42 都機 第二十三
本文研究
諸月の圓成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。圓成の諸月なる、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。このゆゑに、
釋迦牟尼佛言く、佛眞法身、猶若虚空。應物現形、如水中月(佛の眞法身は、猶し虚空の若し。物に應じて形を現はす、水中の月の如し)。
月が現れているのは日常にあふれたことではなく、そのように現れている月も当たり前のものではない。
釈迦がおっしゃるに、「仏の真の姿は虚空のようなものである。相手に応じて姿を変えて現れる。それは水に映る月のようなものである。」
この解釈では、虚空と月を本質と考え、姿形や水に映る映像を現象と考える二元論のように見える。
「如」「若」はゴトシと読み、ようなという意味であるが、仏法の文脈では、「本質」の否定という機能がある。
つまり、主体には対象が今のところ月のように見えている、という意味になる。あるTPOでは一時的にそのように現前しているいうことだ。これが「のようだ」という文字表現を使う狙いである。
いはゆる如水中月の如如は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。佛眞法身は空の猶若なり。この虚空は、猶若の佛眞法身なり。佛眞法身なるがゆゑに、盡地盡界、盡法盡現、みづから空なり。現成せる百草萬像の猶若なる、しかしながら佛眞法身なり、如水如月なり。
如(ようだ)の意味は、本質たる夜空の月に対する虚像としての「水の中の月」ではなく、「水月」そのものを対象として現前させている、ということである。
この如を生成する認識行為の中にあって(如中)、「中」という語の意味も規定される(中如)。この如は何かに似ている。つまり本質に対する仮の現象としてある、と言う意味ではない。如とは認識行為において「是」つまり対象が、対象として現前していることを言う。
仏の真の姿とは、虚空=縁起(一つにつながっている世界)が、「そのように」存在を生成する事態のことである。
すべての存在とその現前は、それ自体が「虚空」である。
ある対象の在り方は、一定の条件が変われば様相は一変する。
空には月の本体があり、水中に月の映像が映っているという認識を無条件で正しいと考えてしまうと、月は夜にでることを月の「本質」的性質だと思ってしまうだろう。
月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の小量にかかはることなかれ。日月なきところにも晝夜あるべし、日月は晝夜のためにあらず。
日月ともに如如なるがゆゑに、一月兩月にあらず、千月萬月にあらず。月の自己、たとひ一月兩月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも佛道の道取にあらず、佛道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと參究すべし。月は月に相嗣するがゆゑに、月ありといへども新舊にあらず。
「如」が現前だから、日も月もそれ自体が存在するのではないので、一だの二だのと簡単に数えられるものではない。
たとえ昨夜に月があったとしても、今夜の月は昨夜の月ではない。その同一性を無条件に担保するものではない。月があるからといって新しいとか旧いとかは言えない。新旧の認識の基準となる月それ自他が存在していないからである。
盤山寶積禪師云、心月孤圓、光呑萬象。光非照境、境亦非存。光境倶亡、復是何物(心月孤圓、光、萬象を呑めり。光、境を照らすに非ず、境亦た存ずるに非ず。光境倶に亡ず、復た是れ何物ぞ)。
いまいふところは、佛祖佛子、かならず心月あり。月を心とせるがゆゑに。月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし。孤圓といふは、虧闕せざるなり。兩三にあらざるを萬象といふ。萬象これ月光にして萬象にあらず。このゆゑに光呑萬象なり。萬象おのづから月光を呑盡せるがゆゑに、光の光を呑却するを、光呑萬象といふなり。たとへば、月呑月なるべし、光呑月なるべし。ここをもて、光非照境、境亦非存と道取するなり。得恁麼なるゆゑに、應以佛身得度者のとき、即現佛身而爲説法なり。應以普現色身得度者のとき、即現普現色身而爲説法なり。これ月中の轉法輪にあらずといふことなし。たとひ陰精陽精の光象するところ、火珠水珠の所成なりとも、現即現成なり。この心すなはち月なり、この月おのづから心なり。佛祖佛子の心を究理究事すること、かくのごとし。
古佛いはく、一心一切法、一切法一心。
しかあれば、心は一切法なり、一切法は心なり。心は月なるがゆゑに、月は月なるべし。心なる一切法、これことごとく月なるがゆゑに、遍界は遍月なり。通身ことごとく通月なり。たとひ直須萬年の前後三三、いづれか月にあらざらん。いまの身心依正なる日面佛月面佛、おなじく月中なるべし。生死去來ともに月にあり。盡十方界は月中の上下左右なるべし。いまの日用、すなはち月中の明明百草頭なり、月中の明明佛師心なり。
舒州投子山慈濟大師、因僧問、月未圓時如何(月未圓なる時、如何)。
師云、呑却三箇四箇(三箇四箇を呑却す)。
僧云、圓後如何(圓なる後、如何)。
師云、吐却七箇八箇(七箇八箇を吐却す)。
いま參究するところは、未圓なり、圓後なり、ともにそれ月の造次なり。月に三箇四箇あるなかに、未圓の一枚あり。月に七箇八箇あるなかに、圓後の一枚あり。呑却は三箇四箇なり。このとき、月未圓時の見成なり。吐却は七箇八箇なり。このとき、圓後の見成なり。月の月を呑却するに、三箇四箇なり。呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり。月の月を吐却するに、七箇八箇あり。吐却に月ありて現成す。月は吐却の現成なり。このゆゑに、呑却盡なり、吐却盡なり。盡地盡天吐却なり、蓋天蓋地呑却なり。呑自呑他すべし、吐自吐他すべし。
釋迦牟尼佛告金剛藏菩薩言、譬如動目能搖湛水、又如定眼猶廻轉火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是(釋迦牟尼佛、金剛藏菩薩に告げて言はく、譬へば動目の能く湛水を搖がすが如く、又、定眼のなほ火を廻轉せしむるが如し。雲駛れば月運り、舟行けば岸移る、亦復是の如し)。
いま佛演説の雲駛月運、舟行岸移、あきらめ參究すべし。倉卒に學すべからず、凡に順ずべからず。しかあるに、この佛説を佛説のごとく見聞するものまれなり。もしよく佛説のごとく學習するといふは、圓覺かならずしも身心にあらず、菩提涅槃にあらず、菩提涅槃かならずしも圓覺にあらず、身心にあらざるなり。
もし教えどおりによく学習していると言うなら、そのときの「円覚」すなわち完全なる覚りとは、必ずしもこの身心に起こることではなく、それは菩提涅槃というような究極の境地を意味しているのでもない、菩薩涅槃は必ずしも円覚ではないし、身心も円覚ではない。
何を言いたいのか?
通常の我々のものの見方を転換せよ、というだけのことである。
いま如來道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき、月運なり。舟行のとき、岸移なり。
いふ宗旨は、雲と月と、同時同道して同歩同運すること、始終にあらず、前後にあらず。舟と岸と、同時同道して同歩同運すること、起止にあらず、流轉にあらず。
雲が走れば月がめぐる(ように見える)の判断は地上にいる人間の身体を基準にして、その身体に対して月が静止している、という考えを根拠に成り立っている。前提条件である観察者の視点を解除すれば、すべてのものは同時動く。とすれば別の条件下では月が動いて雲が静止するという見方が成り立つ。
運動を言語に分節して言い表すことは、一種の仮説にしかならず、起きている事態そのものは起動・静止、流動・転回のいずれでもない。
たとひ人の行を學すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。起止を擧揚して人の行に比量することなかれ。雲の駛も月の運も、舟の行も岸の移も、みなかくのごとし。おろかに小量の見に局量することなかれ。
人の運動は静止した地面を基準として正しい理解にならない.
雲の駛は東西南北をとはず、月の運は晝夜古今に休息なき宗旨、わすれざるべし。舟の行および岸の移、ともに三世にかかはれず、よく三世を使用するものなり。このゆゑに、直至如今飽不飢(直に如今に至るまで飽いて飢ゑず)なり。
東西南北の区別に根拠はない、昼夜古今の区別に収まらない、過去現在未来の区別に関係はない。
区別は人間が運動を言語において認識するとき、枠組みとして使用されるだけのものである。そんな認識には飽きるだろう、飽きれば飢えまい。
しかあるを、愚人おもはくは、雲のはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる、舟のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみゆると見解せり。もし愚人のいふがごとくならんは、いかでか如來の道ならん。佛法の宗旨、いまだ人天の小量にあらず。ただ不可量なりといへども、隨機の修行あるのみなり。たれか舟岸を再三撈摝(ろうろく)せざらん、たれか雲月を急著眼看せざらん。
撈摝:漁撈
雲が走るから動かない月が動くように見えるという。これだけのことなら如来の教えとは言えない。
相対性理論の先取りとも言える
しるべし、如來道は、雲を什麼法に譬せず、月を什麼法に譬せず、舟を什麼法に譬せず、岸を什麼法に譬せざる道理、しづかに功夫參究すべきなり。月の一歩は如來の圓覺なり、如來の圓覺は月の運爲なり。動止にあらず、進退にあらず。すでに月運は譬喩にあらざれば、孤圓の性相なり。
しるべし、月の運度はたとひ駛なりとも、初中後にあらざるなり。このゆゑに第一月、第二月あるなり。第一、第二、おなじくこれ月なり。正好修行これ月なり、正好供養これ月なり、拂袖便行これ月なり。圓尖は去來の輪轉にあらざるなり。去來輪轉を使用し、使用せず、放行し、把定し、逞風流するがゆゑに、かくのごとくの諸月なるなり。
正法眼藏都機第二十三
仁治癸卯端月六日書于觀音導利興聖寶林寺 沙門
元癸卯解制前日書寫之 懷弉
参考資料
第二十三 「都機ツキ」巻
「都機」とは、「月」の意味で万葉の書き言葉である。つまり広大無辺の宇宙の実態、即ち尽十方界真実のことである。
宇宙全体が「心月孤円」(月は心で完全無欠)であり、仏性光明(宇宙の生命)の輝き(生き続けている)であることを表現している。
この巻では、我々の常識的な判断や物の見方を批判し、真実は「直観」するものであるという非常に重要な説示がなされている。
チョッカンには4つのレベルが有る。
パターンからくる予測、見えないものからの影響、思考脳に囚われない感覚、縁起の次元からのメッセージには違いが有る。
『円覚経』の「釈迦牟尼仏、金剛蔵菩薩に告げて言く、譬へば動目の能く湛水を揺がすが如し(目が動いていると静かな水も動いて見える)、又定眼の猶火を廻転せしむるが如し(火がついた棒を廻すのを見ると火が回転していると思う)。雲駛ハシれば月運メグり、舟行けば岸移る、亦た復た是の如し」を引用して、雲と月、舟と岸のように二つの概念に分別するのではなく、様相として二つは一体であり、対立したものではないことを説いている。
現前している常に変化するモノをありのままの感覚でそっくりそのまま受け取ることが大切であり、認識をする為に以前に学習したパターンに置き換えてはいけないという。
我々は通常「直観」した後、それを基にして考えて判断する。
例えば舟に乗って岸が動いて見えるとき、それはそのまま岸が動くと見ればよい。直接見たままでよい。それに何らかの判断を加える必要はない。
ところが我々は素直にそのまま受け取らず、自分のそれまでの経験・知識によって覚えている概念に一度置き換えて納得し、自分の理解を作り上げている。
パターンからくる予測や見えないものからの影響などを考えずに、ただ思考脳に囚われない感覚のままでよく、その後の判断という思考脳を使わないことが大切だという。
これが、縁起の次元からのメッセージとつながるきっかけになることがある。
言い換えれば、判断されたものは、本来のものから変容されて、真実と異なったものになってしまっている。
(『脳はなぜ「心」を作ったのか:「私」の謎を解く受動意識仮説)』前野隆司著ちくま文庫88〜92頁参照)
つまり「尽十方界真実は直観するものであって、探し求めるものではない」ということを教えている。
超訳
「如し」がいい。
どのカタチも虚空との関係性から生まれてきているからだ。
雲が走れば月がめぐる(ように見える)の判断は地上にいる人間の身体を基準にして、その身体に対して月が静止している、という考えを根拠に成り立っている。前提条件である観察者の視点を解除すれば、すべてのものは同時動く。とすれば別の条件下では月が動いて雲が静止するという見方が成り立つ。
運動を言語に分節して言い表すことは、一種の仮説にしかならず、起きている事態そのものは起動・静止、流動・転回のいずれでもない。
人の運動は静止した地面を基準として正しい理解にならない.
東西南北の区別に根拠はない、昼夜古今の区別に収まらない、過去現在未来の区別に関係はない。
区別は人間が運動を言語において認識するとき、枠組みとして使用されるだけのものである。そんな認識には飽きるだろう、飽きれば飢えまい。