45 菩提薩埵四攝法   別巻  

 

 

 

本文研究

一者、布施。二者、愛語。三者、利行。四者、同事。

その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。

布施とは施しではなく、貪らないこと、欲を中心に据えないことだ。

 

むさぼらずといふは、よのなかにいふへつらはざるなり。

へつらわないことも布施である。

 

たとひ四州を統領すれども、正道の化をほどこすには、かならず不貪なるのみなり。たとへば、すつるたからをしらぬ人にほどこさんがごとし。遠山のはなを如來に供し、前生のたからを衆生にほどこさん、法におきても物におきても、面面に布施に相應する功徳を本具せり。我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の實なるべきなり。道を道にまかするとき、得道す。得道のときは、道かならず道にまかせられゆくなり。財のたからにまかせらるるとき、財かならず布施となるなり。自を自にほどこし、他を他にほどこすなり。この布施の因縁力、とほく天上人間までも通じ、證果の賢聖までも通ずるなり。そのゆゑは、布施の能受となりて、すでに縁をむすぶがゆゑに。

ほとけののたまはく、布施する人の衆會のなかにきたるときは、まづその人を諸人のぞみみる。

しるべし、ひそかにそのこころの通ずるなりと。しかあればすなはち、一句一偈の法をも布施すべし、此生他生の善種となる。一錢一草の財をも布施すべし、此世他世の善根をきざす。法もたからなるべし、財も法なるべし。願樂によるべきなり。

まことにすなはち、ひげをほどこしては、もののこころをととのへ、いさごを供しては王位をうるなり。ただかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり。

舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり。もしよく布施を學するときは、受身捨身ともにこれ布施なり、治生産業もとより布施にあらざることなし。はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし。阿育大王の半菴羅果、よく數百の僧衆を供養せし、廣大の供養なりと證明する道理、よくよく能受の人も學すべし。身力をはげますのみにあらず、便宜をすごさざるべし。

まことに、みづからに布施の功徳の本具なるゆゑに、いまのみづからはえたるなり。

ほとけののたまはく、於其自身、尚可受用、何況能與父母妻子(其の自身に於ても、尚ほ受用すべし、何に況んや能く父母妻子に與へんをや)。

しかあればしりぬ、みづからもちゐるも布施の一分なり、父母妻子にあたふるも布施なるべし。もしよく布施に一塵を捨せんときは、みづからが所作なりといふとも、しづかに隨喜すべきなり。諸佛のひとつの功徳をすでに正傳しつくれるがゆゑに、菩薩の一法をはじめて修行するがゆゑに。

轉じがたきは衆生のこころなり。一財をきざして衆生の心地を轉じはじむるより、得道にいたるまでも、轉ぜんとおもふなり。そのはじめ、かならず布施をもてすべきなり。かるがゆゑに、六波羅蜜のはじめに檀波羅蜜あるなり。心の大小ははかるべからず、物の大小もはかるべからず。されども、心轉物のときあり、物轉心の布施あるなり。

 

愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。

人に接したとき、まず慈愛の心を起こし、いたわりの言葉をかける。それが愛語である。

愛語とは相手をそっくりそのまま肯定する言葉。

 

おほよそ暴惡の言語なきなり。世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生にも不退轉ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。

むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを學すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。

 

利行といふは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。たとへば、遠近の前途をまぼりて、利他の方便をいとなむ。窮龜をあはれみ、病雀をやしなふし、窮龜をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、ただひとへに利行にもよほさるるなり。

愚人おもはくは、利他をさきとせば、自が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。

 

利行は一法なり、あまねく自他を利するなり。

他を利することは自分を利することだ。みんな仏のいのちを生きているのだから自他不二なのだから。

 

むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび食するに、みたびはきいだせしは、ひとへに他を利せしこころなり。ひとのくにの民なれば、をしへざらんとにはあらざりき。

しかあれば、怨親ひとしく利すべし、自他おなじく利するなり。もしこのこころをうれば、草木風水にも利行のおのれづから不退不轉なる道理、まさに利行せらるるなり。ひとへに愚をすくはんといとなむべし。

 

同事といふは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。

自分とも違いのない、相手とも違いのない、同じ人間である。

自分と違うのはあるTPOにいたためからもしれない。

他人と違うのはたまたまその立場にいないからかもしれない。

 

 

たとへば、人間の如來は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ、同餘界なるべし。同事をしるとき、自他一如なり。

かの琴詩酒は、人をともとし、天をともとし、神をともとす。人は琴詩酒をともとす、琴詩酒は琴詩酒をともとし、人は人をともとし、天は天をともとし、神は神をともとすることわりあり。これ同事の習學なり。

たとへば、事といふは、儀なり、威なり、態なり。他をして自に同ぜしめてのちに、自をして他に同ぜしむる道理あるべし。自他はときにしたがふて無窮なり。

管子云、海不辭水、故能成甚大。山不辭土、故能成其高。明主不厭人、故能成其衆(管子云く、海は水を辭せず、故に能く甚大きなることを成す。山は土を辭せず、故に能くその高きことを成す。明主は人を厭はず、故に能く其の衆を成す)。

しるべし、海の水を辭せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辭せざる徳も具足せるなり。このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。ひそかにしりぬ、海は海を辭せざるがゆゑに、おほきなることをなす。山は山を辭せざるがゆゑに、たかきことをなすなり。明主は人をいとはざるがゆゑに、その衆をなす。衆とは國なり。いはゆる明主は、帝王をいふなるべし。帝王は人をいとはざるなり。人をいとはずといへども、賞罰なきにあらず。賞罰ありといへども、人をいとふことなし。

むかしすなほなりしときは、國に賞罰なかりき。かのときの賞罰は、いまとひとしからざればなり。いまも、賞をまたずして道をもとむる人もあるべきなり、愚夫の思慮のおよぶべきにあらず。明主はあきらかなるがゆゑに人をいとはず。人かならず國をなし、明主をもとむるこころあれども、明主の明主たる道理をことごとくしる事まれなるゆゑに、明主にいとはれずとのみよろこぶといへども、わが明主をいとはざるとしらず。このゆゑに、明主にも暗人にも、同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵の行願なり。ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。

 

この四攝、おのおの四攝を具足せるがゆゑに、十六攝なるべし。

これらを別々に切り離して実践するのではない。

 

正法眼藏菩提薩埵四攝法第二十八

 

仁治癸卯端午日記録 入宋傳法沙門道元

 

 

 

 

 

参考資料

菩薩(求道者)が他人を救うためにする四つの実践項目であり、

第一は、布施(ふせ)、第二は愛語(あいご)、第三は利行(りぎょう)、第四は同時(どうじ)である。

 

 

拾遺「菩提薩四摂法」巻

菩薩の「四摂法」を要約している。

この巻が七十五巻本及び十二巻本に収録されていない理由は、正法眼蔵全体の修行を具体的現実的に実践する場合の究極の生活態度がこの四摂法に要約されているからである。

その四つとは

一つ目が「布施」。自分のためではなく、他の人のため・世の中のために何かを行うことです。

二つ目が「愛語」。どんな人に対しても、その人の事を第一に考え、その人のためになる言葉をかけることです。

三つ目が「利 行」。他人の利益になることに、力をつくすことです。

四つ目が、「同事」。相手のことを思い、相手と同じ立場に身をおき、行動を共にすることです。

我々が生かされて生きているという事は、生命に必要な全てを「布施」されて生きているのである。

即ち大自然の恵みによって生きることが出来るのである。

布施する者も布施される者も施物も夫々本来の在り方であって、そこに利害関係など全く無いことが布施の根本である。