6 即心是仏 第五
道元の言う「心」は一般的なココロではない。
仏道の教えでは、山を心臓で感じると、そこには風もないただ山だけがそこに「ある」ことになる。
本文研究
仏仏祖祖、いまだまぬかれず保任(ホニン)しきたれるは、即心是仏のみなり。しかあるを、西天(サイテン)には即心是仏なし、震旦(シンタン)にはじめてきけり、学者おほくあやまるによりて、将錯就錯(ショウシャク
ジュシャク)せず。将錯就錯せざるがゆゑに、おほく外道(ゲドウ)に零落(レイラク)す。
仏たち祖師たちが、例外なく護持してきたものは、即心是仏(この心がそのまま仏である)だけです。
しかしインドには、即心是仏という語は無く、中国に於いて初めて聞く言葉です。
そこで仏道を学ぶ者の多くは誤解して、それを正しく理解しません。
正しく理解しないために、多くの者が仏の道を外れてしまうように成り果ててしまうのです。
いはゆる即心の話をききて、痴人(チニン)おもはくは、衆生(シュジョウ)の慮知念覚の未発菩提心(ミホツ
ボダイシン)なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師(ショウシ)にあはざるによりてなり。
いわゆる即心是仏の話を聞いて、愚かな人は、私たちの考えたり知ったりする心(マインド)のことを、まだ菩提心を起こしていない心のことだと思っています。
この誤りは、その人がまだ正法を明らかにした師に巡り会っていないことが原因なのです。
外道のたぐひとなるといふは、西天竺国(サイテンジクコク)に外道あり、先尼(センニ)となづく。かれが見処(ケンショ)のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる、苦楽をわきまへ、冷暖を自知し、痛癢を了知す。
昔インドに先尼と言う仏道から外れている解釈をする者がいた。彼の説によれば、大道は我々の今の身にあり、その様子は容易に知ることが出来る。いわゆる我々は、苦楽をわきまえ、冷暖を知り、痛痒を知ることが出来る、という。
内在する本質が一定の方法によって出現するという考えが「外道」として紹介されている。これは仏性の巻での「仏性」を種と考え、「法雨」によって育ち、立派に仏という大木になる、という議論に等しい。
万物にさへられず、諸境にかかはれず、物は去来し、境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此(コノ)霊知、ひろく周遍(シュウヘン)せり、凡聖含霊(ボンショウ ガンレイ)の隔異(キャクイ)なし。
その働きは、万物に妨げられず、あらゆる環境に影響されることもない。物は去来し、環境は生滅しても、この霊知は常にあって不変である。この霊知は広くすべての人に行き渡っていて、凡夫であろうと聖人であろうと、心あるものすべてに隔てなく具わっている。
霊知は物体や認識作用の対象とは独立して存在している。たとえ対象物が生起・消滅を繰り返しても、常に同一性を保ち、不変である。この霊知は聖者を含めて誰にでもある。
この霊知は、日本古来から解釈によると、普遍的な霊がある個体の中に収まることで「魂」と呼ばれることになる。これは「いのち」とも呼ばれているもので、個体が死滅すると「魂」は元の「霊」に戻って一体化するとされる。
そのなかに、しばらく妄法の空華(クウゲ)ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性(レイチ ホンショウ)ひとり了了(リョウリョウ)として鎮常(チンジョウ)なり。
その霊知の中に、少しの間、妄想の花を見たとしても、真理に適う一念の智慧が現れれば、花も無くなり、境界線も消えてしまうので、霊知の本性だけが、はっきりとあるようになる。
魂にスポットライトを当てることで、一時的に幻の実体として存在するとしても、仏法を学んでそれ相応の智慧が発動すれば、蜃気楼のようなモノもカタチも滅して、霊知の本性それ自体だけが、明瞭に現れてくる。
たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。
たとえ身体は壊れても、この霊知は壊れずに脱け出るのである。例えて言えば、家が火事で焼ければ、家は焼けても、家の主人は出て行くようなものである。
昭昭霊霊(ショウショウ レイレイ)としてある、これを覚者智者の性(ショウ)といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自他おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。
この明白霊妙にして存在する霊知のことを、目覚めた人の本性、智慧ある人の本性と言う。これを仏とも言い、悟りとも名付ける。自他の違いなく誰でも具えており、迷いにも悟りにも通暁している。
万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫(リャッコウ)に常住なり。
あらゆる物事や環境が、どうであろうとも、この霊知は環境に付き従わず、物と同じではなく、永遠に変わることなく存在するものである。
いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば真実といひぬべし。本性(ホンショウ)より縁起(エンギ)せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに、常住ならず、存没(ゾンモツ)するがゆゑに。
我々が今、目の当たりにしている日常の分別されている世界も、霊知によるものなので、真実と言うことが出来る。この霊知の本性から起ったものであるから真実の法である。しかし真実の法ではあっても霊知のように不変のものではない。それらには存亡があるからである。
明暗にかかはれず、霊知するがゆえに、これを霊知といふ。また真我と称し、覚元(カクゲン)といひ、本性と称し、本体と称す。
物事に明るい暗いに関係なく、霊妙に知ることが出来るから、これを霊知と言うのである。また真我と名づけ、悟りの根元と言い、本性と名づけ、本体と名づけるのである。
かくのごとくの本性をさとるを、常住にかへりぬるといひ、帰真の大士(ダイシ)といふ。
このような本性を悟ることを、永遠の存在に還ると言い、また真性に帰る菩薩と言う。
これよりのちは、さらに生死(ショウジ)に流転(ルデン)せず、不生不滅(フショウ
フメツ)の性海(ショウカイ)に証入するなり。このほかは真実にあらず。
これから後は、更に生死の苦界に輪廻することもなく、生じることも滅することも無い本性の大海に悟入するのである。この本性以外は真実ではない。
この性あらはさざるほど、三界六道は競起するといふなり。これすなはち先尼外道(センニ ゲドウ)が見(ケン)なり。
この本性を現さないうちは、この世の苦悩は次々とおこるのであるというのが先尼の見解です。
以上の外道説は正法眼蔵の考えと相容れないのは明白である。
大唐国 大証国師(ダイショウ コクシ) 慧忠和尚(エチュウ オショウ)、僧に問う、「何(イズ)れの方(カタ)よりか来(キタ)る。」
僧曰く、「南方より来る。」
師曰く、「南方に何(イカ)なる知識か有る。」
僧曰く、「知識 頗(スコブ)る多し。」
師曰く、「如何(イカン)が人に示す。」
僧曰く、「彼(カ)の方の知識、直下(ジキゲ)に学人に即心是仏(ソクシン ゼブツ)と示す。
大唐国の大証国師、南陽慧忠和尚が僧に尋ねました。「どちらから来ましたか。」
僧、「南方から来ました。」
師、「南方にはどのような師がいますか。」
僧、「師は大変多いです。」
師、「どのように人に説いていますか。」
僧、「あちらの師は、すぐ修行者に即心是仏(この心がそのまま仏である)と説きます。
仏は是れ覚の義なり、汝今悉く見聞覚知(ケンモン カクチ)の性(ショウ)を具せり。此の性善く揚眉瞬目(ヨウビ シュンモク)し去来運用す。
ここで言われている仏とは目覚めた人のことである。あなた達は今、一人残らず見たり聞いたり考えたり知ったりする本性を具えている。この本性は、よく日常に於いて眉をあげて笑ったり瞬きをしたりし、また行ったり来たりして自在に働いている。
身中に遍(アマネ)く頭に挃(フル)れば頭知り、脚に挃れば脚知る。故に正遍知(ショウヘンチ)と名づく。此れを離れての外、更に別の仏無し。
この本性は身体の中に行き渡っていて、頭に触れれば頭を知り、脚に触れれば脚を知るのである。そこで、これを正遍知と名付ける。これ以外に決して別の目覚めている人は無い。
此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来未だ曾て生滅せず。
この身体は生滅するものであるが、心の本性(深層意識、魂)は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはない。
身の生滅するとは、龍の骨を換うるが如く、蛇の皮を脱し人の故(フル)い宅を出ずるに似たり。
身体が生滅することは、龍が骨を換えるようなものであり、蛇が脱皮したり、人が古い家を出て新しい家に移るのに似ている。
即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説は大約 是(カク)の如し。
つまり、我々の身体は無常なものであるが、その本性は常住であると。南方で説かれていることは、だいたいこのようなものです。」
師曰く、若し然らば彼の先尼外道と差別(シャベツ)有ること無し。
師が言うには、「もしそのようであれば、あの先尼の説と変わらないな。」
彼が云く、我が此の身中に一の神性(シンショウ)有り。此の性(ショウ) 能(ヨ)く痛癢(ツウヨウ)を知り、身の壊(エ)する時、神(シン)は則ち出で去る、舎(イエ)の焼かれて舎主(シャシュ) 出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なりと。
先尼が言うには、「我々のこの身体の中には一つの神性がある。この神性は、よく痛い痒いを知り、身体が死ぬ時には、その神性は出ていく。あたかも家が焼けて、家の主人が出て行くようなものである。この家は無常なものであるが、家の主人は変わることがない。」というのである。
此(カク)の如きを審(シン)するに、邪正 辨(ワキマ)うること莫(ナ)し。孰(イズ)れか是(ゼ)と為(セン)や。
このような説を調べてみれば、それが正しいかどうかは論ずるまでもない。どうしてこれが真実と言えようか。
吾れ比(ソノカミ) 遊方(ユホウ)せしに、多く此の色(シキ)を見る。近ごろ尤(モット)も盛んなり。三五百衆を聚却(アツ)めて、目に雲漢(ウンカン)を視て云く、是れ南方の宗旨なりと。
私は以前、諸方の道場を訪れた時に、多くの所でこのような説を見聞きした。近ごろではますます盛んである。その師は三百人から五百人もの修行者を集めて、彼らの前でこれが中国南方の宗旨であると言っていた。
他(カ)の壇経(ダンキョウ)を把(ト)って改換(カイカン)し、鄙譚(ヒタン)を添糅(テンジュウ)して、聖意(ショウイ)を削除し、後徒(コウト)を惑乱す。豈(ア)に言教(ゴンキョウ)を成さんや。苦しき哉、吾が宗 喪(ホロ)びたり。
あの六祖の壇経を手に取って改変し、卑俗な話を加えて六祖の意を削り取り、後進の修行者を惑わせているのである。このようなものが、どうして仏祖の教えといえるであろうか。苦々しいことだ。我々の宗旨は滅びてしまったのか。
若し見聞覚知(ケンモン カクチ)を以て、是を仏性(ブッショウ)と為さば、浄名(ジョウミョウ)は応(マサ)に、法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば、是れ則ち見聞覚知にして、法を求るに非ず、と云ふべからず。
もし見たり聞いたり考えたり知ったりするものが、仏の本性と言うのなら、維摩居士が「真実の法は、見る聞く考える知るということから離れている。もし見る聞く考える知るということを行えば、これはただ見る聞く考える知ることであって、真実の法を求めることにはならない。」と言わなかったであろう。
大証国師は曹谿古仏(ソウケイ コブツ)の上足(ジョウソク)なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑(キカン)とすべし。先尼外道(センニ ゲドウ)が見処(ケンジョ)としりてしたがふことなかれ。
大証国師(南陽慧忠和尚)は、曹谿の大鑑慧能禅師(ダイカン エノウ ゼンジ)の高弟であり、天上界人間界の優れた師です。修行者は、国師の説く教えを明らかにして、修行の手本としなさい。上記の説は先尼外道の見解と知り、従ってはなりません。
近代大宋国に諸山の主人とあるやから国師のごとくなるは、あるべからず。むかしより国師にひとしかるべき知識、いまだかつて出世せず。
近頃の大宋国で、諸寺の主人となっている者の中には、国師のような優れた人物はおりません。昔から国師と肩を並べるほどの師は、未だ世に現れなかったのです。
しかあるに世人あやまりておもはく臨済(リンザイ)徳山(トクサン)も国師にひとしかるべしと。かくのごとくのやからのみおほし、あはれむべし明眼の師なきことを。
しかし、世の人が誤って思うことには、臨済和尚や徳山和尚も国師と肩を並べる人物であろうと、このように思う者ばかりです。正法の眼の明るい師がいないことは悲しむべきこと。
いはゆる仏祖の保任(ホニン)する即心是仏は、外道二乗ゆめにもみるところにあらず。唯仏祖与仏祖(ユイ
ブッソヨブッソ)のみ即心是仏しきたり、究尽(グウジン)しきたる聞著(モンジャク)あり、行取(ギョウシュ)あり、証著(ショウジャク)あり。
いわゆる仏祖の護持している即心是仏(この心がそのまま仏である)は、外道や小乗の修行者には、夢にも見ることが出来ないものです。これはもっぱら、仏祖だけが即心是仏を明らかにしてきたのであり、究め尽くしてきたと言われるのであり、行じてきたのであり、悟ってきたのです。
この解釈で注目すべきは、即心即仏が動詞になっていることである。これは決定的な概念の転換である。そのために、次に言葉そのものをバラバラに破壊する。
仏百草を拈却(ネンキャク)しきたり、打失(ダシツ)しきたる。しかあれども、丈六(ジョウロク)の金身(コンジン)に説似(セツジ)せず。
釈尊は、煩悩の百草を取り除き、無くされました。しかし、仏のことを一丈六尺の金色の身とは説きませんでした。
即公案あり、見成(ゲンジョウ)を相待(ソウタイ)せず、敗壊(ハイエ)を廻避せず。
今、仏道の課題があります。悟りを待たず、無常を避けないことです。
「即」を「〇〇はすなわち☓☓である」という認識の仕方を基礎づける二元論では理解できない。隠れていた本質が現象になるという二元論を解体することを躊躇してはいけない。
是三界あり、退出にあらず、唯心(ユイシン)にあらず。
ここに世間があります。この世間を抜け出るのではありません。世間はすべて心の姿というわけではありません。
「是」と指示される眼前の世界は、それ自体で退去したり出現するものではない。だからといって、この世界は虚妄であって、ただ心のみ実在するわけでもない。
心牆壁(シンショウヘキ)あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。
心に壁があります。その壁は未だ泥水で汚れたことは無く、未だ煩悩をつくったこともありません。
心は脳の主客の二元論を受けいれているが、心と身体(仏)との間には壁があり、この壁には、二元論は通じず、身体の器官として大自然の法則のもとで活動しているので、「わたし」が入り込むことはないので当然のごとく作為や計らいや煩悩が関わることはない。
「心」とは、目を遮る対象世界としての、その壁である。つまり、ある対象を見ているという、その行為としての事実である。いまだそれは二元論の泥水に汚されない。また、かつて心のみが実体として存在し、世界を創造したわけでもない。
「即心即仏」という語句が一度解体されているのがポイント。その上で、個々の語が新たに解釈し直されているのだ。意味的に逆になっているのは、従来の解釈のパラダイムを変更していることの象徴である。
このような解体と再定義が、縁起の次元を開示する。たとえば、「机として使うこと」というTPOにおける行為をともなう関係性を音節や文字記号(ツ・ク・エ)に対応させて固定するのが言語の機能である。このように一度固定して形式(カタチ)になれば、このカタチに根拠があるように錯覚される。つまり本質と実体の成立である。意味と言葉、エネルギーとカタチ、意識とモノのセットである。 この成立が、この世全体に整序されて言語体系として確立すれば、言語によって意味する側(霊知、魂、深層の「意」)と意味される側(万物、境)に分割され、その双方がそれぞれ「本質」「実体」を持って存在すると考えられることになる。
このとき、言語記号はそれによって指示される対象の意味=「本質」と正確に対応するはずである。ということは、言語体系とは、意味する世界である「本質」とカタチが結びつく構造によってでしか成立することができない。
あるいは即心是仏を参究し、心即是仏を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。
あるいは即心是仏を究明し、心即是仏を究明し、仏即是心を究明し、即心仏是を究明し、是仏心即を究明するのです。
かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙(コ)して即心是仏に正伝(ショウデン)するなり。かくのごとく正伝して今日にいたれり。
このように究明することが、まさに即心是仏であり、即心是仏を提起して、即心是仏に正しく伝えることなのです。即心是仏は、このように正しく伝えられて今日に至ったのです。
いはゆる正伝(ショウデン)しきたれる心といふは、一心一切法(イッシン
イッサイホウ)、一切法一心(イッサイホウ イッシン)なり。
いわゆる仏祖が正しく伝えて来た心とは、「心とはすべての存在のことであり、すべての存在は心の姿である。」ということです。
心には二元論もマインドも知も智も慧も心臓の働きも細胞も「いのち」も含めての働きがある、ということ。
このように字を入れ替えて別の文句に再編する。記号と意味の固定化された対応関係を破壊して、言語の恣意性とそれが作り出した「本質」「実体」概念の虚構性が露呈する。こうして言語秩序を脱落し、「すべてがつながっている次元」から新たに定義をし直した「即心即仏」に「正伝」するのである。
では「正伝」してきた「心」とは何か?、一心一切法、一切法一心とはなにか?
このゆゑに古人(コジン)いはく、「若(モ)し人 心を識得(シキトク)すれば、大地に寸土(スンド)なし。」
このために昔の仏祖は、「もし人が心を知るならば、大地にはわずかな土地も無い。」と説きました。
しるべし、心を識得するとき、蓋天撲落(ガイテン ボクラク)し、帀地裂破(ソウチ レッパ)す。あるいは心を識得すれば、大地さらにあつさ三寸(サンズン)をます。
知ることです、心を知る時には、天空は落ち、大地は裂けて無くなるのです。また心を知れば、大地は更に厚さ三寸を増すのです。
古徳(コトク)云(イハ)く、「作麽生(ソモサン)か是れ妙浄明心(ミョウジョウ ミョウシン)。山河大地(センガ
ダイチ)、日月星辰(ニチガツ ショウシン)。」
また昔の仏祖は、「清浄にして明らかな心とはどういうものか、それは山河大地であり、太陽や月や星である。」とも説いています。
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。しかあれども、この道取(ドウシュ)するところ、すすめば不足あり、しりぞくればあまれり。
明らかに知られることは、心とは山河大地であり、太陽や月や星であるということです。しかし、この説く所へ進めば不足があり、退けば余るのです。
山河大地心は、山河大地のみなり。さらに波浪(ハロウ)なし、風煙(フウエン)なし。日月星辰心は、日月星辰のみなり。さらにきりなし、かすみなし。
山河大地の心は、山河大地だけであり、決して波は無く、風や煙も無いのです。太陽や月や星の心は、太陽 月 星だけであり、決して霧も霞も無いのです。
生死去来心(ショウジ コライシン)は、生死去来のみなり、さらに迷なし悟なし。牆壁瓦礫心(ショウヘキ
ガリャクシン)は、牆壁瓦礫のみなり。さらに泥なし、水なし。
生死生滅の心は、生死生滅だけであり、決して迷いも悟りも無いのです。壁や瓦礫の心は、壁や瓦礫だけであり、決して泥も水も無いのです。
心と山河大地が別々に存在し、それがイコールであると言っているのではない。そうではなくて、縁起の見方からみれば、山河大地を見ているその行為を「心」と称している、と言っているのだ。だから、いま山河大地を見ている、その見えている限りのものが山河大地であり、それ以外に山河大地は無い、という話になる。見るという行為で山河大地を存在させている限りにおいて、そのとき「心」も現実化するのである。
四大五蘊心(シダイ ゴウンシン)は、四大五蘊のみなり。さらに馬なし、猿なし。椅子払子心(イス
ホッスシン)は、椅子払子のみなり。さらに竹なし、木なし。
万物を構成する地水火風の四大元素や色受想行識の五蘊世界の心は、四大元素や五蘊世界だけであり、決して馬も猿もいないのです。椅子や払子の心は、椅子や払子だけであり、決して竹も木も無いのです。
かくのごとくなるがゆゑに、即心是仏、不染汙(フゼンナ)即心是仏なり。諸仏、不染汙諸仏なり。
このために、即心是仏(この心がそのまま仏である)は汚されることのない即心是仏であり、諸仏は汚されることのない諸仏なのです。
しかあればすなはち、即心是仏とは、発心(ホッシン)修行(シュギョウ)菩提(ボダイ)涅槃(ネハン)の諸仏なり。いまだ発心 修行 菩提 涅槃せざるは、即心是仏にあらず。
そのようでありますから、即心是仏(この心がそのまま仏である)の人とは、仏道を発心し、修行し、悟り、成就する諸仏のことを言うのです。未だ仏道を発心せず、修行せず、悟らず、成就しない者は即心是仏の人ではないのです。
たとひ一刹那(イチセツナ)に発心修証(ホッシン
シュショウ)するも即心是仏なり、たとひ一極微中(イチゴクミチュウ)に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫(ムリョウゴウ)に発心修証するも即心是仏なり、
ですから、たとえ一刹那で発心し、修行し、悟る人も即心是仏の人です。たとえ極小の中で発心し、修行し、悟る人も即心是仏の人です。たとえ永劫の期間であっても発心し、修行し、悟る人も即心是仏の人です。
たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏(ハンケンリ)に発心修証するも即心是仏なり。
たとえ一念の中で発心し、修行し、悟る人も即心是仏の人です。たとえ握り拳半分ほどを発心し、修行し、悟る人も即心是仏の人なのです。
しかあるを、長劫(チョウゴウ)に修行作仏(シュギョウ
サブツ)するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。即心是仏を開演(カイエン)する正師(ショウシ)を見ざるなり。
そのようであるのに、永劫に修行して仏になるというのは、即心是仏ではないと言う者は、まだ即心是仏を見ていないのであり、まだ知らないのであり、まだ学んでいないのであり、まだ即心是仏を説く正法の師に会っていないのです。
いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏(シャカムニブツ)なり。釈迦牟尼仏、これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。
いわゆる諸仏とは、つまり釈迦牟尼仏です。釈迦牟尼仏は即心是仏の仏です。ですから、過去 現在 未来の諸仏が皆な仏になる時には、必ず釈迦牟尼仏になるのです。これが即心是仏(この心がそのまま仏である)です。
正法眼蔵 即心是仏 第五
爾時(コノトキ) 延応元年五月二十五日、雍州(ヨウシュウ)宇治郡 観音導利興聖宝林寺(カンノンドウリ コウショウ ホウリンジ)に在(ア)って衆(シュ)に示す。
于時(トキニ)寛元三年乙巳(キノト ミ)七月十二日、越州吉田県 大仏寺侍者寮に在って之(コレ)を書き写す。懐弉(エジョウ)
建治三年夏安居(ゲアンゴ)、之を書き写す。
参考資料
超訳
仏道の教えでないもの、とはどんなことなのか?
それは、内在する本質がこの世に現われる、と考えることです。
例えば、種が、雨という大自然の恵みによって育ち、大木という立派な仏になる、という考え方です。
この考え方のどこが問題なのでしょうか?どこが仏教ではないのでしょうか?
この思考パターンは、私たちの考えたり知ったりする心(マインド)を、まだ菩提心を起こしていない心(種)のことだと思うことです。
ですから、時間が経てば、種に内在された菩薩心によって、いつしか菩薩になる、と考えます。
ところが、本来一つであるものを、本質と現象に分けて考えるところが、仏の教えとは異なると道元は言います。
たとえば「即」を「〇〇はすなわち☓☓である」という認識で理解するのは二元論の枠内にあると言えます。
また、隠れていた本質が時間やカミの力で現象として現われる、というのも二元論としての解釈です。
また、身体は生滅するものであるが、この中の霊知(心の本性、魂)は永劫の昔から未だ嘗て生滅したことはなく、身体から、脱け出して、新たな家を見つけたり、立てたりするというのも二元論の解釈です。
でも、どこかで、私たちの身体は無常なものであるが、その本性は常住であるというのが仏教じゃなかったかしら?
このような本性を悟ることを、永遠の存在に還ると言い、また真性に帰る菩薩と呼び、これから後は、更に生死の苦界に輪廻することもなく、生じることも滅することも無い本性の大海に悟入するのである、ということを聞いたことがありませんか?
この本性をこの世で現さないうちは、この世の苦悩は次々とおこる、という教えです。
しかし、これは釈迦の教えとは違うと、道元はこの巻で断言しています。
道元は私たちの言葉と意味の関係を解体と再定義することで、「一つにつながっている世界」を開示します。
たとえば、「机として使うこと」という文章をみてみます。
この文章はどうやってできたのでしょうか?
TPOにおける行為をともなう関係性を、音節や文字記号(ツ・ク・エ)に対応させて固定させることにしました。。
これが言語の機能です。
ただ問題は、このように一度固定して形式(カタチ)になれば、このカタチに根拠があるように錯覚されることです。
つまり本質と実体の成立です。
意味と言葉、エネルギーとカタチ、意識とモノを根拠のあるセットとすることで、無自覚のうちにパターンとして自動反応回路を作ってしまうのです。
この成立が、この世全体に整序されて言語体系として確立すれば、言語によって意味する側(霊知、魂、深層の「意」、「わたし」)と意味される側(万物、境)に分割され、その双方がそれぞれ「本質」「実体」を持って存在すると考えられることになってしまいます。
しかし、一つにつながっている世界では、こんな言語体系の無茶でありえもしない結びつきを使ったりしません。
昔の仏祖は、「もし人が心を知るならば、大地にはわずかな土地も無い。」と説きました。
そして、「心を知る時には、天空は落ち、大地は裂けて無くなるのです。また心を知れば、大地は更に厚さ三寸を増す」、というのです。
これは「心臓に共鳴して感じる」ことができると、言葉によって構築されている天と地という二分法が成立しない世界に「いる」という体験をすると、ということです。
山河大地の心は、山河大地だけであり、決して波は無く、風や煙も無いのです。太陽や月や星の心は、太陽 月 星だけであり、決して霧も霞も無いのです。
「わたし」が基準となる世界では、山河大地には波や煙や風がある。
この山河大地は客観されており、それ自体であるかのように振る舞うので、それに伴う波や風や煙も伴います。
しかし、一つにつながっている世界では、「わたし」という基準はないので、心臓が波動で、この山河大地を感じると、ただ山河大地の波動が感じられ、それに視覚が伴うと山河大地の輪郭(カタチ)が視えます。
道元は、心と山河大地が別々に存在し、それがイコールであると言っているのではありません。
「一つにつながっている世界」からみれば、マインドで見ること、そして心臓で共鳴することで山河大地が現われると言っています。
それは一体化された山河大地であり、客観化できない山河大地であり、ありのままの山河大地です。
そして、この行為を道元は「心」と称しています。
ただ心臓だけで関係するのでは山河大地のカタチは現れませんし、
心臓なしで関係するのでは、山河大地は対象物になり、一つにつながった一体化は感じられません。
生死生滅の心は、生死生滅だけであり、決して迷いも悟りも無いのです。壁や瓦礫の心は、壁や瓦礫だけであり、決して泥も水も無いのです。
汚されるとは二元論の中で囚われる対象物になるということを指します。
ですから、即心是仏(この心がそのまま仏である)は汚されることのない即心是仏であり、諸仏は汚されることのない諸仏なのです。