58  坐禪儀  第十一

 

 

本文研究

參禪は坐禪なり。

禅宗では「さとり」は坐禅だけではなく、禅問答の習得が課される。冒頭の一句はその否定である。

正法眼蔵は見性(真理と合一)の観念や禅宗という呼称への厳しい拒否がある。

 

坐禪は靜處よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐處あきらかなるべし、晝夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。

坐禅は静かなところで、座布団を敷いて、風や雨が吹き込むことなく、身体を保持するべきだ。

台座や石の上に坐った時は草を厚く敷いていた。

坐るところは綺麗で、暗すぎず、冬は暖かく、夏は涼しいところがよい。

 

 

諸縁を放捨し、萬事を休息すべし。

 

 

善也不思量なり、惡也不思量なり。心意識にあらず、念想觀にあらず。作佛を圖する事なかれ、坐臥を脱落すべし。

飮食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禪をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禪のみなり。

坐禪のとき、袈裟をかくべし、蒲團をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺のなかばよりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛佛祖祖の坐禪のとき坐する法なり。

あるいは半跏趺坐し、あるいは結果趺坐す。結果趺坐は、みぎのあしをひだりのももの上におく。ひだりの足をみぎのもものうへにおく。あしのさき、おのおのももとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右のもものうへにおくのみなり。

衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひささふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほそに對しておくべし。

正身端坐すべし。ひだりへそばだち、みぎへかたぶき、まへにくぐまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの顎にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。

かくのごとく身心をととのへて、欠氣一息あるべし。兀兀と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。

坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。

 

正法眼藏坐禪儀第十一

 

爾時寛元元年癸卯冬十一在越州吉田縣吉峰精舍示衆

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

超訳

 

坐禅は存在を初期化する。

存在が生成してくる縁起のゼロポイントが現成する。

存在が解体した後の土台である。

この初期状態は「真実」ではない。

真実は「全体」として成り立つものなので、形になる前の真実の状態でしかない。

 

完全な休息は日常生活ではできないし、方法も難しく、よくわからない。

それで休むかわりに人は遊ぶ。

この完全な休息は繰り返し続けないと身にとどまり実感できない。

ちゃんと意識した「建物」に住むためには、その「土台」を実感し続けていなければ、「建物」は幻影に侵食される。