現成公案 第一の巻

現成:諸法である個々の事物現象のこと

公案:仏法である普遍的理法のこと

 

 

本文研究

 

灰色 原典

黄色 疑問

緑色 私説解釈

 

私には残念ながら古文・漢文の教養がない上に、現代日本語の助詞の使い方がよくわかっていない。

緑色の松尾解釈は上記の欠点から出てくるものもあろう。

道元当時の日本語の使い方や道元特有の語感や表現の仕方をご指摘していただけたら、心から感謝いたします。

 

 

 

 

第一行

諸法の佛法なる時節、すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸佛あり衆生あり。

第二行

萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。

第三行

佛道、もとより豊倹より跳出せるゆゑに,生滅あり,迷悟あり,生仏あり。 

第四行

しかもかくのごとくなりといへども,花は愛惜にちり,草は棄嫌におふるのみなり。

豊倹:多い・少ない  有無。あるいは有無の対立。

跳出:超越。

生仏:衆生と仏。

 

 

教えてください

 

1 諸法と万法の違い

2 「の」の古典文法

3 仏法と仏道の違い

4 時節とは?

 

諸法と萬法の違い

「諸」とは、土の下に祝詞を入れたサイを埋めた呪禁を意味するので、形あるすべてのものを意味するのか

それとも、このサイを各所に埋めた「もろもろ」や「おおい」を意味するのか?

 

萬とは、虫のサソリからの象形文字だが、サソリや虫として使われた例がないという。

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しかし、甲骨文字ですでに数字として使われた例がある。

百は植物(どんぐり)、千は人間(集団)を万は動物(さそり)象徴として命名された。サソリは卵胎生で一度に多くの子を生む性質から多数の象徴となりえた。

サソリの形だから10000の意味があるのではなく、10000の桁(位)を表すために多数を象徴できる萬の図形が考案されたのである。漢字は「意味→形」の方向に見ることでわかることがある。

 

萬法は対象一般、自己が対象にする世界全体、それに対して諸法は個々の現象なのか?

 

仮説

諸とは「一つにつながっている世界」ではなく、「時空が分断されたこの世」の視点であることを意味するものではないか?

万とは「一つにつながっている世界」からの視点を意味するのではないか?

 

諸法と諸行

諸行とは世の中全ての物質的なもの、諸法とは非物質的なもの・・・ダンマ(宇宙の法則)や霊的なものあるいは生命などの形がないもののことと考えて良いのか?

 

諸法(すべてのもの)が仏法である時は、そのまま迷・悟があり、修行があり、生があり死があり、諸仏があり衆生がある。           秋山龍a「道元入門」

 

あらゆる物事のそれぞれが仏法、すなわち真理であるという立場に立つ場合、そこには迷悟があり、修行があり、生があり、死があり、諸仏があり、衆生があるというように、あらゆる物事の一つ一つが仏道の真理そのものを現すという立場に立つと、この生成しつつある現実は差別の豊かさとして現れているということになる。

西尾実 「日本古典文学大系 正法眼蔵」

参照

諸法  あらゆる物事のそれぞれ

万法  あらゆる物事のすべて

 

諸法の定義をすべてのものと、秋山氏やひろさちや氏をはじめとした多くの方が解釈する。

 

 

ここは仏法であるダンマに対して、他の法則の数々と解釈しない理由がいまのところ私にはわからない。

いろいろな宇宙法則があるが仏法であるダンマでは、ありのままに迷いも悟りも、生も死もここにある、といいきる。

具体的な宇宙法則(諸法)の共通項である法則(佛法)でいきるとき(時節)、すべてのものがある(迷悟、生死)。

 

ありとあらゆる事物現象が、いずれも、それ自体として自存している実体的な存在ではないという絶対の事実

の時節は、生も滅もない。

この時節とは、諸法の仏法なる時節とまったく同一の時節である。

諸法には我相がない。萬法には一つの自性がない。 森本和夫の正法眼蔵入門での解釈

 

 

佛法には我相へのこだわりがないが諸法には我相から構成されるものが多い。

萬法には自性があるのだが、われという自性が消えているときには、

 

「とも」にという助詞の使い方  萬法ともにわれにあらざる時節

 

 

 

2諸法の仏法なる時節        格助詞「の」の使用法とは?

 

諸法仏法なる時節    

格助詞「の」は 主格、連体修飾格、同格?

(1)【主格】 [訳し方]〜が =主語を表す

(2)【連体修飾格】 [訳し方]〜の・〜での・〜のような =連体修飾語をつくる

(3)【同格】 [訳し方]〜で・〜であって

(4)【体言の代用】 [訳し方]〜のもの・〜のこと

(5)【連用格】 [訳し方]〜のように =連用修飾語をつくる

 

1【主格】    諸法が仏法であるので、      諸法を仏法の見地から見ると

2【連体修飾格】 諸法の一つである仏法は      諸法の中の一つである仏法でこの世を見てみると

3【同格】    諸法である仏法では、       諸法とは仏法のことなので、

 

 

 

「の」の意味

格助詞「の」には連体修飾、部分の主語、名詞の代用、同格、並立などの用法があります。部分の主語、名詞の代用、同格に関しては別の語で言い換えられるので他と区別できます。

 

・私の本です。(連体修飾)

・母の作ったケーキはおいしかった。(部分の主語)→ 「の」を「が」で言い換えられる。

・辛いのが食べたい。(名詞の代用【準体言】)→ もの(名詞)で言い換えられる。例文の場合「食べ物」で言い換えられる。

・私が部長の吉田です。(同格)→ 「の」を「である」と言い換えられる。

・なんのかんの言って、結局はやらない。(並立)→「〜の〜の」と繰り返し使われる

 

 

終助詞「の」

終助詞「の」はふつう文末に置かれ、主張や質問を表します。質問の意味で使うときは上げ調子で読みます。

 

・もう帰りたいの。(主張)

・もう帰りたいの?(質問)

 

連体詞「〜の」

連体詞で「〜の」の形をとるものがあります。(例:この・その・あの・どの・ほんの・くだんの・かの、など)

・この本はおもしろい。

・ほんの気持ちです。

「本の気持ち」なら格助詞「の」(連体修飾)ですが、少しばかりの、という意味で使っている「ほんの」から連体詞と考えられます。

(※連体詞としない説もあります)

 

 

 

 

 

古語の格助詞「の」には、現代語の格助詞「の」と同じような働きがあります。

わが心のうちに ⇔ 私の心の中に

草の上に置きたりける露 ⇔ 草の上に降りていた露

公世の二位の兄 ⇔ 藤原公世の二位の兄弟

 

これらは古語でも現代語でも同じ働き・訳し方(=連体修飾格)をしていますね。

しかし、古語の「の」には現代語ではあまり見られない働きもあります。

まずは、どんな働きがあるかを押さえましょう。

格助詞「の」の主な働き(文法的意味)

(1)【主格】 [訳し方]〜が =主語を表す

(2)【連体修飾格】 [訳し方]〜の・〜での・〜のような =連体修飾語をつくる

(3)【同格】 [訳し方]〜で・〜であって

(4)【体言の代用】 [訳し方]〜のもの・〜のこと

(5)【連用格】 [訳し方]〜のように =連用修飾語をつくる

このうち(1)主格、(2)連体修飾格、(3)同格の3つは、文法問題でよく出されるだけでなく、古文を読解するうえで特に重要なので必ずマスターしておきましょう。

 

【主格】【連体修飾格】【同格】の見分け方

主格・連体修飾格・同格のそれぞれの見分け方は以下の通りです。

 

【主格】

[訳し方]  〜が

「の」を「が」と置き換えた時、主語として文意が通じます。

(例)月のいでたらむ夜は…。 月が出たような夜には…。

 

【連体修飾格】

[訳し方]〜の・〜での・〜のような

「の」の後に体言(人・物などの名詞)がきて、現代語の「の」と同じ使い方です。

(例)世間の人、なべてこのことあり。= 世間の人は、一般にこのことがある。

 

【同格】

[訳し方]〜で・〜であって

次のような形になる場合、同格の「の」であることがわかります。

1)「 A(末尾が体言) B(末尾が活用語の連体形)」  という形になる

2)Aの末尾にある体言を、Bの活用語の連体形の後に補ってみた時、

 A= B という関係で意味が通じる

少し難しいので、次の例文で詳しく説明しましょう。

 

(例)連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが…。

 

この例文の場合、

「(連歌しける)法師」が体言、

「(行願寺の辺にあり)ける」が助動詞「けり」(=活用語)の連体形

で、「 A(末尾が体言) B(末尾が活用語の連体形)」という形になっています。

 

次に、Aの末尾にある体言をBの連体形の後に補ってみると、

 

となり、

 

という関係が成り立ちますね。

つまり、この例文での「の」は同格であることがわかるのです。

「同格」というぐらいなので、「の」の前後にある A と B は同じ対象のことを表しているわけですね。

また、同格の「の」を含む文を現代語訳する時には、

・「の」は「〜で・〜であって」と訳す

・ A の末尾にある体言を B の連体形の後に補って訳す

ということを覚えておきましょう。

先の例文ですと、

(例)連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが…。

   =連歌をしていた法師で、行願寺の付近に住んでいた法師が…。

と訳します。

格助詞「の」が、例えば「同格」なのか「主格」なのかによって、読み取れる内容は大きく違ってきます。つまり、「の」の識別ができるようになると、文法問題だけでなく、読解をするうえでもより正確に文章の内容をとらえられるようになるのです。

【アドバイス】

「の」は非常によく出てくる語の1つなので、それがどのような働きをしているのか、普段から意識しながら古文を読むようにするとよいでしょう。

 

 

仏法と仏道の違い

 

仏道

ヒトが仏法を学び実践していくプロセス

 

佛法の佛道の違いは?

「虚空の法則であるダンマ」と「解脱を目指す修行の過程」の違いではないか?

ダンマは「空」と分別が同時にあることを示し、

修行は空と分別の間を行き来しながら求めるので、大切なのは「繰り返しの行為」であることから、分別がある次元である「正滅」が必要不可欠である。

 

佛道と仏教の違いは?

現代語訳の石井恭二氏のように、佛道を仏の教えと変えて訳する人もいる。

修行の実践によって感じられる体感とブッダの教えの違いではないか?

また仏教にはブッダの教えと寺院の教えと歴史的解釈の教えと同じ教えでも内容の違いが大きい。

 

 

 

4時節の意味とは

時節とは、この時は〇〇、あの時は〇〇という条件節ではなく、

時(time)という分節のことを意味する。

すべてがつながっている境地(時空がいまだ分かれていない仏性)が分節されることで時間を持つ世界になることを「時節」という単語をつかって表現している。

すべてがある「空」が具体性を持つ「色」に分節される時に、時間も空間も顕れる。

他の文献ともある「時節」と比較が必要である。

 

時節が、もし至ればというように条件となるのならば、仏性はやってこない。

時節が条件となることはいまだかつてなく、仏性の現前しない仏法はない。

時節とは、つねに全時節なのであり、絶対の時節である。

これ以外の時はない絶対的なものであることを意味している。トポスのように。

もし至らば、というように条件文的に読むことをしりぞけ、すでに至れり、という意味だと道元は強弁をする。

 

 

 

 

 

 

われ

サンスクリットの気息の意味であるアートマンの漢字訳では我、己、自、自性、自身、自体、神と訳された。

そのものがそのものとしてある実体的な存在。

 

無差別の時節である仏道は、生滅がある。

 

それはそうだが、花は愛され惜しまれて散り、草は嫌われて捨てられながら、生えるばかりである。 秋月師

道元の「正法眼蔵」から理だけをくみとる者にのろいあれ

 

下の現代語訳は曹洞宗僧侶の佐藤隆定によるもの   一般的な解釈として参考にする。

あらゆる事柄は仏法であり、この世界には迷いや悟りがあり、修行があり、生があり死があり、仏があり衆生がある。

また、あらゆる事柄に区別を使わなければ、仏と衆生や、生滅といった違いは存在しなくなる。

仏法は豊かとか少ないといった区別に囚われておらず、生滅や迷悟や仏や衆生がある。

また、そうであったとしても、愛でる花が散れば心に惜しい気持ちが起こり、庭から雑草が生えてくれば心は嫌悪を抱く。

 

 

中論からの解釈  仮空中

「いろいろな真理を,文献や説教で説明するには,どうしても『迷い』や『悟り』,『修行』や『証果』,『生きること』や『死ぬこと』,『仏』と『凡夫』という言葉を使わざるを得ない。」(これが質問の箇所。)

 

「すべての真理を『諸法無我(いかなる存在も、永遠不変の実体を有しないということ)』に照らしてみれば,『迷い』や『悟り』,『仏』と『凡夫』,『生じること』や『なくなること』は,(相互に『対比』や『原因と結果,その過程』で関連し合っているので,)違いは,ないに等しい」。

 

「しかし,悟りへの道は,多い少ないということを論議する行為さえ,執着しないのだから,(現実には)『生』と『死』,『迷い』と『悟り』,『凡夫』と『仏』に違いに,(こだわらずに)見つめようではないか」。「さらに,『諸行無常』・『諸法無我』と言っても,(雑草と花の区別は人間のモノサシであり,花は散ってしまう定めで無常であるが,『現実に目の前で』)花は愛され惜しまれて散り,雑草は嫌われ捨てられてしまうのに決まっているのだ」。

 

『十二因縁(無明から老死まで)』を説明する仏典で明らかなように,

「ものごとの真実を知らない根源的な無知を原因として、【自分と他人、あれとこれといった対立的なものの見方をし、さらには自分勝手に、好きと嫌い、良いと悪いを区別し、執着して】、自ら生死を繰り返す苦しみの生存を作り出している」のです。

「執着というものがある,これに気付き,そしてこれをコントロールせよ」というところから,分かりやすく特に初期仏典で述べられているのです。

『法華経方便品』にも,「邪見の稠林 有または無に入る(誤った考え方をすれば,ある・ない,のどちらかだと迷いの見方しかできなくなってしまう)。」と書いてあります。

 

しかし,そんな「五蘊」や「四諦八正道」や「十二因縁」という言葉まで,否定してしまったのが『般若心経』です。一切の人間のモノサシ(執着)から離れれば,苦しみはなくなるのです。

◎空のままでいいか

確かに『諸行無常』・『諸法無我』です。でもそれではなんでもナシになって方向感覚がなくなってしまいませんか。虚無主義になりませんか。「こだわらない」にこだわっていませんか。

 

目の前に突きつけられたもの。これを見つめ解決しなければ,空論です。

道元禅師は、【この世界の一切の現象がそのまま絶対の真理であること】を『現成公案』と呼んだのです。

 

 

 

法 ダンマ =仏法

漢字の「法」とはパーリ語のダンマのこと

ドリという動詞からできたダンマ 支え持つ、保ち持つ、を意味する。

ありとあらゆるものを支え持つもの、すべての根拠、すべてのものをしてあらしめるものが法(ダンマ)である。

すべてのものはダンマに支えられて存在し、ダンマに生かされてある、絶対普遍的な理法であり、仏法そのものにほかならない。

ダンマが普遍的理法を指すと同時に、そのような理法に支えられて生かされて成り立っているすべての事象や現象をも指すのである。

宇宙の森羅万象のすべてが、ダンマである。

個々の事物現象(諸法)は普遍的理法(仏法)である。

個々の事物であるモノは実体的にとらえてはならず、あくまでも現象にほかならないことを見逃さない必要があり、仏教の根本的な原理は「空」なので、実体的なものは何事も存在せず、すべては「縁起」と呼ばれる関係性によって現出している事象にほかならない。

諸法と仏法はダンマの両側面を表している。

分断された世界での法則とつながっている世界での法則という二面である。

 

ブッダという名詞のもとになっている「ブド」という動詞は、知る、認識する、理解する、という意味である。

これが覚者と訳される由縁である。

 

 

はじめの四行をまとめて考えると

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。

仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。

 

1 境のある閉じた世界   断定したがる   答えのある世界  出会いの世界 衝撃  対象物

2 対象のない開いた世界  得体が知れない  問いの世界    主体と対象を分離しない

3 境で遊ぶ世界      行為する主体としての自己の生成     解体と再構築

1が「分別のある世界」、

2が「一つにつながっている世界」 「空」の世界 

3が「空」を体感して、主体と対処と区分することから始めるやり方を一度ちゃんと解体して、次に「いま・ここ」の視点で自分と親しきモノとの関係性を第一として再構築された世界」

3では〇〇は☓☓であるということができない。

 

 

1の世界は、縁起の観点から見た場合、Aと非Aの意味区別として現れてくる。対概念の根底にある構造である。

「これは机である」と認識する自己と、認識されたる対象の机それぞれ自らの存在に確たる根拠を持って、独立自存しつつ対峙しているわけではない。ということをこれらの段落が言いたいことである。

 

因果関係ではなく縁起の関係性次元にいることを自覚して、大脳皮質の二元論的世界から「跳び出る」

すると前とは違う境で仕切る自己と対象物が生成されて現れる。

このための生活実践は出会い、関係、差異の尊重である。

他者の立場に想像力を働かせつつ相手を受け止めること。 慈悲の実践。 

他者も自分とつながっているのだから、利他行も利己行も違いはない。

これらの自覚を可能にするのが坐禅である。

 

 

現成公案第五行

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

 

修証  

自らが仏の存立根拠そのものになること。

さとっていく仏となって証を立てる。修行して悟る

修行は、証悟を目的とするのではなく、それ自体が証悟そのものでなければならない。証悟を得るための手段となったとき、修行は汚れるのであり、したがって証悟も汚れるのである。

 

 

迷を大悟するは仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。

 

迷ったら、それはこの世をありのままに感じる良い機会である、と先達はとらえ、

もう悟ったとして日々の精進を怠るのが、私である。

 

 

根本に遡って皆同じ素質を持った者だという考え方に立てば、大いに悟るというのも、悟に迷っておるというのも、結局は同じことだ。

畢竟は迷悟一徹である。迷底に悟り悟低に迷う。迷うて迷い抜くと、悟ったものと一つになる。悟って悟り抜くとと、迷うたものと同じになる。

 

 

さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。仏のまさしく仏なるときは、自己は仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

 

 

 

身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

 

五官と意識を使って見たり聴いたりすることで情報を取得することはできるが、鏡に物が映ったり、水に映る月のように、同時に二つが一つとなる渾然一体と共鳴することはできない。一つが主となると、他方は気が付かなくなる。

 

教えてください

 

 

 

 

 

仏道をならふといふは,自己をならふなり。 自己をならふといふは,自己をわするるなり。

自己をわするるといふは,万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるといふは,自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

悟迹の休歇なるあり,休歇なる悟迹を長々出ならしむ。

脱落:解脱。本来自己を束縛するものはなかったと気づくこと。

悟迹(ごしゃく):悟りの迹(あと)かた。

休歇(きゅうけつ):消してなくすこと。

悟迹の休歇なるあり:悟りの迹かたはまったくない。

長々出(ちょうちょうしゅつ)ならしむ:永遠に続けなければならない。

休歇なる悟迹を長々出ならしむ:悟りのパターンは消えてなくなるので、ずっと次々と悟り続けねばならない。

 

現代語訳

仏道を倣うには、自己をならうことである。 自己をならうには、意識を使うのを休めて自己への執着を離れて、自己(意識)ではない自分(魂)を発見することである。

表層の自己意識から深層にある魂のレベルにダイブすることでる。

自己を忘れるとは、ありとあらゆるものから確かめられていることである。

それは、自己と他己の身心の区別を超越し、大悟徹底することである。

 

仏道は答えを自分の中に求めるのではなく、すべての現象の中にある自分を見つけることであり、それが自己であり、それでしか自己を証すことができない。

このように自己を感じているときは、自分の体も意識にも限定されていない状態であり、これを身心脱落という。自分を認識する自己意識を脱落させることで「元からある自己(真の自己)」が顕れてくる。これが万法によって明らかにされている状態のことである。

 

また、一旦悟っても、現象の中にしかない自己は次々と変化するので、悟りのカタチは消え去ってしまうので、ずっとこれからも次々と修し続けねば意味がない。

解釈とコメント

この文段は「現成公案」の中心的部分と言える。

ここでは仏教の目的は「自己究明の禅修行によって自分を明らかにし、自己への執着を離れ、

悟後でも悟り続けねばならない」と言っている。

 

 

人,はじめて法をもとむるとき,はるかに法の辺際を離却せり。

法すでにおのれに正伝するとき,すみやかに本分人なり。

法すでにおのれに正伝する:大悟徹底する。

本分人:自己を究明して、本来の自己に落ち着いている人。

 

現代語訳

人が仏法を求める時には,仏法の本質からはるかに離れていることが多い。

これに対し,大悟徹底しているときは,本来の自分にめざめ本来の自己に落ち着いている。

人,舟にのりてゆくに,めをめぐらして岸をみれば,きしのうつるとあやまる。

目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、

身心を亂想して万法を弁肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。

もし行李(あんり)をしたしくして箇裏に歸すれば,万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

弁肯(べんこう)する:自己の問題として納得すること。

弁は力を尽くして励むこと、肯はうけがうこと

自心自性     ヒトのマインド(考え)、ヒトの本性

常住:不変。

行李(あんり):自身の行動。ここでは仏道修行。

行李をしたしくして:実参実究して、

箇裏(しゃり):ここ。Now & Here 自分本来の面目。真(本来、寝ている時)の自分(内臓感覚)。

万法のわれにあらぬ道理:諸法無我の道理。

万法のわれにあらぬ道理あきらけし:諸法無我の真理が明らかになる。

現代語訳

人が船にのっている場合、 岸にぼんやり目を向ければ,岸が動いているように見える。

こんどは,船に目を向けると,船が進んでいることがわかる。

これと同じように、身心を乱想する者は,自心と自性が常住不変のものだと見誤り、常見に陥る。

しかし、修行に親しめば、諸法無我の真理が明らかになるだろう。

解釈とコメント

身心の乱想をやめるためには、自己を忘れて身心を脱落せしめること。

ここでは正見をもって修行に親しめば、法無我の真理が明らかになると言っている。

自己意識を基準にしてしまうと、船が動いているのに、陸が動いているように見えることがある。いつも自己を基準にしていると、ありのままのこの世の状態を勘違いしてしまう。自己を基準にした認識では、この世をありのままに捉えることができないという道理は明らかである。

 

たき木,はひ()となる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。

しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。

しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。前後ありといへども,前後際断せり。

灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。

かのたき木、はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち,さらに生とならず。

しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。

死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。

たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

法位(ほうい):法としてのあり方。 存在のあるがままの姿。 縁起の次元のすがた

個々の事物現象であると同時に、絶対普遍的な理法の位置、状態。

法華経方便品に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と、法位という言葉が出ている。

前後際断せり:前(薪の時)は薪だけ、後(灰の時)は灰だけで前後がはっきり分かれている。

前際の過去、後際の未来、中際の現在と合わせて三際と呼ぶ。

法輪:転輪聖王(古代インドの理想的な王)が持っている全てを破壊する武器。

法輪を転ずることを仏の説法にたとえて転法輪という。

初転法輪は仏の処女説法という意味である。

一時: 同時無時のこと。生は生で、その時の全体であり、死は死で、その時の全体である。生という時や死という時もあるというような相対的な「一時」ではない。

 

現代語訳

薪は,灰になる。灰からもとの薪に帰ることはない。だからといって、灰が後で薪が先ととらえてはならない。

よく考えれば、薪は,薪という法位にあって先と後がある。前後はあっても,前後ははっきり分かれている。

灰は,灰という法位にあるものである。そして後と先がある。 

「薪は灰になった後また薪にもどることはない」ように、人は死んだ後また生とはならないのである。

生は死になると言わないのが仏法の立場である。死はあくまでも法位であって生ずることはない。

それ故に、不生と言う。

死は生にならない。これも仏法のきまった立場である。死はあくまでも法位であって滅することはない。

それ故に、不滅と言う。

生も死も、一時の法位である。

たとえば、冬・春のようなものである。冬を春になる前とは思はず、春を夏になる前とは言わないのと同じである。

 

解釈とコメント

この文段では道元は法位という独特な言葉を用いている。

前後はあっても,前後ははっきり分かれている。

生が死になることもないし、死が生になることもないということがよく分かる。

よく生から移って死になるということを考えがちである。

しかし、道元のこの考え方から生も死も,一時の法位である。

前後はあっても,前後ははっきり分かれている別の法位(異なる状態)であると言っている。

生が死になるものでもない(不生)し、死から生になるものでもない(不滅)。

「生と死は独立した別の状態(法位)だ」と言っていることが分かる。

一般的には薪は灰になると思って暮らしている。

しかし仏教では生(薪)が死(灰)になるとは捉えない。

生と死は別ものである。

あるTPOでは薪となり、あるTPOでは灰となる。

どちらも同じ「空」から生じた別のカタチである。

同じ「空」から生じたのだからどちらも同じともいえるし、この世ではカタチが違うのだから別ものともいえる。

薪が灰になるのではい。

あるのは前後の関係性だけだ。

前後があるので、一般的にはそれをみて因果関係を作り上げてしまう。

しかし薪と灰の間には因果関係はなく、薪は薪であり、灰は灰である。

ある状態の時には薪と呼び、ある状態の時には灰と呼ぶだけである。

「空」とのつながりを考慮しないで、現象だけにとらわれていると、なんでも因果関係を結ぶようにヒトの脳は作られている。

この事実に気づいていなさい。

 。     

 

 

不生と不滅について

「正法眼蔵弁註」天桂 江戸時代

「遺稿」 沢木興道師

此の段は奥の院である。宗門の奥義である。生死の大事の決せらるる処である。

「不生の生なれば死になるべからず。不滅の滅ならば生になるべからず」。結局生死は存せず。生死は只時なり。この一時一時に力を得れば安心決定するなり。大事というは、今日、今、ココで一回ぽっきり。只向かふ向きに進むばかりなり。

 

一時: 同時無時のこと。生は生で、その時の全体であり、死は死で、その時の全体である。生という時や死という時もあるというような相対的な「一時」ではない。

「生也全機現、死也全期限」圜悟克勤11世紀

生に来あらず、生は去にあらず、生は現にあらず、生は成にあらざるなり。しかあれども、生は全機現なり。

しるべし、自己に無量の法あるなかに、生あり、死あるなり。

 

 

別巻第四の生死参照

 

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。 月ぬれず、水やぶれず。

ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、

くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。

人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。

ふかきことは、たかき分量なるべし。

時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狹を弁取すべし。

月:悟り。

水:われわれ。

弥天(みてん):須弥山世界(須弥山世界観を参照)(須弥山世界観を参照)。満天。

罣礙(けいげ):さわりになること。さまたげること。邪魔すること。 ひっかけるもの、関わりを持つもの

アーヴァラナ(梵) 覆い隠すものが原典の意味だが、漢字だと関わりを持つという意味に用いられてきた。

時節の長短:修行の時節の長短。修行力の質であり、相対的な長短ではなく有無。

大水小水:仏道修行や悟りにおける幅や大小や適応性であり、熟・未熟や、深浅ではない。

検点:点検と同じ。

天月の広狹:悟りの大小深浅。ここでは月光を悟りに譬えている。

弁取はんしゅ:弁別し、明瞭にすること。

現代語訳

人が悟りを得る様は,水面に月が映って宿るようである。

水に月が映っても、月は濡れず,水は破れることはない。

月光は広く大きな光でありながら,小さな水にも宿る。

月も天空も,草の露にも、一滴の水にも宿る

(月や天空を写している小さな一滴の水が,人が悟りを得るさまに近い)

それと同様に、悟っても、人が変わるわけではない。それは、月が水を変えないのと同じである。

人が悟りを妨げないのは、滴露が天月が映るのを妨げないのと同じである。  

そしてその映っていることの深いのは、月の高いことによるのであろう。

修行の長短が、水の大小とそれに映る天月の広狭(こうきょう)に関わる。

(だからといって、悟りの質に変わりはなく、映すのは全天であり全月である)

解釈とコメント

長短

「画餅」「長短を超越せるもの、ともに書図の産学ある道取なり」    意味がわからない

「仏性」「或現長法身、或現短法身なるべし」

「三十七品菩提分法」 観法無我は、長者長法身、短者短法身なり。

などを参考とすると、長短は、分量の問題ではなくて、有と無の問題である。

身心に法いまだ参飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。

法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり。

たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、

さらにことなる相みゆることなし。

しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。

宮殿のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。

ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。 かれがごとく、万法またしかあり。

塵中格外,おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。

万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、

よもの世界あることをしるべし。

かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

参飽:修行が充分身に付くこと。

ひとかたは,たらずとおぼゆるなり:一面には物足りなさを感じる。

方:四角。

海徳:海が海としてある功徳。同じ水でも立場によって異なる姿に見え、異なる作用をする。

人間には水として見え水として用いるが、魚は住処と見て、住処として使用する。そのような海が持つ功徳。

塵中:五欲六塵の凡夫の世界。世俗の世界。 

格外:出世間。出家の世界。

塵中格外:世間と出世間と。世間的に見ても仏法から見ても。

おほく樣子を帶せり:複雑多様である。

参学眼力:修行して開けてくる眼力。

よもの世界:四方の世界。

直下(じきげ):自分の足もと。自分自身。

 

現代語訳

身心に仏法が充分に体得されていないあいだは、仏法がすでに充分に足りていると思われる。

逆に、仏法が身心に充足してくると,まだまだ不十分だと思う。

たとえば、船に乗って,周りに山のない海に出ると、世界はただ円く見えるだけで、それ以外の形は見えない。

しかし、この大海は、円くもなく、四角でもない。それ以外の海徳が、限りなくある。

それは魚にとって宮殿のようであり、天人にとって瓔珞(装飾品)のようである。

自分の眼ではただ円に見えるに過ぎない。

仏法もまた、この海のようである。世間の法も出世間の法も複雑で豊かなのだが、

修行によって得た眼力が及ぶところだけで理解し会得するだけである。

仏法のあり方を求めようとするならば,方円と見えているものがすべてなのではなく、

その他に海徳山徳のような価値あるものが無尽蔵な広大な世界があることを知るべきである。

これは自分と関係のない周囲の外界だけではなく、自分自身も、そして水一滴も、このようだと知るべきである。。

 

解釈とコメント

「山水経」巻に「一水四見」の喩えについて書かれている。 魚の宮殿、天人の瓔珞、餓鬼の膿血、人の飲水。

 

うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。

しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。

只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。

かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、

鳥もしそらをいづればたちまちに死す。

魚もし水をいづればたちまちに死す。

用大のときは:用い方が大きければ。

頭頭に邊際をつくさずといふ事なく:ものごとの一つ一つに仏法の真実がつくされていないことはなく。

 

現代語訳

魚が大海の中をいくらいっても際にぶつからず、

鳥が空をいくらいっても際にぶつからない。

けれども,魚・鳥は,これまでずっと,水・空を離れない。これと同じように人間も仏法の大海の中にいて、

そこから離れることはないのだ。

ただ,鯨のような大魚は大きく海水を使い、えびや雑魚のような小魚はわずかに海水を使う。

このように、用が大きいときは水・空を大きく使い,用が小さいときは小さく使う。

このように,我々もそれぞれがその用の大小に応じて生きている。

とは言っても、鳥がもし空を出てしまったらたちまちに死ぬように、

人も仏法の大海を出てしまったらたちまち死んでしまうだろう。

解釈とコメント

仏法を学び、それが身心へ馴染んでいく時には、魚が大海の中を泳いでも海水を意識しない。

また、鳥が大空を飛んでも空を意識しないように、仏法を学び、それが身心へ馴染んでいく時には、

仏法を意識しないようになる。

仏法の修行は大海や大空のように際限もなく広大で深いと述べている。

道元がここで言っている仏法とは、たんなる宗教(狭義の)ではなく、宇宙の摂理を含む自然界の真理や法則を含んでいるような印象を受ける。

すべての学びきってから歩むのではなく、自分の必要な分だけ悟って一歩一歩すすんでいけば、後は自然に道が見えてくる。迷いながら歩んでいくのが大切である。

 

以水爲命しりぬべし、以空為命しりぬべし。

以鳥為命あり、以魚為命あり。

以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

このほかさらに進歩あるべし。

修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

以水為命:魚は水を命として生きること。

以空為命:鳥は空を命として生きていること。

その寿者命者あること、かくのごとし:我々のほんとうの寿命や生命の姿はこのようなものである。 

現代語訳

魚は水があって命があり(生きることができ)、鳥は空があって命がある(生きることができる)。

鳥があって、命があり、魚があって,命がある。  命があって、鳥が生き、命があって,魚が生きて我々参禅修行者は現状に満足することなく、さらに向上進歩し人境不二の世界に至らなければならない。

人とは見る主体、境とは見られる客体、すなわち、目前に羅列する森羅万象一切のことを意味する。

この「人」と「境」は対立しているようですが、本来的には「一無位の真人」が入っては主観の「人」になり、出ては客観の「境」となる関係です。

たとえ、境不二の境地に至っても、さらにどこまでも、前進また前進と修証を重ね進歩しなければならない。

我々の本当の寿命や生命の姿はこのようなものである。

解釈とコメント

鳥がもし空を出てしまったらたちまちに死に、魚が水を出てしまったらたちまちに死ぬように、

我々も仏法を離れたら生きることができない。

我々仏道修行者は鳥・魚が外境である空や水と一体となるように、

人境不二の境地に至らなければならないと述べている。

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、

水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。

このところをうれば、この行李(あんり) したがひて現成公案す。

このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。

このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、

さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

行李(あんり):日常生活。

行李(あんり) したがひて現成公案す:日常生活は活きた仏道そのものである現成公案(現成  現実成就 公案 絶対真理)となる。

このみちをうれば,この行李したがひて現成公案なり:この仏法の真理を悟ることができれば

その人の日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となるだろう。

現代語訳

しかるに、人は、ともすると知識にばかり走って、実践をおろそかにする。

知識の上から水を究め 、空を究め てから、水・空を行こうとする魚・鳥がいるならば、

その魚・鳥は水・空に道を得ることができないし、居場所を得ることもできないだろう。

もし、我々が仏教教理を思想的に究め尽くしてから、坐禅修行に入ろうとするならば

いつまで経っても悟ることはできないだろう。

参禅修行を通して安心立命できれば、その人の日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となる。

仏法の真理を悟ることができればその人の日常生活は活きた仏道そのもの(現成公案)となるだろう。

悟りの世界には、大・小も,自・他もない。仏法の真理は前からあったというものでもなく、いま現れたというものでもない。

ただそのように人々が本来具有しているのである。如是!

 

解釈とコメント

知識や思想的に仏法(禅)を研究しても悟ることはできないと、仏法における実践的修行の大切さを強調している。

また仏法の真理は前からあったというものでもなく,いま現れたというものでもない。

しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。

これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきはの、しるからざるは、

このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。

証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

 

 

得一法(トク イッポウ)通一法(ツウ イッポウ)       一つの物事に会えば、そのことに心を注ぐ

遇一行(グウ イチギョウ)修一行(シュ イチギョウ)      一つのなすべきことに会えば、そのことを専一に行う

しらるるきは:知ることができる辺際。知ることができる全体。

仏法の究尽(ぐうじん):仏法の究極、仏法の真実のところ。

同生し、同参する:不二一体になる。

得処:得一法通一法の修行(坐禅)で得た処。

証究:得一法通一法の修行(坐禅)で証究した処。

密有:親密な存在。 「密語」の巻  密は、・・・無闥fなり、蓋仏祖なり。蓋汝なり、蓋自なり。・・

蓋とは「おおう」の意で、密とは全存在を覆う普遍的で切れ目のないあり方。

密有かならずしも現成にあらず:親密なものはかならずしも見えるものではない。

何必(かひつ):なんぞ必ずしも。

見成これ何必なり:必ずしも見えるものではない。

「見成これ何必なり」とは、現実に目前に現れている事物は皆尽十方界真実であるから、

その時その時の尽十方界の環境に素直に随順して、全て受け入れていくことだという事である。

そしてこれが、現成公案の信仰だと考えられている。

 

現代語訳

そのようであるから、仏道を修証する時は、一法を得てからそれに通じるようになり、

一行に出会ってからそれを修める、というぐあいに修行が着実に進歩して行く。

この遇一行修一行の修行によって、道ができることによって仏法の際限が知られてくる。

しかし、その際限をはっきりと知ることはできない

どうしてそうなるかというと、知るということが、仏法の究極のところと不二一体となれば

われわれの意識にのぼらないからである。

修行によって得た処は,必ず自分の知見(知識見解)となるが,得一法は意識にのぼらないため、思慮分別によって知られるものではない。

修行によって証究した処はたしかに体現することになるが、自分に親密なもの(絶対普遍的存在)はかならずしも目に見えるように知られるというものでもない。

そうであっても、現実に目前に現れている事物を素直に、受け入れていくしかない。

 

解釈とコメント

修行によって証究した処はたしかに体現することになるが、自分に親密なもの(法)は

かならずしも目に見えるように知られるというものでもない。

そうであっても、現実に目前に現れている事物は素直に、受け入れていくしかない。

見性を嫌った道元 「四禅比丘」巻

仏法いまだその要、見性にあらず。・・・六祖壇経に見性の言あり。かの書これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、

 

この次のO文段には麻浴宝徹の「無処不周底」の公案が出て来る。

この公案はN文段の最後の行の「証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、

見成これ何必なり」という言葉と関連している。

それとともに、「無処不周底」の公案は「現成公案」のまとめになっている

 

麻浴山(まよくざん)宝徹禅師、あふぎをつかふ。

ちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり。なにをもてか、さらに和尚あふぎをつかふ?」。

師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだ「ところとしていたらずといふことなき道理」をしらず」と。

僧いはく、「いかならんかこれ「無処不周底」の道理?」。

ときに、師、あふぎをつかふのみなり。

僧、礼拝す。

麻浴山(まよくざん)宝徹禅師:麻浴宝徹(まよくほうてつ)。馬祖道一の法嗣。

法系: 六祖慧能→南嶽懐譲→馬祖道一 → 麻浴宝徹

風性:ここでは仏性をさす。

風性常住,無処不周:仏性は常住にして周(あまね)からざるところ無し。

脳と外界の相互作用は電磁的であるので遠隔相互作用の世界である。

そのため、脳宇宙は遠くまで大きく広がりをもつと実感されるのである。

(「臨済録」示衆14−5を参照)。      

仏法の究尽(ぐうじん):仏法の究極、仏法の真実のところ。

 

現代語訳

麻浴山に住む宝徹禅師が扇を使っているところに、僧が訪れた。

僧は聞いた、「『風性は、つねに、どこにでもある』と言われています。それなのに何故、和尚は扇を使うのですか?

禅師は答えた、「「あなたは,『風性は、つねにある。』という道理を知ってはいても、

『未だどこにも至らないところはない』という道理をまだ知らない」。

僧は尋ねた、「『未だどこにも至らないところはない』という道理は、どういうものですか?

禅師は扇を使うだけだった。

僧は これを見て禅師を礼拝した。

 

解釈とコメント

風性を「仏性」の比喩として用いた借事問であることが分かる。(借事問については無門関15則を参照)。

僧の「風性は、つねにあり、どこにもある」と言われています。それなのになぜ、和尚は扇を使うのですか?」

という質問は

「『衆生本来仏なり』で仏性は、つねにあり、どこにもある」と言われています。

それなのになぜ、修行して悟りを開く必要があるのですか?」という意味になる。

禅師の答え、「あなたは,『風性は、つねにある。』という道理を知ってはいても、

『未だどこにも至らないところはない』という道理をまだ知らない。」とは

「あなたは、『衆生本来仏とか一切衆生悉有仏性』ということを一応心得ているようだが、

『仏性が未だどこにも至らないところはない』ということをまだ知らない」という意味になる。

そこで僧は「『仏性が未だどこにも至らないところはない』という道理は、どういうものですか? 」と尋ねた。

しかし、禅師は黙って扇を使うだけだった。

   

本来本法性身なら、発心修行は要るまいというのは一徹じゃ。しかしそうではないのじゃ。本来本法性身だから発心修行するところに、法がわがものとなるのである。わがものをわがものにするのじゃ。「啓迪」

 

 

仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。

風性は常住なるがゆゑに,仏家の風は,大地の黄金なるを現成せしめ,長河の蘇酪を参熟せり。

正法眼藏現成公案第一

これは天福元年中秋のころかきて,鎭西の俗弟子楊光秀にあたふ。

建長壬子拾勒

仏法の証験:仏法の実証体験。

正伝の活路:正伝の仏法の活路。

大地の黄金:大地から産出する黄金。

長河:長江(揚子江)。

蘇酪:牛乳を煮詰めて作る美味しい飲み物。

長河の蘇酪:揚子江流域で取れる熟成した蘇酪。

佛家の風は,大地の黄金なるを現成せしめ,長河の蘇酪を参熟せり:仏法の真風は、

「大地から出現する黄金」や「揚子江流域で取れる熟成した蘇酪」のようなすばらしい安楽世界を実現させる。

天福元年:1233年。  道元34

鎭西:九州太宰府。

建長壬子拾勒:1252年。道元の死去の前年。

 

現代語訳

仏法の悟りの確かなしるし、その仏から仏へと正しく伝えられた生き生きとしたあり方は、まさにこのようなおのなのである。常住なのであるから扇を使うべきではなく、使わないときにも風を身に感じるはずだというのは、常住ということもわかっておらず、風性もわかっていないのだ。風性は常住であるからこそ、仏家の風(仏教者の修行の流儀)は、本来黄金である大地を現成させ、長河の水を本来の蘇酪へと熟成せしめているのである。

仏性はつねにある。

それゆえに、仏法の真風は、「大地から出現する黄金」や「揚子江流域で取れる熟成した蘇酪」

のようなすばらしい安楽世界を実現させる。

そのような素晴らしい仏家の真風を修行を通して証明していかねばならない。

風性をも知らぬなり、風性は常住なるがゆえに。

 

正法眼藏現成公案第一

これは天福元年(1233年)秋に書いて,九州大宰府の俗弟子楊光秀に与えた。

1252年。

 

解釈とコメント

「顕密の二教ともに談ず、本来本法性、天然自性身と。もしかくのごとくならば、すなわち三世の諸仏、なにによってか更に発心して菩薩を求むるや」という若年の道元が逢着した根本的な重大問題に関わるものとして読むことができる。

風性は、法性であり、自性であり、さらには仏性である。

扇を使うことは、修行、実践にほかならない。

 

「悟迹の休歇なるあり,休歇なる悟迹を長々出ならしむ。」現成公案

悟りを意識しない状態がある。その意識しない悟りを行においてゆうゆうと生きていくのである。

桃華は落ち、跡には春風の行のみが残る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

超訳

この世の表層には上下、左右、内外がある。

この世の深層は、あの世ともすべてがつながっていて「一つ」なので、上下も左右もない。

「道」とはこの表層の上下・左右をつかって深層の「一つ」にいたり、また表層の上下・左右の世界でちゃんと生きることである。

だから喜んだり悲しんだりしても、これに執着することはない。

 

自分が悟りに至るのではない、つながっている世界が私たちを導いてくれるのだ。

迷いもまたよし。悟りにこだわることはない。

 

私たちの五感と意識では、表層と深層を同時に見ることができない。

寝ている時には夢は見るが意識は働かず、起きている時には深層を覗くことができない。

2つを同時に見えるのは表層と深層の「間」にあるほんの瞬間でしかない。

この両方を同時に体感するために坐禅のトレーニングをするのである。

 

 

「道」とは、表層の自己意識でこの世に接することを忘れて、ダンマ(宇宙の法則)に約束されることにあり。

表層の自己意識から深層にある魂のレベルにダイブして、そこで生きることである。

 

また、一旦悟っても、自己意識で認識できるこの現象の世界は悟りのカタチとともに変化し消え去っていくので、これからも次々とずっと悟り続けていくことでしかない。

人が仏法を求める時には,仏法の本質からはるかに離れていることが多い。

これに対し,大悟徹底しているときは,本来の自分にめざめ本来の自己に落ち着いている。

 

例えば駅で自分が乗っている電車が動いたのに、まるで動かないはずの外の景色が勝手に逆方向に動いているかのように感じてしまうことがある。

 

これと同じように、「わたし」の認識を中心にして、ここを基準にしてしまうと、この世をありのままに捉えることができずに、見た目の表面的な常識の世界が真実だと思って暮らすことになる。

しかし、トレーニングに親しめば、「わたし」が中心ではない、という真理が明らかになるだろう。

 

わたしが中心にいる分断されている世界と、なにもがつながっている「一つ」の世界とがあることを理解するのがいい。

境界線がしっかりある表層の世界と境界線のない深層の世界では、感じ方や違い、時に真逆に見えることがある。

 

例えば焚き火。

薪を燃やすと灰になる。

表層では薪が灰になるように見える。

しかし深層では生(薪)が死(灰)になるとは捉えない。

生が死になるのではない、生と死は別ものである。

 

「すべてがつなっている一つの世界」があるTPOでカタチになって薪となり、あるTPOでカタチとなって灰となる。

どちらも同じ「一つ」から生じた別のカタチである。

同じ「一つ」から生じたのだから深層では、どちらも同じともいえるし、この世ではカタチが違うのだから表層では別ものともいえる。

大事なのは薪が灰になるのでない。生が死になるのではない。

 

表層にあるのは前後の関係性だけだ。

薪は灰になるが、灰は薪にならない。

表層だけにこだわっていると、この前後関係だけで原因と結果の関係cause and effectを作り上げてしまう。

 

しかし深層では、薪と灰の間には原因・結果の関係はなく、薪は薪であり、灰は灰である。

ある状態の時には薪と呼び、ある状態の時には灰と呼ぶだけである。

例えば地中で薪を燃やすと灰にはならず炭になり、太陽の近くでまで薪を運んでいければ灰も燃えて何も残らない。

深層にある仏教の因果と、表層にある物理の原因・結果の関係とは別物である。

だから仏教の因果は、地球に限定されている物質の枠組みの外の関係性までも含めてしまうので、すべてがつながっている世界も含めた関係なので、時計の針の枠組みからも離れてしまい、前世や來世もつながってしまうのだ。

 

モノがカタチを変える時、「つながりの世界」に一度戻り、また「分断された世界」に顕れ出る。

だからこの世はTPOで常に変化している無常である。

水素と酸素という気体が一緒になったらなんと水H2Oという液体になるという不思議をよく観察するのがいい。

 

「一つ」とのつながりを考慮しないで、現象だけにとらわれていると、なんでも物理的関係を結ぶようにヒトの脳は作られている。

この事実に気づいていなさい。

 

表層の生死に因果関係があると思って方程式を作ってしまい、それに囚われてしまうと、ヒトは満足して生きていけない。

どんなに世間から成功者だと羨ましがれたり、称賛されたり、評価されても、本人の内心には不満足性ができる。

 

表層では生の後に死があるが、この生をただずっと見ていると、深層が浮かび上がってきて、そこには生と同じだけの死が同時にあり、こうしていることでここに「いる」ことができていることがわかる。

ちょうど細胞が一秒間に500万個生まれるが同時に500万個の細胞が死んでいくように。

深層では生と死の両方が同時に同じようにある。

 

大切なのは、この一時一時にスポットライトを安らかに当てていること。

大事なのは、今日、今、ココでの一回ぽっきり。

ただあるがままに向かふ向きに進むばかり。

すると自分の深層にいる魂と出合うことができる。

 

悟りは、水面に月が映って宿ることに喩えられることがある。

水に月が映っても、月は濡れず,水は破れることはない。

月光は広く大きな光でありながら,小さな水にも宿る。

光は月も天空も,草の露にも、一滴の水にも宿る

 

月とは、すべてがつながっている深層の宇宙のこと、

月光とは、世界に拡がる「すべてがつながっている」働き

水とは、私たち自身のこと、

水面の波とは、自己意識のこと、

水面の月とは、自己意識の奥底にある自己の魂のことである。

 

 

 

洞窟にいる人は直接に月を見ることはできないので、地面に溜まった水面を通して外にあるつながった世界をみようとする。

しかし心に揺れがあると水面には月は映らない。

私たちはいつも月の下で暮らしているのだが、洞窟の中で暮らす私たちには月をそのままで見ることがなく、

水面に映る月を見ようとしても心が波打っている間はそこに月を見ることはできない。

また、大事なことは月が水を変えることがないように、悟ってもその人が急に何か変わるのではないことだ。

 

つながっている体感を充分にするまでは、もう充分にその体験はしたという気になり、

充分に深層の体感をしていると、まだまだ不十分だと感じる。

 

表層しか見えない眼には海の表面しかわからないが、

深層を体感すると、海だけではなく、天には、煌めく星々と雲があり、水中には珊瑚や魚たちを感じられる。

この無尽蔵に広大な世界は外にある宇宙だけではない、水一滴にも同じ深い広大な世界がある。

そして私たち自身の体の奥底にも。

 

 

私たちは自然の摂理という法則の中で、それに気がつかないで暮らしている。

ちょうど魚が水を、鳥が空気を意識していないように。

しかし水や空気の外では生きていけないように、私たちも自然の摂理の外側にいるとすぐに死んでしまう。

水や空気と共に生きるように、私は大自然の摂理と共に生きる。

 

すべての学びきってから歩むのではなく、自分の必要な分だけ悟って一歩一歩すすんでいけば、後は自然に道が見えてくる。迷いながら歩んでいくのが大切である。

 

しかし、知識にばかり重きをおいて、実践をおろそかにする者がいる。

知識として水や空気を究めても、そこで泳いだり飛ぶことはできない。

もし、教理を思想的に究め尽くしてから、坐禅のトレーニングに入ろうとするならば

いつまで経っても悟ることはできないだろう。

そこでまずはトレーニングをして深層で平静の心持ちを学ぶことができれば、その人の表層である日常生活は活きた「道」そのものとなる。

これを現成公案という。

 

悟りの世界には、大・小も自・他もない。

自然の真理は前からあったというものでもなく、いま現れたというものでもない。

ただそのように人々が本来からあるものである。

如是!

 

自分がちゃんと「道」を歩いているのかどうかを確かめるには、自然の法則を体感してそれを生きる体験があるかどうか、そしてトレーニングすることで修得した実感があるかどうかでわかる。

前に続く先の道は見えないが振り返ると歩いてきた道は見える。

 

ではなぜ先の道のことや坐禅で得たモノが自覚できないのだろうか?

それはヒトの認識システムでは把握できないものだからである。

トレーニングで体感を得ることができるが、「つながっている世界」はこれほど私たちと親しいのだが、カタチはないので必ずしも目に見えるものではない。

空気のように親密なのだがカタチにはならないものだからである。

しかし現実に目前に現れているものは、「つながっている世界」がTPOによってカタチになったものであるので、これは確かなモノであり必然のものである。

これをちゃんと受け入れることを理解してもらうのが、「現成公案」のテーマであり、巻のタイトルになっている理由である。

 

ここに、麻浴山に住む宝徹禅師が扇を使っているところに僧が訪れた話がある。

僧は聞いた、「『風性は、つねに、どこにでもある』と言われています。それなのに何故、和尚は扇を使うのですか?

禅師は答えた、「「あなたは,『風性は、つねにある。』という道理を知ってはいても、

『未だどこにも至らないところはない』という道理をまだ知らない」。

僧は尋ねた、「『未だどこにも至らないところはない』という道理は、どういうものですか?

禅師は扇をただ使うだけだった。

これを見て僧は禅師を礼拝した。

 

これは「みんなすべてがつながっている世界」である仏性を風性で喩えた話である。

僧の「風性は、つねにあり、どこにもある」と言われています。それなのになぜ、和尚は扇を使うのですか?」

という質問は

「『衆生本来仏なり』で仏性は、つねにあり、どこにもある」と言われています。

それなのになぜ、修行して悟りを開く必要があるのですか?」という意味になる。

禅師の答えは、「あなたは,『風性は、つねにある。』という道理を知ってはいても、

『未だどこにも至らないところはない』という道理をまだ知らない。」とは

「あなたは、『一切衆生悉有仏性』ということを一応心得ているようだが、

『仏性が未だどこにも至らないところはない』ということをまだ知らない」という意味になる。

そこで僧は「『仏性が未だどこにも至らないところはない』という道理は、どういうものですか? 」と尋ねた。

しかし、禅師は黙って扇を使うだけだった。

扇を使うこととは、トレーニングの実践のことだ。

 

『衆生本来仏なり』だから、発心や修行は要るまいというのは「自己意識」を持つものには通用しない。

『衆生本来仏なり』だからこそ、発心し「自己意識」から離れる修行することで、『衆生本来仏なり』の世界がはじめて体感できて、自己意識の奥底にある魂と出合うことができる。

これでわがものをわがものにすることができる。

 

このように「すべてがつながっている世界」を実証体験する伝統が連なっている。

常住なのであるから扇を使うべきではなく、使わないときにも風を身に感じるはずだというのは、

常住ということもわかっておらず、風性もわかっていないのだ。

風性は常住であるからこそ、表層のカバーを外すことで、本来の黄金である大地を、眼の前にすばらしい安楽世界として実現(現成公案)させるのである。

 

正法眼藏現成公案第一

これは天福元年(1233年)秋に書いて,九州大宰府の俗弟子楊光秀に与えた。

建長壬子拾勒:1252年。道元の死去の前年。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

現成公案   南直哉

 

修行

正法眼蔵では特別な意味合いとなり、仏法の考え方を実現するための最終的に保証するもの。

1は坐禅をする前の世界観だが、2と3に修行が現れないのは、坐禅の修行をすることで縁起的観点になり、修行することが対象物から実践の前提に変わっているからだ。

1,2,3では体感が違うことから、表現と語句や語順も変わってくる。

 

 

修証 解釈ABC

A従来は「修行して悟りをひらく」という意味に取られていた。

Bしかし「本来の悟りが修業によって現れる」という意味であり、「修証不二」と大内青巒は解釈するが、修証不二は彼の造語である。

では、彼の言う本来の悟りとな何か?

わけのわからない概念である「本来の自己」や「宇宙の生命」などの無内容な語句に置き換えられるだけで意味不明である。

修証不二と言えば、修行と悟りを別ものにしていることに変わりはない。

C正法眼蔵では「修証は一等なり」と書いてある。修は修行だが、証はブッダの教えである仏法が正しいことを証明することである。仏法である理論を修である実験で証明されないかぎり、理論にはならない。

実践で証明されない理論は仮説もしくは空論である。

教えに従って自分で修行してみてはじめて、仏法の正しさの有効性を確認できる。

 

 

 

1234行 

五官と意識を使うことで自己を中心にすることで二元論で世界を捉える常識の世界である。

自己の存在も、対象一般がそうであると同様、その在り方を規定する本質から構成されている。つまり「法」によって構成されていることを認識するのが「さとり」だと言う。

自己の存在根拠を否定し、対象の本質としての「法」から自己の在り方を(上座部仏教は)説明している。

 

自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。迷を大悟するは仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。

 

上記のパートでは

しかしこれでは不十分なので、あえて「大悟」という語句をつかい、対象一般の存在根拠としての本質=法をも否定して、二元論から脱却することを(大乗仏教は)求めている。

それができたものを諸仏と呼ぶ。二元論を完成させてしまう者は「大迷」なる衆生と呼ぶ。

これが「空」の理論であり、1234の上座部仏教との相違点である。

 

仏のまさしく仏なるときは、自己は仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。

 

 

自己は仏であると覚知しているのならば、それは概念にすぎない。

縁起を自覚し、仏教者として主体性を生成していくことが仏道である。

大切なのは実際に主体性を実現すること、すなわち具体的に修行して生きることである。

これが「証仏」であり、修業によって仏であることを証明しつづけなくてはならない。=仏を証してもゆく。

「修証は一等なり」とは、このことである。

 

「心身を挙して」

対象への行為(実践)的関係が対象の認識作用をコントロールすること。

例えば赤い絵の具に黄色を混ぜたときに、橙色にいつなるかは、生活のおける便宜上の必要による。

認識主体である鏡や水と対象である影や月の関係を仏法では二元としてとらえるのではない。

ここでは自己と他の相対的関係は放棄される。

 

「一方を証するときは一方はくらし」

自己とは対象との関係において存在する。縁起の生き方を証しているときには、因果の生き方は減少する。

 

自己の意味

自己とは対象との関係性で変化するので、「自己とはなにか?」の問の立て方自体に意味がない。

また自己を語ろうとすれば、自己を認識するモノ(例えば真の自己)が必要になり、この問は無限に繰り返されつづけ終わることがない。

問の立て方が誤っていたのである。

それなのに、人はこのように問いたくなる。

なぜか?

それは自己という語句からくる。

「わたし、じぶん、ぼく」どれも使う本人は世界でたた一人である。

みんなが使うが意味するものはただ一人である。

この一人称の持つ根源的な矛盾が、人に「自己とはなにか?」を問わせる。

実は「わたし」という一人称は、ただ一人という特殊性を意味しない。

例えば10年前、1年前、昨日の「わたし」は体も考え方も同じではない。

「わたし」は常に変化している。すべてが常に変化しているように。これが無常の意味である。

だから正法眼蔵では「知る」とは言わない。「ならう」と言う。

 

ここで新たな問にかえる。

「自分がいるとはどういうことか?」

「自分はどのように存在するのか?」

前もって自覚することが二つある。

自分という一人称はただの言葉でしかない、ということ。

だから「何を意味しているのか?」ではなく、「どう使われているか?」にスポットライトを当てる。

幼児は「わたし」とは言わず、周囲の人が呼びかける名前やあだ名をオウム返しにしながら「ならう」。

周囲が変われば名前も変わり、役割も変わる。それを固定の一人称にして、無理に辻褄が合うように編集しようとするから疲れる。

だから「本当の自分ではない」と感じ、「本当の自分」があるはずだと考える。

これが迷路の行き止まりである。

自分とは他者との関係ではじめて形成され、この行動するものの名称である。これを首尾一貫しているように振る舞っているにすぎない。

 

自分は探すものではなく、創るものだ。

何かを知るのではなく、創るために「まねる」ものだ。

自己の意味とは、仏法の実践主体である、ということだけだ。

誰であるかは問わない、そこではすでに「自己」ではなく修行者である。

「わたし」を仏法を修行する主体そのものに改造せよ、と正法眼蔵は説く。

これは人間の身体と自己を生成する精神性が結びついた独立存在であるという考え方を脱却させる。

 

脱落

言語機能によって概念化によって実体視されてしまったものを、その基盤である縁起の次元まで解体すること。

縁起とは、TPOに適応した具体的な行為として現実化する。関係する行為の世界で捉え直すのが脱落の意味となる。

悟りや見性という語句がイメージさせる特殊な体験を言うのではなく、二元で捉えていた錯覚を行為にまで脱落して、そこから再規定すること。

だからそれは精神と身体の合体物ではなく、行為そのものが、脱落した身心である。

心身二元論を克服するのは、理論ではなく、具体的な行為そのものである。

 

空間と自己と錯誤

自分の置かれている空間との位置関係を認識できれば、自己に根拠があるという誤りに気づける。

自己の認識と自己存在に普遍性や確実性があると錯覚して、自己を中心にすると「われ思う、ゆえにわれあり」の錯誤に陥る。

この公式が正しく成り立つのは、思う「われ」の存在根拠を「カミ」や人工衛星の超越した地点に置いた場合に限る。

 

「行李をしたくして」

自らの具体的行為の意味を洞察する。修行する。

「箇裏(しゃり)に帰すれば」 ここ。Now & Here 縁起的自己 本来の自己  真の自分(内臓感覚)。

縁起の次元とは「在ること」を生成する場であることを発見できれば、

「万法のわれあらぬ道理あきらけし」

対象が自己に対峙して存在するのではない、自己がない道理が明らかである

 

時間認識

通常は時間的変化の認識根拠を実体の「前後」を見て判断する。

たき木,はひ()となる,さらにかへりてたき木となるべきにあらず。

しかあるを,灰はのち,薪はさきと見取すべからず。

しるべし,薪は薪の法位に住して,さきありのちあり。前後ありといへども,前後際断せり。

灰は灰の法位にありて,のちありさきあり。

 

「法位」

薪と言う時、目の前に薪がなくても前に学んだ薪のイメージがある。パーリ語でいうSonnaで認識するための原型イメージである。薪のことを考えた瞬間にその原型イメージを想いだす。

これは言語が仮設する世界だといえる。そしてこれが一般的にすなわち法則を適応させて理由と答えを見つける時に無意識のうちにしていることである。

これに対して縁起を中心にしてみると、木の塊は燃料として使う人間の行為があってはじめて薪になる。

行為する本人と周囲の環境でモノは意味を変える。

都会の公園の木を伐ってもそれは薪ではない。ところが管理する人が家に暖炉がある必要な人に渡せば今度は急に薪になる。

このTPOによって暫時に成立する仮りの関係を法位とよぶ。この関係性が崩れれば、この物体はたちまち「薪」ではなくなりモノになる。

そのモノが望まれる機能が外側にある時に法位が発動する。自己及び他者が行為を続けることでモノは薪になる。

すると薪を使う人にのみ、丸太も灰も薪の変化として認識され、前は薪で後ろは灰である。

植林をする人にとってのみ、前は肥料になる灰であり、後は成長する樹木である。

しかし薪を使わない人や植林をしない人には灰は灰であり、丸太は丸太であり、前と後ろはない。

 

かのたき木、はひとなりぬるのち,さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち,さらに生とならず。

しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。

死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり。このゆゑに不滅といふ。

 

生と死の物理的現象や生理的な不可逆性を言っているのではない。

ここで言っていることは、私たちが普通に行っている認識システムの批判である。

薪は灰にならないように、生も死にならない、ことを主張している。

薪が灰になるのは、薪を基準にし、灰を現象の変化とするためである。

基準を根拠づけているのは言語をはじめとした固定された基準が引き起こす錯覚にすぎない。

死ぬ前ならば死ぬとは言えないし、死んだ後ならば、改めて死ぬことはない。

人は死んだ後には生きることなどない。このように死んでいる「生」はない。これを不生といふ。

 

生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。

たとへば,冬と春のごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

 

不変の本質を言語に持ちこむのはナンセンスである。

たとえば「〇〇が☓☓になる」という言い方は成立しない。

もとの〇〇も☓☓も現象変化の仮称にすぎない。例えば冬も春もだれも指し示すことができないように。

 

 

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。 月ぬれず、水やぶれず。

ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、

くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。

 

 

ここで言う「さとり」は縁起による考え方、およびその実践を意味する。

何を悟るのか?

縁起の法を悟るのだ。

縁起の教えに照らして自分の在り方を根底から見直し、そこから生き方を変えていこうという手間のかかる地道な実践を覚悟することだ。

 

水を修行者である我々とし、月を悟りだとすれば、悟ったからといって、修行者に急な超常現象が起こるわけではない。

 

さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。

人のさとりを礙せざること、滴露の天月を礙せざるがごとし。

まともに学べば修行者が「さとり」を誤解して縁起の教えから遮られることはないだろう。

 

ふかきことは、たかき分量なるべし。

時節の長短は、大水小水を検点し、天月の広狹を弁取すべし。

修行の深さは、悟りの深さである。

どのくらい修行すれば「さとり」が得られるかなどと単純な長短の話はできまい。

修行者の力量の大小は悟りの広狭と相関する。

 

 

身心に法いまだ参飽せざるには,法すでにたれりとおぼゆ。

法もし身心に充足すれば,ひとかたは,たらずとおぼゆるなり。

本質/現象の二元論に囚われたまま認識する自己を対象との関係性から切断して、ものの在り方を一方的に規定する見方が全てだと自己満足する者もいよう。

 

たとへば,船にのりて山なき海中にいでて四方をみるに、ただまろにのみみゆ、

さらにことなる相みゆることなし。

しかあれど、この大海、まろなるにあらず、方なるにあらず、のこれる海徳つくすべからざるなり。

宮殿のごとし、瓔珞(ようらく)のごとし。

ただ、わがまなこのおよぶところ、しばらくまろにみゆるのみなり。

 

かれがごとく、万法またしかあり。

塵中格外,おほく樣子を帶せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取會取するなり。

 

世間の規格である二元的ものの見方か、その外にある縁起の観点か

修行者が学んだだけの能力の範囲内で認識したり理解したりする以外ない。

 

 

万法の家風をきかんには、方円とみゆるほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、

よもの世界あることをしるべし。

かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

縁起の法によってものを見る仏法の流儀に順うならば

海や山の見え方が無限にあり

それは自分の片腹だけではなく、足元にも小さな水滴も、このような世界が広がっている。

 

うを(魚)水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。

しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。

只用大のときは使大なり。要小のときは使小なり。

 

 

行為としての存在

泳がぬ魚は魚ではなく、飛ばぬ鳥は鳥ではない。

泳ぎ方、飛び方で在り方が決まる。

水の際は魚がどれほど水を使う必要性があるかどうかで大小が決まる。

魚の泳ぎと無関係な水の大小は無意味であり、そもそも大小としては存在しない。

 

かくのごとくして、頭頭に邊際をつくさずといふ事なく、處處に踏翻せずといふことなしといへども、

鳥もしそらをいづればたちまちに死す。

魚もし水をいづればたちまちに死す。

 

泳ぎが「魚であること」を決めて現成する。

泳ぎの場である水から魚を分断すれば、「魚であること」の現実性を否定することになる。

 

以水爲命しりぬべし、以空為命しりぬべし。

以鳥為命あり、以魚為命あり。

以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。

このほかさらに進歩あるべし。

修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。

 

命は実体視されずに、行為的関係の一つとして捉え直される。

この命も霊魂のような形而上学的実体と考えてはならない。

これも関係性の中でのみ意味を有する以上、独立自存するものではない。

むしろ命は縁起的システムそのもののことだと理解したほうがわかりやすい。

「以〇為〇」はシステムのことだ。

システム自体もまたいかなる形而上学的観念でもなく、具体的存在を生成する関係的行為として体感されなければならない。

修行と悟りの関係にも同じことが言える。

悟りとは、この縁起を体感して深く了解し、関係的行為において自己を生成することが仏教者の実践である。

同様に。命あるものが何者であるかは、彼の身の振る舞い、実践のなされようによって決まるしかない。

 

 

しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、

水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。

このところをうれば、この行李(あんり) したがひて現成公案す。

このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。

とすればシステム内の各相関関係を実体視して、水は水として考え、しかるのち、その中を泳いでみる。

自体で存在する魚と想定するならば、泳ぐ「みち」もない。

この「みち」とは存在が生成される縁起の次元のことである。

これが得られないと、すべての存在が現実化しない。

 

中論の論理

「行く者は行かない」と言う時にこれは詭弁ではない。

正法眼蔵において、「彼が歩く」と言うとき、その彼はすでに「歩いている彼」である。すでに「歩いている彼は」がまた「歩く」ことはあり得ない、という意味である。

二元的世界では彼と歩くを切断し、それぞれを実体視しようとして錯覚することから起こる。

言葉としては「彼が歩く」であるが、実際に起きている事態は「歩く」のは「彼」いがになく、「彼」はその時「歩いている」以外に存在のしようがない。

これが行為的関係のシステム全体である。

 

このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、

さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。

 

このみちでは、概念的判断を使うことができない。この判断は対象を区別し、そのもの自体を概念化することで基準を作り上げてしまう。

ところが縁起の考え方は、概念も基準も当座の都合と条件で仮設されたものにすぎない。

 

しかあるがごとく、人もし佛道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。

 

では概念化できない縁起的次元はいかにして認識されるのだろうか?

縁起の次元に脱落しろ、という。

わかりやすいのは、対象と関係の持つ行動をして、新たな観点でその対象と関わるということだ。

具体的にはすべては関係性の中で生まれてくるものだとして関わること。

この世は常に変化していることに気づき続けること。

その時にできるだけゆったりとした落ち着いた気持ちでいること。

 

これにところあり、みち通達せるによりてしらるるきはの、しるからざるは、

このしることの、仏法の究尽と同生し、同参するゆゑにしかあるなり。

得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。

証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

この縁起の次元は、明確な規定を持つ概念として認識されない。

修行によりすぐに体感するが、密有は実体ではないので、明瞭に意識化されるわけでもない。

 

麻浴山(まよくざん)宝徹禅師、あふぎをつかふ。

ちなみに、僧きたりてとふ、「風性常住、無処不周なり。なにをもてか、さらに和尚あふぎをつかふ?」。

師いはく、「なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだ「ところとしていたらずといふことなき道理」をしらず」と。

僧いはく、「いかならんかこれ「無処不周底」の道理?」。

ときに、師、あふぎをつかふのみなり。

僧、礼拝す。

 

到るところで扇ぐ我々の行為が「風そのもの」なる概念を仮設させる。

風とは実際に「吹く」ことなのだ。「風は吹かない」「吹くものが風」なのだ。

同じように仏性が修行で現れるものではない。実際に修行することが「仏性がある」のだ。

 

 

 

 

 

正法眼蔵の現代語訳への違和感

 

増谷文雄氏の訳に違和感を覚えるのはなぜだろう?

それは彼の「空や色」の解釈に合点がいかないからである。

例を上げれば、正法眼蔵(1)P24「色即是空、空即是色」の注釈で、

「色すなわちこの世の現象するものは、ことごとく変化し移ろわざるものはない。

そのゆえにこれを空なりとする。

それを翻していえば、そこにはただ変化する現象的存在が存するのみである。

空即是色とはそのことである。」

とある。

一行目と三行目の解釈には同意する。

しかし二行目の諸行無常のこの世の現象が空だという解釈と、四行目の諸行無常であることを空即是色と解釈することには同意できない。

「空」とは諸行無常であることと同時に、いつも変わり続けるという「有常」を含む。

「空」とは一見すると矛盾する「無常」と「有常」を含むものである。

すなわち「空」は「色」を含むが、「色」は「空」を含まない。

「空」はあらゆる可能性を持つが、TPOによってカタチになることで、「いま・ここ」にある無常の「色」になる。

宇宙論でいうパラレルワールドのように、「いま・ここ」にある「色」は無常のカタチであるが、この「色」以外にも無数のカタチが他の次元に存在していると考えるならば、この世の「色」はここにしかない唯一無二の貴重な現象である。

しかし、これは「空」がこの世という特殊なTPOによってできたカタチの一つでしかなく、このような「色」が「空」のはずがなく、この世の「色」は「空」のカタチの一つでしかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

正法眼蔵第一 現成公按 私釈

世界を荘厳する道

松岡 由美子 著

A5判 224頁 本体価格2000

 

道元禅師主著『正法眼蔵』の「現成公按」は註釈書が多いにもかかわらず、解釈にばらつきがある。伝統的な解釈と現代の諸解釈を吟味し、そして批判しながら、著者独自の視点で道元が示そうとした真意を探る。道元自らの言葉と用例に拠る画期的な正法眼蔵解釈書。

 

 

 

現成公案もしくは現成公按のどちらなのか?

 

道元禅師の直弟子とされる詮慧禅師と、その弟子である経豪禅師によって示された『正法眼蔵御抄』である。

現ハ隠顕ニアラス、成ハ作学ニアラス、公ト云ハ平等義也、按ト云ハ守分ノ義也、平不平名曰公、守分名曰按。


この意義からすれば、「現」とは、何かが隠れることでもなく顕わになることでもない。そして、「成」とは、何かを作すことでもなく学ぶことでもない。一切の相対を否定する意義として「公案」を意味付けているのである。

 

 

1. 『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)「現成公按」の本文は、岩波書店刊行『道元 上』

        (日本思想大系 121970年5月25日第1刷発行、寺田透・水野弥穂子 校注)に

        よりました。底本は、洞雲寺本。

         2. 巻末の水野弥穂子氏の解説によれば、洞雲寺本は全20冊で、広島県の洞雲

        寺所蔵。現成公按から大悟までを収めた第1冊・第2冊は、おそらく永平寺15

         光周が永平寺9世宋吾書写本から写したものであろうということです。第3冊以降

         は阿波桂林寺の住持人用兼と昌桂首座とが、永正7年(1510)5月から8月にわ

        たって、阿波の桂林寺で書写したものであるということです。他の諸本が漢字と

         片仮名で書いてあるのに対し、全巻漢字と平仮名で書いてある点に特色がある

        由です。

        3. 本文のルビは、括弧(  )をつけて示しました。

        4. 『道元 上』の凡例から、いくつかを抄出しますと、

          ○読解に資するため、段落分け・改行を行い、句読点・引用符などを付した。○仮

          名は、現行普通の平仮名字体に改めた。○濁音記号は校訂者においてつけた。

        ○仮名づかいは底本通りとしたが、読解を助けるため、必要に応じて、右側に( 

        に入れて歴史的仮名づかいを示した。○振仮名は、底本にあるものは片仮名で、

        校訂者によるものは平仮名でつけた。校訂者による振仮名は歴史的仮名づかい

        によった。

        5.  上記の凡例の「振仮名は、底本にあるものは片仮名で、校訂者によるものは平

        仮名でつけた。」によれば、底本にした洞雲寺本の「現成公按」には振仮名が全く

        施されていない、ということになります。

        6. 本文後から4行目に「正法眼蔵見成公按第一」とある「見」の字は、原文のままで

        す。

        7. 曹洞宗公式サイト『曹洞宗』の中に、「基本経典」として「正法眼蔵」の解説があり

        ます。