27 坐禪箴 第十二

 

 

本文研究

 

觀音導利興聖寶林寺

藥山弘道大師、坐次有僧問、兀兀地思量什麼(藥山弘道大師、坐次に、有る僧問ふ、兀兀地什麼をか思量せん)。

師云、思量箇不思量底(箇の不思量底を思量す)。

僧云、不思量底如何思量(不思量底、如何が思量せん)。

師云、非思量。

 

動かざる山の如し坐禅(兀兀地 険しい山)だが、そこで何を思量(思考)しているのか?

「非思量」

 

 

大師の道かくのごとくなるを證して、兀坐を參學すべし、兀坐正傳すべし。兀坐の佛道につたはれる參究なり。兀兀地の思量ひとりにあらずといへども、藥山の道は其一なり。いはゆる思量箇不思量底なり、思量の皮肉骨髓なるあり、不思量の皮肉骨髓なるあり。

 

思量によって理解できる縁起の教えもあれば、思量の及ばない教えもある。

不思量底は「思量」に対してのみ現前する。どちらも絶対的真理ではない。

 

僧のいふ、不思量底如何思量。

まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀兀地に思量なからんや、兀兀地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずは、兀兀地を問著する力量あるべし、思量あるべし。

 

如何という思量によって、非思量を思量する。

「どうやって考えようか」という態度、つまり通常の言語的思考を無効にしながら、なおそれに直面する行為、もはや思考とは言えない思考の様式に対しての現前がある。

これが如何思量である。

 

 

大師いはく、非思量。

いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀兀地を學頭するなり。兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん。しかあればすなはち、兀兀地は佛量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、會量にあらざるなり。

 

非思量を使用する:坐禅すること

玲瓏なり: 目的に限らず自由自在

兀兀地: 坐禅が開く境域

会量: 言葉による理解

 

非思量する場合の主体は言語によって概念化されない。

この言語されない主体をあえてなづければ「たれ(誰)」というしかない。

この非主体こそが土台として自己を担保している縁起の次元である。

 

坐禅が開く境域自体を明らかにすることが必要だ。

概念による認識の対象とは異なる。

 

藥山かくのごとく單傳すること、すでに釋迦牟尼佛より直下三十六代なり。藥山より向上をたづぬるに、三十六代に釋迦牟尼佛あり。かくのごとく正傳せる、すでに思量箇不思量底あり。

 

しかあるに、近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禪、得胸襟無事了、便是平穩地也(功夫坐禪は、胸襟無事なることを得了りぬれば、便ち是れ平穩地なり)。この見解、なほ小乘の學者におよばず、人天乘よりも劣なり。いかでか學佛法の漢とはいはん。見在大宋國に恁麼の功夫人おほし、道の荒蕪かなしむべし。

又一類の漢あり、坐禪辨道はこれ初心晩學の要機なり、かならずしも佛祖の行履にあらず。行亦禪、坐亦禪、語默動靜體安然(行もまた禪、坐もまた禪、語默動靜に體安然)なり。ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨濟の餘流と稱ずるともがら、おほくこの見解なり。佛法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。

 

わきまえない愚者の弁は

「坐禅修行は、心境に何事も起こらなくなればそれは平穏無事の悟りの境地なのである。」

「坐禅修行は初心の修行者や年老いた修行者にとって大切な修行方法だが、如来や祖師などの仏法を会得した覚者が修行するようなことではない。」

「何をしていても覚者の心身は平安である。いま行っている坐禅にばかりこだわってはいけない」

 

 

しるべし、學道のさだまれる參究には、坐禪辨道するなり。その榜樣の宗旨は、作佛をもとめざる行佛あり。行佛さらに作佛にあらざるがゆゑに、公案見成なり。身佛さらに作佛にあらず、羅籠打破すれば坐佛さらに作佛をさへず。正當恁麼のとき、千古萬古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。

 

羅籠:魚の網、鳥の網   固定観念

 

坐禅によって如来を目指すのではなく、坐禅修行で「一つにつながっている世界」が現成することで如来として存在することである。

すると問が生まれる。

初期化したので「次はどうする」という問として現前する。

土台の出現は、それ自体「この上に何を建てるのか」という問いかけになる。

 

坐仏が行仏することを作仏という。

これが概念的な区別を無効にする自在な境地を開く力を持つ。

この境地が大小を超越した無辺の普遍性を持つ。

 

 

江西大寂禪師、ちなみに南嶽大慧禪師に參學するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禪す。

南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、大コ、坐禪圖箇什麼(坐禪は箇の什麼を圖る)。

この問、しづかに功夫參學すべし。そのゆゑは、坐禪より向上にあるべき圖のあるか、坐禪より格外に圖すべき道のいまだしきか、すべて圖すべからざるか。當時坐禪せるに、いかなる圖か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。

 

仏になるには闇雲にも坐禅ばかりしていもだめなのであって、目的にふさわしい修行方法をよく考えなければならない、という普通の考え方がある。

これが間違った解釈であるのは、作仏という目的を設定して、その手段に坐禅を位置づけるのが、仏法の根本である「一つにつながっている世界」の教えとは異なるからである。

「目的」とは、つねに概念でしかない。

「いま・ここ」でを経験していないから「目的」が必要とされる。

 

彫龍を愛するより、すすみて眞龍を愛すべし。彫龍、眞龍ともに雲雨の能あること學習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賤することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聰明ならしむべし。

 

既成概念を離れて、事態をよくよく研究せよというのが教訓である。

 

 

江西いはく、圖作佛(作佛を圖る)。

この道、あきらめ達すべし。作佛と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作佛せらるるを作佛と道取するか、ほとけを作佛するを作佛と道取するか、ほとけの一面出、兩面出するを作佛と道取するか。圖作佛は脱落にして、脱落なる圖作佛か。作佛たとひ萬般なりとも、この圖に葛藤しもてゆくを圖作佛と道取するか。

 

「仏になろう(圖)と思います。」

なろうと志して修行すること自体に仏は現成している。

つまり、この文脈では「なろう」は意志ではなく行為と考えられからである。

この「なろう(圖)」が行為として実際に実現しているものが坐禅なのであり、それが直接「一つにつながっている世界」に通じている。

 

 

しるべし、大寂の道は、坐禪かならず圖作佛なり、坐禪かならず作佛の圖なり。圖は作佛より前なるべし、作佛より後なるべし、作佛の正當恁麼時なるべし。且問すらくは、この一圖、いくそばくの作佛を葛藤すとかせん。この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。このとき、盡作佛の條條なる葛藤、かならず盡作佛の端的なる、みなともに條條の圖なり。一圖を廻避すべからず。一圖を廻避するときは、喪身失命するなり。喪身失命するとき、一圖の葛藤なり。

 

坐禅とは必ず「仏になろうとする」そのこと自体である。

「仏になる」ことを「目指す(圖)」その行為である。

 

南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。

大寂つひにとふにいはく、師、作什麼(師、什麼をか作す)。

まことに、たれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく作什麼と問せられきたるなり。

 

師匠は瓦を拾って石の上で磨き出した。

師匠、何(什麼)をしているのですか?  

この弟子の問いは問ではない。

この何は言語化できない「一つにつながっている世界」を意味している。

 

作什麼なるは、かならず磨塼なり。此土他界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。自己の覰見を自己の覰見と決定せざるのみにあらず、萬般の作業に參學すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、佛をみるに佛をしらず、會せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。眼前の法、さらに通路あるべからずと倉卒なるは、佛學にあらざるなり。

 

何をしているのか?というのは「一つにつながっている世界」(何)を現前させる(作)行為である。

坐禅は様々な見方によって、研究作業を行うに値する教えがある。

一面だけでをみて軽率に判断するのでは、仏法を学ぶことにならない。

 

南嶽いはく、磨作鏡(磨して鏡と作す)。

この道旨、あきらむべし。磨作鏡は、道理かならずあり。見成の公案あり、虚設なるべからず。塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨塼の道理を力究するに、許多の榜樣あることをしるべし。古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、佛祖の道得なし、佛祖の開口なし、佛祖の出氣を見聞せず。

 

磨いて鏡にするのだ。

磨くの意味を全力で究める。

いろいろな鏡が瓦を磨くことから作られたと知らないならば、如来や祖師の言葉や説法やその息吹を見聞することもできない。

坐禅修行(瓦研き)が「一つにつながっている世界」(鏡)を現成するのだから。

 

 

大寂いはく、磨塼豈得成鏡耶(磨塼豈に鏡を成すことを得んや)。

まことに磨塼の鐵漢なる、他の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、成鏡たとひ(にい)なりとも、すみやかなるべし。

 

坐禅(磨塼)を手段にして成仏(成鏡)しようなどということはせずに、「一つにつながっている世界」を体得する成仏それ自体を、坐禅が直ちに現成するであろう。

 

南嶽いはく、坐禪豈得作佛耶(坐禪豈に作佛を得んや)。

あきらかにしりぬ、坐禪の作佛をまつにあらざる道理あり、作佛の坐禪にかかはれざる宗旨かくれず。

 

坐禅してどうして仏になれるというのか?

坐禅は仏になることを期待してする修行ではない。仏になるという目的と坐禅は無関係である。

 

大寂いはく、即如何是(如何にして即ち是ならん)。

いまの道取、ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども、那頭の即是をも問著するなり。たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。われに親友なるはかれに親友なり。如何、即是、すなはち一時の出現なり。

 

「ではどうすればよいのでしょうか?」

如何という問いは、坐禅の意味そのもの(即是)である。

如何とは非思量を意味する。つまり「一つにつながっている世界」の現前であり、それこそが坐禅である。

 

南嶽いはく、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是(人の車を駕するが如き、車若し行かずは、車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か)。

しばらく、車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を參究せんには、不行ありとも參ずべし、不行なしとも參ずべし、時なるべきがゆゑに。若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。

 

常識的には、牛車を進めようとして牛ではなく車を打つような勘違いをしているのと同じではないか、と師匠は諭し、坐禅ばかりが正しいのかどうかを考えてみることを勧めている、と解釈することもできる。

しかし正法眼蔵は異なる考えを示す。

 

考え方によって解釈が決まる。

もし「進まないなら」という言葉が文字どおり「進まない」ことを言っているのではない。

言葉の意味が問い直されている。

「車」「水」、「進む」「流れる」とは何なのか?どういうことなのか?

「仏になる」と言うとき、「仏」を何だと考えるのか?

「なる」とはどういうことなのか?

 

打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛とひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、佛道に打車の法あることをしりぬ、參學の眼目なり。たとひ打車の法あることを學すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。

 

どちらが正しいのか?と言うのは質問ではない。どちらもよし、ということではないか。

常識では打車という手段がないと言っても、仏道には打車という方法があることを知る。

これが修行の眼目である。

この打車は坐禅を意味する。

 

打牛の法たとひよのつねにありとも、佛道の打牛はさらにたずね參學すべし。水牯牛を打牛するか、鐵牛を打牛するか、泥牛を打牛するか、鞭打なるべきか、盡界打なるべきか、盡心打なるべきか、打併髓なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。

 

「牛を打つことはたとえ世間であるといっても、仏道における打牛とはなにか、さらにたずねて学ばなければならない。水牛を打つのか、鉄の牛を打つのか、泥の牛を打つのか。鞭で打つのか、世界全体で打つのか、心全体で打つのか、メチャクチャはげしく打つのか、ゲンコツで打つのか。さらに、ゲンコツがゲンコツを打つということもあるだろうし、牛が牛を打つということもあるだろう」

 

大寂無對なる、いたづらに蹉過すべからず。抛塼引玉あり、囘頭換面あり。この無對さらに奪すべからず。

 

師匠の見解が自分のものと同じであることを納得したから、弟子は何も言わなかった。

 

南嶽、又しめしていはく、汝學坐禪、爲學坐佛(汝坐禪を學せば、坐佛を學すと爲す)。

この道取を參究して、まさに祖宗の要機を辨取すべし。いはゆる學坐禪の端的いかなりとしらざるに、學坐佛としりぬ。正嫡の兒孫にあらずよりは、いかでか學坐禪の學坐佛なると道取せん。まことにしるべし、初心の坐禪は最初の坐禪なり、最初の坐禪は最初の坐佛なり。

 

坐禅を学ぶことが明確にわからないうちに、「坐っている仏を学ぶ」ことだと知ってしまった。

坐禅して「一つにつながっている世界」を開いたら、それが「悟り」でもう成仏したのだと錯覚してはいけない。

坐っている仏とはどういう仏か学ばなければならない。

坐禅が開いているのは土台に過ぎない。「一つにつながっている世界」を自覚しつつ、仏法に則して主体を再構成していく全過程こそ「さとる」なのであり、そこに刻々と変化し続ける主体が仏である。

坐っている仏とはゴールではなく、やっとスタートが始まる。

初心者の坐禅は最初の坐っている仏である。

 

坐禪を道取するにいはく、若學坐禪、禪非坐臥(若し坐禪を學せば、禪は坐臥に非ず)。

いまいふところは、坐禪は坐禪なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと單傳するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智斷をもとめん。

 

ここで言っている坐禅は、坐る寝るなどのただの身体行為ではない。

ただの身体行為と区別がつかないが、「一つにつながっている世界」から捉え直された坐る・寝るの身体行為は新たな主体となる。

これらの身体行為は「禅」の修行と同じことである。

だれが分別知的判断をくだそうというのか。

 

南嶽いはく、若學坐佛、佛非定相(若し坐佛を學せば、佛は定相に非ず)。

いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。坐佛の一佛二佛のごとくなるは、非定相を莊嚴とせるによりてなり。いま佛非定相と道取するは、佛相を道取するなり。非定相佛なるがゆゑに、坐佛さらに廻避しがたきなり。しかあればすなはち、佛非定相の莊嚴なるゆゑに、若學坐禪すなはち坐佛なり。たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。さきより脱落せるによりて坐佛なるなり。

 

坐っている仏がそれぞれに仏として現われているのは「決まった姿ではない姿」だからである。

坐禅が手足を組んで坐る姿だと思い込んではいけない。

「一つにつながっている世界」を自覚する行為はすべて坐禅である。

したがって「仏に決まった姿はない」とは、それが決まった自覚する姿だということである。

決まった姿のない仏(非定相佛)だからこそ、その非定相を可能にする基盤として、坐禅する仏であることが不可避なのだ。

だれが縁起の教えに依拠することもなく(無住法)これは仏であるとかそうではないなどと選択できるのか。

 

南嶽いはく、汝若坐佛、即是殺佛(汝若し坐佛せば、即是殺佛なり)。

いはゆるさらに坐佛を參究するに、殺佛の功徳あり。坐佛の正當恁麼時は殺佛なり。殺佛の相好光明は、たづねんとするにかならず坐佛なるべし。殺の言、たとひ凡夫のごとくにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。又坐佛の殺佛なるは、有什麼形段(什麼なる形段か有る)と參究すべし。佛功徳すでに殺佛なるを拈擧して、われらが殺人未殺人をも參學すべし。

「君がもし坐っている仏だとすれば、それは仏を殺す仏なのだ」

「仏」とはこういうものだなどと「作仏」の目的として設定するなどした結果、概念化されてしまった「仏」を坐禅において解体せよ、というのである。

殺すという言葉が一般的な意味とは同じであるとは限らない。

坐っている仏が殺す仏であるのは、「どんな姿かたちがあるというのか」という意味を究明しなければならない。

つまり坐仏が「非定相」で坐っていることを殺仏と言っているのだ。

殺す必要があるのは勝手に概念化してしまった仏である。

 

 

若執坐相、非達其理(若し坐相を執せば、その理に達するに非ず)。

いはゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を觸するなり。この道理は、すでに坐佛するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。

 

もし坐っている姿に執着するならば仏教の道理に達することにはならない。

捨てるとは、坐る行為を作仏という目的のための手段として使っている行為のことが。

その固定化して概念化することを捨てる。

触れるとは、坐る行為を「一つにつながっている世界」を開く行為として自覚的に使用すること

修行者は坐る姿に執着せざるを得ないゆえに、その執着、すなわち坐禅は、それ自体が概念化をこうむらないとしても、「仏教の道理に達することにはならない」

なぜか?

「仏教の道理」とは「一つにつながっている世界」すなわち、縁起の次元のことだ。

これは到達すべき目的として設定されるような概念ではないからだ。

坐禅(執坐相)をすれば縁起の次元が現成する(非達其理)。

 

いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐佛にあり、學坐佛にあり。ただ人の坐臥する坐の、この打坐佛なるにあらず。人坐のおのづから坐佛佛坐に相似なりといへども、人作佛あり、作佛人あるがごとし。作佛人ありといへども、一切人は作佛にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切佛は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず佛にあらず、佛かならず人にあらず。坐佛もかくのごとし。

 

人の坐る行為が自然に仏の坐る行為・坐っている仏と似るにしても、人がなった仏もあれば、仏になった人もいる。

 

 

南嶽江西の師勝資強、かくのごとし。坐佛の作佛を證する、江西これなり。作佛のために坐佛をしめす、南嶽これなり。南嶽の會に恁麼の功夫あり、藥山の會に向來の道取あり。

しるべし、佛佛祖祖の要機とせるは、これ坐佛なりといふことを。すでに佛佛祖祖とあるは、この要機を使用せり。いまだしきは夢也未見在なるのみなり。おほよそ西天東地に佛法つたはるるといふは、かならず坐佛のつたはるるなり。それ要機なるによりてなり。佛法つたはれざるには坐禪つたはれず、嫡嫡相承せるはこの坐禪の宗旨のみなり。この宗旨いまだ單傳せざるは佛にあらざるなり。この一法あきらめざれば萬法あきらめざるなり、萬行あきらめざるなり。法法あきらめざらんは明眼といふべからず、得道にあらず。いかでか佛の今古ならん。ここをもて佛かならず坐禪を單傳すると一定すべし。

佛の光明に照臨せらるるといふは、この坐禪を功夫參究するなり。おろかなるともがらは、佛光明をあやまりて、日月の光明のごとく、珠火の光耀のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかに六道輪廻の業相なり、さらに佛光明に比すべからず。佛光明といふは、一句を受持聽聞し、一法を保任護持し、坐禪を單傳するなり。光明にてらさるるにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。

 

しかあればすなはち、古來なりといへども、坐禪を坐禪なりとしれるすくなし。いま現在大宋國の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禪をしらず、學せざるおほし。あきらめしれるありといへども、すくなし。諸寺にもとより坐禪の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禪するを本分の事とせり、學者を勸誘するにも坐禪をすすむ。しかあれども、しれる住持人はまれなり。このゆゑに、古來より近代にいたるまで、坐禪銘を記せる老宿一兩位あり、坐禪儀を撰せる老宿一兩位あり。坐禪箴を記せる老宿一兩位あるなかに、坐禪銘、ともにとるべきところなし、坐禪儀、いまだその行履にくらし。坐禪をしらず、坐禪を單傳せざるともがらの記せるところなり。景コ傳燈録にある坐禪箴、および嘉泰普燈録にあるところの坐禪銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に經歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禪のおのれが身心をきらふにあらず、眞箇の功夫をこころざさず、倉卒に迷醉せるによりてなり。かれらが所集は、ただ還源返本の樣子なり、いたづらに息慮凝寂の經營なり。觀練蝉修の階級におよばず、十地等覺の見解におよばず、いかでか佛佛祖祖の坐禪を單傳せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩學すててみるべからず。

坐禪箴は、大宋國慶元府太白名山天童景コ寺、宏智禪師正覺和尚の撰せるのみ佛なり、坐禪箴なり、道得即是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古祖今祖の佛に佛なり。前佛後佛この箴に箴せられもてゆき、今古この箴より現成するなり。かの坐禪箴は、すなはちこれなり。

 

坐禪箴 敕謚宏智禪師正覺撰

佛佛要機、祖祖機要。

(佛佛の要機、祖祖の機要)

不觸事而知、不對縁而照。

(事を觸せずして知り、縁に對せずして照らす)

不觸事而知、其知自微。

(事を觸せずして知る、其の知自ら微なり)

不對縁而照、其照自妙。

(縁に對せずして照す、其の照自ら妙なり)

其知自微、曾無分別之思。

(其の知自ら微なるは、曾て分別の思ひ無し)

其照自妙、曾無毫忽之兆。

(其の照自ら妙なるは、曾て毫忽の兆し無し)

曾無分別之思、其知無偶而奇。

(曾て分別の思無き、其の知無偶にして奇なり)

曾無毫忽之兆、其照無取而了。

(曾て毫忽の兆し無き、其の照取ること無くして了なり)

水清徹底兮、魚行遲遲。

(水清んで底に徹つて、魚の行くこと遲遲)

空闊莫涯兮、鳥飛杳杳。

(空闊くして涯りなし、鳥の飛ぶこと杳杳なり)

 

 

 

 

いはゆる坐禪箴の箴は、大用現前なり、聲色向上威儀なり、父母未生前の節目なり。莫謗佛祖好(佛祖を謗ずること莫くんば好し)なり、未免喪身失命(未だ免れず喪身失命することを)なり、頭長三尺頚短二寸なり。

 

箴は大いなる仏法の働きの意味なのであり、我々の通常の感覚や常識で捉えてはならない。

 

佛佛要機

佛佛はかならず佛佛祖祖を要機とせる、その要機現成せり、これ坐禪なり。

 

諸仏はみな、仏から仏へと法が伝わっていくことで仏となる。最も肝心な働きが実際に現れてくる、坐禅である。

 

祖祖機要

先師無此語なり。この道理これ祖祖なり。法傳衣傳あり。おほよそ囘頭換面の面面、これ佛佛要機なり。換面囘頭の頭頭、これ祖祖機要なり。 

 

歴代の祖師の師には言葉がなかった。

そうしてこそ真に仏法を伝え、また仏法の象徴として袈裟を伝えていく。

凡人が振り返って面目を改めるという成仏の仕方もある。その改めた面目が「佛佛要機」である。また面目を改めて振り返るという悟り方もある。その頭が「祖祖機要」である。

 

 

不觸事而知

知は覺知にあらず、覺知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不觸事なり、不觸事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不觸事といふは、明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なり、坐破孃生皮なり。

 

二元的な知覚(覚知)は限定的で、一定の条件下で構成されたもの(造作)にすぎない。

坐禅における認識はまさにこの枠組を解脱する。

坐禅の知覚は「事に触れない」。

座禅の知は普遍性はなく、自己の主観の限られたものでもない。

事に触れない認識とは、あるものが現れたら現れたと認識し、別のものが来たら、また現れたとおりに認識するという非二元的で非概念的認識である。

これは常識的人間(孃生皮)の大脳皮質が行っている二元的認識を坐禅で脱落した認識である。

 

 

不對縁而照

この照は照了の照にあらず、靈照にあらず、不對を照とす。照の縁と化せざるあり、縁これ照なるがゆゑに。不對といふは、遍界不曾藏なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、囘互不囘互なり。

 

照とは、主体と客体を前提としたものではない。超自然現象でもない。二元性を脱落した照である。

関係(行為)が存在に先立つ。この場合は二元図式によらず、十全に現成する。

すると日常の世界は打破されて「○は○である」といった認識ができなくなる。

微妙な、照らすものと照らされるものとが関係すると、同時に関係しない。

 

其知自微、曾無分別之思

思の知なる、かならずしも他力をからず。其知は形なり、形は山河なり。この山河は微なり、この微は妙なり、使用するに活撥撥なり。龍を作するに、禹門の内外にかかはれず。いまの一知わづかに使用するは、盡界山河を拈來し、盡力して知するなり。山河の親切にわが知なくは、一知半解あるべからず。分別思量のおそく來到するとなげくべからず。已曾分別なる佛佛祖祖、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち、曾無分別は、不逢一人なり。

 

思念がないという認識が自ずから微妙となるのは、特別な能力が働くからではない。

坐禅の認識は、そこに対象が現前してくるという、そのこと自体である。

そのような世界(山河)は現成する。

この坐禅の世界認識は主体/対象という具合に簡単に割り切れず、微であり妙である。

理論的判別のように固定化行われるものではなく、極めて動的な事態として行われる。

たとえば魚が龍となるのに、登竜門の内とか外とかは関係ない。内と外は門をくぐる行為によって成立する概念の区別にすぎない。

坐禅の知を少し使うと全世界を現成させ、力を尽くして知り究めることができる。

世界の現成そのもの(親切)に、坐禅する自己の認識がなければ、少しばかりの知識もわずかな理解もありえないだろう。

だとすれば対象を分別する二元的認識が遅れてしまうと嘆く必要はない。二元図式は無効だというわけではない。

以前から分別して認識している仏が、すでに坐禅において現成している。

坐禅によって二元図式の認識は一定条件下で仮設されたものだという根拠がわかり(証明されて)、分別的思考は駆動している。

「かつて無い」は「かつてすで(已)に」である。

坐禅に裏付けられた分別が現成し、機能している。

したがって「かつて分別が無い」ような者には、一人として遭うことない。

 

其照自妙、曾無毫忽之兆

毫忽といふは盡界なり。しかあるに、自妙なり、自照なり。このゆゑに、いまだ將來せざるがごとし。目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗、莫向言中取則(直に旨外に宗を明らむべし、言中に向つて則を取ること莫れ)なるは、照なり。このゆゑに無偶なり、このゆゑに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著(我れ却つて疑著せり)なり。

毫忽: 全対象世界

 

すべての対象が自ずから照らすことがある。

見聞したものをことさら疑わず、見聞したことを無思慮に信じてもいけない。

「照」は対立する2つのもの(偶)を前提に認識することではなく、一つのものによる認識に安住することである。

これが坐禅による世界の了解である。

 

水清徹底兮、魚行遲遲

水清といふは、空にかかれる水は清水に不徹底なり。いはんや器界に泓澄する、水の清水にあらず。邊際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。行はいく萬程となくすすむといへども不測なり、不窮なり。はかる岸なし、うかむ空なし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。坐禪の功コ、かの魚行のごとし。千程萬程、たれか卜度せん。徹底の行程は、擧體の不行鳥道なり。

 

水が澄み切って底まで見通せるほどであり、魚が悠々と泳いでいく。

常識的な見方を脱却した、果ての無い、岸の無い、そういう水を称して「徹底」の「清水」という。

「行く」も「一つにつながっている世界」では意味は規定し直される。

どれほど遠くに進もうとも、計測することはできないし、窮まることもない。

手がかりになる岸も空もない。底がないのだから深さを測る人もいない。

深さをはかるというならば、その深さとは、底まで澄んだ水、その存在自体である。

ここでいう深さとは、測れるものではなく、行為によって現れたモノの悠久を体感することである。

坐禅の功徳はこの魚の泳ぎのようなものだ。

千里、万里の行く手を誰が計測できようか。

 

徹底した行く手は、鳥がまさに鳥として(挙体)飛び行くことのない鳥の道である。

この場合、鳥がその全存在をかけて「飛んでいかない」と言っているのは、鳥と空を別々に存在するものとして「鳥が空を飛ぶ」と理解することを拒否しているからである。

そうではなく、飛ぶという行為が空と鳥を現成する。

飛んだことで、鳥と空が現れたのである。

 

空闊莫涯兮、鳥飛杳杳

空闊といふは、天にかかれるにあらず。天にかかれる空は闊空にあらず。いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。隱顯に表裏なき、これを闊空といふ。とりもしこの空をとぶは飛空の一法なり。飛空の行履、はかるべきにあらず。飛空は盡界なり、盡界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふことしらずといへども、卜度のほかの道取を道取するに、杳杳と道取するなり。直須足下無絲去なり。空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を參究する道取にいはく、只在這裏なり。これ兀兀地の箴なり。いく萬程か只在這裏をきほひいふ。

 

空闊とは天に広がる空のことではない。曇ったり晴れたりせず、表や裏と区別のつくようなものでもない。

鳥が空を飛ぶと言うなら、それは「飛んでいく空」(飛空)の一つの存在の仕方である。

これこそが全世界の存在である。全世界とは飛んでいく空である。

飛ぶということを概念化して計量化できないので「杳杳」と言う。糸一本の概念化の跡形も残らない。

飛ぶという行為が空と鳥を現成する。

「ただここに在る」ことによって「一つにつながっている世界」を開くのが坐禅することである。

 

宏智禪師の坐禪箴かくのごとし。諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禪箴あらず。諸方の臭皮袋、もしこの坐禪箴のごとく道取せしめんに、一生二生のちからをつくすとも道取せんことうべからざるなり。いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。

先師上堂の時、尋常に云く、宏智、古佛なり。自餘の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。知人の眼目あらんとき、佛祖をも知音すべきなり。まことにしりぬ、洞山に佛祖あることを。

いま宏智禪師より後八十餘年なり、かの坐禪箴をみて、この坐禪箴を撰す。いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算數するに、わづかに八十五年なり。いま撰する坐禪箴、これなり。

坐禪箴

 

 

佛佛要機、祖祖機要。(佛佛の要機、祖祖の機要)

不思量而現、不囘互而成。(不思量にして現じ、不囘互にて成ず)

 

ただの不思量は気絶や熟睡も同然だが、思量を休息させることによる「現」れとは「如何(いか)としての思量」であり、「非思量」のことである。これが坐禅が開く「一つにつながっている世界」のことである。

二元的に対立する実体的存在ではなく(不囘互)、無常という行為において自己と対象が存在として生成される。

 

不思量而現、其現自親。(不思量にして現ず、其の現自ら親なり)

このような「現」が二元的ではない以上、それが「自ずから親しい」と形容されるのは適当である。

 

不囘互而成、其成自證。(不囘互にして成ず、其の成自ら證なり)

関係から生成される存在は、その生成という事態そのものによって、「一つにつながっている世界」が存在の土台であることを証している。

 

其現自親、曾無染汚。(其の現自ら親なり、曾て染汚無し)

坐禅が可能にする親しさは、自他二元の世界に汚染されることはない。

親しさとは、一つにつながっていること。別々ではないこと。融通無碍であること。自由自在であること。

 

其成自證、曾無正偏。(其の成自ら證なり、曾て正偏無し)

関係が存在を生成するのだから、本質(正)と現象(偏)という二元論で存在を理解することはない。

 

曾無染汚之親、其親無委而脱落。(曾て染汚無きの親、其の親無にして脱落なり)

自他に影響の受けない「親しさ」とは、存在の根拠を実体に委ねることのない考え方ことで、つまり二元論的了解からの脱却である。

 

曾無正偏之證、其證無圖而功夫。(曾て正偏無きの證、其の證無圖にして功夫なり)

本質/現象の二元論を無効にするには、坐禅によって「一つにつながっている世界」からの存在を了解(其証)することである。こうやって意図を無くす工夫がある。

 

水清徹地兮、魚行似魚。(水清んで徹地なり、魚行いて魚に似たり)

清い水とは「行く」という行為によって魚が現成する水のことだ。

これを地に徹するという。

水を泳ぐことで、魚は魚として生成してくる。

はじめから魚なのではない。泳ぐことで魚になる。それが似るということである。

 

空闊透天兮、鳥飛如鳥。(空闊透天なり、鳥飛んで鳥の如し)

空がひろくて天にも透るというのは、鳥が飛ぶときである。

飛ぶことが飛空を現成する。この飛空こそ空の広さであり、天にも透るということなのである。

飛ぶときに空と鳥は現成する。鳥はまさに鳥のごとく存在する。

 

似魚や如鳥は「一つにつながっている世界」から存在が生成される瞬間の現場である。

この似魚や如鳥は分別された存在ではない、だからといってカタチがないわけではない。

 

 

宏智禪師の坐禪箴、それ道未即是にあらざれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。おほよそ佛の兒孫、かならず坐禪を一大事なりと參學すべし。これ單傳の正印なり。

 

 

宏智禪師の坐禪箴の後に、独自の坐禪箴をなぜ披瀝するのか?

宏智禪師の「知」と「照」という語が、対象世界が無常で無我であることを観照する主体が、独特な実体性がある残滓を感じさせるので、これを対象世界を超越する存在として受け取られる恐れを払拭するためだ、と推測する。

 

 

 

 

参考資料

一番の眼目は、坐禅が縁起を実現する行為であり、縁起の次元を開く。つまり行為が存在を生成する。

しかし、坐禅したから仏になるのではない。坐禅という行は証をうるためのものではなく、どれほど行じても証をえて仏になることはない。行そのものが仏だからである。行そのものが「空」と「色」の二つの世界の間にいる根拠だからである。最終的な根拠である。これをさらに根拠づける証はない。

ヒトが人間的行動をなぜおこなわねばならないかを示す根拠はない。

だから証を求めることをやめて行に専念せよという。

 

このこと根拠の確実性を探求したウィトゲンシュタインは以下のように言う。

「根拠を与えることや、証拠を正当化することはどこかに終りがある。・・・だがこの終わりは、ある命題が我々に直ちに真であると思われることではない。すなわち、言語ゲーム[われわれの、言語を用いておこなっている生活というゲーム]の根底にあるのは、我々の側における何らかの見ることではなく、われわれの行動なのである。」  「確実性についてp204

「たとえば私が、ある島への交通手段としてフェリーを用いるのと橋を架けるのと、どちらが適当であるか考えねばならぬとする。そのために私は橋の大きさを計算し、ここでフェリーよりも橋の方がいいというような見通しを立てることができる。またその他にいろいろのことができる。」

「しかし、どこかで、私は何かを承認すること、あるいは決断することをもって、始めなければならない」p146

 

どこかで判断を確実だと決断しなければ、どこまでいってもおよそ確実な判断などはありえない。

われわれにとってある判断が確実であるのは、われわれがそこに確実性を示す何らかの際立った対象的な特徴を見たからではなく、我々がそれを確実なものとみなし、決断しているからである。

他からの証ではなく自らの行動が確実性の根拠であると彼は言っているのだ。

 

「たとえばある計算をする時、われわれは一定の状況においては充分にチェックされたと見なす。何がわれわれにそのようにみなす資格を与えるのか?経験か?それがわれわれを欺くことはありえないのか?どこかでわれわれは正当化を終わらねばならない。そしてそのときに残るのは、われわれはこのように計算する、という命題である」p212

「正当化の最後に残るのは「このようにわれわれは考える。このように行動する。このように語る」『断片p309

これにはもはや理由がない。われわれの行動が確実性の根拠であり、それをさらに根拠づけるものはない。

ウィトゲンシュタインはこの行動を「Lebensform生の型」と呼ぶ

われわれはなぜこのように生きるのか、そのことにはもはや理由はない。われわれは理由を求めることをやめて、われわれの人間的な生の聲を聴いて、それを受け入れて生きる。

「受け入れねばならぬもの、与えられているものは、生の型」『哲学的探究p452原書p226

「原現象」p654として受け入れねばならないもの。

人間の生に理由を求めてはならない。だがそれが難しいとも言う。

「われわれの信念は無根拠であることに気づくこと。これが困難なのである。」『確実性についてp166

「難しいのは、始まりにおいて、始めること。そしてそこからさらに遡ろうと試みないことが。」P474

『ファウスト』を引用して「・・・そして確信をもって書く。【はじめに行動があった】」p402 

「生」を受け入れて行動するとき、初めて確実な世界が見えてくる。その逆ではない。

 

ヒトは根本的な原理や固定した原点を見出して、そこから始めることで何をしていいのかがわかり、自信をもって確固たる行動ができると信じたがっている。

こんな考えにとらわれている限り、いつまでたっても自分の行動に自信をもって一歩を踏み出し、それを専念することができないのである。

「生」には理由がないことを体感すれば、今の未熟なありのままの自分を引き受け、ちゃんと目の前のことに取り組んでいける。

同時に、哲学的な思弁によって見ることのできるような対象的な理由はないことを会得する。そしてこの、「いまここ」では哲学は終わる。

「われわれが目指している明晰さは、もちろん完全な明晰さである。だがこのことはただ、哲学的な問題は完全に消滅しなくてはならないということを意味するにすぎない。真の発見とは、私がそうしようと思うときに、私に哲学を考えるのをやめさせることのできるようなものである。---哲学がもはや、哲学それ自体を疑問にしてしまうような疑問に悩まされることのないように、哲学に平和を与えるものである。」『哲学的探究p133

哲学はただ日常的な言語の用法をありのままに描写するだけなのだ。

平和には寂しさが伴う。これまでの自分に決別するからなのかもしれない。

 

「悟迹の休歇なるあり,休歇なる悟迹を長々出ならしむ。」現成公案

悟りを意識しない状態がある。その意識しない悟りを行においてゆうゆうと生きていくのである。

桃華は落ち、跡には春風の行のみが残る。

 

 

 

 

 

超訳

 

箴の字義は鍼で、転じて箴言のように戒めとして使われる。