それを道元は〈眼頭尖〉とも〈龍吟〉とも説いている。〈三祖=六祖〉は〈釈尊=迦葉〉となり、〈いま、ここ〉に〈妙法〉を説く。〈宇宙生命=森羅万象〉を〈大円鑑の仏面祖面〉と言う。それを参学するとき、〈自他不二〉なる〈己心〉に〈釈尊=諸仏〉が〈覚醒〉する。そのとき、〈己心〉は〈古鏡の眷属〉となる。

 

 

 第三十三祖大鑑(だいかん)禅師、かつて黄梅山の法席に功夫(くふう)せしとき、壁書(へきしよ)して祖師に呈する偈にいはく、菩提本無樹(ぼだいほんむじゆ)《菩提もと樹無し》、明鏡亦非台(めいきようやくひたい)《明鏡また台に非ず》。本来無一物《本来、無一物》、何処有塵埃(かしようじんあい)《何(いず)れの処にか塵埃有らん》。しかあれば、この道取を学取すべし。大鑑高祖、よの人これを古仏といふ。円悟(えんご)禅師いはく、稽首曹谿真古仏(けいしゆそうけいしんこぶつ)。しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本来無一物、何処有塵埃なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。明々はみな明鏡なり。かるがゆゑに、明頭来明頭打(めいとうらいめいとうだ)といふ。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんや、かがみにあらざる一塵の、尽十方界にのこれらんや。かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。しるべし、尽界は塵刹(じんせつ)にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。

 

第三十三祖: 釈尊の後継者である摩詞迦葉尊者から数えて第三十三番目の教団の指導者。

大鑑禅師 :六祖慧能禅師。

黄梅山:  中国禅の第五祖、大満弘忍禅師が住んだ山の名。 

法席:  仏法を説く場所、教団、寺院。

功夫: 努力。

高祖: 宗義教説を創唱した高僧、ただしここでは高徳の先輩、大先輩の意。

古仏: 仏教界の優れた先輩に対する尊称。古は古今の意味で永遠を指す。

圜悟禅師:圜悟克勤禅師。彭州崇寧県の人。

姓は駱氏、元来儒学の家柄であったが、出家後、諸方を遊歴し、ついに五祖法演禅師の教団に身を投じて修行を重ね、同師の法嗣となった。臨済系統の指導者として臨済義玄禅師から数えて十一代目に当る。宋の徽宗皇帝から仏果禅師の称号を与えられ、南宋の高宗皇帝から圜悟禅師の称号を与えられた。一一三五年死去、年七十三歳。心要四巻・語録二十 巻がある。門下から大愁宗呆・虎丘紹隆などが出た。                 圜悟克勤は雪竇重顕禅師の「頌古百則」に垂示・著語・評唱を加えた。これが碧巌録である。

稽首: 稽首は地面で頭をたたくという意味。中国におけるもっとも丁寧な礼の仕方。

命脈:  いのちのつな、いのち、転じて重要な事物をいう。

明明:明明百草頭の意、明々白々とした眼前の事物。

明頭来明頭打: 暗頭来暗頭打と対句をなしている。「臨済録」の「勘弁」に出ている普化の言葉。

打はある動作を為す意を表わす。明頭来明頭打は明頭が来れば明頭を打つと言う意味。

尽界:  宇宙。

塵刹: 塵数(かぎりない数)の世界。刹は国土。

古鏡面:   古鏡のおもて、古鏡のすがた。

 

 

 〈大満弘忍=釈尊〉の説法を〈聴処=道得〉した〈大鑑(だいかん)慧能=迦葉〉は、〈菩提本無樹(ぼだいほんむじゆ)、明鏡亦非台(めいきようやくひたい)。本来無一物(ほんらいむいちぶつ)、何処有塵埃(がしようじんあい)《菩提もと樹無し、明鏡また台に非ず。本来、無一物、何れの処にか塵埃有らん》〉という〈偈頌〉を壁に記した。これは〈神秀(じんしゆう)=兄弟子〉が先に〈壁書〉した〈身是菩提樹(しんぜぼだいじゆ)、心如明鏡台(しんによめいきようたい)、時時勤払拭(じじごんふつしよく)、莫使染塵埃(まくしぜんじんあい)《身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭して、塵埃に染ましむることなかれ》〉という〈偈頌〉に対抗する形で提示されたものと伝えられている。〈神秀〉の偈頌と〈慧能〉の偈頌と、どちらが〈勝〉どちらが〈劣〉と比較するのは無意味なのだ。そこに示されているのは、〈因果倶時=肯定即否定〉の〈法理〉であり、〈言語表現〉としての〈説著=道得〉は、どこまでも〈文底=奧底〉が問われつづけることを示している。
 それから〈三百年後〉に、〈円悟克勤=諸仏〉が、〈慧能=釈尊〉を〈稽首曹谿真古仏(けいしゆそうけいしんこぶつ)《稽首す曹谿、真の古仏》〉と讃歎した。〈菩提〉は〈明鏡〉であり、〈明鏡〉は〈本来、無一物〉なのだ。〈塵埃など、どこにも無い〉という〈釈尊=慧能〉の〈説著=道得〉は、何を示しているのか。〈本来、無一物〉とは、〈恁麼=すべて=如是〉そのものであることを意味する。〈明頭来明頭打(めいとうらいめいとうだ)〉の〈明〉は〈空諦〉、〈頭〉は〈中諦〉、〈来打〉は〈仮諦〉となる。〈三諦円融〉なる〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉の〈相貌〉を、〈塵刹=分断〉に非ざる〈古鏡面〉と言う。

 

 南嶽大慧(なんがくだいえ)禅師の会()に、ある僧とふ、如鏡鋳象(によきようしゆぞう)、光帰何処(こうきがしよ)《鏡の象を鋳()るが如き、光、何れの処にか帰す》。師云く、大徳未出家時相貌(だいとくみしゆつけじそうみよう)、向甚麼処去(こうじんもしよこ)《大徳いまだ出家せざる時の相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る》。僧曰く、成後為甚麼不鑑照(じようごいじんもふかんしよう)《成じて後、甚麼(なに)としてか鑑照せざる。師云く、雖不鑑照(すいふかんしよう)、瞞他一点也不得(まんていつてんやふて)《鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずること、不得なり》。いまこの万像は、なに物とあきらめざるに、たづぬれば鏡を鋳成(しゆじよう)せる証明、すなはち師の道(どう)にあり。鏡は金にあらず玉にあらず、明にあらず像にあらずといへども、たちまちに鋳像なる、まことに鏡の究辨(きゆうはん)なり。
 光帰何処(こうきがしよ)は、如鏡鋳像(によきようしゆぞう)の如鏡鋳像なる道取(どうしゆ)なり。たとへば、像帰像処(ぞうきぞうしよ)《像は像の処に帰す》なり。鋳能鋳鏡(しゆのうしゆきよう)《鏡は能く鏡を鋳る》なり。大徳未出家時相貌(だいとくみしゆつけじそうみよう)、向什麼処去(こうしもしよこ)》といふは、鏡をささげて照面するなり。このとき、いづれの面々か、すなはち自己面ならん。師いはく、雖不鑑照、瞞他一点不得といふは、鑑照不得なり、瞞他不得なり。海枯不到露底《海枯れて底を露はすに到らず》を参学すべし、莫打破(もたは)、莫動著(もどうじや)《打破すること莫(なか)れ、動著すること莫れ》なり。しかありといへども、さらに参学すべし、拈像鋳鏡(ねんぞうしゆきよう)《像を拈じて鏡を鋳()る》の道理あり。当恁麼時(とういんもじ)は、百千万の鑑照にて、瞞々点々なり。

 

 

南嶽大慧禅師 :南岳懐譲禅師を指す。六祖慧能禅師の法嗣。金洲の人、姓は杜氏。

荊州玉泉寺において剃髪。嵩山の安岡師の指示で六祖に師事した。衡嶽の般若寺に住んで教化を行なった。七四四年死去、年六十八歳。大慧禅師とおくり名された。語録一巻がある。青原行思禅師とともに、六祖下の二大甘露門といわれ、門下から馬祖道一禅師を出し、この流派から臨済宗・イ仰宗が生れた。

鋳像:  金属を鎔かして鋳型に流し込み、これをさまして像を造ること。

大徳:   徳の高い僧。

万像:  万象に同じ。森羅万象の意。宇宙に遍満する個々の事物をいう。

道:  ことば。

金:  金属。

玉:  質、堅剛で色沢あり、装飾などに用いる美石の総称。

究弁: 究めわきまえること、探究し弁別すること。

海枯れて 底を露はすに到らず:枯は乾く、水が尽きるの意。ここでは海水が蒸発して少なくなることをいっている。海水が蒸発によって減少しても、完全に蒸発して海底が露出するようなことはあり得ないことを意味している。 

「像を拈じて鏡を鋳る」:  鋳像を素材として、逆に鏡を鋳造することをいう。 

瞞瞞:  瞞はくらます。だますの意で、宇宙のすべてを鏡に造り変えた場合、一切の事物が鏡として光り輝くのであるが、それは雑多な現象として見る人の限をあざむくことであるの意味。

点点: 小さいものが数多くあることの形容。ここかしこに散在すること。

瞞瞞点点なり : 万象を映して一々だまし続けている。

 

解釈とコメント

南嶽大慧禅師に対する憎の質問は、

鏡を鋳直して像を造った場合、〈鏡のぴかぴかとした〉光は何処に行ってしまうのですか?」

である。

この質問僧はここで話題になっているのは

本来の自己が具有する古鏡であるのに、金属で造られた鏡だと誤解して、古くなった金属鏡を鋳直す時の問題に置き換えて南岳懐譲禅師に的外れな質問をしている。

ここで問題になっている「」とは六祖慧能の詩偈

明鏡も亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃有らん

にでて来る本来の自己の働きを鏡に喩えて議論しているのである。

南岳懐譲は、

お前さんがまだ出家していなかった時分の顔・形は何処へ行ってしまったのかね?」

と僧に逆に質問し、ここでの鏡とは本来の自己の鏡のことだと分からせようとする。

しかし、僧にはそれ伝わらないようで、

それにしても、鏡を銅像に鋳なおすと、どうして鏡のようにぴかぴか光らないのでしょう?」

と金属鏡を鋳直す時の問題に拘っている。

南岳懐譲は、

鏡を銅像に鋳なおすと、鏡のようにぴかぴか光らないことは確かだが

(鏡の本体はそのまま存続し、)見る人をくらますようなことは決してない。」

と答える。

 



 

 

  すべてを〈物本事迹〉に還元する〈言葉〉の〈虚構〉を超克して、〈在りのまま〉の〈実存〉を把握する〈方法的原理〉を説いているのは〈法華経〉である。その〈方法的原理〉は、〈法華経〉の〈真髄=妙法〉を把握するための〈方法的原理〉でもあるのだ。それは〈道元=正法眼蔵〉、〈日蓮=御義口伝・百六箇抄・本因妙抄〉、〈クリシュナムルティ=生の全体性〉の〈真髄〉を把握する〈方法的原理〉でもある。
 〈声聞=弟子〉たちは、〈釈尊=師〉が説く〈譬喩〉をそれぞれに〈自分〉の〈譬喩〉でとらえ返すことによって、〈仏道=悟道〉を成就している。〈正法眼蔵=道元〉の〈テクスト=言説〉が取り上げる〈諸仏諸祖〉は、それぞれに〈独自〉の〈譬喩〉で、〈釈尊=諸仏〉と〈諸仏=迦葉〉が交わした〈説著=道得〉と〈道得=説著〉を〈承継=弘法〉しているのだ。そこに一貫しているのは、〈善悪不二=肯定即否定〉と〈因果倶時=能動即受動〉という〈実存〉の〈法理〉である。
 
〈僧=迦葉〉が、〈如鏡鋳象(によきようしゆぞう)、光帰何処(こうきがしよ)《鏡の象を鋳()るが如き、光、何れの処にか帰す》〉と〈問処=道得〉し、〈南嶽大慧(なんがくだいえ)=釈尊〉が〈大徳未出家時相貌(だいとくみしゆつけじそうみよう)、向甚麼処去(こうじんもしよこ)《大徳いまだ出家せざる時の相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る》〉と〈答処=道得〉している。さらに〈迦葉=僧〉が〈成後為甚麼不鑑照(じようごいじんもふかんしよう)《成りての後、甚麼(なに)としてか鑑照せざる》〉と問い、〈釈尊=師〉が〈雖不鑑照(すいふかんしよう)、瞞他一点也不得(まんていつてんやふて)《鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずること、不得なり》〉と答える。 
 この〈釈尊=南嶽大慧〉と〈僧=迦葉〉の〈問処〉と〈答処〉が、どのように相呼応しているかを把握することが大事なのだ。〈大徳いまだ出家せざる時の相貌〉は、〈釈尊〉の〈出家以前〉の〈相貌=色心〉を意味する。それは〈鏡=心〉に映る〈形象〉となる。〈光、何れの処にか帰する〉は、〈相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る〉と呼応している。〈成じて後〉は〈鑑照せずと雖も〉と通底し、〈甚麼(なに)としてか鑑照せざる〉は〈他の一点をも瞞ずること、不得(ふて)なり〉と通底する。これを受けて、道元は〈鏡は非金、非玉、非明、非像にして、しかも鋳像なり〉と〈説著=道得〉しているのだ。そこに〈鏡〉の〈究辨=究極の文底〉が浮かび上がる。
 
〈光帰何処(こうきがしよ)〉は〈像帰像処(ぞうきぞうしよ)《像は像の処に帰す》〉となり、〈像帰像処〉は〈鋳能鋳鏡(しゆのうしゆきよう)《鏡は能く鏡を鋳る》〉となる。〈鏡を捧げて照面する〉とは、〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌(そうみよう)〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことである。そのとき〈鑑照不得〉は〈鑑照是〉をはらみ、〈瞞他不得〉は〈瞞他是〉をはらむことが見えてくる。道元は〈海枯不到露底(かいこふとうろち)《海枯れて底を露はすに到らず》を参学すべし〉と説く。
 ここで道元は、〈海枯・不到・露底〉とは何か問いかける。〈枯〉は〈不枯〉をはらみ、〈不到〉は〈到〉をはらみ、〈露底〉は〈覆底〉をはらむ。〈鑑照〉は〈瞞他〉と呼応し、〈莫打破(もたは)〉は〈打破〉と呼応し、〈莫動著(もどうじや)〉は〈道著〉と呼応する。〈説似一物即不中〉の法理を、深く参学すべきなのだ。〈拈像鋳鏡(ねんぞうしゆきよう)《像を拈じて鏡を鋳()る》〉とは何か。〈当恁麼時(とういんもじ)=始源の時〉に、〈霹靂=現成〉する〈百千万=森羅万象〉は、〈鑑照=実存〉を〈秘蔵〉すると同時に、〈瞞々点々〉と開いているのだ。〈国家=国民〉も〈種族=宗派=民族〉も、〈瞞々点々〉と〈葛藤=雑乱〉する〈言葉=事象〉に翻弄され、〈欲望〉の坩堝と化した〈蠅取り瓶〉からの〈出門=入門〉を見失っている。

 

 雪峰真覚(せつぽうしんかく)大師、あるとき衆にしめすにいはく、要会此事(ようういしじ)、我這裡如一面古鏡相似(がしやりによいちめんこきようそうじ)。胡来胡現(こらいこげん)、漢来漢現(かんらいかんげん)《此の事を会(うい)せんと要せば、我が這裡(しやり)、一面の古鏡の如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す》。時に玄沙(げんしや)出でて問ふ、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》。師云く、胡漢倶隠(こかんくいん)《胡漢倶(とも)に隠る》。玄沙云く、某甲即不然(むこうそくふねん)《某甲(それがし)は即ち然(しか)らず》。峰云く、你作麼生(にいそもさん)。玄沙云く、請和尚問《請(しん)すらくは和尚問ふべし》。峰云く、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》。玄沙云く、百雑砕(ひやくざつすい)
 しばらく雪峰道の此事といふは、是什麼事(ししもじ)と参学すべし。しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。如一面古鏡の道は、一面とは、辺際ながく断じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤(いつしゆそうばん)の自己なり。いま胡来胡現は、一隻(いつしやく)の赤鬚(せきしゆ)なり。漢来漢現は、この漢は、混沌よりこのかた、盤古より(ばんこ)のち、三才・五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり。いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。いま雪峰道の胡漢倶隠(こかんくいん)、さらにいふべし、鏡也自隠(きようやじいん)《鏡もまた自ら隠る》なるべし。
 玄沙道の百雑砕は、道也須是恁麼道(どうやしゆぜいんもどう)《道()ふことは須(すべから)く是れ恁麼道(いんもどう)なるべし》なりとも、此来責你(しらいしやくにい)、還吾砕片来(げんごさいへんらい)。如何還我明鏡来(しゆおげんがめいきようらい)《此来你に責む、吾に砕片を還し来れと。如何(いかん)が我に明鏡を還し来る》なり。

 

雪峰真覚大師: 雪峰義存禅師。徳山宣鑑禅師の後継者。

泉州南安の人、姓は曽氏。「三たび投子に到り九たび洞山に上る」といわれる程、

参禅修行に精進した。

徳山宣鑑禅師を師匠として参禅し法嗣となり、雪峰山に住んで多くの僧侶を教化した。

弟子に雲門文偃・玄沙師備・長慶慧稜・保福従展・鏡清道フ等の人材が出た。

イ宗皇帝から真覚大師の号と紫衣とが贈られた。九〇八年死去、年八十七歳。語録二巻がある。

法系: 六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟 →龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存

会 :  理解する。

這裏(しゃり):  これ、自己本来の面目(真の自己)。

玄沙:  玄沙師備禅師。霊峰義存禅師の後継者。

福州試県の人、姓は謝氏。雪峰義存禅師の法嗣となった後、その教化を助けた。

応機敏捷で有名。後、普応院に住み、さらに玄沙山に移った。

九〇八年、年七十四歳で死去。宗一大師という。語録三巻がある。

作麼生: どうか、どうするかの意味。

百雑砕:  百は数の多いことを表わす。

雑はこまかいの意。砕はくだける。

百雑砕とは、一切の事物がこなごなにくだけおちること。

辺際: かぎり、はて、際涯。ながく 永遠に。

一珠走盤:  一珠は一粒の珠玉。珠は貝類の体内に産する円形の玉、真珠。

盤はてあらいの水を受ける鉢。

一珠走盤とは一粒の真珠が平らな鉢の中をころげ廻ることをいい、

われわれの行為において体験する変転自在な世界の象徴。

一隻(せき): 隻はひろく生物器具の類を数える際に使うことば。

一隻は一つ、一人の意。 

赤鬚: 赤いひげ。

西域地方に住む異邦人(胡人)は赤いひげが特徴であったため、

胡人のことを赤鬚という。

混沌: 天地開闢のはじめ、陰陽がまだ分れない以前の状態。

盤古: 天地開闢のはじめに出て、この世に君臨した天子の名。

三五暦記等に見える。

三才:  天・地・人をいう。才ははたらきの窓。

五才:   木・火・土・金・水をいう。

古鏡の功徳:  古鏡のはたらきと作用。

道也須是恁麼道: 言葉で表現しようとすればこのような言葉になるかも知れないがの意。

須はすべからく・・・すべしと読む。決定の助辞。 

比来: このごろ、ちかごろ、近来。比はさきだつの意味。

黄帝:  黄帝(こうてい、紀元前2510年〜紀元前2448年)は中国の神話伝説上の皇帝。

三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。

中国古代の諸王朝や諸侯などの諸姓はすべて黄帝より出たものとされ、

最高の帝王として尊ばれた。

そのためさまざまな伝説がつけ加わり,多くの黄帝説話が形成されている。

少典氏の子、姓は公孫。名は軒轅という。

十二面の鏡: 事物原記巻八にいう、

「黄帝内伝曰、帝既与二王母会於王屋、乃鋳大鏡十二面、随月用之」と。

十二面とは十二枚の意。

家訓:  祖先が子孫に残した一家の教誡。

天授:  天からさずかったもの。

広成子: 中国の伝説、伝奇(神仙伝)に出てくる仙人。

空トウ山の石の部屋で暮らしていた。

彼が千二百歳の時に黄帝が至上の道について尋ねてきた。

広成子は「お前が天下を治めるようになってから鳥類は

その季節にもならないのに飛び立ち、草木は黄葉する前に散るようになった」と言って断った。

黄帝が三ヶ月間閉居した後に再び教えを請うと、広成子はこれに答えたという。

所使: 駆馳するところ。

漢現の十二時中: 中国人が現実に活躍している二十四時間のうちの意。

 

なぜ玄は質問するように言ったのか?

玄沙は言った、「和尚さん、あなたから、〈もう一度同じ〉質問をして下さい」。

 

胡と漢ではテーマが違っていないか?

 また「胡来胡現(胡人が来れば胡人が映る)」とは一人の赤ひげの胡人を指している。

また「漢来漢現(漢人が来れば漢人が映る)」という場合の「漢」とは、

天地開闢の混沌から、盤古が現われ、天・地・人の三才が出現し、

木・火・土・金・水の五才が現成したのだと云い伝えてきた。

 

 

 道元は〈雪峰真覚(せつぽうしんかく)=諸仏〉と〈玄沙師備=諸仏〉の〈問答〉を〈由縁=糸口〉として、〈法華経〉の〈文底=真髄〉に迫っている。〈諸仏=雪峰真覚〉は、〈要会此事(ようういしじ)、我這裡(がしやり)如一面(によいちめん)古鏡相似(こきようそうじ)。胡来胡現(こらいこげん)、漢来漢現(かんらいかんげん)《此の事を会(うい)せんと要せば、我が這裡(しやり)、一面の古鏡の如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す》〉と〈説著=道得〉している。〈此の事を会せんと要せば〉という〈説著=道得〉は、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉を〈把握〉する〈方法的原理〉を示している。
 〈此の事〉は、〈甚麼(じんも)=如是(によぜ)〉を意味する。それは〈法華経〉の〈文底〉に〈秘蔵〉された〈三重秘伝〉であり、〈正法眼蔵〉にほかならない。その〈正法眼蔵=三重秘伝〉を〈信受〉し、その〈文底=奧底〉を幾重にも〈参学〉するとき、〈我這裡如一面古鏡相似(がしやりによいちめんこきようそうじ)《我が這裡、一面の古鏡の如く相似》〉なる〈境界〉が〈覚醒〉するのである。〈胡来胡現、漢来漢現〉という〈道得=説著〉は、〈釈尊=法華経〉の〈諸法実相=色心不二〉という〈説著=道得〉を〈承継〉している。
 
これに応じて〈諸仏=玄沙師備〉は、〈忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》〉と〈問処=道得〉している。〈忽遇明鏡来時如何〉と〈我這裡如一面古鏡相似〉を対応させると、〈忽遇〉と〈如一面〉は〈仮諦〉となり、〈明鏡〉と〈古鏡〉は〈中諦〉となり、〈来時〉と〈我這裡〉は〈空諦〉となり、〈如何〉と〈相似〉は〈三諦円融〉となる。この二つの〈道得=説著〉は、〈相呼応〉しているのである。
 二人の〈問答〉は〈雪峰=諸仏〉の〈忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》〉という〈問処=道得〉と、〈玄沙=諸仏〉の〈百雑砕〉という〈答処=道得〉に結実している。〈明鏡来に遇う時〉は〈不明鏡来に遇う時〉、〈不明鏡来に不遇の時〉、〈明鏡来に不遇の時〉……をはらんでいる。〈百雑砕=無限拡散〉は〈非百雑砕=一点収斂〉をはらみ、〈一点収斂=非百雑砕〉は〈無限拡散=百雑砕〉をはらんでいる。〈因果倶時=能動即受動・善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉は、どこまでも貫徹する。

  道元は〈雪峰道〉のさらなる〈文底〉に迫っている。〈古鏡〉とは、〈辺際〉も〈内外〉も無い〈宇宙・生命〉そのものなのである。〈一珠走盤(いつしゆそうばん)の自己〉という〈譬喩〉は、〈自己〉が〈自他不二〉なる〈存在〉であり、〈能動即受動=因果倶時〉の〈法理〉そのものであることを示している。〈胡漢〉も〈鏡〉も〈法理〉そのものであることを、〈胡漢倶隠(こかんくいん)《胡漢倶(とも)に隠る》〉、〈鏡也自隠(きようやじいん)《鏡もまた自ら隠る》〉と〈道得=説著〉しているのである。

 

黄帝のとき、十二面の鏡あり。家訓にいはく、天授なり。また広成子(こうせいし)の崆峒山(くうとうざん)にして与授(よじゆ)せりけりともいふ。その十二面のもちゐる儀は、十二時に時々に一面をもちゐる、また十二月に毎月毎面にもちゐる、十二年に年々面々にもちゐる。いはく、鏡は広成子の経典なり。黄帝に伝授するに、十二時等は鏡なり。これより照古照今するなり。十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。十二時もち鏡にあらずば、いかでか照今あらん。いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、古今は十二時の所使なり。この道理を指示するなり。これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

 

 

 

 生物には〈時間感覚〉がある。〈時間感覚〉という〈言葉=事象〉について、〈外道=非仏眼〉は、〈時間〉と〈感覚〉を〈分断=分節〉して〈思考〉し、〈仏道=仏眼〉は〈一体不二〉ととらえる。単細胞生物の〈時間感覚〉があり、多細胞生物の〈時間感覚〉があり、〈植物〉と〈動物〉の〈時間感覚〉がある。〈従因至果=物本事迹〉の〈視点=世界観〉で、〈時間=空間〉を〈無限大〉と〈無限小〉の両方向に〈分節〉するとき、〈分節〉する〈言葉〉と〈言葉〉の狭間に、〈非分節=混沌〉もまた増大する。〈言語表現〉はいかに〈詳細=綿密〉になろうと〈事の端〉に留まり、〈無限の存在〉を〈秘蔵〉し続ける。一つの〈言葉=事象〉を〈外道=非仏眼〉で見れば、〈物本事迹=爾前権教=外道〉の〈世界〉が開き、〈内道=仏眼〉で見れば、〈事本物迹=妙法=内道〉の世界が開く。それが〈私=われわれ〉の〈生きる世界〉なのである。
 〈黄帝の時〉は〈過去〉を意味する。〈十二面の鏡〉には、〈文上=物本事迹=非仏眼〉と〈文底=事本物迹=仏眼〉がある。〈十二面の鏡=鏡の十二面〉とは何か。それは〈三才=天・地・人〉を〈四面〉ずつ映し出す〈鏡〉である。〈四面〉は、〈文上=表層〉から〈文底→=三重秘伝→妙法の曼荼羅〉への〈入門=出門〉となる。〈鏡照古今〉の〈鏡〉は〈中諦〉、〈照〉は〈空諦〉、〈古今〉は〈仮諦〉を表す。〈天与授広成子〉の〈天〉は〈中諦〉、〈与授〉は〈空諦〉、〈広成子〉は〈仮諦〉となる。
 〈与える者〉は〈与えられるもの〉であり、〈与えられるもの〉は〈与える者〉にほかならない。〈十二時〉は〈能使〉であり、〈古今〉は〈所使〉である。〈十二時中の漢現〉は〈漢現の十二時中〉となり、〈いま、ここに〉開く〈森羅万象〉の〈色心不二=諸法実相〉を示している。〈凡夫=俗諦〉の〈言語表現=道取〉は〈俗世界〉を開き、〈仏=真諦〉の〈道取=言語表現〉は〈仏世界〉を開く。今、〈国家=国民〉、〈人類=民族=宗派〉を飛び交う〈言語表現〉は、どのような〈波紋=伝播〉を巻き起こしているのか。

 

 

  軒轅(けんえん)黄帝膝行進崆峒(しつこうしんくうとう)、問道乎広成子(もんどうここうせいし)《軒轅(けんえん)黄帝、膝行して崆峒(くうとう)に進んで、道(どう)を広成子に問ふ》。時に広成子曰く、鏡是陰陽本(きようぜいんようほん)、治身長久(じしんちようきゆう)。自有三鏡(じうさんきよう)、云天(うんてん)、云地(うんじ)、云人(うんにん)。此鏡無視無聴(しきようむしむちよう)。抱神以静(ほうじんいじよう)、形将自正(ぎようしようじしよう)。必静必清(ひつじようひつせい)、無労汝形(むろうによぎよう)、無揺汝精(むようによせい)、乃可以長生(ないけいちようしよう)《鏡は是れ陰陽の本、身を治むること長久なり。自から三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり。抱神にして、以て静かに、形将(まさ)に自ら正し。必静なり、必清なり。汝が形を労すること無く、汝が精を揺(ゆるが)すこと無し。乃(すなわ)ち以て長生すべし》。
 むかしはこの三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。この大道にあきらかなるを、天地の主とするなり。俗のいはく、太宗は人をかがみとせり。安危理乱(あんきりらん)、これによりて照悉(しようしつ)するといふ。三鏡のひとつをもちゐるなり。人をかがみとするとききては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用捨をしりぬべし、たどへば、魏徴(ぎちよう)をえしがごとく、房玄齢(ぼうげんれい)をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく会取(ういしゆ)するは、太宗の人を鏡とする、と道取する道理にはあらざるなり。人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。人物の去来(こらい)をみるに、来無迹(らいむしやく)《来たるに迹無く》、去無方(こむほう)《去るに方無き》を人鏡の道理といふ。賢不肖(けんふしよう)の万般なる、天象に相似なり。まことに経緯なるべし。人面鏡面、日面月面なり。五嶽の精および師涜(しとく)の精、世をへて四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて経緯をはかるを、太宗の道といふなり、博覧人をいふにはあらざるなり。

 

軒轅(けんえん): 黄帝の名。

黄帝は河田省新郎県の軒轅(けんえん)の丘に生れた。

そこで軒轅氏という。軒轅黄帝以下の文は、荘子巻四、在宥第11の取意文。

膝行:  膝を地にすりつけながら行くこと。貴人の前での礼儀。

クウトウ: クウトウ山。『神仙伝』巻一の『広成子』によると、

広成子は古代中国の仙人で、クウトウ山の石の部屋で暮らしていた。

クウトウ山は黄帝が広成子に至道を問うた所という。

クウトウ山は、伝説空想上の山で、その所在について諸説がある。

陰陽: 陰と陽。天地間にあって万物を生ずる二気。

また、日月・乾坤・寒暖・男女等のように互いに対立する性質のものをいう。

形: かたち、すがた、外形、肉体。

精:  たましい、こころ、精神。

大道:  道はことわり、秩序。大道は宇宙に遍満する偉大な秩序。

治す:  おさめる、ただす、ととのえる。

太宗: 唐朝の第2代皇帝太宗(在位、626〜649)。

高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。

隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。

貞観政要に「唐太宗・・・以人為鏡・・・」とある。

理乱:理はおさまる。乱はみだれる。 

照悉: ことごとくを照らすの意。

博覧: 見聞がひろいこと。

聖賢: 聖人と賢人。また、知識・人格にすぐれた人物。

用舎: 用はもちいる。舎はすてる、捨に同じ。

魏徴: 魏 徴(ぎ ちょう、580 643)は、唐の政治家。

字は玄成。唐、曲城の人。字は玄成。唐の高祖、太宗に仕え、名臣の誉れが高かった。

房玄齢: 房玄齢(ぼう げんれい 578 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。

太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者で唐代最高の政治家の一人とされる。

五常: 五常(ごじょう)は、儒教で説く5つの徳目。

仁・義・礼・智・信を指す。人が常に行なうべき五種の正しい行ない。

人鏡の道理: 人を鏡とする場合の基本的な裡論。

天象: 天体の現象。日月星辰。

経緯:たて糸と横糸。物事の骨子となるもの、天地の基準。

五嶽:  中国において、国の鎮めとして尊んだ五つの名山。

天子がこれを祭り、ここに巡幸した。

泰山(東岳)華山(西岳)・霍山(南岳)・恒山(北岳)・嵩山(中岳)の五山をいう。

精: 精気、精髄。

四トク: 中国の四大河。

長江、黄河、桐柏山から出る淮水(わいすい)・済水の四大河をいう。

四トクの精: 中国の四大河の精。

四海:   四方の海。 

慣習:  ならわし、ならい、習慣。

 

  〈釈尊=仏法〉は、〈人間=凡夫〉の〈生きる営み〉について説いている。引用されている〈テクスト=記述〉は『荘子』からの取意文である。道元は〈非仏法=外道〉の〈道得=言語表現〉を〈入門=出門〉として、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉への参学を問いかけているのだ。〈軒轅(けんえん)黄帝膝行進崆峒(しつこうしんくうとう)、問道乎広成子(ものどうここうせいし)《軒轅(けんえん)黄帝、膝行して崆峒(くうとう)に進んで、道(どう)を広成子に問ふ》という〈記述=テクスト〉は、〈黄帝=権力〉が〈広成子=学者〉に最高の敬意を表したことを物語っている。
 〈権力=黄帝〉の〈問い〉に対して、〈学者=広成子〉は次のように〈答処=道得〉している。〈鏡是陰陽本(きようぜいんようほん)、治身長久(じしんちようきゆう)。自有三鏡(じうさんきよう)、云天(うんてん)、云地(うんじ)、云人(うんにん)。此鏡無視無聴(しきようむしむちよう)。抱神以静(ほうじんいじよう)、形将自正(ぎようしようじしよう)。必静必清(ひつじようひつせい)、無労汝形(むろうによぎよう)、無揺汝精(むようによせい)、乃可以長生(ないけいちようしよう)《鏡は是れ陰陽の本、身を治むること長久なり。自から三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり。抱神にして、以て静かに、形将(まさ)に自ら正し。必静なり、必清なり。汝が形を労すること無く、汝が精を揺(うご)すこと無し。乃(すなわ)ち以て長生すべし》〉。
 ここでは、〈天・地・人=三才〉が〈鏡〉に譬えられている。〈無視なり、無聴なり〉という〈道得=言語表現〉が示すのは、〈見る者=聴く者〉が〈見られるもの=聴かれるもの〉となり、〈見られるもの=聴かれるもの〉が〈聴く者=見る者〉となる〈因果倶時=能動即受動〉の法理である。〈黄帝=権力〉は、〈三才=天・地・人〉を、〈安危理乱〉への対応、すなわち国家を治め、人道を正す〈三鏡〉として用いた。この〈道理〉に明らかな人物を、〈天地の主〉としたのである。〈三鏡〉の一つとされる〈人=鏡〉を用いれば、すべてを〈照悉=把握〉できるのか。
 
どのように〈人〉を〈鏡〉とするのか。多くの人は、〈博覧=学識者〉に〈古今〉のことを学べば〈聖賢=人材〉を〈用捨=選別〉できると思っている。そのような〈思い込み〉は〈文上=表層〉の〈理論〉に留まり、さらなる〈文底=奧底〉への参学が問われることになる。道元は〈人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり〉と説いている。〈五行〉は〈万物の本〉とされる〈火・水・木・金・土〉の五要素を指し、〈五常〉は儒教が徳目とする〈仁・義・礼・智・信〉を指す。
 〈私=われわれ〉という〈存在〉は本来、〈来無迹(らいむしやく)《来たるに迹無き》、去無方(こむほう)《去るに方無し》なのだ。〈他者〉を〈賢=有能〉と〈不肖=無能〉に〈分別=選別〉するのも、〈われわれ=私〉の恣意的な〈価値判断〉に過ぎず、〈善悪不二〉なる〈天象=森羅万象〉を〈善悪〉に〈選別=分別〉するのに等しい。〈賢=有能〉を選択して〈育てた=育った〉という〈自己主張〉は、何か大事なことを見落としている。〈簡び捨てる=簡び捨てられる〉ことによって、〈育てる=育てられる〉ということはないのか。〈私=われわれ〉は〈閣僚〉あるいは〈国会議員〉として、〈誰〉から〈何〉を学び、〈誰〉に〈何〉を伝えているのか。そのことを〈在りのまま〉に〈見つめる〉とき、初めて〈政治改革〉の出発点としての〈自己改革〉の道が開けるのだ。 
 
〈他者〉を出し抜いて、最も効率的に利益を上げることを〈生き甲斐=価値観〉とする者は、同じ〈価値観=生き甲斐〉を抱く者の〈眷属〉となる。〈国民〉は〈国民〉が選ぶ〈国会議員〉の〈眷属〉となり、〈国会議員〉は〈国会議員〉を選ぶ〈国民〉の〈眷属〉となる。〈国会議員=政党幹部〉という立場を利用して、私財を蓄えてきた〈政治家〉がいる。その〈生き甲斐=価値観〉は〈国民の生活と命を守る〉ことなのか、〈自己〉の〈貪名愛利〉を満足させることなのか。その〈色心〉は、〈人面鏡面、日面月面〉として、〈すべて、余す処なく〉照らし出されている。

 

 日本国自神代有三鏡(にほんこくじじんだいうさんきよう)、璽之与剣(じしよけん)、而共伝来至今(にぐでんらいしこん)。一枚在伊勢大神宮(いちまいざいいせだいじんぐう)、一枚在紀伊国日前社、一枚在内裡内侍所《日本国、神代より三鏡有り、璽と剣と、而も共に伝来して今に至る。一枚は伊勢の大神宮に在り、一枚は紀伊の国日前の社に在り、一枚は内裡(だいり)の内侍所に在り》。
 しかあればすなはち、国家みな鏡を伝持すること、あきらかなり。鏡をえたるは国をえたるなり。人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく伝来せり、天神より伝来せると相伝す。しかあれば、百練の銅も陰陽の化成(けじよう)なり。今来今現、古来古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。
 雪峰の宗旨(そうし)は、新羅来新羅現、日本来日本現ともいふべし。天来天現、人来人現ともいふべし。現来をかくのごとく参学すといふとも、この現、いまわれら本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり。かならずしも来現をそれ知なり、それ会(うい)なりと学すべきにあらざるなり。いまいふ宗旨は、胡来は胡現なりといふか。胡来は一条の胡来にて、胡現は一条の胡現なるべし。現のための来にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この参学あるべきなり。

 

璽: 天子の印。泰以来、玉を用いて作り、天子のみに用いる。しかしここでは三枝の神器の中の八坂瓊(やさかに)曲玉を指す。

剣:  ここでは三種の神器の中の草薙剣を指す。

日前社(ひのくましゃ): 和歌山市秋月に日前神宮として現存している。

内侍所:  温明殿の別名。三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祭ってある所、賢 所。

内裏: 大内裏の中の皇居、天皇の常に住む御殿。

百練: 何回となく練り鍛えること、百錬。

陰陽: 陰と陽と。天地間にあって、万物を生ずる二気。

照臨:  高い所から四方を照らすこと。

一条: 一筋。始めから終りまで同質であることの形容。

 

 

  日本国が伝える〈三鏡=三種の神器〉は、何を象徴しているのか。〈三種の神器=三鏡〉とは〈八咫鏡(やたのかがみ)〉、〈天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)〉、〈八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)〉の三つである。〈鏡〉を〈空諦〉ととれば、〈剣〉は〈仮諦〉、〈玉〉は〈中諦〉となる。日本に伝わる〈三種の神器=三鏡〉は〈三諦円融〉を示している。〈三諦円融〉の〈極理〉は、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。それは、どこに〈存在〉するのか。〈いま、ここ〉に、この〈テクスト=道得〉を読む〈己心〉に開くのだ。〈今来今現〉は〈諸法実相・色心不二〉と〈通底〉し、〈古来古現〉は〈久遠実成・久遠即末法〉と〈通底〉している。〈百錬の銅〉とは、〈私=われわれ〉の〈生命・人生〉である。それは〈陰陽の化成(けじよう)〉であり、〈今来今現・古来古現〉にほかならない。この場合、〈現〉は〈色法=諸法〉、〈来〉は〈心法=実相〉を意味する。 道元は、〈雪峰=釈尊〉の〈説著=道得〉を、〈新羅来新羅現、日本来日本現、天来天現、人来人現〉と展開してみせる。そして〈現来をかくのごとく参学すといふとも、この現、いまわれら本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり〉と〈説著=道得〉しているのだ。この〈道得=説著〉は、〈言語表現〉の限界と、さらなる〈文底〉への〈参学〉を問いかけている。

 玄沙出(いで)てとふ、たちまちに明鏡来にあはんに、いかん。この道取、たづねあきらむべし。いまいふ明の道得は、幾許(きこ)なるべきぞ。いはくの道は、その来はかならずしも胡漢にはあらざるを、これは明鏡なり、さらに胡漢と現成すべからず、と道取するなり。明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚になるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。古鏡あり明鏡ある証験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。これをば仏道の性相とすべし。これ玄沙の明鏡来の道話の七通八達なるとしるべし。八面玲瓏なることしるべし。逢人(ふにん)には即出なるべし、出即には接渠(せつこ)なるべし。しかあれば、明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。古鏡といふ言によりて、明なるべしと学することなかれ。宗旨は、吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく錬磨すべし。祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか、いかん。まさにひろく諸仏諸祖の道にわたる参学あるべし。

 

幾許(きこ): どれほど。

二枚なるべからざるなり: 古鏡と明鏡の二枚であってはならない。

証験: あかし、しるし。

性相:  性は本性、本質。相は形相、外見、姿。性相は本質ならびに外見の意。

仏道の性相とすべし: 古鏡と明鏡は古鏡が性(本体、本性)で、明鏡(分別智=理知や知性)は相(形相)の関係であるが一如(脳として一体)である。

七通八達: 縦横無尽に通達していること。

八面玲朧: いずれの方面も透きとおって明らかなこと。

心中になんらのわだかまりもないこと。

逢人: 人に逢うこと。

即出:  即座に出現するという意味。

出即: 出現した場合ただちにという意味。

接渠: 渠は彼に同じ。接渠は彼に接すること、相手に出合った時には教化していること。

 

  〈玄沙=諸仏〉は、〈たちまちに明鏡来にあはんに、いかん〉と〈問処=道得〉している。〈明鏡来〉とは、〈在りのまま〉の〈実存〉、すなわち〈事の一念三千〉の〈顕現〉を意味する。〈逢はんに、如何〉という〈説著=道得〉は、〈只管打坐=瞑想〉を示している。〈明鏡来〉と〈古鏡来〉は〈二枚〉なのか、〈非二枚〉なのか。〈明鏡来〉を〈色法=物本事迹〉ととれば、〈古鏡来〉は〈心法=事本物迹〉となる。〈釈尊=仏道〉の〈極理〉は、〈色心不二〉なのである。これを〈吾亦如是、汝亦如是、西天諸祖亦如是の道理〉と言う。 
 
〈吾亦如是・汝亦如是・西天諸祖亦汝是〉は、森羅万象の〈色心〉が〈妙法〉の当体であることを示している。己心の〈古鏡〉を磨く方法とは、〈古仏の道〉すなわち〈我本行菩薩道〉にほかならない。寿量文底の〈妙法〉を信じ〈行持〉することを、〈磨鏡〉という。そこからさらに、〈古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか〉という〈文底=奧底〉の〈意義〉が問われることになる。〈磨鏡〉は〈不変真如の理〉に帰する一面、〈明鏡〉は〈随縁真如に智〉に命(もと)づく一面である。〈随縁不変・一念寂照〉と開かれた〈生命〉を〈仏〉と言う。〈古鏡〉は〈久遠即末法〉、〈明鏡〉は〈色心不二〉を象徴している。

 雪峰道の胡漢倶隠(こかんくいん)は、胡も漢も、明鏡時は倶隠(くいん)なりとなり。この倶隠の道理、いかにいふぞ。胡漢すでに来現すること、古鏡を相罣礙(あいけいげ)せざるに、なにとしてか、いま倶隠なる。古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢を罣礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裡に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず。この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり。

 

おろそか:注意の足りないさま。なおざり、粗略。

 

 

  〈雪峰=諸仏〉は〈胡漢倶隠(こかんくいん)〉と〈答処=道得〉している。〈明鏡時〉には〈胡漢倶(とも)に隠れる〉と言うのだ。道元は〈胡漢すでに来現すること、古鏡を相罣礙(あいけいげ)せざるに、なにとしてか、いま倶隠なる〉と〈私=われわれ〉に問いかける。この〈問い〉に、道元は〈古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり〉と〈答処=道得〉している。〈明鏡来〉とは、日蓮による〈妙法の曼荼羅〉の顕現であり、その〈妙法の曼荼羅〉と対坐して、〈只管打坐=瞑想〉を〈行持〉することである。そのとき〈妙法の曼荼羅〉と対坐する〈自他不二〉なる〈己心〉は〈古鏡〉となる。その〈古鏡〉に映るのは〈妙法の曼荼羅〉である。そのとき〈己心〉の〈胡漢=森羅万象〉は〈倶に隠れる〉のだ。日常生活は〈胡漢倶現〉、〈只管打坐=瞑想〉は〈胡漢倶隠〉となる。
 
そこからさらに道元は、〈胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり〉と説いている。〈胡漢倶隠ならん時節〉とは、〈いま、ここ〉に〈妙法の曼荼羅〉と対坐する〈時節〉である。そのとき、〈明鏡〉も〈古鏡〉も〈倶に隠れ〉て、すべてが〈妙法の曼荼羅〉となる。〈諸仏=雪峰〉の〈胡漢倶隠〉という〈道得=説著〉は、この〈古鏡〉と〈明鏡〉の〈文底=奧底〉に通じる〈入門=出門〉にほかならない。道元は〈古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裡に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず〉と説いている。

 ときに玄沙いはく、某甲(それがし)はすなはちしかあらず。雪峰いわく、なんぢ作麼生(そもさん)。玄沙いはく、請和尚問《請(しん)すらくは和尚問ふべし》。いま玄沙のいふ請和尚問のことば、いたづらに蹉過(さか)すべからず。いはゆる和尚問の来なる、和尚の請なる、父子の投機にあらずは、為甚如此《甚(なに)と為()てか此の如くなる》なり。すでに請和尚問ならん時節は、恁麼人(いんもにん)さだめて問処を若会(にやくうい)すべし。すでに問処の霹靂(びやくりやく)するには、無廻避処(むういひしよ)なり。雪峰いはく、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)。この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり。玄沙いはく、百雑砕(ひやくざつすい)。この道取は、百千万に雑砕(ざつすい)するとなり。
 
いはゆる忽遇明鏡(こつぐうみんきん)来時(らいじ)は百雑砕なり。百雑砕を参得(さんて)せんは明鏡なるべし。明鏡を道得ならしむるに、百雑砕なるべきがゆゑに。雑砕のかかれるところ、明鏡なり。さきに未雑砕なるときあり、のちにさらに不雑砕ならん時節を管見することなかれ。ただ百雑砕なり。百雑砕の対面(ついめん)は孤峻(こしゅん)の一なり。しかあるに、いまいふ百雑砕は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請一点語(きようしんいつてんご)《更に一点語を請ふ》なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。古鏡明鏡はたとひ問来得なりといへども、玄沙の道取を擬議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑砕なりぬべきか。砕来の形段作麼生(いんとんそもさん)。万古碧潭空界月(ばんこへきたんくうかいげつ)

 

 

 

 

  〈玄沙=諸仏〉と〈雪峰=諸仏〉の〈問答=文底への参学〉は、互いに響き合い、照らし合いながら、〈諸仏=雪峰〉の〈忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何》〉という〈問処=道得〉と、〈諸仏=玄沙〉の〈百雑砕《百雑砕する》〉という〈答処=道得〉に結実している。そのことを道元は,〈この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり〉と〈説著=道得〉しているのだ。
 
〈忽遇明鏡来時〉とは、〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時空〉である。〈百雑砕〉とは、森羅万象の〈縁起=連関〉を感得する心を言う。〈百雑〉は森羅万象を〈分別〉する〈心〉、〈砕〉はその〈心〉の転換〉を意味する。〈未雑砕〉や〈不雑砕〉の〈時節〉があるわけではない。〈生命の真実〉は常に〈百雑砕〉なのである。その〈生命の真実〉は〈言葉〉や〈思考〉を超えている。〈生命の真実〉は〈自他不二〉なる〈己心〉で悟る以外にないことを〈百雑砕の対面は孤峻の一なり〉と説いているのだ。
 
〈更請一点語(きようしんいつてんご)《更に一点語を請ふ》は、さらなる〈文底=奧底〉への参学の要請である。道元は〈百雑砕〉について、〈古鏡道取=非古鏡道取〉、〈明鏡道取=非明鏡道取〉と説いている。〈凡夫=外道〉は、〈百雑砕〉を〈舌端=言葉〉の〈分断=分節〉によって浮上する〈森羅万象〉の〈見掛け〉の〈形段〉と思い込む。〈砕来の形段〉とは何か。道元は〈万古碧潭空界月(ばんこへきたんくうかいげつ)〉と〈説著=道得〉している。〈万古〉は〈空諦〉、〈碧潭空界〉は〈仮諦〉、〈月〉は〈中諦〉となる。〈万古碧潭空界月〉という〈譬喩〉が示しているのは、〈三諦円融〉すなわち、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。

 

                                  

  雪峰真覚(せつぽうしんかく)大師と三聖院慧然(さんしよういんえねん)禅師と行次(あんし)に、ひとむれの獼猴(みこう)をみる。ちなみに雪峰いはく、この獼猴(みこう)、おのおの一面の古鏡を背せり。この語、よくよく参学すべし。獼猴(みこう)といふはさるなり。いかならんか雪峰のみる獼猴(みこう)。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。経劫(けいこう)をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりとは、古鏡たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。獼猴(みこう)おのおの面々に背せりといふは、面々に大面小面あらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとへば、絵像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。獼猴(みこう)の背を背するに、古鏡にて背するなり。使得什麼糊来(してしもこらい)《什麼なる糊(のり)をか使得し来る》。こころみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴(みこう)にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面のことば、虚設なるべからず、道得是(どうてぜ)の道得なり。しかあれば、獼猴(みこう)か、古鏡か。畢竟作麼生道(ひつきようそもさんどう)。われらすでに獼猴(みこう)か、獼猴(みこう)にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴(みこう)にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸索およばず。三聖いはく、歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん。
 これは三聖の古鏡を証明せる一面一枚なり。歴劫といふは、一心一念未萌(みぼう)以前なり、劫裡(こうり)の不出頭なり。無名といふは、歴劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名真箇に無名ならんには、歴劫いまだ歴劫にあらず、歴劫すでに歴劫にあらずは、三聖の道得、これ道得にあらざるべし。しかあれども、一念未萌以前といふは今日なり。今日を蹉過(さか)せしめず錬磨すべきなり。まことに歴劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする、竜頭蛇尾。

 〈雪峰=諸仏〉と〈三聖=諸仏〉は〈行脚=旅〉の途上で、一群の〈獼猴(みこう)=猿猴(おんこう)〉を見る。そこで〈諸仏=雪峰〉が、〈この獼猴、おのおの一面の古鏡を背せり〉と〈説著=道得〉すると、〈諸仏=三聖〉が〈歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん〉と〈問処=道得〉する。〈獼猴(みこう)〉とは猿である。〈法華経=釈尊〉は、〈見掛け=虚構〉に振り回される〈凡夫〉の色心を〈猿〉に譬えている。
 観普賢菩薩行法経の偈頌に、〈耳根(にこん)は乱声(らんしよう)を聞いて 和合(わごう)の義を壊乱(えらん)す 是()れに由って狂心(おうしん)を起すこと 猶癡(なおおろ)かなる猿猴(おんこう)の如し 但当(ただまさ)に大乗を誦し 法の空無相を観ずべし 永く一切の悪を尽して、天耳(てんに)をもって十方を聞かん〉という一節がある。〈六根=六賊〉を〈賊=悪〉の面からとらえ、それを〈善=清浄〉へと転換する法理を説いている。その〈文底=奧底〉は〈善悪不二=肯定即否定〉となる。〈雪峰真覚(せつぽうしんかく)=諸仏〉と〈三聖院慧然(さんしよういんえねん)=諸仏〉の〈問答〉は、〈釈尊=法華経〉の〈猿猴=獼猴〉の譬喩を承継しているのだ。
 
道元は〈いかならんか雪峰のみる獼猴(みこう)。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし〉と問いかける。〈経劫を顧みること無かれ〉とは、〈過・現・未〉という〈虚構〉を超克して,〈いま、ここに〉に開く〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことである。〈おのおの一面の古鏡を背せる獼猴〉とは、〈私=われわれ〉の〈色心〉にほかならない。〈使得什麼糊来(してしもこらい)《什麼(いか)なる糊(のり)をか使得し来る》〉という〈問処=道得〉は、何を示しているのか。

〈古鏡〉を〈背する〉ための〈糊〉とは、〈只管打坐=瞑想〉にほかならない。道元は〈われらすでに獼猴(みこう)か、獼猴(みこう)にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴(みこう)にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸索およばず〉と説いている。


 
さらに道元は、〈三聖=諸仏〉の〈歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん〉という〈問処=道得〉について、さらなる〈文底=奧底〉への参学を問いかける。〈歴劫無名〉とは、〈歴劫〉を〈言葉〉で〈定義〉できないことを意味する。〈釈尊=法華経〉は〈諸仏=釈尊〉の〈歴劫修行〉を説いている。〈三千塵点劫=五百塵点劫〉は、その一つである。それを〈古鏡〉として〈顕す〉とは、どういうことなのか。〈古鏡たとひ諸仏祖面なりとも〉は〈物本事迹=色法〉を意味し、〈古鏡は向上なりとも古鏡なり〉は〈事本物迹=心法〉を意味する。〈一念未萌以前〉は〈久遠実成=久遠即末法〉を示し、〈劫裡の不出頭〉は〈色心不二=諸法実相〉を示している。その〈極理〉はいずれも、〈いま、ここに〉脈動する〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉となる。〈竜頭蛇尾〉の〈竜頭〉は〈竜頭〉でもあり〈蛇尾〉でもある。〈蛇尾〉もまた〈蛇尾〉にも〈竜頭〉にもなる。

 このとき、三聖にむかひて、雪峰いふべし、古鏡古鏡と。雪峰恁麼(いんも)いはず、さらに瑕生也(かさんや)といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也(かさんや)ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名とらいふを、きずとせるなるべし。古鏡の瑕生也は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆゑに、道来せる参究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なりと参学する、これ古鏡参学なり。
 三聖いはく、有什麼死急(うしもしきゆう)、話頭亦不識(わとうやくふしき)《什麼の死急か有らん、話頭も不識》。いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か他門か。尽十方界か、大唐国裡か。審細に功夫参学すべきなり。話頭也不識は、話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。たとへば、話頭も大地有情(だいちうじよう)、同時成道(どうじじようどう)しきたれるか。さらに再全の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり。対朕者不識(ついちんしやふしき)なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祇是不識(しぜふしき)《祇是(ただこ)れ不識》なり。不識は条々の赤心なり、さらにまた明々の不見なり。
 雪峰いはく、老僧の罪過なり。いはゆるは、あしくいひにけるといふにも、かくいふこともあれど、しかはこころうまじ。老僧といふことは、屋裡の主人翁なり。いはゆる余事を参学せず、ひとへに老僧を参学するなり。千変万化あれども、神頭鬼面(しんとうきめん)あれども、参学はただ老僧一著なり。仏来祖来、一念万念あれども、参学はただ老僧一著なり。罪過は住持事繁(じゆうじじはん)なり。おもへばそれ、雪峰は徳山の一角なり、三聖は臨済の神足(しんそく)なり。両位の尊宿、おなじく系譜いやしからず、青原(せいげん)の遠孫(おんそん)なり、南嶽(なんがく)の遠派(おんは)なり。古鏡を住持しきたれる、それかくのごとし。晩進の亀鑑なるべし。

 〈何のゆえにか、古鏡として顕すのか〉いう〈三聖〉の〈問処〉に対して、〈雪峰〉は〈古鏡古鏡〉と〈答処〉することもできたはずである。しかし〈雪峰〉は〈恁麼=そのよう〉には言わず、〈瑕生也=瑕が生じている〉と〈問処=道得〉している。〈非存在〉の〈存在〉を〈仮構〉する〈仮定法〉は、〈外道〉の〈論理=思考〉であり、〈夢遊病者〉の〈譫言〉でしかない。〈色心不二〉なる〈実存〉は一回性であり、〈仮定法〉の議論はすべて空回りとなる。〈釈尊=仏道〉は、すべての事象を〈一期一会〉として参学するのだ。〈瑕が生している=瑕生也〉という〈道得=答処〉は、〈いま、ここに〉生きる〈私=われわれ〉が〈古鏡〉なのか〈瑕〉なのかを問いかける。〈三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりける〉という〈言説=テクスト〉は、さらなる〈文底=奧底〉への参学を求めている。
 〈三聖=諸仏〉は、〈有什麼死急(うしもしきゆう)、話頭亦不識(わとうやくふしき)《什麼の死急か有らん、話頭も不識》〉、と〈道得=説著〉している。この〈説著=道得〉を、道元は〈いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か他門か。尽十方界か、大唐国裡か。審細に功夫参学すべきなり〉と展開する。〈過去=他者〉ではなく、〈いま、ここに〉生きる〈私=われわれ〉にとって、〈どのような死急が有るのか〉を〈参学〉しなければならない。〈死急〉とは〈誰〉なのか。〈われわれ=私〉なのか〈尽大地〉なのか。
 
〈話頭也不識《話頭も不識なり》〉について、道元は〈話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり〉と展開する。ここに提起されているのは、〈言語表現〉の〈種・熟・脱〉という問題である。〈話頭〉は〈色法・末法〉となり、〈不識〉は〈心法=久遠〉となる。〈大地有情〉の〈大地〉は〈色法〉、〈有情〉は〈心法〉である。〈同時成道〉の〈同時〉は〈久遠〉、〈成道〉は〈末法〉となる。
 
政党や議員が掲げる〈マニフェスト〉や〈選挙公約〉は、〈言語表現〉された瞬間に〈脱益化=死物化〉して、〈実存〉に対応できなくなる。それは〈釈尊=仏道〉が説く〈言語表現〉における〈種・熟・脱〉の法理である。今、鳩山前首相の言動は〈脱益化=死物化〉しつづけ、千変万化する〈現実〉に対応できない〈マニフェスト〉を、自ら〈体現〉する形になっている。小沢氏を幹事長の座から引きずり下ろして、勝利のジェスチャーをテレビの画面で披露した鳩山氏が、その小沢氏を党首の座に誘う案内役になっているのだ。鳩山氏の言動は、〈夢遊病者〉のように取り留めない。道元は〈対朕者不識(ついちんしやふしき)なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祇是不識(しぜふしき)《祇是(ただこ)れ不識》なり〉と説いている。
 
〈雪峰=諸仏〉は、〈老僧の罪過なり〉と〈答処=道得〉する。〈老僧〉は〈屋裡の主人翁〉であり、〈主人翁の屋裡〉は〈老僧〉である。この〈老僧〉が〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉を示していることは明白である。〈千変万化あれども、神頭鬼面(しんとうきめん)あれども〉は〈諸法実相=色心不二〉を表し、〈仏来祖来、一念万念あれども、参学はただ老僧一著なり〉は〈久遠実成=久遠即末法〉を表す。〈罪過〉とは〈住持事繁=寺院の経営〉を意味する。〈私=われわれ〉は、〈寺院の経営=住持事繁〉の中で、どのように〈只管打坐=瞑想〉を〈行持〉するのか。その〈文底=奧底〉への参学は、誰も肩代わりできない。

 雪峰示衆(じしゆ)に云く、世界闊一丈(せかいかついちじよう)、古鏡闊一丈(こきようかついちじよう)。世界闊一尺、古鏡闊一尺《世界闊(ひろ)きこと一丈なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一丈なり。世界闊(ひろ)きこと一尺なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一尺なり》。時に玄沙、火炉を指して云く、且道(かつどう)、火炉闊多少(かろかつたしよう)《且(しばら)く道()ふべし、火炉闊(かろひろ)きこと多少ぞ》。雪峰云く、似古鏡闊(じこきようかつ)《古鏡の闊(ひろ)きに似たり》。玄沙云く、老和尚脚跟未点地在(ろうおしようきやくこんみてんちざい)《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》。
 一丈、これを世界といふ、世界はこれ一丈なり。一尺、これを世界とす、世界これ一尺なり。而今(しきん)の一丈をいふ、而今の一尺をいふ、さらにことなる尺丈にはあらざるなり。この因縁を参学するに、世界のひろさは、よのつねにおもはくは、無量無辺の三千大千世界および無尽法界といふも、ただ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方(ひほう)をさすがごとし。この世界を拈(ねん)じて、一丈とするなり。このゆゑに雪峰いはく、古鏡闊(かつ)一丈、世界闊(かつ)一丈。
 
この一丈を学せんには、世界闊(かつ)の一端を見取すべし。又古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。一丈の闊(かつ)は世界の闊一丈に同参なりとも、形興(ぎようこう)かならずしも、世界の無端(むたん)に斉肩(せいけん)なりや、同参(どうさん)なりやと功夫(くふう)すべし。古鏡さらに一顆珠(いつかしゆ)のごとくにあらず。明珠を見解(けんげ)することなかれ、方円を見取することなかれ。尽十方界たとひ一顆明珠(いつかめいしゆ)なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。
 
しかあれば、古鏡は胡漢(こかん)の来現にかかはれず、縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々なり。多にあらず、大にあらず。闊(かつ)はその量を挙()するなり、広(こう)をいはんとにあらず。闊(かつ)といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七箇八箇とかぞふるがごとし。仏道の算数(さんじゆ)には、大悟不悟(だいごふご)と算数するに、二両三両をあきらめ、仏々祖々と算数するに、五枚十枚を見成す。一丈は古鏡闊(こきようかつ)なり、古鏡闊は一枚なり。

 

雪峰が門下の大衆に、「自分が生きている世界と古鏡即ち自分が生きている事実の規模は同じである」と説示した。

すると玄沙が火炉を指して、「ちょっと火炉の規模を言ってみてください」と言った。

雪峰が「古鏡(自分の生きている事実)と相似だ」と言った。

玄沙は「貴方(老和尚)は脚が地に点いていない(古鏡が身についていない)」と言った。

つまり雪峰が示した「古鏡闊一丈、世界闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺」は、我々の生きている規模が宇宙の規模と同じであって、我々のすることなすことが「尽十方界真実」だということである。

また玄沙が「火炉闊多少」(火炉の構造はどんなものだ、火炉の在り方も様々である)と問うたのは、火炉という具体的な物によって真実の在り方を問うたのである。

 

特に「闊多少」という「疑問形」は、仏法の常識として「尽十方界真実」というものは、簡単に決め込み、片付けられないことを示している。

 

更に玄沙の問いに答えた雪峰の「似古鏡闊」(我々が生きている事実と同じだ)に対する「老和尚脚跟未点地在」は、玄沙が雪峰を一見批判したように見えるが、本来尽十方界真実の修行(宇宙の生命活動)は時々刻々のものであり、此処だと決める足場や到達点がなく、固定的に脚を下ろすことなどできない。つまり老和尚(雪峰)の修行は、無所得・無所悟の仏祖の修行そのものであると肯定したのである。

 

以上で「古鏡」巻の要点を述べたが、前巻等との関係を述べると、第十七「恁麼」巻は、「仏法」の項で説明した「恁麼」(何:疑問詞、石頭希遷が最初に使用)について説示しているが、既述のとおり、恁麼とは仏法そのもの、尽十方界真実、生ナマの事実を表現している。

この恁麼の事実がありとあらゆる姿となって表れていることを説いているのが「観音」巻であり、その「観音」巻の事実が古鏡の事実として表れるということになる。

 

 

 

 ここでは〈雪峰=諸仏〉の説法の座における〈諸仏=雪峰〉と〈玄沙=諸仏〉の問答が取り上げられている。〈雪峰〉が〈世界闊一丈(せかいかついちじよう)、古鏡闊一丈(こきようかついちじよう)。世界闊一尺、古鏡闊一尺《世界闊(ひろ)きこと一丈なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一丈なり。世界闊(ひろ)きこと一尺なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一尺なり》〉と〈説著=道得〉すると、〈玄沙〉は火炉を指して,〈且道(かつどう)、火炉闊多少(かろかつたしよう)《且(しばら)く道()ふべし、火炉闊(かろひろ)きこと多少ぞ》〉と〈問処=道得〉する。これに〈雪峰〉が〈似古鏡闊(じこきようかつ)《古鏡の闊(ひろ)きに似たり》〉と〈答処=道得〉すると、さらに〈玄沙〉は、〈老和尚脚跟未点地在(ろうおしようきやくこんみてんちざい)《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》〉と〈道得=説著〉している。
 
〈雪峰〉の〈世界闊一丈(せかいかついちじよう)、古鏡闊一丈(こきようかついちじよう)。世界闊一尺、古鏡闊一尺〉という〈道得=説著〉は何を示しているのか。〈自己〉の生きる世界を〈一丈〉と思えば〈一丈〉となり、〈一尺〉と思えば〈一尺〉となる。〈自己〉は世界の〈一部〉ではなく、世界の〈限界〉なのである。〈自己〉が〈世界の全体〉となり、〈世界の全体〉が〈自己〉となる。〈妙法〉を〈鏡〉として〈自己〉を磨かなければ、〈自己〉の生きる世界は〈小量〉の〈自己〉に限られる。
 道元は〈無量無辺の三千大千世界および無尽法界といふも、ただ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方(ひほう)をさすがごとし〉と説いている。〈私=われわれ〉は、法華経が説く〈五百塵点劫=三千塵点劫〉等の数字、あるいは〈無量無辺〉という〈言葉〉を聞いたり読んだりしても、それを正しく把握することはできない。〈われわれ=私〉の〈心=思考〉は、〈無量〉と〈非無量〉、〈無辺〉と〈非無辺〉の狭間で揺れ続ける。そこで〈雪峰〉は〈古鏡闊(かつ)一丈、世界闊(かつ)一丈〉と〈道得=説著〉しているのだ。
 
〈一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず〉という〈説著=道得〉は、〈仏道=悟道〉を〈私=われわれ〉とは〈無縁〉の〈深遠〉な法門、と思い込んではならないとの戒めである。〈日常〉の〈喜怒哀楽〉こそ、〈悟道=仏道〉の〈入門=出門〉なのである。〈一丈の闊は世界の闊一丈に同参なり〉は〈色心不二〉を表す。〈形興かならずしも、世界の無端に斉肩なりや、同参なりや〉の〈形興かならずしも〉は〈末法〉、〈世界の無端〉は〈久遠〉、〈斉肩・同参〉は〈即=不二〉を示している。そこに浮上するのは、〈久遠即末法=始源の時〉に脈動する〈実存〉の法理である。
 〈われわれ=私〉は、〈明珠を見解する〉とき〈唯色=唯心〉に偏り、〈方円を見取する〉とき〈唯心=唯色〉に偏る。〈尽十方界〉を〈一顆明珠〉と見るのは〈唯色=唯心〉であり、〈尽十方界〉を〈古鏡〉と見るのは〈唯心=唯色〉である。日蓮が一幅の〈文字曼荼羅〉として顕した〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉と向き合うとき、〈釈尊=仏眼〉は〈尽宇宙=尽大地〉と一体となり、〈凡夫=肉眼〉は〈文字の羅列〉を前にする。日蓮は『御義口伝巻上』で〈鏡像円融の三諦〉について、次のように説いている。

第七以譬喩得解(いひゆとくげ)の事  止観の五に云く「智とは譬に因るに斯(こ)の意(こころ)徴(しるし)有り」と。御義口伝に云く、此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝うるなり。惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり。此の鏡とは一心の鏡なり。惣じて鏡に付て重々の相伝之有り。所詮鏡の能得とは万像を浮ぶるを本とせり。妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し。又云く、鏡に於て五鏡之有り。妙の鏡には法界の不思議を浮べ、法の鏡には法界の体を浮べ、蓮の鏡には法界の果を浮べ、華の鏡には法界の因を浮べ、経の鏡には万法の言語を浮べたり。又云く、妙の鏡には華厳を浮べ、法の鏡には阿含を浮べ、蓮の鏡には方等を浮べ、華の鏡には般若を浮べ、経の鏡には法華を浮ぶるなり。順逆次第して意得(こころう)べきなり。我等衆生の五体五輪、妙法蓮華経と浮び出でたる間、宝塔品を以て鏡を習うなり。信謗の浮び様能く能く之を案ずべし。自浮自影の鏡とは南無妙法連華経是なり云々。(譬喩品九箇の大事)

  〈止観=天台〉は、〈智とは譬に因るに斯の意徴有り〉と説いている。〈譬喩〉を〈譬喩〉で受け止めるとき、〈己心〉に〈釈尊=仏道〉が開くのだ。〈鏡像〉は〈自浮自影〉であり、〈自浮自影〉は〈鏡像〉である。〈自浮〉は〈自影〉となり、〈自影〉は〈自浮〉となる。〈自浮自影〉とは、〈南無妙法蓮華経=妙法の曼荼羅〉にほかならない。そこに照らし出されているのは、〈森羅万象〉が〈自浮自影〉を説き、〈自浮自影〉が〈森羅万象〉を説くという〈実存〉の〈法理〉である。
 道元は〈古鏡は胡漢(こかん)の来現にかかはれず、縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々なり。多にあらず、大にあらず〉と説いている。〈胡漢(こかん)の来現〉は〈物本事迹=従因至果〉であり、〈縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)〉は〈事本物迹=従果向因〉である。さらに〈縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々〉は〈多にあらず、大にあらず〉となり、〈大にあらず、多にあらず〉は〈縦横の玲瓏に条々〉となる。そこに浮上するのは〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という〈実存〉の法理である。

 玄沙のいふ火炉闊(かつ)多少、かくれざる道得(どうて)なり。千古万古にこれを参学すべし。いま火炉をみる、たれ人となりてかこれをみる。火炉をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。これは動執(どうしゆう)の時節話にあらず、新条特地(しんじようとくち)の現成なり。たとへば是什麼物恁麼来(ししもぶついんもらい)なり。闊多少(かつたしよう)の言きたりぬれば、向来(きようらい)の多少は多少にあらざるべし。当処解脱(とうしよげだつ)の道理、うたがはざりぬべし。火炉の諸相諸量にあらざる宗旨(そうし)は、玄沙の道をきくべし。現前の一団子(いちだんす)、いたづらに落地(らくち)せしむることなかれ、打破(たは)すべし。これ功夫(くふう)なり。
 雪峰いはく、如古鏡闊(によこきようかつ)。この道取、しづかに照顧(しようこ)すべし。火炉闊(かつ)一丈といふべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。一丈といはんは道得是(どうてぜ)にて、如古鏡闊は道不是(どうふぜ)なるにあらず。如古鏡闊(によこきようかつ)の行李(あんり)をかがみるべし。おほく人のおもはくは、火炉闊(かつ)一丈といはざるを道不是(どうふぜ)とおもへり。闊(かつ)の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照(かんしよう)すべし。如々の行李(あんり)をも蹉過(さか)せしめざるべし。道容揚古路(どうようようころ)《動容古路を揚()ぐ》、不堕悄然機(ふだしようぜんき)《悄然の機に堕()ちず》なるべし。

 道元は〈玄沙=諸仏〉の〈火炉闊多少〉という〈問処=道得〉を、〈千古万古〉に〈参学〉せよ、と説いている。〈火炉〉とは何か。〈火〉を〈心法〉、〈炉〉を〈色法〉ととらえれば、〈火炉〉は〈色心不二=森羅万象〉となる。〈火炉闊多少〉という〈道得=譬喩〉は、〈いま、ここに〉に脈動する〈時空=実存〉が、〈無量無辺〉であることを示している。その〈火炉=実存〉を見るのは誰なのか。〈見る者〉は〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉は〈見る者〉となる。
 
〈動執の時節話〉とは、法華経文上の〈動執生疑〉である。それは〈種・熟・脱〉の法理を、〈非存在〉の〈過去・未来・現在〉に、留めどなく引き延ばす〈虚構〉となる。〈一念三千〉の〈一念〉を、〈文上=表層〉の〈三千塵点劫=五百塵点劫〉に引き延ばしてはならない。〈新条特地(しんじようとくち)の現成〉は〈是什麼物恁麼来(ししもぶついんもらい)〉であり、〈是什麼物恁麼来〉は〈新条特地の現成〉なのである。〈いま、ここに〉開く〈始源の時〉に、〈正法眼蔵=只管打坐=瞑想〉を〈行持〉することを、〈当処解脱〉と言う。〈現前の一団子(いちだんす)、いたづらに落地(らくち)せしむる〉とは、〈見掛け=思い込み〉にとらわれて〈唯色=唯心〉に執着する〈己心〉である。それを〈打破(たは)する功夫くふう)を、道元は〈私=われわれ〉に問いかけているのだ。
 
〈玄沙=諸仏〉の〈火炉闊多少《火炉闊きこと多少ぞ》〉という〈問処=道得〉に対して、〈雪峰=諸仏〉は〈如古鏡闊《古鏡の如く闊し》〉と〈答処=道得〉している。〈古鏡闊一丈〉が〈道得是〉となり、〈如古鏡闊〉が〈道得不是〉となるわけではない。〈凡夫=外道〉は、〈火炉闊一丈〉と言わないのは〈道不是=間違い〉と思い込む。〈評論家=有識者〉とは、〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という〈実存〉の法理を無視しなければ、〈蠅取り瓶〉の中で暮らしていけない〈存在〉なのである。
 〈有識者=評論家〉の言動は、〈政治家〉の〈マニフェスト〉や〈選挙公約〉と同様に、〈歴劫修行=トートロジー〉に陥っている。戦争に〈終止符〉を打たなければ、どんな〈平和論〉も〈核軍縮論〉も〈種・熟・脱〉の法理にさらされて、〈過去化=死物化〉し続けるほかないのだ。〈国家・民族・宗派〉の〈対立・抗争〉は、新たな〈民衆抑圧〉の構造を生み出す。そこには〈権力者〉の〈貪名愛利〉が、複雑に絡んでいる。〈道容揚古路(どうようようころ)《動容古路を揚()ぐ》〉は、〈不変真如の理〉に帰する一面、〈不堕悄然機(ふだしようぜんき)《悄然の機に堕()ちず》〉は〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面である。道元は〈闊(かつ)の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照(かんしよう)すべし〉と説いている。〈闊の独立〉とは何か、〈古鏡の一片〉とは何か、〈如々の行李(あんり)をも蹉過(さか)せしめざる〉とは何か。〈私=われわれ〉一人ひとりに、さらなる〈文底=奧底〉への参学が問われているのである。

  玄沙いはく、老漢脚跟未点地在(ろうかんきやくこんみてんちざい)。いはくのこころは、老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに。脚跟(きやくこん)といふはいづれのところぞ、と問取すべきなり。脚跟(きやくこん)といふはなにをいふぞ、と参究すべし。参究すべしといふは、脚跟(きやくこん)とは正法眼蔵をいふか、虚空をいふか、尽地をいふか、命脈をいふか。幾箇あるものぞ、一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか。恁麼勤学(いんもごんがく)すべきなり。
 
未点地在は、地といふは、是什麼物(ししもぶつ)なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類、あるいは不思議解脱法門とみるあり、諸仏所行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟(きやくこん)の点ずべき地は、なにものをか地とせる。地は実有なるか、実無なるか。又おほよそ地といふものは、大道のなかに寸許(すんこ)もなかるべきか。問来答去すべし、道他道己すべし。脚跟(きやくこん)は点地也是(てんちやぜ)なる、不点地也是(ふてんちやぜ)なる。作麼生(そもさん)なればか、未点地在と道取する。大地無寸土の時節は、点地也未、未点地也未なるべし。しかあれば、老漢脚跟未点地在は、老漢の消息なり、脚跟(きやくこん)の造次(ぞうじ)なり。

  〈雪峰=諸仏〉の〈如古鏡闊〉という〈道得=答処〉に対して、〈玄沙=諸仏〉は〈老漢脚跟未点地在(ろうかんきやくこんみてんちざい)《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》〉と〈道得=説著〉している。この〈説著=道得〉を、道元は〈老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに〉と展開する。〈雪峰は老漢なり〉という〈言語表現〉は〈雪峰は老漢に非ず〉という〈言語表現〉をはらんでいる。道元はさらに〈脚跟とは何処なのか〉、〈脚跟とは何なのか〉と問いかける。そして〈脚跟(きやくこん)とは正法眼蔵をいふか、虚空をいふか、尽地をいふか、命脈をいふか。幾箇あるものぞ、一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか。恁麼勤学(いんもごんがく)すべきなり〉と〈説著=道得〉している。
 
〈未点地在〉という〈言語表現〉について、道元はその〈文底=奧底〉の意義を、〈私=われわれ〉に問いかける。〈脚跟の点ずべき地〉とは、〈不思議解脱法門〉なのか、〈諸仏所行道〉なのか、〈実有〉なのか〈実無〉なのか、〈脚跟の点く地〉なのか、〈脚跟の点かざる地〉なのか。〈地〉は〈大道〉の中に〈存在〉するのか、〈非存在〉なのか。この〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という法理の展開の中に、浮かび上がるのは〈正法眼蔵・涅槃妙心〉、すなわち〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉にほかならない。それは〈存在〉の〈極理〉であり、それを道元は、〈老漢脚跟未点地在は、老漢の消息なり、脚跟(きやくこん)の造次(ぞうじ)なり〉と説いているのである。〈老漢脚跟〉は〈中諦〉、〈未点〉は〈空諦〉、〈地在〉は〈仮諦〉を示している。〈老漢の消息〉は〈不変真如の理〉となり、〈脚跟の造次〉は〈随縁真如の智〉となる。そこに開く〈随縁不変・一念寂照〉の境界を、〈仏道=悟道〉と言うのである。

 婺州(ぶしゆう)金華山国泰院弘瑫(こくそういんこうとう)禅師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何(こきようみまじしゆお)《古鏡未だ磨せざる時、如何(いかん)》。師云く、古鏡。僧云く、磨後如何(まごいかん)。師云く、古鏡。しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼(せん)を磨して鏡となす。塼(せん)を磨して塼(せん)となす、鏡を磨して塼(せん)となす、磨してなさざるあり、なることあれども、摩することえざるあり。おなじく仏祖の家業なり。

  ここでは、〈国泰院弘瑫(こくそういんこうとう)=釈尊〉と〈僧=迦葉〉の〈問答〉を〈入門=出門〉として、〈文底=奧底〉への参学が問われている。まず〈僧=迦葉〉が〈古鏡未磨時如何(こきようみまじしゆお)《古鏡未だ磨せざる時、如何(いかん)》〉と〈問処=道得〉すると、〈釈尊=弘瑫〉は〈古鏡〉と〈答処=道得〉する。さらに〈迦葉=僧〉が、〈磨後如何〉と〈道得=問処〉すると、〈釈尊=弘瑫〉から、前と同じ〈古鏡〉という〈道得=答処〉が返ってくる。この〈問答」を受けて、道元は〈いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり〉と展開している。この道元の〈道得=説著〉が、〈鏡とは何か〉、〈磨くとは何か〉、〈何を用いて、どのように磨くのか〉を、〈われわれ=私〉に〈問いかけて〉いることは明らかである。日蓮は〈闇鏡=明鏡〉について、次のように説いている。

  衆生と云うも仏と云うも亦此(またか)くの如し、迷う時は衆生と名づけ、悟る時をば仏と名づけたり。譬へば闇鏡(あんきよう)も磨きぬれば玉と見ゆるが如し。只いまも一念無明の迷心(めいしん)は磨かざる鏡なり、是(これ)を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし。深く信心を発(おこ)して日夜朝暮に又懈(おこたら)らず磨くべし。何様(いかよう)にしてか磨くべき。只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを、是をみがくとは云うなり。(『一生成仏抄』)

  この日蓮の〈道得=説著〉を、〈譬喩〉を〈譬喩〉のまま読み返すとき、そこに展開されている〈譬喩〉と、道元の〈道得=説著〉が、照らし合い響き合いながら、〈在りのまま〉の〈実存〉を浮かび上がらせる。〈未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと同取すれども、くらきにあらざるべし〉とは、〈自我偈=衆生所遊楽〉の心を道元が独自の〈譬喩〉でとらえた〈言語表現〉である。〈古鏡〉とは法華経寿量品の〈文底〉に秘められた〈妙法〉ほかならない。〈磨時〉は〈我本行菩薩道〉を意味し、〈未磨時〉は〈凡夫〉、〈磨後〉は〈我実成仏已来〉を意味する。その〈文底=奧底〉を開けば、〈磨時・未磨時・磨後〉の〈三時〉は〈久遠即末法〉となる。〈妙法の曼荼羅〉に唱題することを、〈全古鏡を磨する〉と言う。
 〈磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり〉の〈磨自〉は〈不変真如の理〉に帰する一面であり、〈自磨〉は〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面である。そのとき〈磨古鏡〉は、〈随縁不変・一念寂照〉となる。〈活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼を磨して鏡となす、塼を磨して塼となす、鏡を磨して塼となす。磨してなさざるあり、なることあれども磨すること得ざるあり。おなじく仏祖の家業なり〉という〈道得=説著〉もまた、〈生命の曼陀羅〉と〈境智冥合〉する〈方法的原理=文底独一法門〉を示している。

 江西馬祖(こうぜいばそ)、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住して、よのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。雨夜(うや)の草庵、おもひやるべし、封雪の(ほうせつ)寒床におこたるといはず。南嶽、あるとき馬祖の庵にいたるに、馬祖侍立(じりゆう)す。南嶽とふ、汝近日作什麼(によきんじつそしも)《汝近日、什麼(なに)をか作(な)す》。馬祖いはく、近日道一祇管打坐(きんじつどういちしかんたざ)《近日道一、祇管打坐するのみなり》。南嶽いはく、坐禅なにごとをか図する。馬祖いはく、坐禅は作仏を図す。南嶽すなはち一片の塼(せん)をもちて、馬祖の庵のほとりに石をあてて磨す。馬祖これをみて、すなはちとふ、和尚、作什麼(そしも)《和尚、什麼(なに)をか作()す》。南嶽いはく、磨塼(ません)《塼(かわら)を磨す》。馬祖いはく、磨塼用作什麼(ませんようそしも)《塼(かわら)を磨して什麼(なに)をか作()す》。南嶽いはく、磨作鏡《磨して鏡を作す》。馬祖いはく、磨塼豈得成鏡也(ませんきてじようきようや)《塼を磨して豈(あに)鏡成ることを得んや》。南嶽いはく、坐禅豈得作仏也(ざぜんきてさぶつや)《坐禅して豈作仏することを得んや》。
 この一段の大事、むかしより数百歳のあひだ、人おほくおもふらくは、南嶽ひとへに馬祖を勧励せしむると。いまだかならずしも、しかあらず。大聖の行履(あんり)、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか為人(いにん)の方便あらん。為人(いにん)のちからは仏祖の骨髄なり。たとひ構得(こうて)すとも、なほこれ家具なり。家具調度にあらざれば、仏家につたはれざるなり。いはんや、すでに馬祖を接することすみやかなり。はかりしりぬ、仏祖正伝の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐塼となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。

  〈過去〉の〈馬祖道一〉という人物は、〈いま、ここに〉どのように〈存在〉するのか。〈釈尊=仏道〉とは、その〈恁麼〉としか〈言語表現〉できない〈存在〉との〈対坐=只管打坐〉にほかならない。〈釈尊=仏道〉とは、〈宇宙即我・我即宇宙〉と〈言語表現〉するしかない〈己心〉における〈師弟〉の〈問答〉なのである。〈南嶽=釈尊〉と〈馬祖=迦葉〉の〈問答〉も、今、この〈テクスト=言説〉を読む〈己心〉における〈師弟〉の〈問答〉となる。〈馬祖〉の〈苦節十余年〉は、〈私=われわれ〉一人ひとりの体験であり、誰も肩代わりできない〈生命=人生〉の〈譬喩〉なのである。
 
〈南嶽=釈尊〉が〈馬祖=迦葉〉に、〈汝近日作什麼(によきんじつそしも)《汝近日、什麼をか作す》〉と〈問処=道得〉すると、〈迦葉=馬祖〉が〈近日道一祇管打坐(きんじつどういちしかんたざ)《近日道一、祇管打坐するのみなり》と〈答処=道得〉する。〈釈尊=南嶽〉が〈坐禅なにごとをか図する〉と〈道得=問処〉すると、〈迦葉=馬祖〉は、〈坐禅は作仏を図す〉と〈道得=答処〉する。そこで〈南嶽=釈尊〉が〈塼(せん)=瓦〉を手に持って、〈馬祖=迦葉〉の庵のほとりあった石をあてて磨いて見せると、〈迦葉=馬祖〉は〈和尚、作什麼(そしも)《和尚、什麼(なに)をか作()す》と問い返す。〈釈尊=南嶽〉が〈磨塼(ません)《塼(かわら)を磨す》〉と〈道得=答処〉すると、〈迦葉=馬祖〉が、〈磨塼用作什麼(ませんようそしも)《塼(かわら)を磨して什麼(なに)をか作()す》〉と問い返す。〈南嶽=釈尊〉が〈磨作鏡《磨して鏡を作す》と〈答処=道得〉すると、〈馬祖=迦葉〉が〈磨塼豈得成鏡也(ませんきてじようきようや)《塼(かわら)を磨して豈鏡(かがみ)を成すことを得んや》〉と〈道得=問処〉する。この問答は、〈南嶽=釈尊〉の〈坐禅豈得作仏也(ざぜんきてさぶつや)《坐禅して豈作仏することを得んや》〉という〈問処=答処〉に結実している。
 
〈坐禅作仏〉は〈作仏坐禅〉となる。〈作仏坐禅〉は〈非作仏坐禅〉、〈非坐禅作仏〉をはらむ。さらに〈坐禅非作仏〉は〈非坐禅作仏〉をはらんでいる。そこに〈仏道=中道〉をどう開くのか。道元は〈大聖の行履(あんり)、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか為人(いにん)の方便あらん。為人(いにん)のちからは仏祖の骨髄なり〉と〈説著=道得〉している。〈大聖の行履〉は〈凡境の出離〉となり、〈磨塼の法〉は〈為人の方便〉となる。 〈生の全体性=妙法の曼荼羅〉を根本に、〈釈尊一代聖教=八万四千法蔵〉を正しく位置づけることが問われているのだ。道元は〈磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐塼(ざせん)となる〉と説いている。 この〈馬祖〉とは誰のことなのか、〈私=われわれ〉はそれぞれに〈自己の責任〉で、それを把握しなければならない。〈他者=権威〉が〈言葉〉で説くものは、すべて〈生の分断化=死物化=脱益化〉を引きずっている。

 しかあれば、塼(かわら)のなれる古鏡あり、この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汚(みぜんな)なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに、作鏡の功徳の現成する、すなはち仏祖の功夫(くふう)なり。磨塼もし作鏡せずは、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作()に作仏あり、作鏡あることを。又疑著(ぎじや)すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟(ひつきよう)してすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。
 いまの人も、いまの塼を拈じてこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団(でいとん)なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼来塼現(せんらいせんげん)の鏡子(きようす)あることを。又たれかしらん、鏡来鏡現(きようらいきようげん)の鏡子(きようす)あることを。

 正法眼蔵古鏡第十九

  仁治二年辛丑九月九日観音導利興聖宝林寺示衆
  同四年癸卯正月十三日書写于栴檀林裡

 〈私=われわれ〉は何を塼(かわら)とみなし、なにを〈古鏡〉とみなすのか。〈賢者=政治家=評論家〉は、国民を〈塼〉と〈古鏡〉に〈選別=分別〉している。〈いま、ここ〉に〈実存〉する〈生命=存在〉に〈塼〉と〈古鏡〉の区別があるのか。〈蠅取り瓶〉の中で〈貪名愛利〉に明け暮れる〈評論家=政治家=賢者〉はみな、〈実存〉から眼を背けている。そのような〈賢者=政治家=評論家〉が〈塼〉とみなし、切り捨てている人々こそ、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめて〉いるのではないか。
 
〈死刑執行〉を命ずる〈権力者〉は、釈尊=仏道〉が厳しく誡める〈奪命者〉となった〈自己〉の〈色心〉に眼をつむっている。そのような〈無智蒙昧〉な人物が〈権力=虚構〉の座に居座る〈法律・制度〉を、厳しく〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことが、〈われわれ=私〉一人ひとりに問われているのだ。いかなる〈理由〉を〈定義〉し、〈自己正当化〉を試みようとも、〈時空〉に記された〈脱命者〉の波動は、どこまでも〈矛盾=ジレンマ〉を伝播させていく。
 〈凡夫=外道〉である〈私=われわれ〉が、〈古鏡〉あるいは〈塼〉と〈思考=定義〉するだけで、それが〈塼〉あるいは〈古鏡〉となるのか。そんな〈定義=思考〉は、〈夢遊病者〉の〈譫言〉でしかない。現場で重大な問題を発掘する活動を除外すると、〈ジャーナリスト〉の〈論評=思考〉は、全く無責任な〈モグラの穴掘り〉に終始している。国会議員や政党幹部の中にも、無責任な〈ジャーナリスト〉とよく似た〈立場〉に身を置いて、〈政治責任〉はすべて〈他者〉に負わせて、〈私的利権〉の拡大に専念している〈怪物〉がいる。国民の多くもまた、そのような〈怪物〉の〈マニフェスト〉や〈定義=放言〉に期待するという〈奇妙な構造〉が浮かび上がっている。その〈怪物〉とは、今、民主党の党首の座を菅氏と競い合っている小沢氏である。
 
小沢氏は〈塼〉となるのか、〈古鏡〉となるのか。そんなことを〈思考=論議〉しても、空回りの〈歴劫修行=トートロジー〉に陥るだけなのだ。〈塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん〉という文は、〈十界平等〉、〈三毒即三徳〉、〈一念三千〉という〈生命〉の〈真実〉を示している。〈塼来塼現の鏡子〉とは〈十界隔別〉の〈曼陀羅〉であり、〈鏡来鏡現の鏡子〉とは〈十界互具・一念三千の曼陀羅〉である。
 
〈政治革新〉が〈停滞〉、あるいは〈後退〉しているということは、〈多くの国民〉が〈政治革新〉を求めていない、ということにほかならない。ここにも〈選ぶ者〉と〈選ばれる者〉は〈一体不二〉であるという〈因果倶時=能動即受動・善悪不二=肯定即否定〉の法理が貫徹している。〈政治権力〉は〈国民〉を〈泥団〉と〈非泥団〉に〈分断=分別〉し、〈失業者〉や〈生活困窮者〉を〈泥団〉と軽んじている。なぜ年金が無くても十分生活できる〈国会議員〉に月額七、八十万円の年金が支給されているのか。年金以外に収入のない人に〈月額八万円〉まで増額するから感謝しなさい言わんばかりの傲慢な〈国会議員〉とは、いかなる〈存在〉なのか。
 
〈政党=国会議員〉は官僚から〈詳細正確=曖昧不正確〉な情報を得られなければ、何もかも手探りになる。総理をはじめ閣僚や国会議員が、〈政治主導〉をいくら声高に〈定義〉しても、空回りするだけなのである。これまでの民主党政権の〈足踏み=混迷〉が、それを裏づけている。独立行政法人の〈事業仕分け〉にしても、〈不正・怠慢〉に対する〈厳しい罰則〉を設けなければ、今後も、税金の〈無駄遣い〉が、次々と発覚することになる。天下り官僚が高額の退職金を手にしても、すぐには把握できない仕組みをどう改革するのか。〈自己改革〉を阻む〈金蠅=蠅取り瓶〉が幅を利かす限り、民主党という〈寄り合い世帯〉は、どこまでもきしみ続ける以外にない。そのような政治を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ために、〈仏道=悟道〉に〈発心〉するのは、いったい〈誰〉なのか。

 

 

 

 

現代語訳

釈尊の後継者である摩詞伽葉尊者から数えて第十八代目に当る迦耶舎多尊者は、西域の摩提国の人である。

姓は彭頭藍、父の名は天蓋、母の名は方聖であった。母がかつて夢を見た。

夢では一人の巨大な鬼神が、大きな鏡を持ってこちらにやって来た。

そのとき母はすでに懐胎していた。その後七日経って尊者を出産した。

尊者は生れた時、肌が照り輝いてみがいた瑠璃のようであった。

一度も入浴していないのに、生れなからに香ばしいにおいに満たされ、清潔であった。

迦耶舎多尊者は、幼少の頃から落ち着いた静けさを好み、言葉遣いも普通の児童とは違っていた。

生れたときから一つの澄み切った円鑑が自然に身にそなわっていた。

円鑑とは円鏡のことである。

これは世にもめずらしいことである。

「身にそなわっていた」という意味は、円鑑も母である人の胎内から出生したということではない。

尊者は母胎から生れた。

尊者が生れると同時に、円鑑が何処からともなく天真として師の側に現前し、日常使う道具のようであったということである。

この円鑑は、その形からして世間一般のものとは異なっていた。

幼少期の尊者がこちらに向って来るときには、円鑑を両手にささげて来るように見えたが、そのために尊者の童顔が鏡によって隠れるということはなかった。

また尊者の子供姿が去って行くときには、円鑑を背に負って去って行くように見えたが、尊者の子供姿が鏡によって隠れることはなかった。

子供としての尊者が睡眠をとるときは、円鑑がその上をおおって花笠のようになった。

子供としての尊者が正坐するときには、円鑑もその目の前にあった。

その円鑑は尊者の立居振舞に従っていたのである。そればかりではなく、過去・未来・現在にわたる仏教行事は、すべてこの円鑑に向えば見ることができたのである。

また天上界、人間界における多くの出来事やもろもろのおきても、みなその円鑑に明らかに映って、曇るようなところはなかった。

たとえば経典や書籍によって古今の事跡を知るよりも、この円鑑で見る方が明らかであった。

しかし尊者〉が成人して出家してからは、この円鑑は現れなくなった。

そこで近隣の人たちや遠方の国の人々も同じように、不思議なことだと賛嘆した。

このようなことは、この世界においては類いまれではあるが、遠いインドにおいては、われわれ人類の中にもこのような種族がいるということを怪しんではならない。

広い立場から考察しなければならない。しかし深く考えてみよ。

雪山童子の説話のように樹や石に刻まれた経典もある。

また法華経に言っているように、或いは田畑、或いは村落に法華経を宣布して廻る高僧もいる。

これらの経典となった樹や石や法華経の趣旨を宣布する高僧などはいずれも円鑑と言ってもよい。

また今に伝えられた経典も円鑑なのである。

誰がただ尊者のことだけを奇異だと考えることがあろう。


 

原文B

あるとき出遊するに、僧迦難提(そうぎゃなんだい)尊者にあうて、

直にすゝみて、難提尊者の前にいたる。尊者とふ、

「汝が手中なるは、まさに何の所表かある。

「有何所表」を問著にあらずときゝて、参学すべし。

師いはく、

「諸仏大円鑑、内外無瑕翳(むかえい)、両人同得見、心眼皆相似。

しかあれば「諸仏大円円鑑、なにとしてか師と同生せる。

師の生来は大円鑑の明なり。

諸仏はこの円鑑に同参同見なり、諸仏は大円鑑の鋳像なり。

大円鑑は智にあらず、理にあらず、性にあらず、相にあらず。

十聖三賢等の法のなかにも、大円鑑の名あれども、いまの諸仏大円鑑にあらず。

諸仏かならずしも智にあらざるがゆゑに、諸仏に智慧あり。

智慧を諸仏とせるにあらず。参学しるべし、智を説著するは。

いまだ仏道の究竟説にあらざるなり。

すでに「諸仏大円鑑」、たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。

いはゆるこの大円鑑、この生に接すべからず、他生に接すべからず。

玉鏡にあらず、銅鏡にあらず、肉鏡にあらず、髄鏡にあらず。

円鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか。

童子この四句の偈をとくことも、かつて人に学習せるにあらず。

かつて或従経巻(わくじゅうきょうかん)にあらず、かつて或従知識にあらず。

円鑑をささげてかくのごとくとくなり。

師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀とせるのみなり。

生知の弁恵あるがごとし。

大円鑑の童子と同生せるか、童子の大円鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。

大円鑑はすなはち諸仏の功徳なり。

このかがみ、「内外にくもりなし」といふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。

面背あることなし、両箇おなじく得見あり。

心と眼とあひにたり。相似といふは人の人にあふなり。

たとひ内の形像も、心眼あり、同得見あり。

たとひ外の形像も、心眼あり、同得見あり。

いま現前せる依報・正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。

われにあらず、たれにあらず。これは両人の相見なり、両人の相似なり。

かれもわれといふ、われもかれとなる。

心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。

相似は心眼なり、たとへば心眼各相似といはんがごとし。

いかならんかこれ心の心に相似せる、いはゆる三祖・六祖なり。

いかならんかこれ眼の眼に相似なる。

いはゆる道眼被眼礙<道眼は眼の礙を被る>なり。

いま師の道得する宗旨、かくのごとし。

これはじめて僧迦難提尊者に奉覲(ぶごん)する本由なり。

この宗旨を挙拈(こねん)して、大円鑑の仏面祖面を参学すべし、

古鏡の眷属なり。

 

 
 

現代語訳

師〈伽耶舎多尊者〉はあるとき外出した時、僧伽難提(そうがなんだい)尊者に会った。

伽耶舎多尊者は素直に進んで難提尊者の前に立った。

そこで難提尊者は聞いた、「お前の手中にあるものは、何を表わしているのか?」と。

この「何の所表かある(何を表わしているのか)」という言葉は、質問ではないと聞いて参学すべきである。

伽耶舎多尊者は言った、「諸仏の大円鑑は、内外ともに瑕もくもりもありません。見る人と見られる人との両人によって見られるところが全く同じです。そこに映る心と眼は良く似ています。」

このようであれば、諸仏の大円鑑は、どうして師とともに生まれたのだろうか。

尊者の生来の資質は、大円鑑の光明である。

諸仏は、この円鑑に同じように参じ、同じように見るのである。

諸仏は、この大円鑑が形をなしたものである。

大円鑑は、理性ではなく、智性ではない。本質ではなく、形相でもない。

十聖とか三賢とかいう菩薩の境涯に関する法にも大円鑑という言葉はあるけれども、今考えている諸仏の大円鑑ではない。

何故かと云えば、諸仏には智慧が具わっているが、智慧を諸仏だとしている訳ではないからである。

智を説くのは、いまだ仏道の究極の説ではないと参学すべきである。

諸仏の大円鑑がすでに自分自身と共に生じていると知ったとしても、さらに学ぶべき道理がある。

今問題としている大円鑑は、現世に遭遇できるとか、他の世で遭遇できるとかというような性質のものではない。

この大円鑑は珠玉で作られた鏡でもなければ、銅で作られた鏡でもない。

肉で作られた鏡でもなければ、髄で作られた鏡でもない。

まだ子供に過ぎない伽耶舎多尊者が「諸仏大円鑑、内外無瑕翳、云云・・・」

という偈を説いたことは、円鑑自身が偈を説いたと解すべきであろうか。

子供〈である伽耶舎多尊者〉が偈を説いたと解すべきであろうか。

また子供に過ぎない伽耶舎多尊者がこの四句の偈を説いたということも、尊者がかつて他の人からこの四句の偈を学んだということではない。

かつて経典を通じて知った訳でもなければ、かつて高徳の僧から学んだ訳でもない。

ただ円鑑をささげて何かを説こうとしたら上記の四句の偈を説く結果になったというに過ぎないのだ。

尊者は幼少の頃から、円鑑に向かうことが日頃の習わしとしていたに過ぎない。

尊者には生れながらの弁舌や智慧があったようである。

大円鑑が子供である尊者と同時に生れたと考えるべきであろうか、

子供である尊者が大円鑑と同時に生れたと考えるべきであろうか、

また大円鑑と前後して生れ出ることもあるだろう。

このように大円鑑は諸仏の真実の功徳なのだ。

この鏡が「内外にもくもりがない」ということは、外に対する内があるという訳でもなければ、内に対して相対的に考えられる外があるという訳でもない。

この鏡には表もなければ、裏もない。

表裏ともに同じ像を映すし、映す心と映る眼はよく似ている。

「相似」というのは、人と人とが出合ったときのように(主客が渾然一体と〉なった状態をいう。

この大円鑑はその内には心と眼をそなえ、同じように見ることができる。

その両方に映る像は同じである。

またその外部のあり方を見ると、これも同じく心と眼をそなえており、それによって把えられる映像も主客によって異ることなく同じ映像が映るのである。

そしていまわれわれの眼前に展開している、過去からの因果関係に基づく客観・主観の事物も、この大円鑑の内部・外部とよく似ている。

それは自分であるとか、誰彼であるとかくというような特定の人の問題ではなく、ただ人と人との相見であって、しかもその両人は全く酷似しているのである。

すなわち彼も私と同一だといい、私も彼と同一となるような関係である。

また「心と眼と皆相似」というのは、心は心に相似しており、眼は眼に相似しているという意味である。

相似とは心は心であり、眼は眼であるとの謂である。

それはたとえば心と眼とがそれぞれ独自の存在を続けているというのと似ている。

心が心に相似しているとは、

三祖の鑑智僧サン禅師の心と、六祖の大鑑慧能禅師の心が良く似ているようなことである。

それでは眼が眼に相似しているとは、どのようなことであろうか。

それは、眼が眼によって拘束されるということにほかならない。

いま伽耶舎多尊者が述べている主旨はこの通りである。

これが〈尊者が〉はじめて僧伽難提尊者に会った時の由来である。

この主旨を取り挙げ、拈弄して、大円鑑に等しい仏祖の覚りを学ぶべきである。

これらは古鏡と同類であるのだ。

 

解釈とコメント

大円鑑が子供〈である尊者〉と同時に生れたと考えるべきであろうか、

子供である尊者が大円鑑と同時に生れたと考えるべきであろうか、

また大円鑑と前後して生れ出ることもあるだろう。

このように、道元は大円鑑と伽耶舎多尊者との関係をいろいろ考えているが、

大円鑑とは諸仏や伽耶舎多尊者のような特別の偉人や聖人に付随したものだ

と考えていることが分かる。

道元は子供である伽耶舎多尊者が説いたと言う四句の偈

「諸仏大円鑑、内外無瑕翳(むかえい)、両人同得見、心眼皆相似。」について

次のように考察する。

 

表裏ともに同じ像を映すし、映す心と映る眼はよく似ている。

「相似」というのは、人と人とが出合ったときのように、主客が渾然一体となった状態をいう。

この大円鑑はその内には心と眼をそなえ、同じように見ることができる。

その両方に映る像は同じである。

その外部のあり方を見ると、これも同じく心と眼をそなえており、それによって把えられる映像も主客によって異ることなく同じ映像が映るのである。

いま現にわれわれの眼前に展開している、過去からの因果関係に基づく、客観・主観の事物も、この大円鑑の内部・外部とよく似ている。

自分であるとか、誰彼であるとかくというような特定の人の問題ではない。

ただ人と人との相見であって、

 しかもその両人は全く酷似しているのである。

 

原文C

第三十三祖大鑑禅師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、

壁書して祖師に呈する偈にいはく、

菩提本樹無し、

明鏡も亦台に非ず、

本来無一物、

何れの処にか塵埃有らん。

 
しかあればこの道取を学取すべし。

大鑑高祖、よの人これを古仏といふ。

圜悟禅師いはく、「稽首す曹渓の真古仏」。

しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、「本来無一物、何処有塵埃」なり。

「明鏡非台」、これ命脈あり、功夫すべし。

明明はみな明鏡なり、かるがゆゑに明頭来明頭打といふ。

「いづれのところ」にあらざれば、いづれのところ」なし。

いはんやかがみにあらざる一塵の、尽十方界にのこれらんや。

かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。

しるべし、尽界は塵刹にあらざるなり、ゆえに古鏡面なり。

 

第三十三祖: 釈尊の後継者である摩詞迦葉尊者から数えて第三十三番目の教団の指導者。

大鑑禅師 :六祖慧能禅師。

黄梅山:  中国禅の第五祖、大満弘忍禅師が住んだ山の名。 

法席:  仏法を説く場所、教団、寺院。

功夫: 努力。

高祖: 宗義教説を創唱した高僧、ただしここでは高徳の先輩、大先輩の意。

古仏: 仏教界の優れた先輩に対する尊称。古は古今の意味で永遠を指す。

圜悟禅師:圜悟克勤禅師。彭州崇寧県の人。

姓は駱氏、元来儒学の家柄であったが、出家後、諸方を遊歴し、ついに五祖法演禅師の教団に身を投じて修行を重ね、同師の法嗣となった。臨済系統の指導者として臨済義玄禅師から数えて十一代目に当る。宋の徽宗皇帝から仏果禅師の称号を与えられ、南宋の高宗皇帝から圜悟禅師の称号を与えられた。一一三五年死去、年七十三歳。心要四巻・語録二十 巻がある。門下から大愁宗呆・虎丘紹隆などが出た。                 圜悟克勤は雪竇重顕禅師の「頌古百則」に垂示・著語・評唱を加えた。これが碧巌録である。

稽首: 稽首は地面で頭をたたくという意味。中国におけるもっとも丁寧な礼の仕方。

命脈:  いのちのつな、いのち、転じて重要な事物をいう。

明明:明明百草頭の意、明々白々とした眼前の事物。

明頭来明頭打: 暗頭来暗頭打と対句をなしている。「臨済録」の「勘弁」に出ている普化の言葉。

打はある動作を為す意を表わす。明頭来明頭打は明頭が来れば明頭を打つと言う意味。

尽界:  宇宙。

塵刹: 塵数(かぎりない数)の世界。刹は国土。

古鏡面:   古鏡のおもて、古鏡のすがた。

 
 

現代語訳

第三十三祖大鑑禅師が、

かつて黄梅山における〈大満弘忍禅師の〉教団において修行していたとき、

壁書にして大満弘忍禅師に差し上げた偈にいう、

菩提には本来、樹と呼ばれるようなものはない。

またくもりのない鏡もまた、台などではない。

悟りには本来、何物もない。

何物もないのに塵埃が何処に付くだろうか。

 

このようであるから、この言葉を学ぶべきである。

大鑑慧能(六祖慧能)禅師のことを、世人は古仏であるといっている。

圜悟克勤禅師は言った、「曹渓山の真の古仏大鑑慧能禅師を、深く礼拝する」。

そのようであるから知るべきである。大鑑高祖が明鏡(脳)について示したところは、

 明鏡(脳)には本来、何物もない。

「そのような明鏡(脳)に塵埃も何処に付くだろうか。」 ということである。

「明鏡もまた、台などではない。」という言葉に本旨がある。  

工夫しなければならない。明々白々と眼前に露呈している事物は、明鏡である。

そのため、「明頭来明頭打(明頭が来たら明頭を打つ)」というのだ。

明々であるのは「何処」でもないから、何処にもないのだ。

まして鏡ではない塵埃が、1粒たりとも鏡に残ることがあろうか。

知るべきである、宇宙は無数の塵のような国土ではなく、古鏡そのものである。

 

解釈とコメント

この文段の最後尾のところで「かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。

しるべし、尽界は塵刹にあらざるなり、ゆえに古鏡面なり。」という言葉が分かりにくい。

「宇宙に存在している主体としての本体の自己は無数の塵のような国土ではなく、古鏡そのものである。」

と言っているのである。

 

原文D

南嶽大慧禅師の会に、ある僧とふ、

「鏡の像を鋳るが如き、光何れの処にか帰す?」。

師云く、

「大徳未出家の相貌、甚麼(いずれ)の処に向かってか去る?」。

僧曰く、

「成りて後、甚麼(なに)としてか鑑照せざる」。

師云く、

「鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずることまた不得なり」。

いまこの万像は、なにものとあきらめざるに、たづぬれば鏡を鋳成せる証明、

すなはち師の道にあり。

鏡は金にあらず、玉にあらず、明にあらず、像にあらずといへども、

たちまち鋳像なる、まことに鏡の究弁なり。

「光何れの処にか帰す」は「如鏡鋳像」の如鏡鋳像なる道取なり。

たとへば「像は像の処に帰す」なり、鋳は能く鏡を鋳る」なり。

「大徳未出家の相貌、甚麼(いずれ)の処に向かってか去る」

といふは、鏡をささげて照面するなり。

このとき、いづれの面々面かすなはち自己面ならん。

師云く、「鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずることまた不得なり」。

といふは、鏝照不得なり。

「海枯れて 底を露はすに到らず」を参学すべし、

 「打破すること莫れ、動著すること莫れ」なり。

しかありといへども、さらに参学すべし、「像を拈じて鏡を鋳る」の道理あり。

当恁麼時は、百千万の鑑照にて、瞞瞞点点なり。

 

南嶽大慧禅師 :南岳懐譲禅師を指す。六祖慧能禅師の法嗣。金洲の人、姓は杜氏。

荊州玉泉寺において剃髪。嵩山の安岡師の指示で六祖に師事した。衡嶽の般若寺に住んで教化を行なった。七四四年死去、年六十八歳。大慧禅師とおくり名された。語録一巻がある。青原行思禅師とともに、六祖下の二大甘露門といわれ、門下から馬祖道一禅師を出し、この流派から臨済宗・イ仰宗が生れた。

鋳像:  金属を鎔かして鋳型に流し込み、これをさまして像を造ること。

大徳:   徳の高い僧。

万像:  万象に同じ。森羅万象の意。宇宙に遍満する個々の事物をいう。

道:  ことば。

金:  金属。

玉:  質、堅剛で色沢あり、装飾などに用いる美石の総称。

究弁: 究めわきまえること、探究し弁別すること。

海枯れて 底を露はすに到らず:枯は乾く、水が尽きるの意。ここでは海水が蒸発して少なくなることをいっている。海水が蒸発によって減少しても、完全に蒸発して海底が露出するようなことはあり得ないことを意味している。 

「像を拈じて鏡を鋳る」:  鋳像を素材として、逆に鏡を鋳造することをいう。 

瞞瞞:  瞞はくらます。だますの意で、宇宙のすべてを鏡に造り変えた場合、一切の事物が鏡として光り輝くのであるが、それは雑多な現象として見る人の限をあざむくことであるの意味。

点点: 小さいものが数多くあることの形容。ここかしこに散在すること。

瞞瞞点点なり : 万象を映して一々だまし続けている。

 
 

現代語訳

南嶽大慧禅師にある憎が質問した、

鏡を鋳直して像を造った場合、〈鏡のぴかぴかとした〉光は何処に行ってしまうのですか?」

師は言った、

お前さんがまだ出家していなかった時分の顔・形は何処へ行ってしまったのかね?」

僧は言った、

それにしても、鏡を銅像に鋳なおすと、どうして鏡のようにぴかぴか光らないのでしょう?」

師は言った、

鏡を銅像に鋳なおすと、鏡のようにぴかぴか光らないことは確かだが

鏡の本体はそのまま存続し、見る人をくらますようなことは決してない。」 

現にわれわれの眼の前に展開されている森羅万象は、何であるかということは解明し難いところではあるが、

探究してみるに万法を映す鏡である。そのことの明証は、師の言葉によって明瞭に知られる。

本来の自己という鏡(脳という鏡)は金属でもなければ、玉でもない。

光でもなければ、映像でもない。

しかもたちまちに鋳造した像となる(事態を明瞭に把握している)ことは、まさに鏡というものの本質を究め尽くしている。

鏡の光は何処に行ってしまうのか」 といえば、鏡のように像を映しているそのことだけである。

たとえば像は像の処に帰り、像を鋳るように形作る働きは像を鋳る働きだけである。

「お前さんがまだ出家していなかった時分の顔・形は何処へ行ってしまったのかね」

ということは、本来の自己は何処へ行ってしまうことなく、

本来の自己(=鏡)が自己の正体を見ているだけである。

この僧にとって出家前の顔と今現に鏡に映っている顔とを比べると、

一体どちらの顔が本当に自分の顔なのであろうか(どちらも本来の自己である)。

師の言葉「像に造った場合、鏡のようにぴかぴか光らないことは確かだが、

鏡の本体はそのまま存続し、見る人をくらますようなことは決してあり得ない。」 の意味は

森羅万象は鏡のようにぴかぴか光るものでもないが、

見る人の眼をくらます性質のものでもないということである。

海の水が蒸発しても、そのために海底が露出することはないと学ぶべきである。

〈森羅万象を〉破るようなことがあってはならない。

〈また〉うろたえ平静さを失うようなことがあってはならない。

しかしながらさらに学ぶべきである。

すなわち鋳像を素材として〈逆に〉鏡を鋳造するという道理があるということを。

まさにその瞬間においては、

百万・千万の森羅万象が鏡のようにぴかぴかと光り輝くのであり、

見る人の眼をくらますところのものとなるのであり、

万象を映して一々だまし続けているである。

 

解釈とコメント

南嶽大慧禅師に対する憎の質問は、

鏡を鋳直して像を造った場合、〈鏡のぴかぴかとした〉光は何処に行ってしまうのですか?」

である。

この質問僧はここで話題になっているのは

本来の自己が具有する古鏡であるのに、金属で造られた鏡だと誤解して、古くなった金属鏡を鋳直す時の問題に置き換えて南岳懐譲禅師に的外れな質問をしている。

ここで問題になっている「」とは六祖慧能の詩偈

明鏡も亦台に非ず、本来無一物、何れの処にか塵埃有らん

にでて来る本来の自己の働きを鏡に喩えて議論しているのである。

南岳懐譲は、

お前さんがまだ出家していなかった時分の顔・形は何処へ行ってしまったのかね?」

と僧に逆に質問し、ここでの鏡とは本来の自己の鏡のことだと分からせようとする。

しかし、僧にはそれ伝わらないようで、

それにしても、鏡を銅像に鋳なおすと、どうして鏡のようにぴかぴか光らないのでしょう?」

と金属鏡を鋳直す時の問題に拘っている。

南岳懐譲は、

鏡を銅像に鋳なおすと、鏡のようにぴかぴか光らないことは確かだが

(鏡の本体はそのまま存続し、)見る人をくらますようなことは決してない。」

と答える。

 



原文E

 

雪峰真覚大師、あるとき衆にしめすにいはく、

此事を会せんと要せば、我が這裏、一面の古鏡如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す」。

時に玄沙出でて問う、

忽ちに明鏡来に遇はん時、如何?」。

師云く、

胡漢倶に隠る」。

玄沙曰く、

某甲は即ち然らず」。

峰云く、

汝作麼生?」。

玄沙曰く、

請すらくは和尚問ふべし」。

峰云く、

忽ちに明鏡来に遇はん時、如何?」

玄沙曰く、

百雑砕(ひゃくざっすい)」。

 

しばらく雪峰道の「「此事」といふは「是什麼事(ししもじ)」と参学すべし。

しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。

「如一面古鏡」の道は、一面とは、辺際ながく断じて、内外さらにあらざるなり。

一珠走盤の自己なり。いま「胡来胡現」は、一隻の赤鬚なり。

いま「渡来漢現」は、この「漢」は、混沌よりこのかた、

盤古よりのち、三才、五才の現成せるといひきたれるに、

いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現ぜり。

いまの湊は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。

いま雪峰道の「胡漢倶隠」、さらにいふべし、

「鏡也自隠(鏡もまた自ら隠る)」なるべし。

玄沙道の「百雑砕」は、道也須是恁麼道(道ふことは須らく是れ恁麼道なるべし)なりとも、

比来責汝、還吾砕片来。如何還我明鏡来(比来汝に責む、吾れに砕片を還し来れと。

如何が我れに明鏡を還し来る)なり。

黄帝のとき十二面の鏡あり。家訓にいはく天授なり。

また広成子の空トウ山(くうとうざん)にして与授せりけるともいふ。

その十二面のもちゐる儀は、十二時に、時時に一面をもちゐる。

また十二月に、毎月毎面にもちゐる。十二年に、年年面面にもちゐる。

いはく、鏡は広成子の経典なり。黄帝に伝授するに、

十二時等は鏡なり、これより照古照今するなり。

十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。

十二時もし鏡にあらずば、いかでか照今あらん。

いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、

古今は十二時の所使なり、この道理を指示するなり。

これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

 

注:

雪峰真覚大師: 雪峰義存禅師。徳山宣鑑禅師の後継者。

泉州南安の人、姓は曽氏。「三たび投子に到り九たび洞山に上る」といわれる程、

参禅修行に精進した。

徳山宣鑑禅師を師匠として参禅し法嗣となり、雪峰山に住んで多くの僧侶を教化した。

弟子に雲門文偃・玄沙師備・長慶慧稜・保福従展・鏡清道フ等の人材が出た。

イ宗皇帝から真覚大師の号と紫衣とが贈られた。九〇八年死去、年八十七歳。語録二巻がある。

法系: 六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟 →龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存

会 :  理解する。

這裏(しゃり):  これ、自己本来の面目(真の自己)。

玄沙:  玄沙師備禅師。霊峰義存禅師の後継者。

福州試県の人、姓は謝氏。雪峰義存禅師の法嗣となった後、その教化を助けた。

応機敏捷で有名。後、普応院に住み、さらに玄沙山に移った。

九〇八年、年七十四歳で死去。宗一大師という。語録三巻がある。

作麼生: どうか、どうするかの意味。

百雑砕:  百は数の多いことを表わす。

雑はこまかいの意。砕はくだける。

百雑砕とは、一切の事物がこなごなにくだけおちること。

辺際: かぎり、はて、際涯。ながく 永遠に。

一珠走盤:  一珠は一粒の珠玉。珠は貝類の体内に産する円形の玉、真珠。

盤はてあらいの水を受ける鉢。

一珠走盤とは一粒の真珠が平らな鉢の中をころげ廻ることをいい、

われわれの行為において体験する変転自在な世界の象徴。

一隻(せき): 隻はひろく生物器具の類を数える際に使うことば。

一隻は一つ、一人の意。 

赤鬚: 赤いひげ。

西域地方に住む異邦人(胡人)は赤いひげが特徴であったため、

胡人のことを赤鬚という。

混沌: 天地開闢のはじめ、陰陽がまだ分れない以前の状態。

盤古: 天地開闢のはじめに出て、この世に君臨した天子の名。

三五暦記等に見える。

三才:  天・地・人をいう。才ははたらきの窓。

五才:   木・火・土・金・水をいう。

古鏡の功徳:  古鏡のはたらきと作用。

道也須是恁麼道: 言葉で表現しようとすればこのような言葉になるかも知れないがの意。

須はすべからく・・・すべしと読む。決定の助辞。 

比来: このごろ、ちかごろ、近来。比はさきだつの意味。

黄帝:  黄帝(こうてい、紀元前2510年〜紀元前2448年)は中国の神話伝説上の皇帝。

三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。

中国古代の諸王朝や諸侯などの諸姓はすべて黄帝より出たものとされ、

最高の帝王として尊ばれた。

そのためさまざまな伝説がつけ加わり,多くの黄帝説話が形成されている。

少典氏の子、姓は公孫。名は軒轅という。

十二面の鏡: 事物原記巻八にいう、

「黄帝内伝曰、帝既与二王母会於王屋、乃鋳大鏡十二面、随月用之」と。

十二面とは十二枚の意。

家訓:  祖先が子孫に残した一家の教誡。

天授:  天からさずかったもの。

広成子: 中国の伝説、伝奇(神仙伝)に出てくる仙人。

空トウ山の石の部屋で暮らしていた。

彼が千二百歳の時に黄帝が至上の道について尋ねてきた。

広成子は「お前が天下を治めるようになってから鳥類は

その季節にもならないのに飛び立ち、草木は黄葉する前に散るようになった」と言って断った。

黄帝が三ヶ月間閉居した後に再び教えを請うと、広成子はこれに答えたという。

所使: 駆馳するところ。

漢現の十二時中: 中国人が現実に活躍している二十四時間のうちの意。

 
 

現代語訳

雪峰真覚大師が、あるとき衆僧に(自分の眼を示しながら)言った、

この一事を理解したいならば、自己本来の面目(真の自己)は

一枚の古鏡のようなものであると理解すべきである

胡人が来れば胡人が映り、中国人が来れば中国人が映る」。

そのとき玄沙和尚が前に進み出て質問した、

突然、明鏡が出現したらどうなりますか?」 

雪峰禅師は言った、

胡人も中国人も共に姿を隠す。」

玄沙は言った、

私の場合はそうではありません」。

雪峰禅師は言った、

お前の場合はどうか?」

玄沙は言った、

和尚さん、あなたから、〈もう一度同じ〉質問をして下さい」。

雪峰禅師は言った、

突然、明鏡が出現したらどうか?」と。

玄沙は言った

〈一切の事物が〉こなごなにくだけ落ちます」。

いまここに雪峰禅師が言っている「この一事」とは、

是れ(自己本来面目=真の自己)とは何事か」というふうに学ぶべきである。

そこで、雪峰が説いた古鏡について学んで見よう。

「一枚の古鏡のようだ」という言葉で、

一枚とは辺際きわがなくなって、内とか外とかの区別が全くない。 

一粒の真珠が、盤上を自由自在に転がり廻るような自由な自己を言うのである。

 また「胡来胡現(胡人が来れば胡人が映る)」とは一人の赤ひげの胡人を指している。

また「漢来漢現(漢人が来れば漢人が映る)」という場合の「漢」とは、

天地開闢の混沌から、盤古が現われ、天・地・人の三才が出現し、

木・火・土・金・水の五才が現成したのだと云い伝えてきた。

雪峰は、古鏡の作用として漢人(中国人)が出現したことを言っているのである。

つまり現在の漢人(中国人)は(古代の漢帝国の)漢人とは異なることから、

端的に漢人の出現というのである。

また雪峰の「胡漢倶隠(胡人も漢人も共に姿をかくす)」という言葉は、

さらに言葉を変えれば、「鏡自体もまた姿を隠す」になるだろう。

〈なお〉玄沙和尚の「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちる)」という言葉は、

言葉で表現しようとすればこのような言葉になるかも知れないが、別の言葉でいえば、

先日来、私は師に対して、木葉微塵に打ちくだかれた砕片をお還しいただきたい

とお願いしておりますのに、どうして、明鏡なぞという立派なものをお還し下さるのですか

ということである。

古代の黄帝の時代に、十二枚の鏡があった。

黄帝に伝えられた家訓によれば、天から授かったとされている。

また、空トウ山(くうとうざん)において、広成子が〈黄帝に〉授けたともいわれている。

その十二枚の鏡を使用する方法は、二十四時間のうち、一時(2時間)ごとに一枚を使用する。

また十二ヵ月の毎月に一枚を使用する。

さらに十二年の1年ごとに、毎年一枚を使用する。

いわば、「鏡は広成子の経典である。」

黄帝に伝授したのは12時などの鏡である。

これによって過去と現在を照らすのである。

12時がもし鏡でなかったならば、どうして過去を照らすことができるだろうか。

12時がもし鏡でなかったならば、どうして現在を照らすことができるだろうか。

この経典を広成子が黄帝に伝授したが、

それにより二十四時間や十二ヵ月や十二ヵ年はいずれも鏡としての性質を帯び、

それ以来、過去と現在を照らして今日に至っているのである。

ここに言う十二時(=24時間)とは、十二枚のことであり、

十二枚とは十二枚の鏡のことである。

過去・現在の時間は十二時(=24時間)に使われるところである。

 黄帝の十二枚の鏡はこの道理を示しているのである。

この十二枚の鏡に関する説話は

俗世間(仏教関係以外の人々)の語るところではあるが、

現実に中国人が活躍している二十四時間内の事である。


 

解釈とコメント

 雪峰の質問「突然、明鏡が出現したらどうか?」

自己本来の面目に突然出会って

見性した時の体験についてどうかと聞いている

と考えることができる。

この時、玄沙は、「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちた)」と答えた。

玄沙は自己本来の面目に突然出会って見性した時、

百雑砕した(もろもろの事物が一切くだけ落ちた)」ようだっと

自己の見性体験について説明していると考えることができる。

道元はこの玄沙の言葉について、

先日来、私は師に対して、木葉微塵に打ちくだかれた砕片をお還しいただきたい

とお願いしておりますのに、どうして、明鏡なぞという立派なものをお還し下さるのですか

ということだとコメントしている。

道元のこのコメント(解釈)はなかなか難しい。

むしろ、玄沙は「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちた)」と表現することで、

と今までの自己と旧知旧見にこだわる自己への執着心が

木端微塵に粉砕されるような見性体験を説明している

と考えた方が分かり易いのではないだろうか。

 玄沙の「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちた)」

という言葉は道元禅師が見性した時の言葉「心身脱落」に似たところがある。


 
7

 第7文段

 

原文F

 

 軒轅黄帝、膝行してクウトウに進んで、道を広成子に問ふ。

  時に広成子曰く、「鏡は是れ陰陽の本、身を治めて長久なり

自ら三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり

神を抱(おさ)めて以て静かに、形、将に自ら正しからんとす

必ず静にし、必ず清にし、汝が形を労すること無く

汝が精を揺すこと無くんば、乃ち以て長生すべし

むかしはこの三鏡をもちて天下を治し、大道を治す。

この大道にあきらかなるを、天地の主とするなり。

俗のいはく、「太宗は人をかがみとせり、安危理乱これによりて照悉する」といふ。

三鏡のひとつをもちゐるなり。

人を鏡とするとききては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし。

たとへば魏徴をえしがごとく、房玄齢をえしがごとしとおもふ。

これをかくのごとく会取するは、太宗の、「人を鏡とする」と道取する道理にはあらざるなり。

人を鏡とする」といふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり、

五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。

人物の去来をみるに、来無迹去無方を人鏡の逆理といふ。

賢不肖の万般なる、天匁に相似なり。

まことに経緯なるべし。

人面・鏡面・日面・月面なり。

五嶽の精、および四トクの精、世をへて四海をすます、これ鏡の慣習なり。

人物をあきらめて経緯をはかるを、太宗の道といふなり。

博覧人をいふにあらざるなり。

 

注:

軒轅(けんえん): 黄帝の名。

黄帝は河田省新郎県の軒轅(けんえん)の丘に生れた。

そこで軒轅氏という。軒轅黄帝以下の文は、荘子巻四、在宥第11の取意文。

膝行:  膝を地にすりつけながら行くこと。貴人の前での礼儀。

クウトウ: クウトウ山。『神仙伝』巻一の『広成子』によると、

広成子は古代中国の仙人で、クウトウ山の石の部屋で暮らしていた。

クウトウ山は黄帝が広成子に至道を問うた所という。

クウトウ山は、伝説空想上の山で、その所在について諸説がある。

陰陽: 陰と陽。天地間にあって万物を生ずる二気。

また、日月・乾坤・寒暖・男女等のように互いに対立する性質のものをいう。

形: かたち、すがた、外形、肉体。

精:  たましい、こころ、精神。

大道:  道はことわり、秩序。大道は宇宙に遍満する偉大な秩序。

治す:  おさめる、ただす、ととのえる。

太宗: 唐朝の第2代皇帝太宗(在位、626〜649)。

高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。

隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。

貞観政要に「唐太宗・・・以人為鏡・・・」とある。

 

理乱:理はおさまる。乱はみだれる。 

照悉: ことごとくを照らすの意。

博覧: 見聞がひろいこと。

聖賢: 聖人と賢人。また、知識・人格にすぐれた人物。

用舎: 用はもちいる。舎はすてる、捨に同じ。

魏徴: 魏 徴(ぎ ちょう、580 643)は、唐の政治家。

字は玄成。唐、曲城の人。字は玄成。唐の高祖、太宗に仕え、名臣の誉れが高かった。

房玄齢: 房玄齢(ぼう げんれい 578 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。

太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者で唐代最高の政治家の一人とされる。

五常: 五常(ごじょう)は、儒教で説く5つの徳目。

仁・義・礼・智・信を指す。人が常に行なうべき五種の正しい行ない。

人鏡の道理: 人を鏡とする場合の基本的な裡論。

天象: 天体の現象。日月星辰。

経緯:たて糸と横糸。物事の骨子となるもの、天地の基準。

五嶽:  中国において、国の鎮めとして尊んだ五つの名山。

天子がこれを祭り、ここに巡幸した。

泰山(東岳)華山(西岳)・霍山(南岳)・恒山(北岳)・嵩山(中岳)の五山をいう。

精: 精気、精髄。

四トク: 中国の四大河。

長江、黄河、桐柏山から出る淮水(わいすい)・済水の四大河をいう。

四トクの精: 中国の四大河の精。

四海:   四方の海。 

慣習:  ならわし、ならい、習慣。

 

現代語訳

軒轅黄帝が、クウドウ山に上り、道を広成子に質問した。

広成子は言った、「鏡は陰陽の本で、永く身を治めるのである。自づから、三つの鏡がある

一つは天、一つは地、最後の一つは人である

これらの三種の鏡は、いずれもものを見たり、聞いたりすることはない。五官の対象ではない

精神をしずめて平静な状態にあれば、肉体もまさにひとりでに正しくなる

そして心身が平静となり、清浄となり、お前は肉体を苦しめることもなく

精神を動揺させることもなくなれば、長生きすることができるであろう」。

昔は、この天・地・人という三鏡を基準にして天下をおさめ、人倫の大道を正したのである。

 〈そして〉この大道に明らかな人を天地の主としたのである。

俗書にいう、

唐の太宗は人を政治の鏡とした

天下の安危理乱をこれによって照らし視た」という。

〈天・地・人〉の三鏡の中の一つを用いたのである。

人間を鏡として〈政治を〉考えるという言葉を聞いて、博覧の人に古今のことをたずねたならば、

聖賢は人を選ぶことを知ったであろう。

たとえば唐の太宗が臣下として魏徴を得たような場合であり、

房玄齢を得たような場合であると思う。

 「人をかがみとする」という言葉をこのように理解することは、

太宗が「人を鏡とする」という言葉の意味とは違う。

人を鏡にする」ということは、真の自己の正体(本来の自己=健康な脳)

としての鏡を鏡とするということであり、自己を鏡とすることである。 

それは五常(木・火・土・金・水)を鏡とし、

五常(仁・義・礼・智・信)を鏡にすることである。

人物が現われたり去ったりする〈様子〉を見ると、

何処から来たかの跡はなく、どの方角に去ったか分からない。

それを、人を鏡として考える場合の道理というのである。

人間には賢人もいれば愚人もいるなど千差万別である。

それは、天体現象が多種多様であるのに似ている。

それこそ天地間のすじ道であろう。

 人面も鏡であり、鏡面も鏡であり、日面、月面も鏡である。

五嶽の精気や、四大河の精気が、長い年月を経て、四方の海を浄化している。

これこそ天地間の基準としての鏡の為すところである。

人物を明らかにして、経世を計ることを、太宗の道というのである。

古今の知識に見聞のひろい人を基準に選ぶということではない。


 

解釈とコメント

ここでは、軒轅黄帝の質問に対して云った、仙人広成子の答、

鏡は陰陽の本で、永く身を治めるのである。自づから、三つの鏡がある

一つは天、一つは地、最後の一つは人である

これらの三種の鏡は、いずれも、ものを見たり、聞いたりすることはない

五官の対象ではない。精神をしずめて平静な状態にあれば、肉体もまさにひとりでに正しくなる

そして心身が平静となり、清浄となり、お前は肉体を苦しめることもなく精神を動揺させることもなくなれば、長生きすることができるであろう。」が興味深い。

仙人広成子は

精神をしずめて平静な状態になれば、肉体もひとりでに正しくなる

そして心身が平静となり、清浄となり、お前は肉体を苦しめることもなく

精神を動揺させることもなくなれば、長生きすることができる。」と考えていたことが分かる。

この精神鎮静化法は坐禅と共通するものがある。

古代中国の仙人の思想が禅を通して何らかの影響を与えていたことを示唆している。

また 中国古代の健康法としても興味深い。

 

原文G

日本国、神代より三鏡有り、璽と剣と、而も共に伝来して今に至る。

一枚は伊勢大神宮に在り、一枚は紀伊の国日前社に在り、一枚は内裏の内侍所に在る。

しかあればすなはち、国家みな位を伝持することあきらかなり。

鏡をえたるは国をえたるなり。

人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく伝来せり、天神より伝来せりと相伝す。

しかあれば百練の銅も陰陽の化成なり。

今来今現、古来古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。

雪峰の宗旨は、「新羅来新羅現、日本来日本現」ともいふべし。

天来天現、人来人現」ともいふべし。

現来をかくのごとくの参学すといふとも、

この現いまわれらが本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり。

かならずしも来現をそれ知なり、それ会なりと学すべきにあらざるなり。

いまいふ宗旨は、胡来は胡現なりといふか。

胡来は一条の胡来にて、胡現は一条の胡現なるべし、現のための来にあらず。

古鏡たとひ古位なりとも、この参学あるべきなり。

 

璽: 天子の印。泰以来、玉を用いて作り、天子のみに用いる。しかしここでは三枝の神器の中の八坂瓊(やさかに)曲玉を指す。

剣:  ここでは三種の神器の中の草薙剣を指す。

日前社(ひのくましゃ): 和歌山市秋月に日前神宮として現存している。

内侍所:  温明殿の別名。三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祭ってある所、賢 所。

内裏: 大内裏の中の皇居、天皇の常に住む御殿。

百練: 何回となく練り鍛えること、百錬。

陰陽: 陰と陽と。天地間にあって、万物を生ずる二気。

照臨:  高い所から四方を照らすこと。

一条: 一筋。始めから終りまで同質であることの形容。

 

現代語訳

日本国には神代から三つの鏡があり、曲玉と剣と一緒に、伝承されて今に至っている。

一枚は伊勢大神宮に、一枚は紀伊の国日前社に、一枚は宮中の賢所にある。

このようであるから、国家はみな、鏡を伝承し保持していることが分かる。

すなわち鏡を得たということは、国を得たと同じことである。

言い伝えによれば、この三枚の鏡は、神の権威に基づく

〈天皇の〉位に伴って伝承されて来たのであり、

天神から伝来したと伝えられている。

したがって百錬の銅も、

天地間にあって万物を生むところの陰陽二気が変化して出来たものである。

現在が来れば現在が映り、過去が来れば過去が映るといってもよい。

すなわち古今を照らしだすものは古鏡であろう。

雪峰の言葉の主旨は「新羅人が来れば、新羅人が映り、日本人が来れば、日本人が映る

と言ってもよいだろう。

天人が来れば、天人が映り、人間が来れば、人間が映る」ともいえるだろう。

しかし、「現来」を、このように学んだからといって、

この「現来」が、われわれの過去・現在・未来を知る訳ではない。

現(映る)」ということと出会ったに過ぎないのだ。

必ずしもその「来る)」とか「「映る(現)」に会うことを知り、

理解するのだと、学ぶべきではない。

今言う主旨は、「胡来」ということは、「胡現(胡人が映る)」というのであろうか。

いや、そうではなく、「胡来」とは、「胡人が来た」それだけのことであり、

胡現(胡人が映った)」は、「胡現(胡人が映った)」というだけである。

現(映る)」のために、来たのではないのである。

たとえ古鏡は古鏡であるとしても、このような参究しなければならない。


 

解釈とコメント

 

原文H

玄沙いでてとふ、「たちまちに明鏡来にあはんにいかん?」

この道取、たづねあきらむべし。

いまいふ「明」の道得は幾許(きこ)なるべきぞ。

いはくの道は、「その来はかならずしも胡漢にはあらざるを、

これは明鏡なり、さらに「胡」「漢」と現成すべからずと逆取するなり。

明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚なるべからざるなり。

たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり。

明鏡はこれ明鏡なり。

古鏡あり明鏡ある証験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。

これをば仏道の性相とすべし。

この玄沙の明鏡来の道話の、七通八達なるとしるべし。

八面玲瀧なることを、しるべし。

逢人には即出なるべし、出即には接渠なるべし。

しかあれば明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。

明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。

古鏡といふ言によりて、明なるべしと学することなかれ。

宗旨は吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく錬磨すべし。

祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。

明鏡もしかあるべきか、いかん。

まさにひろく諸仏語祖の道にわたる参学あるべし。

 
幾許(きこ): どれほど。

二枚なるべからざるなり: 古鏡と明鏡の二枚であってはならない。

証験: あかし、しるし。

性相:  性は本性、本質。相は形相、外見、姿。性相は本質ならびに外見の意。

仏道の性相とすべし: 古鏡と明鏡は古鏡が性(本体、本性)で、明鏡(分別智=理知や知性)は相(形相)の関係であるが一如(脳として一体)である。

七通八達: 縦横無尽に通達していること。

八面玲朧: いずれの方面も透きとおって明らかなこと。

心中になんらのわだかまりもないこと。

逢人: 人に逢うこと。

即出:  即座に出現するという意味。

出即: 出現した場合ただちにという意味。

接渠: 渠は彼に同じ。接渠は彼に接すること、相手に出合った時には教化していること。

現代語訳

玄沙が進み出て質問した、「突然、明鏡が〈古鏡の前に〉出現したらどうなりますか?」と。

この言葉の意味を究明する必要がある。

ここにいう「明」という言葉は、どのように考えたらよいろうか。

いうところの意味は、古鏡に来るのは、必ずしも胡人や漢人の出現ではない。

今出現したのは、明鏡である。胡人や漢人を映しそのまま現成しはしない。

「明鏡が出現する」とは、「明鏡が出現する」ことにほかならないからと、

明鏡と古鏡の二枚があってそれが一枚に重なるというふうに考えてはならない。

たとえ二枚でないからといっても、古鏡は古鏡であり、明鏡は明鏡である。

そして古鏡もあれば、明鏡もあることの証拠は、雪峰と玄沙の問答が示している。

これこそが仏道の本質と形相であると考えるべきである。

玄沙が言う「明鏡が古鏡の前に出現したらどうなりますか」という言葉は、

その意味が融通無碍であり、縦横無尽であると知るべきであり、

あらゆる面から見て透明で美しいと知るべきである。

人に逢えば、立ちどころにその人を映し

映せば、直ちにその人を教化しているであろう。

鏡と鏡が相会うのだ。

そうであれば明鏡の「明」と、古鏡の「古」は、同一と見たらよいだろうか、

異なると見たらよいだろうか。

明鏡という言葉の中に、「古(永遠)」という意味があるだろうか、ないのだろうか。

古鏡という言葉の中に、「明」という意味合いが含まれているだろうか、ないだろうか。

古鏡という言葉を聞いて、「さぞかし曇りはなく明るいだろう」などと思い込んではならない。

言いたいことは、

吾亦如是(わしもまたありのままであり)、汝亦如是(お前もまたありのままである)

ということである。

また「西天の諸祖もまた是くの如し

という「如是の法」を、速やかに練磨し覚らなければならない。

祖師は「古鏡は磨くことができる」と言ったとされる。

明鏡についても同じであろうか。お前はどう考えるか。

まさに諸仏諸祖の言われたところを、広く参究すべきである。

 

 

 

 

解釈とコメント

ここでは雪峰と玄沙の問答に立ち返り、

玄沙の質問「突然、明鏡が〈古鏡の前に〉出現したらどうなりますか?」

という意味について議論している。

明鏡という言葉が古鏡という言葉とともに出てきている。

 

 

原文I

雪峰道の胡漢倶隠は、胡も漢も、明鏡時は倶隠なりとなり。

この供隠の道理いかにいふぞ。

胡漢すでに来現すること、古鏡を相ケイ礙せざるに、なにとしてかいま倶隠なる。

古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、

明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。

しかあれば雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。

正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢をケイ礙すべがらざる道理、あきらめ決定すべし。

いま道取する古鏡の「胡来胡現、漢来漢現」は、古鏡上に来現すといはず、

古鏡裏に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず。

この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。

胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく来におろそかなり。

錯乱といふにおよばざるものなり。

 

おろそか:注意の足りないさま。なおざり、粗略。

 

現代語訳

雪峰の言う「胡漢ともに隠れる」とは、

胡人も漢人も、曇りのない明鏡が来た時には、ともに隠れる」という意味である。

この「ともに隠れる」とはどのような憲味であろうか。

 胡漢が来れば胡漢を映すことは、古鏡の性質と相反することはないのに、

どうして現に胡人も漢人も共に姿を隠すのだろうか。

古鏡は仮に「胡来胡現、漢来漢現」であろうとも、「明鏡来」は、

当然、「明鏡が出現した」ということ以外の何物でもないのだから、

古鏡が意識の対象となってしまうと、姿を隠すのである。

したがって雪峰の言葉の中にも、古鏡が一枚あり、明鏡が一枚あるのである。

明鏡が出現しても、古鏡が映し出す胡人や漢人の映像を排除し妨げるようなことはない

という道理を解明し、明らかにすべきである。

いまいうところの古鏡における「胡来胡現、漢来漢現」 とは、

古鏡の上に来たり映ったりするのでもなければ、

古鏡の中に来たり映ったりするのでもない。

また古鏡の外に来たり映ったりするのでもなければ、

古鏡と同時に来たり映ったりするのでもない。

この言葉を傾聴すべきである。胡人や漢人が来たり映ったりする時点においては、

古鏡が胡人や漢人を映らせ来させるのである。

また胡人や漢人が共に姿をかくす時点においても、鏡は依然として存在し続けると主張することは、

映る(現)ということについても理解が欠けているし、来る(来)ということについても理解が充分でない。

それはまさに錯乱状態だと評しても、不充分である。

 

解釈とコメント

この文段では、玄沙の質問、「突然、明鏡が出現したらどうなりますか?」

に対する雪峰の答「胡漢ともに隠れる」とは、

胡人も漢人も、曇りのない明鏡が来た時には、ともに隠れる」という意味である。

この「ともに隠れる」とはどのような憲味であろうかと考察している。

胡漢が来れば胡漢を映すことは、古鏡の性質と相反することはないのに、

どうして現に胡人も漢人も共に姿を隠すのだろうか。

道元は仮に「胡来胡現、漢来漢現」であろうとも、

明鏡来」は、当然、「明鏡が出現した」ということ以外の何物でもないのだから、

古鏡が意識の対象となってしまうと、姿を隠すのであると説明している。

これは明鏡が注意を一方に向けると明鏡が意識の中心となってしまうので、

古鏡は姿を隠すと説明していると考えることができる。

 

1<古鏡と明境>

玄沙が「もし突然“明鏡”がやって来たら、どうなりますか」ときいたのに対して、雪峰は「皆、かくれてしまうよ」と答えられた。胡も、漢人もあったものではない、皆かくれるのだという。

 

この俱に隠れるというのは、どういう意味か。

古鏡の前に、胡が来れば胡が映るし、漢人が来れば漢人が現れる。これは“そのまま”であり、当り前であって、何一つひっかかる所がない。

ところが「明鏡」がやって来ると、あまりにもそれが輝いているから、古鏡に現れている胡も、漢も、倶にかくれて見えなくなる。

 

 

 

そこで雪峰は、古鏡と明鏡とを、夫々ちがった風に教えておられる。

鏡でいえば、二面の鏡が示されているのであり、古鏡一面と明鏡一面である。しかしながら正当の(本当の)明鏡が現れるとき、それは古鏡に現れている胡も漢人も、決して消し去りはしないのであって、全てをそのまま生かすのである。

この道理をよくよく明らめ知らなければならない。

今いうところの古鏡に、胡が来れば胡を現し、漢来れば漢を現すということは、古鏡の“上に”来てそこに現すと言っているのでもなく、古鏡の“外に”来て外に現すといっているのでもない。

又そうかといって、古鏡と共に来て、古鏡と共に現すというわけでもない。

この辺の意味をよく味うべきだ。

胡や漢が来たり現すという時、古鏡が受け身で、ただボンヤリとそこにあるのではなく、古鏡が彼らを現し來たらしめるのである。

 

古鏡が主人公で、人びとがそこへやって来て映す。

胡漢が倶に隠れてしまう時も、鏡がじっとしてそこにあり、それをいつでも取りのけられる道具のようなものと思ったら間違いである。

そんなことを言う者には、現れ、来るというこの原理が、何一つ判っていないのだ。錯乱しているとしか言いようがない。古鏡は厳然として、常に主人口の位にあり通していることを知らなければならないのである。

(参考 正法眼蔵を読む 古鏡の巻 谷口清超訳)

                                

 

 

 

増谷文雄 全訳注 『正法眼蔵』 (二) 講談社学術文庫 所収 「古鏡」巻におけるかなり決定的な誤訳について

 

増谷氏は、228頁から229頁の原文:

 

「胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり。」

 

を以下のように現代語訳している。

 

「もしも、胡人・漢人が来り現われる時には、古鏡が胡人・漢人を来現せしめるのだといったり、あるいは、

 

胡人・漢人がともに隠れた時にも、古鏡はなお存在しているのだといったりしたのでは、まったく来も現も判ってはいないのであって、錯乱というもなお及ばざるところである。」 232

 

しかしこれは、本来は、

 

「胡人・漢人が来り現われる時には、古鏡が(の)胡人・漢人を来現せしめるのである。

 

胡人・漢人がともに隠れた時にも、古鏡はなお存在しているのだといったりしたのでは、まったく来も現も判ってはいないのであって、錯乱というもなお及ばざるところである。」

 

と訳すべきである。つまり、増谷訳では根底的に文意が真逆になっており、「胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり」という核心的な一文が否定され、後続部分との整合性を失い該当する上記の文全体が意味不明になってしまっている。

 

「胡漢来現」という事態あるいはそういった時間=存在(時節・有時)は「古鏡の存在」という事態(時間=存在)と実践的に一体不可分である。すなわち、「古鏡の存在」ーーそれは「古鏡」巻末に至り「古鏡(瓦)を磨くこと」という果てのない実践の力と等値されるーーと「胡漢の現来(去来)」が一体不可分な実践的時間存在であるという道元の哲学=行(実践)が雲散霧消しているのである。



参考までに、「古鏡」巻の結論的記述の原文と増谷氏の現代語訳 を参照した上でのその試訳を下記に記す。『正法眼蔵』の学習のためには、現代語訳(可能なら棚橋一晃氏Kazuaki Tanahashiらの英訳を含む)を参照吟味しながら、各々が自分自身の試訳を積み重ねていくことが大切だと思われる。

 

原文: いまの人も、いまの塼を拈じてこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団な りとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼来塼現の鏡子ある ことを。又たれかしらん、鏡来鏡現の鏡子あることを。

 

試訳: (今の人も、力を尽くして今の瓦を磨いてみるといいだろう。必ずや鏡となるに違いない。もし瓦が鏡となることができないのなら、人も仏になることはできない。 瓦を泥の塊と軽んずるなら、人も泥の塊に等しきものとなるだろう。人にもし心があるならば、瓦にも心があるはずである。誰が知るだろうか、瓦が来って瓦の 現われる鏡のあることを。また誰が知るだろうか、鏡が来って鏡の現れる鏡のあることを。) ――道元『正法眼蔵』「古鏡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 諸仏諸祖の受持し単伝するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鋳(どうぞうどうしゆ)なり、同参同証す。胡来胡現(こらいこげん)、十万八千、漢来漢現(かんらいかんげん)、一念万年なり。古来古現し、今来今現し、仏来仏現し、祖来祖現するなり。
 第十八祖伽耶舎多(がやしやた)尊者は、西域の摩提国(まだいこく)の人なり。姓は鬱頭藍(うつずらん)、父名天蓋(てんがい)、母名方聖(ほうしよう)。母氏かつて夢見にいはく、ひとりの大神、おほきなるかがみを持()してむかへりと。ちなみに懐胎す、七日ありて師をむめり。師、はじめて生ぜるに肌体(きたい)みがける瑠璃(るり)のごとし。いまだかつて洗浴(せんよく)せざるに自然に香潔(こうけつ)なり。いとけなくより閑寂(かんじやく)をこのむ、言語よのつねの童子とことなり。むまれしより一の浄明(じようみよう)の円鑑(えんかん)、おのづから同生(どうしよう)せり。
 円鑑とは円鏡(えんきよう)なり、希代(きたい)の事なり。同生せりといふは、円鑑も母氏(もし)の胎よりむめるにはあらず。師は胎生す、師の出胎する同時に、円鑑きたりて、天真(てんしん)として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとくありしなり。この円鑑、その儀よのつねにあらず。童子むかひきたるには円鑑を両手にささげきたるがごとし、しかあれども童面かくれず。童子さりゆくには、円鑑をおほうてさりゆくがごとし、しかあれども童身かくれず。童子睡眠するときは円鑑そのうへにおほふ、たとへば花蓋(かがい)のごとし。童子端坐(たんざ)のときは円鑑その面前にあり。おほよそ動容進止(どうようしんし)にあひしたがふなり。しかのみにあらず、古来今(こらいこん)の仏事、ことごとくこの円鑑にむかひてみることをう。また天上人間の衆事諸法(しゆじしよほう)、みな円鑑にうかみて、くもれるところなし。たとへば、経書にむかひて照古照今(しようこしようこん)をうるよりも、この円鑑よりみるはあきらかなり。

 

受持:受領保持。

単伝 :一系に伝承すること。

古鏡:古は古今を憲味し、永遠を意味する。鏡は外界の事物を映し出す道具として、祖仏が具有する無分別智を象徴するものと考えられる。

同見同面:もろもろの祖仏と同じように見るが、見た対象もまた全く同じ姿であるという意味。面は外見、姿。 

同像同鋳:像はかたどる(平面の場合)。鋳もいる、かたどる (立体の場合)。同像同鋳は平面的にも立体的にも同じ形であること。

同参同証:参は参ずる、参加する。証は体験する。同参同証は同じ事態に参加し、同じ事実を体験すること

胡来胡現:胡来れば胡現ずの意味。

胡とは胡人、西域の諸民族を指す言葉。中国人に対する異邦人のこと。

胡来胡現とは胡人が来れば、胡人の姿が鏡に映るという意味。

十万八千:非常に大きな数の象徴。ほとんど無限に近い数を憲味する。

漢来漢現: 漢来れば漢現わるの意味。漢とは中国人の代表としての漢人を意味する。

中国人が来れば中国人の姿が鏡()に映るというの意味。

一念万年 :一念は極めて短い時間の単位、転じて現在の瞬間をいう。

万年は極めて長い時間を表わし、永遠を憲味する。

一念万年は現在の瞬聞とともに永遠の時間を言っている。

古来古現:過去が来れば、過去を思い出すという意味。

今来今現:現在が来れば、現在を思い出すという意味。

仏来仏現:祖仏が来れば祖仏を思い出すという意味。

祖来祖現:祖師が来れば祖師を思い出すという意味。

迦耶舎多尊者: 摩詞迦葉尊者から数えて第十八番目の仏教教団の指導者。

西域: 中国人が西方諸外国を総称するときに使用した呼び名。

元来、西方地域という意味で漠然と使われた語であるが、広義では今のイソドーイラソ地方や小アジアーエジプト地方をも含む場合があり、狭義では新弧省南半のターリム盆地を中心とする地方を特称する場合がある。  しかし概括していえば、いにしえの中国人の知識に入った西方諸国の総称で、その中心地域は中国に隣接する中央アジア、すなわち、いわゆるトルキスタン地方であったと解される。 ただしここではインドを指す。

摩提国:  摩訶陀(マカダ)国か。摩訶陀は梵語Magadhaの音写。仏典に現れる摩訶陀国(マカダ)国と同じ。

瑠璃:  珠の名。七宝の一つ。青色の宝玉。

香潔: よい香がし、清潔であること。

いとけなく: おさなく、あどけなく。

閑静 : おっとりとして静かなこと。落ち着いて静かなこと。

浄明: 浄はけがれのないこと、くもりのないこと。明はあかるいこと、光り輝くこと。

円鑑: 円い鏡。古鏡のこと。

奇代: 希代に同じ。世にまれな、世に類いのない、めずらしい。

天真:  天から与えられた純粋な木性、人の本性。

現前: 現に眼の前にあること、現実にあること、現在すること。

調度: 手まわりの小道具。

華蓋:  はながさ、きぬがさ、天子のかさ。

動容: たちいふるまいのかたち、動作容儀。

進止: たちいふるまい、挙動、挙止。

古来今: 過去・未来・現在。

仏事: 仏教行事。

照古照今: 過去を照らし、現在を照らすこと。過去を知り、現在を知ること。

他那裡: 遠いあの国においては。

親族: ちかしい種族、われわれの同族、人類。

莫怪:  怪しむこと莫れの意。奇異と考えてはならない。

遠慮: 広範囲に思慮をめぐらすこと。

若樹若石:大涅槃経巻十四聖行品に見える言葉。

黄紙朱軸: 仏教の経典。

 

 

 

稀に生まれた時からこの世の奥底には「一つにつながっている世界」があることを体感し続けいている者がいる。

この者のココロと魂はちょうど古鏡のようだ。鏡に映る像がココロで、鏡そのものが魂である。

師をただ崇めるだけでは、権威主義的ナルシストになってしまう。これはただありもしないものを幻想したり、

「わたし」をありもしない綺麗事で飾ることにほかならない。

 

受戒(出家)するとは、「すべてがつなっている世界を基準にすることを目指す」という宣誓をすることだ。

この儀式をもって、「一つにつながっている世界」へのトレーニングがはじまる。ただこの古鏡はまだ磨かれていないので、各鏡の曇ぐあい相応にありのあまの世界は違う形で映る。

 

遠慮とは、他人に対して機械的に控え目にすることではなく、出来事をTPOを鑑み深く熟慮することだ。

若樹若石(にやくじゆにやくせき)に化せる経巻あり、若田若里(にやくでんにやくり)に流布する知識あり。かれも円鑑なるべし。いまの黄紙朱軸(おうししゆじく)は円鑑なり、たれか師をひとへに希夷(きい)なりとおもはん。

樹や石に関する〈書物〉や、〈田園の生活〉を支える〈伝統〉や〈慣習〉など、すべて〈円鑑〉にほかならない。〈作麼=何か=如是〉が〈書物〉を生みだし、〈如是=何か=作麼〉が〈慣習〉や〈伝統〉を伝えるのだ。〈書物〉や〈樹石〉の〈文上=表層〉にとらわれるとき、〈古鏡=円鑑〉は見えなくなる。
 

〈難提=釈尊〉の〈有何所表《何の所表(しよひよう)かある〉という〈問いに対して、

〈迦葉=伽耶舎多〉は《諸仏の大円鑑は内外瑕翳なし。両人同じく得見あり、心と眼と皆相似たり》〉と答えている。

磨かれた古鏡は、分断されることで認識されるようになった世界と、まだ一つにつながっている世界とは別々のものではなく、

「わたし」と「そうでないモノ」は別々のものではなく、

鏡に凸凹や曇がないので、目に映るモノが「ありのまま」鏡に反映されている。

 

 

 参学しるべし、智を説著(せつじや)するは、いまだ仏道の究竟説(くきようせつ)にあらざるなり。すでに諸仏大円鑑、たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いはゆるこの大円鑑、此の生に接すべからず。他生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髄鏡にあらず。円鑑の言偈(ごんげ)なるか、童子の説偈(せつげ)なるか。童子この四句の偈をとくことも、かつて人に学習せるにあらず。かつて或従経巻(わくじゆうきようかん)にあらず、かつて或従知識(わくじゆうちしき)にあらず。円鏡をささげて、かくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かがみにむかふを常儀(じようぎ)とせるのみなり。生知の辨恵(べんえ)あるがごとし。大円鑑の童子と同生せるか、童子の大円鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。大円鑑は、すなはち諸仏の功徳なり。

 

智について解説するのは、表層にこだわっていることになるので、「一つにつながる世界」への道をを閉ざすことになる。

諸仏の鏡と呼ばれるココロと魂は、玉でも銅でも肉体でも意識でもない。ここでもなく、あそこでもない。

〈私=われわれ〉が〈童子〉の〈説著=道得〉と見る〈四句の偈〉は、〈童子の説偈〉でもなく、〈或従経巻(くじゆうきようかん)〉でもなく、〈或従知識(わくじゆうちしき)〉でもない。それは〈釈尊=諸仏〉の〈求道=悟道〉、すなわち〈森羅万象〉が〈一つであること〉を説き、〈一つであること〉が〈森羅万象〉を説くという〈肯定即否定・能動即受動〉の〈法理〉にほかならない。

「わたし」にとって、師の幼稚の時とは、〈いま、ここに〉脈動する〈始源の時〉以外にない。

〈鏡に向かう常儀〉とは〈妙法の曼荼羅〉との〈境智冥合〉、すなわち〈妙法の相貌〉を〈有りのまま〉に〈見つめる〉ことなのだ。それを〈生知の辨恵〉と言う。

 このかがみ、内外(ないげ)にくもりなし、といふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。心(しん)と眼(げん)とあひにたり。相似といふは、人の人とあふなり。たとひ内の形象も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは両人の相見(しようけん)なり、両人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。 心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば、心眼各相似といはんがごとし。いかならんか、これ心の心に相似せる。いはゆる三祖六祖なり。いかならんか、これ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙《道眼、眼の礙を被る》なり。いま師の道得する宗旨(そうし)かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲(ぶごん)する本由なり。その宗旨を挙拈(こねん)して、大円鑑の仏面祖面を参学すべし、古鏡の眷属なり。

 

出遊:戸外へ出歩くこと。

僧迦難提尊者:僧迦難提は梵語Sanghanandiの音写:

A monk to whom is attributed the Vutti of Kaccāyanas grammar

vuttif[Skvtti] 行為,生活,慣習.

Kaccāyana m[SkKātyāyana] 大迦旃延(かせんねん),摩訶迦旃延[十大弟子の一]

仏の教えを広く解りやすく、義を分別して広説し、釈迦仏から讃嘆された。幾人かの王に四姓(バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、スードラ)の平等を説いて回ったといい、南方所伝の仏教でも釈迦滅後も弘教に努めたといわれる。

彼の出身などにはいくつかの説がある。

西インドのアヴァンティー国、ウッジェニー(現ウッジャイン)の婆羅門出身(クシャトリヤ説あり)で、チャンダパッジョータ王の帝師の子で、王の命により釈迦仏を招くために、7名の王臣と共に仏所に赴き出家した。

南インドの婆羅門出身で、かつて釈迦誕生時に相せし阿私陀仙(アシタ仙人、釈迦が将来、仏となると予言した)の弟子で、師の娘を娶り、また師の遺命により仏弟子となった。

UdānaV.6によると、アヴァンティ国のクララガァーラ・パパータ山に住み、ソーナ・コーリヴィーサ(億耳)を出家せしめたという。

第十七祖。伽耶舎多尊者の師匠に当る。

有何所表:これは「どのようなものが表現されているのか。」という質問の意味ではなく、

「どのようなものが表現されておろうか。」という反語の憲味であって、難提尊者はまさに見られたままの難提尊者であり、内に蔵されているものなどが別に何もないことをいっている。

諸仏大円鑑:諸仏諸祖が具有している大きな丸い鏡の意で、諸仏諸祖が保持している無分別智を象徴的に指している。

瑕翳(かえい):瑕はきず、玉のくもり。翳(えい)もかげ、くもり。

内外無瑕翳とは内も外も同じようにくもりがなく、内とか外とかというような区別のない状態をいう。

両人同得見:両人とは見る者と見られる者との両人のこと。ここでは伽耶舎多尊者と僧伽難提尊者の2人を指す。

同得見 とは両人が同じように祖仏に内在している特性を見ることができるという意味。

心眼皆相似:心も眼も皆相似であるの意。

心は見るという働きの感覚中枢である精神。眼は見る働きをする感党器官。

相似とは、心が心に相似であり、眼が眼に相似であるという意味で、精神もそのあるべき本然の姿を何の作為もなしに自然に露呈しており、眼もまた眼として、そのあるべき姿をそのまま露呈していることを表わす。

師の生来は大円鑑の明なり:伽耶舎多尊者の生来の資質は諸仏の智慧の光明と同じである。

同参同見なり:同じように参じ、同じように見るのである。

諸仏は大円鑑の鋳像なり。:諸仏はこの大円鑑が形をなしたものである。

十聖三賢:大乗仏教で、菩薩(ぼさつ)の修行階位のうち、聖位である十地(十聖)と、それ以前の十住・十行・十回向(三賢)のこと。未だ、仏知見に到達していない修行者を総称して述べる場合に用いる場合がある。

或従経巻:或いは経巻を学ぶことによりの意。

或従知識: 或いは高徳の僧侶の教えによっての意。

生知 :生れながらにして知ること、学ぶことなしに生れながらに真理を知ること。

弁慧:弁舌と智慧。

生知の弁慧:生れながらの弁舌や智慧。

同生:同時に生れること。

前後生:同生ではなく、大円鑑と前後して生れ出ること。

外にまつ内:外に対しての内。

内にくもれる外 :内部に対比して相対的に考えられている外。

而背:裏と表。

常儀:日頃の習慣。仕来(しきた)り。

依報・正報(えほう・しょうほう):

仏教で、過去業の報いとして存在する身を正報といい、その正報が依り所とする世界を依報という。

つまり国(依報)と人間(正報)を仏教的に見た言葉である。

極楽(依報)と阿弥陀仏(正報)のことにもいう。

正報とは、過去の業の報いとして受けた我が身と心をいい、依報とは、正報の拠り所である環境・国土をいう。

一念三千の構成要素となる三世間の五陰世間と衆生世間は正報となり、国土世間は依報となる。

依報は環境、正報は主体のこと。

両箇:見る者と見られる者。

三祖・六祖:三祖は中国禅の第三祖、鑑智僧サン禅師のこと。六祖は中国禅の第六祖、大鑑慧能禅師のこと。

いずれも仏祖の代表としてここに挙げている。両人はいずれもその呼び名の中に「鑑」という字があることも関係している。

道眼被眼礙<道眼は眼の礙を被る>:眼は外に現れた外見などを見ることしかできない。

本來の自己は眼で見ることができない。そういう外見しか見ることができない眼の働き自身にしばられ本質を見る道眼が邪魔されているという意味である。眼は眼の自己拘束によってこの世にあることを意味する。

奉覲:お眼にかかること、相見すること。

本由 :本来のいわれ。

眷属:一族、親族。

 

内とはなにか?外とはなにか?

 

  〈内外(ないげ)にくもりなし〉とは、〈諸法実相=色心不二〉を表す。

〈外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。心(しん)と眼(げん)とあひにたり〉と展開している。

 

 

〈私=われわれ〉が地球上で発見してきた〈生命進化〉の痕跡を、〈事本物迹〉の視点でとらえ直すとき、〈六根〉と〈六境〉と〈六識〉が〈葛藤=調和〉を繰り返し、〈内外相似=依正不二〉となる〈機能〉や〈形態〉を〈創出・形成〉してきたことが見えてくる。

イカやタコ、昆虫、植物に見られる擬態はそれを裏づけている。

  生物の機能や形態は遺伝子によって決まる。どのように決まるのかは、言語によって、ある程度〈解明〉されてきた。しかし遺伝子が〈なぜ〉出現したのかを〈把握〉することはできない。

〈眼晴=妙法〉の〈霹靂=眼頭尖〉なのである。それを道元は〈眼頭尖〉とも〈龍吟〉とも説いている。

〈宇宙生命=森羅万象〉を〈大円鑑の仏面祖面〉と言う。

〈自他不二〉なる〈己心〉に〈釈尊=諸仏〉が〈覚醒〉する。そのとき、〈己心〉は〈古鏡の眷属〉となる。

 

 

 第三十三祖大鑑(だいかん)禅師、かつて黄梅山の法席に功夫(くふう)せしとき、壁書(へきしよ)して祖師に呈する偈にいはく、菩提本無樹(ぼだいほんむじゆ)《菩提もと樹無し》、明鏡亦非台(めいきようやくひたい)《明鏡また台に非ず》。本来無一物《本来、無一物》、何処有塵埃(かしようじんあい)《何(いず)れの処にか塵埃有らん》。しかあれば、この道取を学取すべし。大鑑高祖、よの人これを古仏といふ。円悟(えんご)禅師いはく、稽首曹谿真古仏(けいしゆそうけいしんこぶつ)。しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本来無一物、何処有塵埃なり。明鏡非台、これ命脈あり、功夫すべし。明々はみな明鏡なり。かるがゆゑに、明頭来明頭打(めいとうらいめいとうだ)といふ。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんや、かがみにあらざる一塵の、尽十方界にのこれらんや。かがみにあらざる一塵の、かがみにのこらんや。しるべし、尽界は塵刹(じんせつ)にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。

 

第三十三祖: 釈尊の後継者である摩詞迦葉尊者から数えて第三十三番目の教団の指導者。

大鑑禅師 :六祖慧能禅師。

黄梅山:  中国禅の第五祖、大満弘忍禅師が住んだ山の名。 

法席:  仏法を説く場所、教団、寺院。

功夫: 努力。

高祖: 宗義教説を創唱した高僧、ただしここでは高徳の先輩、大先輩の意。

古仏: 仏教界の優れた先輩に対する尊称。古は古今の意味で永遠を指す。

圜悟禅師:圜悟克勤禅師。彭州崇寧県の人。

姓は駱氏、元来儒学の家柄であったが、出家後、諸方を遊歴し、ついに五祖法演禅師の教団に身を投じて修行を重ね、同師の法嗣となった。臨済系統の指導者として臨済義玄禅師から数えて十一代目に当る。宋の徽宗皇帝から仏果禅師の称号を与えられ、南宋の高宗皇帝から圜悟禅師の称号を与えられた。一一三五年死去、年七十三歳。心要四巻・語録二十 巻がある。門下から大愁宗呆・虎丘紹隆などが出た。                 圜悟克勤は雪竇重顕禅師の「頌古百則」に垂示・著語・評唱を加えた。これが碧巌録である。

稽首: 稽首は地面で頭をたたくという意味。中国におけるもっとも丁寧な礼の仕方。

命脈:  いのちのつな、いのち、転じて重要な事物をいう。

明明:明明百草頭の意、明々白々とした眼前の事物。

明頭来明頭打: 暗頭来暗頭打と対句をなしている。「臨済録」の「勘弁」に出ている普化の言葉。

打はある動作を為す意を表わす。明頭来明頭打は明頭が来れば明頭を打つと言う意味。

尽界:  宇宙。

塵刹: 塵数(かぎりない数)の世界。刹は国土。

古鏡面:   古鏡のおもて、古鏡のすがた。

 

 

 大鑑(だいかん)慧能は、《菩提もと樹無し、明鏡また台に非ず。本来、無一物、何れの処にか塵埃有らん》〉という〈偈頌〉を壁に記した。

これは兄弟子〉が先に〈壁書〉した《身は是れ菩提樹、心は明鏡台の如し、時時に勤めて払拭して、塵埃に染ましむることなかれ》〉という〈偈頌〉に対抗する形で提示されたものと伝えられている。

〈神秀〉の偈頌と〈慧能〉の偈頌と、どちらが〈勝〉どちらが〈劣〉と比較するのは無意味なのだ。

そこに示されているのは、〈因果倶時=肯定即否定〉の〈法理〉であり、〈言語表現〉としての〈説著〉は、どこまでも〈文底=奧底〉が問われつづけることを示している。

 それから〈三百年後〉に、〈円悟克勤〉が、〈慧能〉を《稽首す曹谿、真の古仏》〉と讃歎した。

〈菩提〉は〈明鏡〉であり、〈明鏡〉は〈本来、無一物〉なのだ。

〈塵埃など、どこにも無い〉というのは、何を示しているのか。

〈本来、無一物〉とは、すべてはそのものであることで、分別されるものではない、ことを意味する。

 

 南嶽大慧(なんがくだいえ)禅師の会()に、ある僧とふ、如鏡鋳象(によきようしゆぞう)、光帰何処(こうきがしよ)《鏡の象を鋳()るが如き、光、何れの処にか帰す》。師云く、大徳未出家時相貌(だいとくみしゆつけじそうみよう)、向甚麼処去(こうじんもしよこ)《大徳いまだ出家せざる時の相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る》。僧曰く、成後為甚麼不鑑照(じようごいじんもふかんしよう)《成じて後、甚麼(なに)としてか鑑照せざる。師云く、雖不鑑照(すいふかんしよう)、瞞他一点也不得(まんていつてんやふて)《鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずること、不得なり》。いまこの万像は、なに物とあきらめざるに、たづぬれば鏡を鋳成(しゆじよう)せる証明、すなはち師の道(どう)にあり。鏡は金にあらず玉にあらず、明にあらず像にあらずといへども、たちまちに鋳像なる、まことに鏡の究辨(きゆうはん)なり。
 光帰何処(こうきがしよ)は、如鏡鋳像(によきようしゆぞう)の如鏡鋳像なる道取(どうしゆ)なり。たとへば、像帰像処(ぞうきぞうしよ)《像は像の処に帰す》なり。鋳能鋳鏡(しゆのうしゆきよう)《鏡は能く鏡を鋳る》なり。大徳未出家時相貌(だいとくみしゆつけじそうみよう)、向什麼処去(こうしもしよこ)》といふは、鏡をささげて照面するなり。このとき、いづれの面々か、すなはち自己面ならん。師いはく、雖不鑑照、瞞他一点不得といふは、鑑照不得なり、瞞他不得なり。海枯不到露底《海枯れて底を露はすに到らず》を参学すべし、莫打破(もたは)、莫動著(もどうじや)《打破すること莫(なか)れ、動著すること莫れ》なり。しかありといへども、さらに参学すべし、拈像鋳鏡(ねんぞうしゆきよう)《像を拈じて鏡を鋳()る》の道理あり。当恁麼時(とういんもじ)は、百千万の鑑照にて、瞞々点々なり。

 

 

南嶽大慧禅師 :南岳懐譲禅師を指す。六祖慧能禅師の法嗣。金洲の人、姓は杜氏。

荊州玉泉寺において剃髪。嵩山の安岡師の指示で六祖に師事した。衡嶽の般若寺に住んで教化を行なった。七四四年死去、年六十八歳。大慧禅師とおくり名された。語録一巻がある。青原行思禅師とともに、六祖下の二大甘露門といわれ、門下から馬祖道一禅師を出し、この流派から臨済宗・イ仰宗が生れた。

鋳像:  金属を鎔かして鋳型に流し込み、これをさまして像を造ること。

大徳:   徳の高い僧。

万像:  万象に同じ。森羅万象の意。宇宙に遍満する個々の事物をいう。

道:  ことば。

金:  金属。

玉:  質、堅剛で色沢あり、装飾などに用いる美石の総称。

究弁: 究めわきまえること、探究し弁別すること。

海枯れて 底を露はすに到らず:枯は乾く、水が尽きるの意。ここでは海水が蒸発して少なくなることをいっている。海水が蒸発によって減少しても、完全に蒸発して海底が露出するようなことはあり得ないことを意味している。 

「像を拈じて鏡を鋳る」:  鋳像を素材として、逆に鏡を鋳造することをいう。 

瞞瞞:  瞞はくらます。だますの意で、宇宙のすべてを鏡に造り変えた場合、一切の事物が鏡として光り輝くのであるが、それは雑多な現象として見る人の限をあざむくことであるの意味。

点点: 小さいものが数多くあることの形容。ここかしこに散在すること。

瞞瞞点点なり : 万象を映して一々だまし続けている。

 

言葉の〈分別〉から離れると、〈在りのまま〉の〈生の全体性〉を体感する。

弟子たちは、師が説く〈譬喩〉をそれぞれに〈自分〉の〈譬喩〉でとらえ返すことによって、道を開くことができる。

そこに一貫しているのは、〈善悪不二=肯定即否定〉と〈因果倶時=能動即受動〉という大自然の法則である。


 
〈僧=迦葉〉が、《鏡の象を鋳()るが如き、光、何れの処にか帰す》〉と〈問処〉し、

《大徳いまだ出家せざる時の相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る》〉と〈答処〉している。

さらに〈僧〉が《成りての後、甚麼(なに)としてか鑑照せざる》〉と問い、

師が《鑑照せずと雖も、他の一点をも瞞ずること、不得なり》〉と答える。 

それは〈鏡=心〉に映る〈形象〉となる。〈光、何れの処にか帰する〉は、〈相貌、甚麼(いずれ)の処にか去る〉と呼応している。

〈成じて後〉は〈鑑照せずと雖も〉と通底し、〈甚麼(なに)としてか鑑照せざる〉は〈他の一点をも瞞ずること、不得(ふて)なり〉と通底する。

これを受けて、道元は〈鏡は非金、非玉、非明、非像にして、しかも鋳像なり〉と〈説著=道得〉しているのだ。そこに〈鏡〉の究極の文底が浮かび上がる。

  〈光帰何処(こうきがしよ)〉は《像は像の処に帰す》〉となり、

〈像帰像処〉は《鏡は能く鏡を鋳る》〉となる。

〈鏡を捧げて照面する〉とは、〈妙法の曼荼羅〉の〈相貌(そうみよう)〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことである。そのとき〈鑑照不得〉は〈鑑照是〉をはらみ、〈瞞他不得〉は〈瞞他是〉をはらむことが見えてくる。道元は《海枯れて底を露はすに到らず》を参学すべし〉と説く。
 

ここで道元は、〈海枯・不到・露底〉とは何か問いかける。

〈枯〉は〈不枯〉をはらみ、〈不到〉は〈到〉をはらみ、〈露底〉は〈覆底〉をはらむ。

〈鑑照〉は〈瞞他〉と呼応し、〈莫打破(もたは)〉は〈打破〉と呼応し、〈莫動著(もどうじや)〉は〈道著〉と呼応する。

〈説似一物即不中〉の法理を、深く参学すべきなのだ。

《像を拈じて鏡を鋳()る》〉とは何か。

〈当恁麼時(とういんもじ)=始源の時〉に、〈霹靂=現成〉する〈百千万=森羅万象〉は、〈鑑照=実存〉を〈秘蔵〉すると同時に、〈瞞々点々〉と開いているのだ。

〈国家=国民〉も〈種族=宗派=民族〉も、〈瞞々点々〉と〈葛藤=雑乱〉する〈言葉=事象〉に翻弄され、〈欲望〉の坩堝と化した〈蠅取り瓶〉からの〈出門=入門〉を見失っている。

 

 雪峰真覚(せつぽうしんかく)大師、あるとき衆にしめすにいはく、要会此事(ようういしじ)、我這裡如一面古鏡相似(がしやりによいちめんこきようそうじ)。胡来胡現(こらいこげん)、漢来漢現(かんらいかんげん)《此の事を会(うい)せんと要せば、我が這裡(しやり)、一面の古鏡の如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す》。時に玄沙(げんしや)出でて問ふ、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》。師云く、胡漢倶隠(こかんくいん)《胡漢倶(とも)に隠る》。玄沙云く、某甲即不然(むこうそくふねん)《某甲(それがし)は即ち然(しか)らず》。峰云く、你作麼生(にいそもさん)。玄沙云く、請和尚問《請(しん)すらくは和尚問ふべし》。峰云く、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》。玄沙云く、百雑砕(ひやくざつすい)
 しばらく雪峰道の此事といふは、是什麼事(ししもじ)と参学すべし。しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。如一面古鏡の道は、一面とは、辺際ながく断じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤(いつしゆそうばん)の自己なり。いま胡来胡現は、一隻(いつしやく)の赤鬚(せきしゆ)なり。漢来漢現は、この漢は、混沌よりこのかた、盤古より(ばんこ)のち、三才・五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり。いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。いま雪峰道の胡漢倶隠(こかんくいん)、さらにいふべし、鏡也自隠(きようやじいん)《鏡もまた自ら隠る》なるべし。
 玄沙道の百雑砕は、道也須是恁麼道(どうやしゆぜいんもどう)《道()ふことは須(すべから)く是れ恁麼道(いんもどう)なるべし》なりとも、此来責你(しらいしやくにい)、還吾砕片来(げんごさいへんらい)。如何還我明鏡来(しゆおげんがめいきようらい)《此来你に責む、吾に砕片を還し来れと。如何(いかん)が我に明鏡を還し来る》なり。

 

雪峰真覚大師: 雪峰義存禅師。徳山宣鑑禅師の後継者。

泉州南安の人、姓は曽氏。「三たび投子に到り九たび洞山に上る」といわれる程、

参禅修行に精進した。

徳山宣鑑禅師を師匠として参禅し法嗣となり、雪峰山に住んで多くの僧侶を教化した。

弟子に雲門文偃・玄沙師備・長慶慧稜・保福従展・鏡清道フ等の人材が出た。

イ宗皇帝から真覚大師の号と紫衣とが贈られた。九〇八年死去、年八十七歳。語録二巻がある。

法系: 六祖慧能→青原行思→石頭希遷→天皇道悟 →龍潭崇信→徳山宣鑑→雪峰義存

会 :  理解する。

這裏(しゃり):  これ、自己本来の面目(真の自己)。

玄沙:  玄沙師備禅師。霊峰義存禅師の後継者。

福州試県の人、姓は謝氏。雪峰義存禅師の法嗣となった後、その教化を助けた。

応機敏捷で有名。後、普応院に住み、さらに玄沙山に移った。

九〇八年、年七十四歳で死去。宗一大師という。語録三巻がある。

作麼生: どうか、どうするかの意味。

百雑砕:  百は数の多いことを表わす。

雑はこまかいの意。砕はくだける。

百雑砕とは、一切の事物がこなごなにくだけおちること。

辺際: かぎり、はて、際涯。ながく 永遠に。

一珠走盤:  一珠は一粒の珠玉。珠は貝類の体内に産する円形の玉、真珠。

盤はてあらいの水を受ける鉢。

一珠走盤とは一粒の真珠が平らな鉢の中をころげ廻ることをいい、

われわれの行為において体験する変転自在な世界の象徴。

一隻(せき): 隻はひろく生物器具の類を数える際に使うことば。

一隻は一つ、一人の意。 

赤鬚: 赤いひげ。

西域地方に住む異邦人(胡人)は赤いひげが特徴であったため、

胡人のことを赤鬚という。

混沌: 天地開闢のはじめ、陰陽がまだ分れない以前の状態。

盤古: 天地開闢のはじめに出て、この世に君臨した天子の名。

三五暦記等に見える。

三才:  天・地・人をいう。才ははたらきの窓。

五才:   木・火・土・金・水をいう。

古鏡の功徳:  古鏡のはたらきと作用。

道也須是恁麼道: 言葉で表現しようとすればこのような言葉になるかも知れないがの意。

須はすべからく・・・すべしと読む。決定の助辞。 

比来: このごろ、ちかごろ、近来。比はさきだつの意味。

黄帝:  黄帝(こうてい、紀元前2510年〜紀元前2448年)は中国の神話伝説上の皇帝。

三皇の治世を継ぎ、中国を統治した五帝の最初の帝であるとされる。

中国古代の諸王朝や諸侯などの諸姓はすべて黄帝より出たものとされ、

最高の帝王として尊ばれた。

そのためさまざまな伝説がつけ加わり,多くの黄帝説話が形成されている。

少典氏の子、姓は公孫。名は軒轅という。

十二面の鏡: 事物原記巻八にいう、

「黄帝内伝曰、帝既与二王母会於王屋、乃鋳大鏡十二面、随月用之」と。

十二面とは十二枚の意。

家訓:  祖先が子孫に残した一家の教誡。

天授:  天からさずかったもの。

広成子: 中国の伝説、伝奇(神仙伝)に出てくる仙人。

空トウ山の石の部屋で暮らしていた。

彼が千二百歳の時に黄帝が至上の道について尋ねてきた。

広成子は「お前が天下を治めるようになってから鳥類は

その季節にもならないのに飛び立ち、草木は黄葉する前に散るようになった」と言って断った。

黄帝が三ヶ月間閉居した後に再び教えを請うと、広成子はこれに答えたという。

所使: 駆馳するところ。

漢現の十二時中: 中国人が現実に活躍している二十四時間のうちの意。

〈諸仏=雪峰真覚〉は、《此の事を会(うい)せんと要せば、我が這裡(しやり)、一面の古鏡の如く相似なり。胡来胡現し、漢来漢現す》〉と〈説著〉している。

〈此の事を会せんと要せば〉とは、〈言葉=事象〉の〈文底=奧底〉を〈把握〉する〈方法的原理〉を示している。
 〈此の事〉は、〈甚麼(じんも)=如是(によぜ)〉を意味する。

その〈正法眼蔵=三重秘伝〉を〈信受〉し、その〈文底=奧底〉を幾重にも〈参学〉するとき、《我が這裡、一面の古鏡の如く相似》〉なる〈境界〉が〈覚醒〉するのである。

〈胡来胡現、漢来漢現〉というのは、諸法実相=色心不二ということ。

 これに応じて〈諸仏=玄沙師備〉は、《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》〉と〈問処=道得〉している。

 二人の〈問答〉は〈雪峰=諸仏〉の《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何(いかん)》〉という〈問処=道得〉と、〈玄沙=諸仏〉の〈百雑砕〉という〈答処=道得〉に結実している。

〈百雑砕=無限拡散〉は〈非百雑砕=一点収斂〉をはらみ、〈一点収斂=非百雑砕〉は〈無限拡散=百雑砕〉をはらんでいる。

〈因果倶時=能動即受動・善悪不二=肯定即否定〉の〈法理〉は、どこまでも貫徹する。

〈古鏡〉とは、〈辺際〉も〈内外〉も無い〈宇宙・生命〉そのものなのである。

〈一珠走盤(いつしゆそうばん)の自己〉という〈譬喩〉は、〈自己〉が〈自他不二〉なる〈存在〉であり、〈能動即受動=因果倶時〉の〈法理〉そのものであることを示している。

 

 

一粒の真珠が平らな鉢の中をころげ廻るように、「わたし」はTPOによって変転自在なものだ。

「わたし」はもう決まった固定されたものではなく、わたしはあなたの立場になり、あなたはわたしの立場になり、もう自分から始めたのか相手から始めたのさえ話す必要がなくなってしまう。

〈胡漢〉も〈鏡〉も〈法理〉そのものであることを、《胡漢倶(とも)に隠る》〉、《鏡もまた自ら隠る》〉と〈道得〉しているのである。

「わたし」という主体がいなくなると、もうあれこれと分別される対象はなくなってしまうのだ。

 

 

黄帝のとき、十二面の鏡あり。家訓にいはく、天授なり。また広成子(こうせいし)の崆峒山(くうとうざん)にして与授(よじゆ)せりけりともいふ。その十二面のもちゐる儀は、十二時に時々に一面をもちゐる、また十二月に毎月毎面にもちゐる、十二年に年々面々にもちゐる。いはく、鏡は広成子の経典なり。黄帝に伝授するに、十二時等は鏡なり。これより照古照今するなり。十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。十二時もち鏡にあらずば、いかでか照今あらん。いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、古今は十二時の所使なり。この道理を指示するなり。これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

 

 

 

 生物には〈時間感覚〉がある。〈時間感覚〉は時間をヒトは普段では〈分断=分節〉して〈思考〉し、そこから離れると、過去と未来は〈一体不二〉となり、「いま・ここ」としてとらえられる。

単細胞生物の〈時間感覚〉があり、          バクテリア    溶解 渦巻き 螺旋

植物の〈時間感覚〉があり、             ゾウリムシ    周期の波動

動物の時間感覚があり                犬、     いま・ここ

ヒトの時間感覚がある。               思考        過去・現在・未来

分断することで成り立つ世界は、果てしなく先と果てしない細かさ、果てしない時間と果てしない瞬間に向かって、分節する。するとその文節の間が増大する。

はいかに〈詳細〉になろうと、その「間」が増えるだけなので、〈まだ一つにつながっている世界〉が〈秘蔵〉され続ける。

一つの〈言葉=事象〉があれば、分別される世界は開き、同時に一つにつながっている世界も開く。

この両方が〈私たち〉の〈生きている世界〉である。

〈黄帝の時〉は〈過去〉を意味する。〈十二面の鏡〉には、分別された表層と、つながっている深層がある。

〈十二面の鏡=鏡の十二面〉とは何か。

それは〈三才=天・地・人〉を〈四面〉ずつ映し出す〈鏡〉である。

〈四面〉は、〈表層〉から〈深層〉への〈入口〉となる。

〈与える者〉は〈与えられるもの〉であり、〈与えられるもの〉は〈与える者〉にほかならない。

〈十二時〉は〈能使〉であり、〈古今〉は〈所使〉である。

〈十二時中の漢現〉は〈漢現の十二時中〉となり、〈いま、ここに〉開く〈森羅万象〉の〈色心不二=諸法実相〉を示している。

〈凡夫〉の〈言語表現〉は〈俗世界〉を開き、〈仏〉の〈言語表現〉は〈仏世界〉を開く。

今、〈国家=国民〉、〈人類=民族=宗派〉を飛び交う〈言語表現〉は、どのような〈波紋=伝播〉を巻き起こしているのか。

 

 

  軒轅(けんえん)黄帝膝行進崆峒(しつこうしんくうとう)、問道乎広成子(もんどうここうせいし)《軒轅(けんえん)黄帝、膝行して崆峒(くうとう)に進んで、道(どう)を広成子に問ふ》。時に広成子曰く、鏡是陰陽本(きようぜいんようほん)、治身長久(じしんちようきゆう)。自有三鏡(じうさんきよう)、云天(うんてん)、云地(うんじ)、云人(うんにん)。此鏡無視無聴(しきようむしむちよう)。抱神以静(ほうじんいじよう)、形将自正(ぎようしようじしよう)。必静必清(ひつじようひつせい)、無労汝形(むろうによぎよう)、無揺汝精(むようによせい)、乃可以長生(ないけいちようしよう)《鏡は是れ陰陽の本、身を治むること長久なり。自から三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり。抱神にして、以て静かに、形将(まさ)に自ら正し。必静なり、必清なり。汝が形を労すること無く、汝が精を揺(ゆるが)すこと無し。乃(すなわ)ち以て長生すべし》。
 むかしはこの三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。この大道にあきらかなるを、天地の主とするなり。俗のいはく、太宗は人をかがみとせり。安危理乱(あんきりらん)、これによりて照悉(しようしつ)するといふ。三鏡のひとつをもちゐるなり。人をかがみとするとききては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用捨をしりぬべし、たどへば、魏徴(ぎちよう)をえしがごとく、房玄齢(ぼうげんれい)をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく会取(ういしゆ)するは、太宗の人を鏡とする、と道取する道理にはあらざるなり。人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。人物の去来(こらい)をみるに、来無迹(らいむしやく)《来たるに迹無く》、去無方(こむほう)《去るに方無き》を人鏡の道理といふ。賢不肖(けんふしよう)の万般なる、天象に相似なり。まことに経緯なるべし。人面鏡面、日面月面なり。五嶽の精および師涜(しとく)の精、世をへて四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて経緯をはかるを、太宗の道といふなり、博覧人をいふにはあらざるなり。

 

軒轅(けんえん): 黄帝の名。

黄帝は河田省新郎県の軒轅(けんえん)の丘に生れた。

そこで軒轅氏という。軒轅黄帝以下の文は、荘子巻四、在宥第11の取意文。

膝行:  膝を地にすりつけながら行くこと。貴人の前での礼儀。

クウトウ: クウトウ山。『神仙伝』巻一の『広成子』によると、

広成子は古代中国の仙人で、クウトウ山の石の部屋で暮らしていた。

クウトウ山は黄帝が広成子に至道を問うた所という。

クウトウ山は、伝説空想上の山で、その所在について諸説がある。

陰陽: 陰と陽。天地間にあって万物を生ずる二気。

また、日月・乾坤・寒暖・男女等のように互いに対立する性質のものをいう。

形: かたち、すがた、外形、肉体。

精:  たましい、こころ、精神。

大道:  道はことわり、秩序。大道は宇宙に遍満する偉大な秩序。

治す:  おさめる、ただす、ととのえる。

太宗: 唐朝の第2代皇帝太宗(在位、626〜649)。

高祖李淵の次男で、李淵と共に唐朝の創建者とされる。

隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。

貞観政要に「唐太宗・・・以人為鏡・・・」とある。

理乱:理はおさまる。乱はみだれる。 

照悉: ことごとくを照らすの意。

博覧: 見聞がひろいこと。

聖賢: 聖人と賢人。また、知識・人格にすぐれた人物。

用舎: 用はもちいる。舎はすてる、捨に同じ。

魏徴: 魏 徴(ぎ ちょう、580 643)は、唐の政治家。

字は玄成。唐、曲城の人。字は玄成。唐の高祖、太宗に仕え、名臣の誉れが高かった。

房玄齢: 房玄齢(ぼう げんれい 578 - 648年)は中国唐代の政治家・歴史家。

太宗の権力奪取を助け、貞観の治の立役者で唐代最高の政治家の一人とされる。

五常: 五常(ごじょう)は、儒教で説く5つの徳目。

仁・義・礼・智・信を指す。人が常に行なうべき五種の正しい行ない。

人鏡の道理: 人を鏡とする場合の基本的な裡論。

天象: 天体の現象。日月星辰。

経緯:たて糸と横糸。物事の骨子となるもの、天地の基準。

五嶽:  中国において、国の鎮めとして尊んだ五つの名山。

天子がこれを祭り、ここに巡幸した。

泰山(東岳)華山(西岳)・霍山(南岳)・恒山(北岳)・嵩山(中岳)の五山をいう。

精: 精気、精髄。

四トク: 中国の四大河。

長江、黄河、桐柏山から出る淮水(わいすい)・済水の四大河をいう。

四トクの精: 中国の四大河の精。

四海:   四方の海。 

慣習:  ならわし、ならい、習慣。

 

《軒轅(けんえん)黄帝、膝行して崆峒(くうとう)に進んで、道(どう)を広成子に問ふ》

〈黄帝=権力〉が〈広成子=学者〉に最高の敬意を表したことを物語っている。


〈権力=黄帝〉の〈問い〉に対して、〈学者=広成子〉は次のように〈答処〉している。

《鏡は是れ陰陽の本、身を治むること長久なり。自から三鏡有り、云く天、云く地、云く人。此の鏡、無視なり、無聴なり。抱神にして、以て静かに、形将(まさ)に自ら正し。必静なり、必清なり。汝が形を労すること無く、汝が精を揺(うご)すこと無し。乃(すなわ)ち以て長生すべし》〉。


ここでは、〈天・地・人=三才〉が〈鏡〉に譬えられている。〈無視なり、無聴なり〉というのは、〈見る者=聴く者〉が〈見られるもの=聴かれるもの〉となり、〈見られるもの=聴かれるもの〉が〈聴く者=見る者〉となる〈能動即受動〉の法理である。

〈黄帝=権力〉は、〈三才=天・地・人〉を、〈安危理乱〉への対応、すなわち国家を治め、人道を正す〈三鏡〉として用いた。

この〈道理〉に明らかな人物を、〈天地の主〉としたのである。

〈三鏡〉の一つとされる〈人=鏡〉を用いれば、すべてを〈照悉=把握〉できるのか?
 
どのように〈人〉を〈鏡〉とするのか?

多くの人は、〈学識者〉に〈古今〉のことを学べば〈聖賢=人材〉を〈選別〉できると思っている。

そのような〈思い込み〉は〈表層〉の〈理論〉に留まり、さらなる〈奧底〉への参学が問われることになる。

道元は〈人を鏡とすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり〉と説いている。

〈五行〉は〈万物の本〉とされる〈火・水・木・金・土〉の五要素を指し、

〈五常〉は儒教が徳目とする〈仁・義・礼・智・信〉を指す。
〈私=われわれ〉という〈存在〉は本来、《来たるに迹無き》、《去るに方無し》なのだ。

 

〈他者〉を〈賢=有能〉と〈不肖=無能〉に〈分別〉するのも、

〈われわれ〉の恣意的な〈価値判断〉に過ぎず、〈善悪不二〉なる〈天象=森羅万象〉を〈善悪〉に〈分別〉するのに等しい。

〈賢=有能〉を選択して〈育てた=育った〉という〈自己主張〉は、何か大事なことを見落としている。

〈簡び捨てる=簡び捨てられる〉ことによって、〈育てる=育てられる〉ということはないのか。

  〈他者〉を出し抜いて、最も効率的に利益を上げることを〈生き甲斐=価値観〉とする者は、同じ〈価値観=生き甲斐〉を抱く者の〈眷属〉となる。

 

 日本国自神代有三鏡(にほんこくじじんだいうさんきよう)、璽之与剣(じしよけん)、而共伝来至今(にぐでんらいしこん)。一枚在伊勢大神宮(いちまいざいいせだいじんぐう)、一枚在紀伊国日前社、一枚在内裡内侍所《日本国、神代より三鏡有り、璽と剣と、而も共に伝来して今に至る。一枚は伊勢の大神宮に在り、一枚は紀伊の国日前の社に在り、一枚は内裡(だいり)の内侍所に在り》。
 しかあればすなはち、国家みな鏡を伝持すること、あきらかなり。鏡をえたるは国をえたるなり。人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく伝来せり、天神より伝来せると相伝す。しかあれば、百練の銅も陰陽の化成(けじよう)なり。今来今現、古来古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。
 雪峰の宗旨(そうし)は、新羅来新羅現、日本来日本現ともいふべし。天来天現、人来人現ともいふべし。現来をかくのごとく参学すといふとも、この現、いまわれら本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり。かならずしも来現をそれ知なり、それ会(うい)なりと学すべきにあらざるなり。いまいふ宗旨は、胡来は胡現なりといふか。胡来は一条の胡来にて、胡現は一条の胡現なるべし。現のための来にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この参学あるべきなり。

 

璽: 天子の印。泰以来、玉を用いて作り、天子のみに用いる。しかしここでは三枝の神器の中の八坂瓊(やさかに)曲玉を指す。

剣:  ここでは三種の神器の中の草薙剣を指す。

日前社(ひのくましゃ): 和歌山市秋月に日前神宮として現存している。

内侍所:  温明殿の別名。三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)を祭ってある所、賢 所。

内裏: 大内裏の中の皇居、天皇の常に住む御殿。

百練: 何回となく練り鍛えること、百錬。

陰陽: 陰と陽と。天地間にあって、万物を生ずる二気。

照臨:  高い所から四方を照らすこと。

一条: 一筋。始めから終りまで同質であることの形容。

 

日本国が伝える〈三鏡=三種の神器〉は、何を象徴しているのか。〈三種の神器=三鏡〉とは〈八咫鏡(やたのかがみ)〉、〈天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)〉、〈八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)〉の三つである。

〈今来今現〉は〈諸法実相・色心不二〉と〈通底〉し、〈古来古現〉は〈久遠実成・久遠即末法〉と〈通底〉している。

〈百錬の銅〉とは、〈われわれ〉の〈生命・人生〉である。それは〈陰陽の化成(けじよう)〉であり、〈今来今現・古来古現〉にほかならない。この場合、〈現〉は〈色法=諸法〉、〈来〉は〈心法=実相〉を意味する。 

道元は、〈雪峰〉の〈説著〉を、〈新羅来新羅現、日本来日本現、天来天現、人来人現〉と展開してみせる。そして〈現来をかくのごとく参学すといふとも、この現、いまわれら本末をしれるにあらず、ただ現を相見するのみなり〉と〈説著〉しているのだ。この〈道得=説著〉は、〈言語表現〉の限界と、さらなる〈文底〉への〈参学〉を問いかけている。

 玄沙出(いで)てとふ、たちまちに明鏡来にあはんに、いかん。この道取、たづねあきらむべし。いまいふ明の道得は、幾許(きこ)なるべきぞ。いはくの道は、その来はかならずしも胡漢にはあらざるを、これは明鏡なり、さらに胡漢と現成すべからず、と道取するなり。明鏡来はたとひ明鏡来なりとも、二枚になるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。古鏡あり明鏡ある証験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。これをば仏道の性相とすべし。これ玄沙の明鏡来の道話の七通八達なるとしるべし。八面玲瓏なることしるべし。逢人(ふにん)には即出なるべし、出即には接渠(せつこ)なるべし。しかあれば、明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。古鏡といふ言によりて、明なるべしと学することなかれ。宗旨は、吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく錬磨すべし。祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか、いかん。まさにひろく諸仏諸祖の道にわたる参学あるべし。

 

幾許(きこ): どれほど。

二枚なるべからざるなり: 古鏡と明鏡の二枚であってはならない。

証験: あかし、しるし。

性相:  性は本性、本質。相は形相、外見、姿。性相は本質ならびに外見の意。

仏道の性相とすべし: 古鏡と明鏡は古鏡が性(本体、本性)で、明鏡(分別智=理知や知性)は相(形相)の関係であるが一如(脳として一体)である。

七通八達: 縦横無尽に通達していること。

八面玲朧: いずれの方面も透きとおって明らかなこと。

心中になんらのわだかまりもないこと。

逢人: 人に逢うこと。

即出:  即座に出現するという意味。

出即: 出現した場合ただちにという意味。

接渠: 渠は彼に同じ。接渠は彼に接すること、相手に出合った時には教化していること。

 

〈玄沙〉は、〈たちまちに明鏡来にあはんに、いかん〉と〈問処〉している。

〈明鏡来〉とは、〈在りのまま〉の〈実存〉を意味する。

〈逢はんに、如何〉という〈説著〉は、〈只管打坐=瞑想〉を示している。

〈明鏡来〉と〈古鏡来〉は〈二枚〉なのか、〈非二枚〉なのか。

〈明鏡来〉を〈色法=物本事迹〉ととれば、〈古鏡来〉は〈心法=事本物迹〉となる。〈釈尊=仏道〉の〈極理〉は、〈色心不二〉なのである。これを〈吾亦如是、汝亦如是、西天諸祖亦如是の道理〉と言う。 
〈吾亦如是・汝亦如是・西天諸祖亦汝是〉は、森羅万象の〈色心〉が〈妙法〉の当体であることを示している。己心の〈古鏡〉を磨く方法とは、〈古仏の道〉すなわち〈我本行菩薩道〉にほかならない。

寿量文底の〈妙法〉を信じ〈行持〉することを、〈磨鏡〉という。

そこからさらに、〈古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか〉という〈文底=奧底〉の〈意義〉が問われることになる。

〈磨鏡〉は〈不変真如の理〉に帰する一面、〈明鏡〉は〈随縁真如に智〉に命(もと)づく一面である。

〈随縁不変・一念寂照〉と開かれた〈生命〉を〈仏〉と言う。

〈古鏡〉は〈久遠即末法〉、〈明鏡〉は〈色心不二〉を象徴している。

 

 

 雪峰道の胡漢倶隠(こかんくいん)は、胡も漢も、明鏡時は倶隠(くいん)なりとなり。この倶隠の道理、いかにいふぞ。胡漢すでに来現すること、古鏡を相罣礙(あいけいげ)せざるに、なにとしてか、いま倶隠なる。古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢を罣礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裡に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず。この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり。

 

おろそか:注意の足りないさま。なおざり、粗略。

 

雪峰は〈明鏡時〉には〈胡漢倶(とも)に隠れる〉と言う。

道元は〈胡漢すでに来現すること、古鏡を相罣礙(あいけいげ)せざるに、なにとしてか、いま倶隠なる〉と〈私=われわれ〉に問いかける。

この〈問い〉に、道元は〈古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり〉と〈答処〉している。

〈明鏡来〉とは、〈只管打坐=瞑想〉を〈行持〉することである。そのとき〈自他不二〉なる〈己心〉は〈古鏡〉となる。

その〈古鏡〉に映るのは〈妙法の曼荼羅〉すべてが一つにつながっている世界である。そのとき〈己心〉の〈胡漢=森羅万象〉は〈倶に隠れる〉のだ。日常生活は〈胡漢倶現〉、〈只管打坐=瞑想〉は〈胡漢倶隠〉となる。

そこからさらに道元は、〈胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、来におろそかなり。錯乱といふにおよばざるものなり〉と説いている。

〈胡漢倶隠ならん時節〉とは、〈いま、ここ〉に〈妙法の曼荼羅〉と対坐する〈時節〉である。そのとき、〈明鏡〉も〈古鏡〉も〈倶に隠れ〉て、すべてが〈妙法の曼荼羅〉となる。

雪峰の〈胡漢倶隠〉という〈道得〉は、この〈古鏡〉と〈明鏡〉の〈奧底〉に通じる〈入門=出門〉にほかならない。

道元は〈古鏡の胡来胡現、漢来漢現は、古鏡上に来現すといはず、古鏡裡に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず〉と説いている。

 

分断されることで認識される世界は、

魂と回路によってカタチになるとは言わず、

魂そのものがカタチになるとは言わず、

魂と回路の外部がカタチになるとは言わず、

魂と回路そのものがカタチになるとは言わず、と説いている。

 

 

 

 

ときに玄沙いはく、某甲(それがし)はすなはちしかあらず。雪峰いわく、なんぢ作麼生(そもさん)。玄沙いはく、請和尚問《請(しん)すらくは和尚問ふべし》。いま玄沙のいふ請和尚問のことば、いたづらに蹉過(さか)すべからず。いはゆる和尚問の来なる、和尚の請なる、父子の投機にあらずは、為甚如此《甚(なに)と為()てか此の如くなる》なり。すでに請和尚問ならん時節は、恁麼人(いんもにん)さだめて問処を若会(にやくうい)すべし。すでに問処の霹靂(びやくりやく)するには、無廻避処(むういひしよ)なり。雪峰いはく、忽遇明鏡来時如何(こつぐうめいきようらいじしゆお)。この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり。玄沙いはく、百雑砕(ひやくざつすい)。この道取は、百千万に雑砕(ざつすい)するとなり。
 
いはゆる忽遇明鏡(こつぐうみんきん)来時(らいじ)は百雑砕なり。百雑砕を参得(さんて)せんは明鏡なるべし。明鏡を道得ならしむるに、百雑砕なるべきがゆゑに。雑砕のかかれるところ、明鏡なり。さきに未雑砕なるときあり、のちにさらに不雑砕ならん時節を管見することなかれ。ただ百雑砕なり。百雑砕の対面(ついめん)は孤峻(こしゅん)の一なり。しかあるに、いまいふ百雑砕は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請一点語(きようしんいつてんご)《更に一点語を請ふ》なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。古鏡明鏡はたとひ問来得なりといへども、玄沙の道取を擬議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雑砕なりぬべきか。砕来の形段作麼生(いんとんそもさん)。万古碧潭空界月(ばんこへきたんくうかいげつ)

 

雪峰の《忽ちに明鏡来に遇はん時、如何》〉という〈問処〉と、〈玄沙〉の《百雑砕する》という〈答処〉に結実している。

そのことを道元は,〈この問処は、父子ともに参究する一条の古鏡なり〉と〈説著〉している。


〈忽遇明鏡来時〉とは、〈色心不二・久遠即末法〉なる〈時空〉である。

〈百雑砕〉とは、森羅万象の〈縁起=連関〉を感得する心を言う。〈百雑〉は森羅万象を〈分別〉する〈心〉、〈砕〉はその〈心〉の転換〉を意味する。〈未雑砕〉や〈不雑砕〉の〈時節〉があるわけではない。

〈生命の真実〉は常に〈百雑砕〉なのである。その〈生命の真実〉は〈言葉〉や〈思考〉を超えている。

〈生命の真実〉は〈自他不二〉なる〈己心〉で悟る以外にないことを〈百雑砕の対面は孤峻の一なり〉と説いている。
 
《更に一点語を請ふ》は、さらなる〈奧底〉への参学の要請である。

道元は〈百雑砕〉について、〈古鏡道取=非古鏡道取〉、〈明鏡道取=非明鏡道取〉と説いている。

〈凡夫〉は、〈百雑砕〉を〈舌端=言葉〉の〈分断=分節〉によって浮上する〈森羅万象〉の〈見掛け〉の〈形段〉と思い込む。

しかしこれは、見掛けのカタチではなく、百雑砕こそが、いのちそのものであり、全体性である。

〈砕来の形段〉とは何か。道元は〈万古碧潭空界月(ばんこへきたんくうかいげつ)〉と〈説著=道得〉している。〈万古〉は〈空諦〉、〈碧潭空界〉は〈仮諦〉、〈月〉は〈中諦〉となる。〈万古碧潭空界月〉という〈譬喩〉が示しているのは、〈三諦円融〉すなわち、〈妙法の曼荼羅=生の全体性〉にほかならない。

 

 

 雪峰真覚(せつぽうしんかく)大師と三聖院慧然(さんしよういんえねん)禅師と行次(あんし)に、ひとむれの獼猴(みこう)をみる。ちなみに雪峰いはく、この獼猴(みこう)、おのおの一面の古鏡を背せり。この語、よくよく参学すべし。獼猴(みこう)といふはさるなり。いかならんか雪峰のみる獼猴(みこう)。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。経劫(けいこう)をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりとは、古鏡たとひ諸仏祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。獼猴(みこう)おのおの面々に背せりといふは、面々に大面小面あらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとへば、絵像の仏のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。獼猴(みこう)の背を背するに、古鏡にて背するなり。使得什麼糊来(してしもこらい)《什麼なる糊(のり)をか使得し来る》。こころみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴(みこう)にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面のことば、虚設なるべからず、道得是(どうてぜ)の道得なり。しかあれば、獼猴(みこう)か、古鏡か。畢竟作麼生道(ひつきようそもさんどう)。われらすでに獼猴(みこう)か、獼猴(みこう)にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴(みこう)にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸索およばず。三聖いはく、歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん。
 これは三聖の古鏡を証明せる一面一枚なり。歴劫といふは、一心一念未萌(みぼう)以前なり、劫裡(こうり)の不出頭なり。無名といふは、歴劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名真箇に無名ならんには、歴劫いまだ歴劫にあらず、歴劫すでに歴劫にあらずは、三聖の道得、これ道得にあらざるべし。しかあれども、一念未萌以前といふは今日なり。今日を蹉過(さか)せしめず錬磨すべきなり。まことに歴劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする、竜頭蛇尾。

 

〈雪峰〉と〈三聖〉は〈行脚=旅〉の途上で、一群の〈獼猴(みこう)〉を見る。

そこで〈雪峰〉が、〈この獼猴、おのおの一面の古鏡を背せり〉と〈説著=道得〉すると、〈三聖〉が〈歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん〉と〈問処=道得〉する。

〈獼猴(みこう)〉とは猿である。〈見掛け=虚構〉に振り回される〈凡夫〉の色心を〈猿〉に譬えている。

 

〈経劫を顧みること無かれ〉とは、〈過・現・未〉という〈虚構〉を超克して,〈いま、ここに〉に開く〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことである。

〈おのおの一面の古鏡を背せる獼猴〉とは、〈われわれ〉の〈色心〉にほかならない。

《什麼(いか)なる糊(のり)をか使得し来る》〉という〈問処〉は、何を示しているのか。

〈古鏡〉とは分別の世界に通じる「すべてが一つにつながっている世界」のことである。

〈古鏡〉を〈背する〉ための〈糊〉とは、〈只管打坐=瞑想〉にほかならない。

道元は〈われらすでに獼猴(みこう)か、獼猴(みこう)にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴(みこう)にある、自知にあらず、他知にあらず。自己の自己にある、摸索およばず〉と説いている。

さらに道元は、〈三聖=諸仏〉の〈歴劫無名(りやくこうむみよう)なり、なにのゆゑにか、あらはして古鏡とせん〉という〈問処〉について、さらなる〈奧底〉への参学を問いかける。

〈歴劫無名〉とは、〈歴劫〉を〈言葉〉で〈定義〉できないことを意味する。

〈三千塵点劫〉は、その一つである。それを〈古鏡〉として〈顕す〉とは、どういうことなのか。

〈古鏡たとひ諸仏祖面なりとも〉は〈物本事迹=色法〉を意味し、〈古鏡は向上なりとも古鏡なり〉は〈事本物迹=心法〉を意味する。

〈一念未萌以前〉は〈久遠実成=久遠即末法〉を示し、〈劫裡の不出頭〉は〈色心不二=諸法実相〉を示している。

その〈極理〉はいずれも、〈いま、ここに〉脈動する〈生の全体性〉となる。

〈竜頭蛇尾〉の〈竜頭〉は〈竜頭〉でもあり〈蛇尾〉でもある。〈蛇尾〉もまた〈蛇尾〉にも〈竜頭〉にもなる。

 

 このとき、三聖にむかひて、雪峰いふべし、古鏡古鏡と。雪峰恁麼(いんも)いはず、さらに瑕生也(かさんや)といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也(かさんや)ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名とらいふを、きずとせるなるべし。古鏡の瑕生也は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆゑに、道来せる参究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なりと参学する、これ古鏡参学なり。
 三聖いはく、有什麼死急(うしもしきゆう)、話頭亦不識(わとうやくふしき)《什麼の死急か有らん、話頭も不識》。いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か他門か。尽十方界か、大唐国裡か。審細に功夫参学すべきなり。話頭也不識は、話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。たとへば、話頭も大地有情(だいちうじよう)、同時成道(どうじじようどう)しきたれるか。さらに再全の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり。対朕者不識(ついちんしやふしき)なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祇是不識(しぜふしき)《祇是(ただこ)れ不識》なり。不識は条々の赤心なり、さらにまた明々の不見なり。
 雪峰いはく、老僧の罪過なり。いはゆるは、あしくいひにけるといふにも、かくいふこともあれど、しかはこころうまじ。老僧といふことは、屋裡の主人翁なり。いはゆる余事を参学せず、ひとへに老僧を参学するなり。千変万化あれども、神頭鬼面(しんとうきめん)あれども、参学はただ老僧一著なり。仏来祖来、一念万念あれども、参学はただ老僧一著なり。罪過は住持事繁(じゆうじじはん)なり。おもへばそれ、雪峰は徳山の一角なり、三聖は臨済の神足(しんそく)なり。両位の尊宿、おなじく系譜いやしからず、青原(せいげん)の遠孫(おんそん)なり、南嶽(なんがく)の遠派(おんは)なり。古鏡を住持しきたれる、それかくのごとし。晩進の亀鑑なるべし。

 

〈何のゆえにか、古鏡として顕すのか〉いう〈三聖〉の〈問処〉に対して、〈雪峰〉は〈古鏡古鏡〉と〈答処〉することもできたはずである。しかし〈雪峰〉は〈恁麼=そのよう〉には言わず、〈瑕生也=瑕が生じている〉と〈問処=道得〉している。

〈非存在〉の〈存在〉を〈仮構〉する〈仮定法〉は、〈外道〉の〈論理=思考〉であり、〈夢遊病者〉の〈譫言〉でしかない。〈色心不二〉なる〈実存〉は一回性であり、〈仮定法〉の議論はすべて空回りとなる。

〈釈尊=仏道〉は、すべての事象を〈一期一会〉として参学するのだ。

 

〈瑕が生している〉という〈答処〉は、〈いま、ここに〉生きる〈私〉が〈古鏡〉なのか〈瑕〉なのかを問いかける。〈三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりける〉という〈言説〉は、さらなる〈奧底〉への参学を求めている。
 〈三聖〉は、《什麼の死急か有らん、話頭も不識》〉、と〈道得〉している。この〈説著〉を、道元は〈いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か他門か。尽十方界か、大唐国裡か。審細に功夫参学すべきなり〉と展開する。

〈過去=他者〉ではなく、〈いま、ここに〉生きる〈私〉にとって、〈どのような死急が有るのか〉を〈参学〉しなければならない。〈死急〉とは〈誰〉なのか。〈われわれ〉なのか〈尽大地〉なのか。
《話頭も不識なり》〉について、道元は〈話といふは、道来せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり〉と展開する。

ここに提起されているのは、〈言語表現〉の〈種・熟・脱〉という問題である。〈話頭〉は〈色法・末法〉となり、〈不識〉は〈心法=久遠〉となる。〈大地有情〉の〈大地〉は〈色法〉、〈有情〉は〈心法〉である。〈同時成道〉の〈同時〉は〈久遠〉、〈成道〉は〈末法〉となる。

道元は〈対朕者不識(ついちんしやふしき)なり、対面不相識なり。話頭はなきにあらず、祇是不識(しぜふしき)《祇是(ただこ)れ不識》なり〉と説いている。
雪峰は、〈老僧の罪過なり〉と〈答処〉する。〈老僧〉は〈屋裡の主人翁〉であり、〈主人翁の屋裡〉は〈老僧〉である。この〈老僧〉が〈生の全体性〉を示していることは明白である。

〈千変万化あれども、神頭鬼面(しんとうきめん)あれども〉は〈諸法実相=色心不二〉を表し、〈仏来祖来、一念万念あれども、参学はただ老僧一著なり〉は〈久遠実成=久遠即末法〉を表す。

〈罪過〉とは〈住持事繁=寺院の経営〉を意味する。〈私〉は、〈寺院の経営=住持事繁〉の中で、どのように〈只管打坐=瞑想〉を〈行持〉するのか。その〈奧底〉への参学は、誰も肩代わりできない。

 雪峰示衆(じしゆ)に云く、世界闊一丈(せかいかついちじよう)、古鏡闊一丈(こきようかついちじよう)。世界闊一尺、古鏡闊一尺《世界闊(ひろ)きこと一丈なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一丈なり。世界闊(ひろ)きこと一尺なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一尺なり》。時に玄沙、火炉を指して云く、且道(かつどう)、火炉闊多少(かろかつたしよう)《且(しばら)く道()ふべし、火炉闊(かろひろ)きこと多少ぞ》。雪峰云く、似古鏡闊(じこきようかつ)《古鏡の闊(ひろ)きに似たり》。玄沙云く、老和尚脚跟未点地在(ろうおしようきやくこんみてんちざい)《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》。
 一丈、これを世界といふ、世界はこれ一丈なり。一尺、これを世界とす、世界これ一尺なり。而今(しきん)の一丈をいふ、而今の一尺をいふ、さらにことなる尺丈にはあらざるなり。この因縁を参学するに、世界のひろさは、よのつねにおもはくは、無量無辺の三千大千世界および無尽法界といふも、ただ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方(ひほう)をさすがごとし。この世界を拈(ねん)じて、一丈とするなり。このゆゑに雪峰いはく、古鏡闊(かつ)一丈、世界闊(かつ)一丈。
 
この一丈を学せんには、世界闊(かつ)の一端を見取すべし。又古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。一丈の闊(かつ)は世界の闊一丈に同参なりとも、形興(ぎようこう)かならずしも、世界の無端(むたん)に斉肩(せいけん)なりや、同参(どうさん)なりやと功夫(くふう)すべし。古鏡さらに一顆珠(いつかしゆ)のごとくにあらず。明珠を見解(けんげ)することなかれ、方円を見取することなかれ。尽十方界たとひ一顆明珠(いつかめいしゆ)なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。
 
しかあれば、古鏡は胡漢(こかん)の来現にかかはれず、縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々なり。多にあらず、大にあらず。闊(かつ)はその量を挙()するなり、広(こう)をいはんとにあらず。闊(かつ)といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七箇八箇とかぞふるがごとし。仏道の算数(さんじゆ)には、大悟不悟(だいごふご)と算数するに、二両三両をあきらめ、仏々祖々と算数するに、五枚十枚を見成す。一丈は古鏡闊(こきようかつ)なり、古鏡闊は一枚なり。

〈雪峰〉が《世界闊(ひろ)きこと一丈なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一丈なり。世界闊(ひろ)きこと一尺なれば、古鏡闊(ひろ)きこと一尺なり》〉と〈説著〉すると、〈玄沙〉は火炉を指して,《且(しばら)く道()ふべし、火炉闊(かろひろ)きこと多少ぞ》〉と〈問処〉する。これに〈雪峰〉が《古鏡の闊(ひろ)きに似たり》〉と〈答処〉すると、さらに〈玄沙〉は、《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》〉と〈道得〉している。

〈自己〉の生きる世界を〈一丈〉と思えば〈一丈〉となり、〈一尺〉と思えば〈一尺〉となる。〈自己〉は世界の〈一部〉ではなく、世界の〈限界〉なのである。〈自己〉が〈世界の全体〉となり、〈世界の全体〉が〈自己〉となる。〈妙法〉を〈鏡〉として〈自己〉を磨かなければ、〈自己〉の生きる世界は〈小量〉の〈自己〉に限られる。
道元は〈無量無辺の三千大千世界および無尽法界といふも、ただ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方(ひほう)をさすがごとし〉と説いている。

〈われわれ〉の〈心=思考〉は、〈無量〉と〈非無量〉、〈無辺〉と〈非無辺〉の狭間で揺れ続ける。そこで〈雪峰〉は〈古鏡闊(かつ)一丈、世界闊(かつ)一丈〉と〈道得〉しているのだ。
 
〈一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず〉という〈説著〉は、

〈仏道=悟道〉を〈私=われわれ〉とは〈無縁〉の〈深遠〉な法門、と思い込んではならないとの戒めである。

〈日常〉の〈喜怒哀楽〉こそ、〈悟道=仏道〉の〈入門=出門〉なのである。〈一丈の闊は世界の闊一丈に同参なり〉は〈色心不二〉を表す。
 〈われわれ=私〉は、〈明珠を見解する〉とき〈唯色=唯心〉に偏り、〈方円を見取する〉とき〈唯心=唯色〉に偏る。〈尽十方界〉を〈一顆明珠〉と見るのは〈唯色=唯心〉であり、〈尽十方界〉を〈古鏡〉と見るのは〈唯心=唯色〉である。

 

第七以譬喩得解(いひゆとくげ)の事  止観の五に云く「智とは譬に因るに斯(こ)の意(こころ)徴(しるし)有り」と。御義口伝に云く、此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝うるなり。惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり。此の鏡とは一心の鏡なり。惣じて鏡に付て重々の相伝之有り。所詮鏡の能得とは万像を浮ぶるを本とせり。妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し。又云く、鏡に於て五鏡之有り。妙の鏡には法界の不思議を浮べ、法の鏡には法界の体を浮べ、蓮の鏡には法界の果を浮べ、華の鏡には法界の因を浮べ、経の鏡には万法の言語を浮べたり。又云く、妙の鏡には華厳を浮べ、法の鏡には阿含を浮べ、蓮の鏡には方等を浮べ、華の鏡には般若を浮べ、経の鏡には法華を浮ぶるなり。順逆次第して意得(こころう)べきなり。我等衆生の五体五輪、妙法蓮華経と浮び出でたる間、宝塔品を以て鏡を習うなり。信謗の浮び様能く能く之を案ずべし。自浮自影の鏡とは南無妙法連華経是なり云々。(譬喩品九箇の大事)

  〈止観=天台〉は、〈智とは譬に因るに斯の意徴有り〉と説いている。〈譬喩〉を〈譬喩〉で受け止めるとき、〈己心〉に〈釈尊=仏道〉が開くのだ。

そこに照らし出されているのは、〈森羅万象〉が〈自浮自影〉を説き、〈自浮自影〉が〈森羅万象〉を説くという〈実存〉の〈法理〉である。
 道元は〈古鏡は胡漢(こかん)の来現にかかはれず、縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々なり。多にあらず、大にあらず〉と説いている。

〈胡漢(こかん)の来現〉は〈物本事迹=従因至果〉であり、〈縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)〉は〈事本物迹=従果向因〉である。

さらに〈縦横(じゆうおう)の玲瓏(れいろう)に条々〉は〈多にあらず、大にあらず〉となり、〈大にあらず、多にあらず〉は〈縦横の玲瓏に条々〉となる。そこに浮上するのは〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という〈実存〉の法理である。

 玄沙のいふ火炉闊(かつ)多少、かくれざる道得(どうて)なり。千古万古にこれを参学すべし。いま火炉をみる、たれ人となりてかこれをみる。火炉をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。これは動執(どうしゆう)の時節話にあらず、新条特地(しんじようとくち)の現成なり。たとへば是什麼物恁麼来(ししもぶついんもらい)なり。闊多少(かつたしよう)の言きたりぬれば、向来(きようらい)の多少は多少にあらざるべし。当処解脱(とうしよげだつ)の道理、うたがはざりぬべし。火炉の諸相諸量にあらざる宗旨(そうし)は、玄沙の道をきくべし。現前の一団子(いちだんす)、いたづらに落地(らくち)せしむることなかれ、打破(たは)すべし。これ功夫(くふう)なり。
 雪峰いはく、如古鏡闊(によこきようかつ)。この道取、しづかに照顧(しようこ)すべし。火炉闊(かつ)一丈といふべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。一丈といはんは道得是(どうてぜ)にて、如古鏡闊は道不是(どうふぜ)なるにあらず。如古鏡闊(によこきようかつ)の行李(あんり)をかがみるべし。おほく人のおもはくは、火炉闊(かつ)一丈といはざるを道不是(どうふぜ)とおもへり。闊(かつ)の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照(かんしよう)すべし。如々の行李(あんり)をも蹉過(さか)せしめざるべし。道容揚古路(どうようようころ)《動容古路を揚()ぐ》、不堕悄然機(ふだしようぜんき)《悄然の機に堕()ちず》なるべし。

〈火炉〉とは何か。〈火〉を〈心法〉、〈炉〉を〈色法〉ととらえれば、〈火炉〉は〈色心不二=森羅万象〉となる。〈火炉闊多少〉という〈譬喩〉は、〈いま、ここに〉に脈動する〈時空=実存〉が、〈無量無辺〉であることを示している。その〈火炉=実存〉を見るのは誰なのか。〈見る者〉は〈見られるもの〉となり、〈見られるもの〉は〈見る者〉となる。

新条特地(しんじようとくち)の現成〉は〈是什麼物恁麼来(ししもぶついんもらい)〉であり、〈是什麼物恁麼来〉は〈新条特地の現成〉なのである。

〈いま、ここに〉開く〈始源の時〉に、〈正法眼蔵=只管打坐=瞑想〉を〈行持〉することを、〈当処解脱〉と言う。〈現前の一団子(いちだんす)、いたづらに落地(らくち)せしむる〉とは、〈見掛け=思い込み〉にとらわれて〈唯色=唯心〉に執着する〈己心〉である。それを〈打破(たは)する功夫くふう)を、道元は〈私=われわれ〉に問いかけているのだ。


 
〈玄沙〉の《火炉闊きこと多少ぞ》〉という〈問処〉に対して、〈雪峰〉は《古鏡の如く闊し》〉と〈答処〉している。〈古鏡闊一丈〉が〈道得是〉となり、〈如古鏡闊〉が〈道得不是〉となるわけではない。

〈凡夫〉は、〈火炉闊一丈〉と言わないのは〈道不是=間違い〉と思い込む。

〈評論家=有識者〉とは、〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という〈実存〉の法理を無視しなければ、〈蠅取り瓶〉の中で暮らしていけない〈存在〉なのである。

〈有識者=評論家〉の言動は、〈政治家〉の〈マニフェスト〉や〈選挙公約〉と同様に、〈歴劫修行=トートロジー〉に陥っている。

《動容古路を揚()ぐ》〉は、〈不変真如の理〉に帰する一面、《悄然の機に堕()ちず》〉は〈随縁真如の智〉に命(もと)づく一面である。

道元は〈闊(かつ)の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照(かんしよう)すべし〉と説いている。

〈闊の独立〉とは何か、〈古鏡の一片〉とは何か、〈如々の行李(あんり)をも蹉過(さか)せしめざる〉とは何か。〈われわれ〉一人ひとりに、さらなる〈文底=奧底〉への参学が問われているのである。

 

  玄沙いはく、老漢脚跟未点地在(ろうかんきやくこんみてんちざい)。いはくのこころは、老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに。脚跟(きやくこん)といふはいづれのところぞ、と問取すべきなり。脚跟(きやくこん)といふはなにをいふぞ、と参究すべし。参究すべしといふは、脚跟(きやくこん)とは正法眼蔵をいふか、虚空をいふか、尽地をいふか、命脈をいふか。幾箇あるものぞ、一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか。恁麼勤学(いんもごんがく)すべきなり。
 
未点地在は、地といふは、是什麼物(ししもぶつ)なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類、あるいは不思議解脱法門とみるあり、諸仏所行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟(きやくこん)の点ずべき地は、なにものをか地とせる。地は実有なるか、実無なるか。又おほよそ地といふものは、大道のなかに寸許(すんこ)もなかるべきか。問来答去すべし、道他道己すべし。脚跟(きやくこん)は点地也是(てんちやぜ)なる、不点地也是(ふてんちやぜ)なる。作麼生(そもさん)なればか、未点地在と道取する。大地無寸土の時節は、点地也未、未点地也未なるべし。しかあれば、老漢脚跟未点地在は、老漢の消息なり、脚跟(きやくこん)の造次(ぞうじ)なり。

  〈雪峰〉の〈如古鏡闊〉という〈答処〉に対して、〈玄沙〉は《老和尚、脚跟未(きやくこんいま)だ地に点()かざること在り》〉と〈道得〉している。

道元は〈老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに〉と展開する。〈雪峰は老漢なり〉という〈言語表現〉は〈雪峰は老漢に非ず〉という〈言語表現〉をはらんでいる。

道元はさらに〈脚跟とは何処なのか〉、〈脚跟とは何なのか〉と問いかける。

そして〈脚跟(きやくこん)とは正法眼蔵をいふか、虚空をいふか、尽地をいふか、命脈をいふか。幾箇あるものぞ、一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか。恁麼勤学(いんもごんがく)すべきなり〉と〈説著〉している。

〈未点地在〉という〈言語表現〉について、道元はその〈奧底〉の意義を、〈われわれ〉に問いかける。

〈脚跟の点ずべき地〉とは、〈不思議解脱法門〉なのか、〈諸仏所行道〉なのか、

〈実有〉なのか〈実無〉なのか、

〈脚跟の点く地〉なのか、〈脚跟の点かざる地〉なのか。

〈地〉は〈大道〉の中に〈存在〉するのか、〈非存在〉なのか。

この〈善悪不二=肯定即否定・因果倶時=能動即受動〉という法理の展開の中に、浮かび上がるのは〈正法眼蔵〉、すなわち〈生の全体性〉にほかならない。

それは〈存在〉の〈極理〉であり、それを道元は、〈老漢脚跟未点地在は、老漢の消息なり、脚跟(きやくこん)の造次(ぞうじ)なり〉と説いているのである。

 

 婺州(ぶしゆう)金華山国泰院弘瑫(こくそういんこうとう)禅師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何(こきようみまじしゆお)《古鏡未だ磨せざる時、如何(いかん)》。師云く、古鏡。僧云く、磨後如何(まごいかん)。師云く、古鏡。しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼(せん)を磨して鏡となす。塼(せん)を磨して塼(せん)となす、鏡を磨して塼(せん)となす、磨してなさざるあり、なることあれども、摩することえざるあり。おなじく仏祖の家業なり。

まず〈僧〉が《古鏡未だ磨せざる時、如何(いかん)》〉と〈問処=道得〉すると、〈弘瑫〉は〈古鏡〉と〈答処=道得〉する。

さらに〈僧〉が、〈磨後如何〉と〈問処〉すると、〈弘瑫〉から、前と同じ〈古鏡〉という〈答処〉が返ってくる。

この〈問答」を受けて、道元は〈いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり〉と展開している。この道元の〈道得=説著〉が、〈鏡とは何か〉、〈磨くとは何か〉、〈何を用いて、どのように磨くのか〉を、〈われわれ=私〉に〈問いかけて〉いることは明らかである。

 

 江西馬祖(こうぜいばそ)、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住して、よのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。雨夜(うや)の草庵、おもひやるべし、封雪の(ほうせつ)寒床におこたるといはず。南嶽、あるとき馬祖の庵にいたるに、馬祖侍立(じりゆう)す。南嶽とふ、汝近日作什麼(によきんじつそしも)《汝近日、什麼(なに)をか作(な)す》。馬祖いはく、近日道一祇管打坐(きんじつどういちしかんたざ)《近日道一、祇管打坐するのみなり》。南嶽いはく、坐禅なにごとをか図する。馬祖いはく、坐禅は作仏を図す。南嶽すなはち一片の塼(せん)をもちて、馬祖の庵のほとりに石をあてて磨す。馬祖これをみて、すなはちとふ、和尚、作什麼(そしも)《和尚、什麼(なに)をか作()す》。南嶽いはく、磨塼(ません)《塼(かわら)を磨す》。馬祖いはく、磨塼用作什麼(ませんようそしも)《塼(かわら)を磨して什麼(なに)をか作()す》。南嶽いはく、磨作鏡《磨して鏡を作す》。馬祖いはく、磨塼豈得成鏡也(ませんきてじようきようや)《塼を磨して豈(あに)鏡成ることを得んや》。南嶽いはく、坐禅豈得作仏也(ざぜんきてさぶつや)《坐禅して豈作仏することを得んや》。
 この一段の大事、むかしより数百歳のあひだ、人おほくおもふらくは、南嶽ひとへに馬祖を勧励せしむると。いまだかならずしも、しかあらず。大聖の行履(あんり)、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか為人(いにん)の方便あらん。為人(いにん)のちからは仏祖の骨髄なり。たとひ構得(こうて)すとも、なほこれ家具なり。家具調度にあらざれば、仏家につたはれざるなり。いはんや、すでに馬祖を接することすみやかなり。はかりしりぬ、仏祖正伝の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐塼となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。

 

  〈南嶽〉が〈馬祖〉に、《汝近日、什麼をか作す》〉と〈問処〉すると、〈馬祖〉が《近日道一、祇管打坐するのみなり》と〈答処〉する。

〈南嶽〉が〈坐禅なにごとをか図する〉と〈問処〉すると、〈馬祖〉は、〈坐禅は作仏を図す〉と〈答処〉する。そこで〈南嶽〉が〈塼(せん)=瓦〉を手に持って、〈馬祖〉の庵のほとりあった石をあてて磨いて見せると、〈馬祖〉は《和尚、什麼(なに)をか作()す》と問い返す。〈南嶽〉が《塼(かわら)を磨す》〉と〈答処〉すると、〈馬祖〉が、《塼(かわら)を磨して什麼(なに)をか作()す》〉と問い返す。〈南嶽〉が《磨して鏡を作す》と〈答処〉すると、〈馬祖〉が《塼(かわら)を磨して豈鏡(かがみ)を成すことを得んや》〉と〈問処〉する。この問答は、〈南嶽〉の《坐禅して豈作仏することを得んや》〉という〈問処=答処〉に結実している。
 
〈坐禅作仏〉は〈作仏坐禅〉となる。〈作仏坐禅〉は〈非作仏坐禅〉、〈非坐禅作仏〉をはらむ。さらに〈坐禅非作仏〉は〈非坐禅作仏〉をはらんでいる。

そこに〈仏道=中道〉をどう開くのか。道元は〈大聖の行履(あんり)、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか為人(いにん)の方便あらん。為人(いにん)のちからは仏祖の骨髄なり〉と〈説著=道得〉している。

〈大聖の行履〉は〈凡境の出離〉となり、〈磨塼の法〉は〈為人の方便〉となる。 

道元は〈磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。

馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐塼(ざせん)となる〉と説いている。

この〈馬祖〉とは誰のことなのか、〈私=われわれ〉はそれぞれに〈自己の責任〉で、それを把握しなければならない。〈他者=権威〉が〈言葉〉で説くものは、すべて〈生の分断化=死物化=脱益化〉を引きずっている。

 

 しかあれば、塼(かわら)のなれる古鏡あり、この鏡を磨しきたるとき、従来も未染汚(みぜんな)なるなり。塼のちりあるにはあらず、ただ塼なるを磨塼するなり。このところに、作鏡の功徳の現成する、すなはち仏祖の功夫(くふう)なり。磨塼もし作鏡せずは、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作()に作仏あり、作鏡あることを。又疑著(ぎじや)すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、余時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟(ひつきよう)してすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。
 いまの人も、いまの塼を拈じてこころみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団(でいとん)なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼来塼現(せんらいせんげん)の鏡子(きようす)あることを。又たれかしらん、鏡来鏡現(きようらいきようげん)の鏡子(きようす)あることを。

 正法眼蔵古鏡第十九

  仁治二年辛丑九月九日観音導利興聖宝林寺示衆
  同四年癸卯正月十三日書写于栴檀林裡

 〈私〉は何を塼(かわら)とみなし、なにを〈古鏡〉とみなすのか。

〈賢者=政治家=評論家〉は、国民を〈塼〉と〈古鏡〉に〈選別=分別〉している。

〈いま、ここ〉に〈実存〉する〈生命=存在〉に〈塼〉と〈古鏡〉の区別があるのか。

〈蠅取り瓶〉の中で〈貪名愛利〉に明け暮れる〈評論家=政治家=賢者〉はみな、〈実存〉から眼を背けている。そのような〈賢者=政治家=評論家〉が〈塼〉とみなし、切り捨てている人々こそ、〈実存〉を〈在りのまま〉に〈見つめて〉いるのではないか。
〈死刑執行〉を命ずる〈権力者〉は、〈奪命者〉となった〈自己〉の〈色心〉に眼をつむっている。

そのような〈無智蒙昧〉な人物が〈権力〉の座に居座る〈法律・制度〉を、厳しく〈在りのまま〉に〈見つめる〉ことが、〈われわれ〉一人ひとりに問われているのだ。

いかなる〈理由〉を〈定義〉し、〈自己正当化〉を試みようとも、〈時空〉に記された〈脱命者〉の波動は、どこまでも〈矛盾=ジレンマ〉を伝播させていく。
〈凡夫〉である〈われわれ〉が、〈古鏡〉あるいは〈塼〉と〈思考=定義〉するだけで、それが〈塼〉あるいは〈古鏡〉となるのか。

そんな〈定義=思考〉は、〈夢遊病者〉の〈譫言〉でしかない。現場で重大な問題を発掘する活動を除外すると、〈ジャーナリスト〉の〈論評=思考〉は、全く無責任な〈モグラの穴掘り〉に終始している。

〈塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥団なりとかろしめば、人も泥団なりとかろからん〉という文は、〈生命〉の〈真実〉を示している。

いない、ということにほかならない。ここにも〈選ぶ者〉と〈選ばれる者〉は〈一体不二〉であるという〈因果倶時=能動即受動・善悪不二=肯定即否定〉の法理が貫徹している。

 

 

 

内臓器官

消化器系器官と循環器系器官からのメーッセージを聴くことができるようになるために、古鏡を磨く。

古鏡を磨くと、内臓からの聲が聴こえるようになる。 

そして、この磨きの作業は修業と呼ばれる。トレーニングのことだ。

 

円鑑

「諸仏大円鑑、内外無瑕翳(むかえい)、両人同得見、心眼皆相似。」

古鏡の中には瑕や曇りがないものがある。

すると鏡に映っている像と像との間に違いがなくなり、まったく同じ様になる。

普通の古鏡は瑕や曇りがあるので、このようなことはない。

 

鏡とは深層意識である魂のことで、鏡に映っている像が五感によって捉えられた信号をココロがカタチにしたものである。

瑕や曇がなければ、この2つはまったく同じものを映しだし、深層と表層で感じるものも同じになる。

 

眼前の世界は、これまでの学習や条件反射によって生成されたもので、「わたし(主体)」はクセとも呼ばれる作られた回路を使って、対象物を見るしかない。これが古鏡の表面に映る像である。

クセとは凸凹や錆や瑕や曇のことである。

しかしクセがなくなれば回路は消え去り、鏡に映る像と像そのものとが同じになり、どの主体も同じになり、自他という差がなくなる。これが主客のない状態、もしくは主体と対象の関係性を超越した関係と呼ぶ。

だれでも同じものを見、お互いはそっくりになるのである。

 

超訳

釈尊の代々の後継者である迦耶舎多尊者の母が夢を見た。そのとき母はすでに懐胎していた。

一人の巨大な鬼神が、大きな鏡を持ってこちらにやって来る夢で、その後七日経って尊者を出産した。

尊者は生れた時、肌が照り輝いてみがいた瑠璃(宝石)のようであった。

迦耶舎多は、幼少の頃から落ち着いた静けさを好み、言葉遣いも普通の児童とは違っていた。

生れたときから一つの澄み切った円鑑が世にもめずらしく自然に身にそなわっていた。

尊者が生れると同時に、円鑑が何処からともなく現れた。

尊者が睡眠をとるときは、円鑑がその上をおおって花笠のようになった。

尊者が正坐するときには、円鑑もその目の前にあった。

その円鑑は尊者の立居振舞に従っていたのである。

そればかりではなく、過去・未来・現在にわたる仏教行事は、すべてこの円鑑に向えば見ることができたのである。

また天上界、人間界における多くの出来事やもろもろのおきても、みなその円鑑に明らかに映って、曇るようなところはなかった。

たとえば経典や書籍によって古今の事跡を知るよりも、この円鑑で見る方が明らかであった。

しかし尊者が成人して出家してからは、この円鑑は現れなくなった。

このようなことは、この世界においては類いまれではある

 

 

雪山童子の説話のように樹や石に刻まれた経典もある。

また法華経に言っているように、或いは田畑、或いは村落に法華経を宣布して廻る高僧もいる。

これらの経典となった樹や石や法華経の趣旨を宣布する高僧などはいずれも円鑑と言ってもよい。

また今に伝えられた経典も円鑑なのである。

誰がただ尊者のことだけを奇異だと考えることがあろう。


師〈伽耶舎多尊者〉はあるとき外出した時、僧伽難提(そうがなんだい)尊者に会った。

伽耶舎多尊者は素直に進んで難提尊者の前に立った。

そこで難提尊者は聞いた、「お前の手中にあるものは、何を表わしているのか?」と。

伽耶舎多尊者は言った、「諸仏の大円鑑は、内外ともに瑕もくもりもありません。見る人と見られる人との両人によって見られるところが全く同じです。そこに映る心と眼は良く似ています。」

この大円鑑が形をなしたものが諸仏であり、この円鑑に同じように参じ、同じように見るのである。

大円鑑という曇っていない明鏡とは、理性ではなく、智性ではない。本質ではなく、形相でもない。

大円鑑とは魂のことである。これは体の中の「空」であり「霊」であり「カミ」である。

諸仏の大円鑑がすでに自分自身と共に生じていると知ったとしても、さらに学ぶべき道理がある。

それは、この世が常に変化し続けているためで、魂をこの世に相応しいカタチにするためには日々の精進が必須だからである。

ただ魂を中心して、何かを説こう、すなわちカタチにしようとすると、偈になった。

大円鑑は諸仏の真実の功徳なのだ。

この鏡が「内外にもくもりがない」ということは、外に対する内があるという訳でもなければ、内に対して相対的に考えられる外があるという訳でもない。

この鏡には表もなければ、裏もない。

表裏ともに同じ像を映すし、映す心と映る眼はよく似ている。

「相似」というのは、人と人とが出合ったときのように(主客が渾然一体と〉なった状態をいう。

この大円鑑はその内には心と眼をそなえ、同じように見ることができる。

その両方に映る像は同じである。

またその外部のあり方を見ると、これも同じく心と眼をそなえており、それによって把えられる映像も主客によって異ることなく同じ映像が映るのである。

そしていまわれわれの眼前に展開している、過去からの因果関係に基づく客観・主観の事物も、この大円鑑の内部・外部とよく似ている。

それは自分であるとか、誰彼であるとかくというような特定の人の問題ではなく、ただ人と人との相見であって、しかもその両人は全く似ているのである。

すなわち彼も私と同一だといい、私も彼と同一となるような関係である。

また「心と眼と皆相似」というのは、心は心に相似しており、眼は眼に相似しているという意味である。

相似とは心は心であり、眼は眼であるとの謂である。

それはたとえば心と眼とがそれぞれ独自の存在を続けているというのと似ている。

心が心に相似しているとは、

三祖の鑑智僧サン禅師の心と、六祖の大鑑慧能禅師の心が良く似ているようなことである。

それでは眼が眼に相似しているとは、どのようなことであろうか。

それは、眼が眼によって拘束されるということにほかならない。

この主旨を取り挙げ、拈弄して、大円鑑に等しい仏祖の覚りを学ぶべきである。


第三十三祖大鑑禅師が、かつて黄梅山における教団において修行していたとき、

壁書にして大満弘忍禅師に差し上げた偈にいう、

菩提には本来、樹と呼ばれるようなものはない。

またくもりのない鏡もまた、台などではない。

悟りには本来、何物もない。

何物もないのに塵埃が何処に付くだろうか。

 

 明鏡には本来、何物もない。

「そのような明鏡に塵埃も何処に付くだろうか。」 ということである。

工夫しなければならない。明々白々と眼前に露呈している事物は、明鏡である。

そのため、「明頭来明頭打(明頭が来たら明頭を打つ)」というのだ。

明々であるのは「何処」でもないから、何処にもないのだ。

まして鏡ではない塵埃が、1粒たりとも鏡に残ることがあろうか。

知るべきである、宇宙は無数の塵のような国土ではなく、古鏡そのものである。

 

南嶽大慧禅師にある憎が質問した、

鏡を鋳直した場合、〈鏡のぴかぴかとした〉光は何処に行ってしまうのですか?」

お前さんがまだ出家していなかった時分の顔や形は何処へ行ってしまったのかね?」と答えた。

まだ「すべてが一つにつながっている世界」を体感はしていないが、だからこそ、他人を欺くことはない。

 

他者を欺くのは「すべてが一つにつながっている世界」を体感した後に、それを忠実に再現しないか、もしくは中途半端にしか体感していないのに、それに気がついていないことである。

 

 

森羅万象は、何であるかということは解明し難いところではあるが、探究してみるに、それは万法を映す鏡である。

 

海の水が蒸発するが、だからといってすべて海水が蒸発して海底が露出することはない。

事実があるからと言って、過剰一般化して物事を捉えるのはいけない。

一部を見てそれを大自然の法則としてとらえたり、うろたえ平静さを失うようなことがあってはならない。

 

ところで、鏡ははじめから磨かれて光り輝いているのがいいというものでもない。

たしかに森羅万象がぴかぴかと光り輝き、綺麗であるが、見る人の眼をくらますところのものとなるのであり、

その輝きはだまし続けているである。

 

 

 

 

古鏡の前に突然、明鏡が出現したらどうなりますか?」

「あれか、これかがなくなってしまう。」

僧は私の場合は「〈一切の事物が〉こなごなにくだけ落ちます」。

 

 

「魂(自己本来面目=真の自己)とは何事か

 

辺際きわがなく、内や外の区別がない。 

ちょうど、一粒の真珠が、盤上を自由自在に転がり廻るような自由なものだ。

 

また雪峰の「胡漢倶隠(胡人も漢人も共に姿をかくす)」という言葉は、

さらに言葉を変えれば、「鏡自体もまた姿を隠す」になるだろう。

 

〈なお〉玄沙和尚の「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちる)」というのは、片方の鏡に凸凹が残っていると何度も反射を重ねているうちに、これが乱反射になり、100のバラバラの像となる。

 

またこの意味は、

先日来、師によって、木葉微塵に打ちくだかれた「わたし」という砕片をお還しいただきたいとお願いしておりますのに、どうして、明鏡なぞという立派なものをお還し下さるのですか」ということである。

 

古代の黄帝の時代に、天から授かった十二枚の鏡があった。

この十二枚の鏡は、二十四時間のうち、一時(2時間)ごとに一枚を使用する。

また十二ヵ月の毎月に一枚を使用する。

さらに十二年の1年ごとに、毎年一枚を使用する。

 

鏡によって過去と現在を照らすのである。

俗世間(仏教関係以外の人々)の語るところではあるが、現実に中国人が活躍している二十四時間内の事である。


 

 

突然、明鏡が出現したらどうか?」

自分の魂と突然にであった時の体験の話とも解釈でき、自分の魂と突然に出合う(見性)と、「百雑砕(もろもろの事物が一切くだけ落ちた)」ようだと体感したのだろう。

今までの旧知旧見にこだわる自己が木端微塵に粉砕されるような体験だ。

 

 

山に登ってきた中国の黄帝に仙人が答えた。

一つは天、一つは地、最後の一つは人の三つの鏡がある

これらの鏡は、五感覚器官の対象ではないので、見たり、聞いたりすることはできない。

ココロをしずめて平静な状態になり、精神を動揺させることもなくなれば、体はひとりでに良くなり、

長生きすることができるであろう」。

この天・地・人という三鏡を基準にして天下をおさめ、人倫の大道を正したのである。

唐の太宗は人を政治の鏡とした天下の安危理乱をこの鏡によって照らし見た」という。

聖賢は人を選ぶことを知っていた。

人をかがみとする」という言葉をこのように理解することは、

太宗が「人を鏡とする」という言葉の意味とは違う。

人を鏡にする」ということは、真の自己の正体(本来の自己)である魂を基準にするということであり、表層の自我意識ではなく、深層にある自分の魂を基準にして、政治に関わるということである。

それは五常(木・火・土・金・水)を鏡とし、五常(仁・義・礼・智・信)を鏡にすることである。

人物が現われたり去ったりする〈様子〉を見ると、何処から来たかの跡はなく、どの方角に去ったか分からない。

それを、人を鏡として考える場合の道理というのである。

人間には賢人もいれば愚人もいるなど千差万別である。

 人面も鏡であり、鏡面も鏡であり、日面、月面も鏡である。

五嶽の精気や、四大河の精気が、長い年月を経て、四方の海を浄化している。

これこそ天地間の基準としての鏡の為すところである。

人物の魂を明らかにして、経世を計ることを、太宗の道という。

古今の知識や見聞のひろい人を基準にして選ぶということではない。


 

日本国には神代から三つの鏡があり、曲玉と剣と一緒に、伝承されて今に至っている。

一枚は伊勢大神宮に、一枚は紀伊の国日前社に、一枚は宮中の賢所にある。

すなわち鏡を得たということは、国を得たと同じことである。

言い伝えによれば、この三枚の鏡は、天神から天皇に伝承されて来たと伝えられている。

したがって百錬の銅も、天地間にあって万物を生むところの陰陽二気が変化して出来たものである。

現在が来れば現在が映り、過去が来れば過去が映るといってもよい。

すなわち古今を照らしだすものは古鏡であろう。

天人が来れば、天人が映り、人間が来れば、人間が映る」が、「現来」が、われわれの過去・現在・未来を知る訳ではない。「現(映る)」ということと出会ったに過ぎない。「現(映る)」のために、来たのではない。

たとえ古鏡は古鏡であるとしても、このような参究しなければならない。

 

玄沙が進み出て質問した、「突然、明鏡が〈古鏡の前に〉出現したらどうなりますか?」と。

 

その意味が融通無碍であり、縦横無尽であると知るべきであり、あらゆる面から見て透明で美しいと知るべきである。

鏡と鏡が相会うのだ。

そうであれば明鏡の「明」と、古鏡の「古」は、同一と見たらよいだろうか、

異なると見たらよいだろうか。

明鏡という言葉の中に、「古(永遠)」という意味があるだろうか、ないのだろうか。

古鏡という言葉の中に、「明」という意味合いが含まれているだろうか、ないだろうか。

古鏡という言葉を聞いて、「さぞかし曇りはなく明るいだろう」などと思い込んではならない。

言いたいことは、

吾亦如是(わしもまたありのままであり)、汝亦如是(お前もまたありのままである)

ということである。

如是の法」を、速やかに練磨し覚らなければならない。

祖師は「古鏡は磨くことができる」と言ったとされる。

明鏡についても同じであろうか。

お前はどう考えるか。

 

 

原文I

雪峰道の胡漢倶隠は、胡も漢も、明鏡時は倶隠なりとなり。

この供隠の道理いかにいふぞ。

胡漢すでに来現すること、古鏡を相ケイ礙せざるに、なにとしてかいま倶隠なる。

古鏡はたとひ胡来胡現、漢来漢現なりとも、

明鏡来はおのづから明鏡来なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隠なるなり。

しかあれば雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。

正当明鏡来のとき、古鏡現の胡漢をケイ礙すべがらざる道理、あきらめ決定すべし。

いま道取する古鏡の「胡来胡現、漢来漢現」は、古鏡上に来現すといはず、

古鏡裏に来現すといはず、古鏡外に来現すといはず、古鏡と同参来現すといはず。

この道を聴取すべし。胡漢来現の時節は、古鏡の胡漢を現来せしむるなり。

胡漢倶隠ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく来におろそかなり。

錯乱といふにおよばざるものなり。

 

おろそか:注意の足りないさま。なおざり、粗略。

 

雪峰の言う「胡漢ともに隠れる」とは、どのような憲味であろうか。

 胡漢が来れば胡漢を映すことは、古鏡の性質と相反することはないのに、どうして現に胡人も漢人も共に姿を隠すのだろうか。

古鏡は仮に「胡来胡現、漢来漢現」であろうとも、「明鏡来」は、当然、「明鏡が出現した」ということ以外の何物でもないのだから、古鏡が意識の対象となってしまうと、姿を隠すのである。

古鏡が意識の中心の時にはその凸凹によってあれやこれやが映っていたが、明鏡が出現して明鏡が意識の中心となってしまうと、古鏡は姿を隠すと説明していると考えることができる。

古鏡は自己のクセが残された凸凹があるが、クセのない明鏡から見ると、古鏡の凸凹よりも古鏡の平面だけにスポットライトを当てるので、凸凹である「あれやこれや」は姿を隠すことになる。

明鏡が出現しても、古鏡が映し出す胡人や漢人の映像を排除し妨げるようなことはないという道理を解明し、明らかにすべきである。

 

いまいうところの古鏡における「胡来胡現、漢来漢現」 とは、

古鏡の上に来たり映ったりするのでもなければ、

古鏡の中に来たり映ったりするのでもない。

また古鏡の外に来たり映ったりするのでもなければ、

古鏡と同時に来たり映ったりするのでもない。

この言葉を傾聴すべきである。胡人や漢人が来たり映ったりする時点においては、

古鏡が胡人や漢人を映らせ来させるのである。

古鏡の凸凹があれやこれを映してしまうのであって、明鏡のように凸凹や曇や錆がなければ、あれやこれやを映らせることはない。

明鏡は古鏡の平らな部分にスポットライトを当てるので、凸凹の決まったカタチ(条件反射)の様子に関心が払われなくなるのだが、そのことよりも鏡の存在が変わらないことにしか関心を払わないのは、映るというのは像の問題ではなく、鏡そのものに依拠していることや、凸凹こそがカタチを決めてしまっていることについて理解が及んでいない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

 

禅定と鏡

鏡は人々に自分というものを自覚させ、反省させます。

自分を意識すると当然、迷いが生じます。しかし、その迷いも、実は鏡というものの中、鏡という自意識の中で起こっている。

そう思うと、迷っている鏡そのものに迷いはない。

鏡そのものになりきってしまえば、その身心脱落したところには、様々な悩みやこだわりが起こるわけだが、跡をとどめない。

いったい、本当の自分は何かのか、を問うている。

禅の境地がそこにある。

 

瞑想をしていると、体内に鏡が現れます。

 

まず、一時間ほど、深い禅定状態に入ります。

禅定状態にあると、物事を分析することができないので、一旦そこから出ます。

そして、バーバンガ(Bhavanga有分心)というものを見ていきます。

有分心(バーバンガ)とは、胸の真ん中の辺りを中心にしてあります。

はじめは痺れるような感覚で、察知され、とても光溢れるものです。

体験していない人は、これをメタファー(隠喩)としてとらえてもらってもいいでしょう。

実際は焼けるように熱く、板のように固く、円形です。

心の門(意門)で、胸の中心にある鏡のようなものと理解してください。

アビダンマに詳しい説明があります。 

アーナパーナ・サティを深めていくと、鼻のところに強い光(アナパナニミッタ)が現れます。

 

この光に胸にあるバーバンガが鏡のように反射して、そこにもう1つの光が現れるように見えます。

その光も消えていき、ただ鏡があるだけになります。

すると観察者である「わたし」は消えて、対象との分離がなくなります。

スポットライトを当てようとしてはいません、ただスポットライトが当たっているだけです。そこにはスポットライトがあるだけです。

 

なぜとても強い光が見えるのでしょうか。

非常に強い禅定状態になると、チッタジャーカラーパという、心が生み出すカラーパ(微細な粒子)が体全体に広がっていきます。

カラーパには、8つの要素があります。このときは、その中の色の要素がとても強いのです。

また、8つの物質エネルギーのうちの1つに火の要素(テージョ)がありますが、その要素から、次のカラーパが生まれてきます。そうやって新しく生まれてきたカラーパの色も輝いています。

 

心から生まれたカラーパと、火から生まれたカラーパ、両方がとても輝いているので、光となって現れるのです。それが光の正体であり、有分心(バーバンガ)というのは、とても輝いています。

 

 

 

 

 

 

第十九 「古鏡」巻

古鏡には鏡そのもの、本体、そして鏡に映っている像、と3つが宇宙のメタファーとして使われている。

鏡は「生命そのもの(尽十方界真実人体)」を、本体は「生命活動の様相(喜怒哀楽の自我)」を、鏡に映っている像は本体が自分を確認する時に必要な像を喩えている。

生命活動の現象は自分の姿を知るには鏡に映っている姿を見て初めて判ることなので、どうしても鏡が必要となる。

 

この古鏡は言葉で意味することができず、本質と現象という二分法の例えで表現することができないものであるが、あえてメタファーを使うことで、その方向だけでも指し示すことはできる。

 

 

空即是色、色即是空の「空」と「色」の関係や、「海」と「波」の関係のように、「鏡」そのものは、「生命そのもの(空、本質、海)」であり、「鏡の前にある事実」が「生命活動の現象(色、現象、波)」である。そしてそれが「古鏡」に写って見える。

つまり尽十方界(宇宙・大自然)の在り方が

ここでいう「古」とは古い・新しいの古ではなく、常にあらゆるものが活動・変化している事実自体は永遠不変の「古」であり、変化し続けて現在に至る「古」である。 

 

 

「古鏡」とは本来の姿のことであり、永遠に変化し続ける事実のことである。

また「古鏡」とは、絶え間ない大自然の生命活動(尽十方界)の実態であり、生命そのものが現在の環境に順応しながら生きていく無始無終の生活現象を指す。カタチになるのはその時その時の尽十方界の様相であり、それぞれが尽十方界の真実の表情を表現している「本来成仏」のこと。

 

「鏡」は、例えば後述の「胡来胡現、漢来漢現」(胡人が来れば胡人を現し(映し)、漢人が来れば漢人を現す)と言うように、来現するものすべてを映し(受け入れ)適応していくことができ、しかも映しても痕が残らない(その時だけの映像である)。

即ち「鏡」はその時々の尽十方界の様相、尽十方界の生命活動の実態を表現している。

また「鏡」は、「すべてをそのまま頂く」という「現成公案」の修行の在り方をも意味している。

 

因みに「円鏡」とは我々が何とも思わずに生かせてもらっていること、

「宗鏡」とは根源のこと、

「宝鏡」とは最も大切な物、真実の現れを表現している。

また「大円鏡智」とは無条件に全てを頂いている尽十方界真実人体の姿を意味している。

 

 

雪峰真覚大師、あるとき衆にしめすにいはく、此事(生きている現実)を会(会得)せんと要せば、我這シャ裏(自分が生きている事実)一面の古鏡の如くに相似たり。胡来胡現し、漢来漢現す(千変万化)。

時に玄沙出でて問ふ、「忽ちに明鏡来に遇う時如何。」(古鏡に曇りのない鏡即ち明鏡を遇わせたら如何) 

師(雪峰)云く、「胡漢倶に隠る。」(対象が無くなり映像が消える)

玄沙云く、「某甲即不然。」(私はそうではない)

峰云く、「ナンジ作麼生。」(あなたは如何だ)

玄沙云く、「請ふらくは和尚問ふべし。」(和尚私に問うてみてください)

峰云く、「忽ちに明鏡来に遇う時如何。」

玄沙云く、「百雑砕スイ。」(区別がなくなり、活動のみある)

以上の問答において、「明鏡」とは、本来の生命の在り方即ち「尽十方界真実人体」の事である。また「古鏡」は自我活動を含む人間の生活活動であり、「明鏡」は自我活動の休止ないし自我を超越した本来の生命活動(例えば睡眠中の身体等)である。

ところで鏡そのものは「物を映す」という「働き」があるだけで「自らを映す」ということがない。

従って「鏡」と「鏡」が対した時は、映す対象が無いから映像が消える。

これが本来対象を求めない即ち自我を超越した尽十方界真実人体の在り方であり、正に無所得・無所悟の只管打坐の坐禅の実態である。

また「倶に隠る」(倶隠)とは全てのものはどんな現象があっても「消滅」するという生命活動の在り方を表現している。

更に「百雑碎」とは、「明鏡」と同様、「本来の姿」即ち自我活動が休止した純粋な生命活動のことであり、色々の現象(自我活動)が消え、自我における区別がなくなることである。

ただし「来現」(物を映す)の働きはある(活動のみある)。この働きを既述の「正念」(「坐禅」の項の「念(正念、無念)」参照)とも言う。要するに「明鏡・百雑碎」(生命現象)の中に「古鏡」(生活現象・その時々の現象)がある(古鏡している)と言える。

 

なおこの巻は、六祖が五祖の黄梅山に参じた時、後に六祖の弟子荷沢神会から「北宗禅」として批判された神秀大通禅師(中国の正式の禅師号の最初606?〜706年)の偈に因んで作った六祖の偈を紹介している。

つまり神秀の偈は、「身是菩提樹。心如明鏡台。時々勤払拭。莫令惹塵埃。」(身は是れ菩提樹。心は明鏡台の如し。時々に勤めて払拭し。塵埃を惹かしむること莫れ)というものであり、「身体は真実(菩提)そのもの、心は清浄で明鏡のようである。不断に修行して五欲煩悩に曇ることなく、(自分は)すべてはっきり見ることができる」という意味である。この偈自体誤りではないが、何か主張すべき実体があるような錯覚を起こす危険性がある。

これに対して、六祖の偈は、「菩提本無樹。明鏡亦非台。本来無一物。何処有塵埃。」(菩提本モト樹無し。明鏡も亦台に非ず。本来無一物。何れの処にか塵埃有らん)というものであり、「これこそと振り回す(主張する)ような或いは求めるような真実(菩提)や立場(台)等無し、身体だけでなくあらゆるもの(大自然(無)の全(一)物)が真実であり、捨てるようなゴミ(煩悩)等何処にも無い」という意味である。

なお第三句が「本来無一物」ではなく、「仏性常清浄(不染汚)」(すべて絶対的、真実そのもの)という句だという説もある。

 

 

話を元に戻し、雪峰と玄沙の以下の問答を紹介する。

 

雪峰、示衆に云く、世界闊ヒロキこと一丈なれば、古鏡闊こと一丈。世界闊こと一尺なれば、古鏡闊こと一尺。

時に玄沙火炉を指して云く、「且シバラク道へ、火炉闊こと多少ぞ。」

雪峰云く、「古鏡闊に似たり。」

玄沙云く、「老和尚、脚跟未だ地に点ぜざること在り。」

 

以上を解説すると、雪峰が門下の大衆に、「自分が生きている世界と古鏡即ち自分が生きている事実の規模は同じである」と説示した。

すると玄沙が火炉を指して、「ちょっと火炉の規模を言ってみてください」と言った。

雪峰が「古鏡(自分の生きている事実)と相似だ」と言った。

玄沙は「貴方(老和尚)は脚が地に点いていない(古鏡が身についていない)」と言った。

つまり雪峰が示した「古鏡闊一丈、世界闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺」は、我々の生きている規模が宇宙の規模と同じであって、我々のすることなすことが「尽十方界真実」だということである。

また玄沙が「火炉闊多少」(火炉の構造はどんなものだ、火炉の在り方も様々である)と問うたのは、火炉という具体的な物によって真実の在り方を問うたのである。

特に「闊多少」という「疑問形」は、仏法の常識として「尽十方界真実」というものは、簡単に決め込み、片付けられないことを示している。

更に玄沙の問いに答えた雪峰の「似古鏡闊」(我々が生きている事実と同じだ)に対する「老和尚脚跟未点地在」は、玄沙が雪峰を一見批判したように見えるが、本来尽十方界真実の修行(宇宙の生命活動)は時々刻々のものであり、此処だと決める足場や到達点がなく、固定的に脚を下ろすこと等出来無い。つまり老和尚(雪峰)の修行は、無所得・無所悟の仏祖の修行の在り方を外れたものではないと肯定したのである。

以上で「古鏡」巻の要点を述べたが、前巻等との関係を述べると、第十七「恁麼」巻は、「仏法」の項で説明した「恁麼」(何:疑問詞、石頭希遷が最初に使用)について説示しているが、既述のとおり、恁麼とは仏法そのもの、尽十方界真実、生ナマの事実を表現している。

この恁麼の事実がありとあらゆる姿となって表れていることを説いているのが「観音」巻であり、その「観音」巻の事実が古鏡の事実として表れるということになる。