67 祖師西來意 第六十二
本文研究
「香厳寺襲燈大師(嗣大潙、諱智閑)示衆云、『如人千尺懸崖上樹、口㘅樹枝、脚不蹈樹、手不攀枝、樹下忽有人問、『如何是祖師西来意』。当恁麼時、若開口答他、即喪身失命、若不答他、又違他所問。当恁麼時、且道、作麼生即得』
《香厳寺襲燈大師(大潙に嗣す、諱は智閑)示衆に云く、『人の千尺の懸崖にして樹に上るが如き、口樹枝を㘅み、脚は樹を蹈まず、手は枝を攀ぢず、樹下にして忽ち人有って問はん、『如何ならんか是れ祖師西来意』と。
当恁麼の時、若し口を開いて他に答へば、即ち喪身失命せん、若し他に答えずは、又他の所問に違す。
当恁麼の時、且く道ふべし、作麼生か即ち得ん』》
口で枝にぶら下がっている修行者に質問します。
「達磨大師がインドから来たのはいかなることか?」 仏教の根本義は何か?
時有虎頭照上座、出衆云、『上樹時即不問、未上樹時、請和尚道、如何』。(時に虎頭の照上座有り、出衆して云く、
『上樹の時は即ち問はず、未上樹の時、請すらくは和尚道ふべし、如何』)
師乃呵々大笑(師、乃ち呵々大笑す。)
而今の因縁、おほく商量拈古あれど、道得箇まれなり。おそらくはすべて茫然なるがごとし。
しかありといえども、不思量を拈来し、非思量を拈来して思量せんに、おのずから香厳老と一蒲団の功夫あらん。
すでに香厳老と一蒲団上に兀坐せば、さらに香厳未開口已前にこの因縁を参詳すべし。香厳老の眼睛をぬすみて
覰見するのみにあらず、釈迦牟尼仏の正法眼蔵を拈出して覰破すべし。
『如人千尺懸崖上樹』。
この道しづかに参究すべし。なにをか人といふ。露柱にあらず、木橛といふべからず。仏面祖面の破顔なりとも、
自己他己の相見あやまらざるべし。いま人上樹のところは尽大地にあらず、百尺竿頭にあらず、これ千尺懸崖なり。
たとひ脱落去すとも、千尺懸崖裡なり。落時あり、上時あり。『如人千尺懸崖裏上樹』といふ、しるべし。『上時』ありといふこと。
しかあれば、向上也千尺なり、向下也千尺なり。左頭也千尺なり、右頭也千尺なり。這裏也千尺なり、那裏也千尺なり。
如人也千尺なり、上樹也千尺なり。向来の千尺は恁麼なるべし。且問すらくは、千尺量多少。
いわく、如古鏡量なり、如火炉量なり、如無縫塔量なり。」
口㘅樹枝。
いかにあらんかこれ口。たとひ口の全闊全口をしらずといふとも、しばらく樹枝より尋枝摘葉しもてゆきて、口の所在しるべし。しばらく樹枝を把拈して口をつくれるあり。このゆゑに全口是枝なり、全枝是口なり。通身口なり、通口是身なり。
樹自踏樹(樹の自ら樹を踏む)、ゆゑに脚不踏樹といふ。脚自踏脚(脚の自ら脚を踏む)のごとし。枝自攀枝(枝の自ら枝を攀づ)、ゆゑに手不攀枝といふ、手自攀手(手の自ら手を攀づ)のごとし。しかあれども、脚跟なほ進歩退歩あり、手頭なほ作拳開拳あり。自他の人家しばらくおもふ、掛虚空なりと。しかあれども、掛虚空それ㘅樹枝にしかんや。
樹下忽有人問、如何是祖師西來意。
この樹下忽有人は、樹裏有人といふがごとし、人樹ならんがごとし。人下忽有人問、すなはちこれなり。しかあれば、樹問樹なり、人問人なり、擧樹擧問なり、擧西來意問西來意なり。問著人また口㘅樹枝して問來するなり。口㘅枝にあらざれば、問著することあたはず。滿口の音聲なし、滿言の口あらず。西來意を問著するときは、西來意にて問著するなり。
若開口答他、即喪身失命。
いま若開口答他の道、したしくすべし。不開口答他もあるべしときこゆ。もししかあらんときは、不喪身失命なるべし。たとひ開口不開口ありとも、口㘅樹枝をさまたぐるべからず。開閉かならずしも全口にあらず、口に開閉もあるなり。しかあれば、㘅枝は全口の家常なり。開閉口をさまたぐべからず。開口答他といふは、開樹枝答他するをいふか、開西來意答他するをいふか。もし開西來意答他にあらずは、答西來意にあらず。すでに答他にあらず、これ全身保命なり。喪身失命といふべからず。さきより喪身失命せば答他あるべからず。しかあれども、香嚴のこころ答他を辭せず、ただおそらくは喪身失命のみなり。しるべし、未答他時、護身保命なり。忽答他時、翻身活命なり。はかりしりぬ、人人滿口是道なり。口㘅道なり。口㘅道を口㘅枝といふなり。若答他時、口上更開壹隻口なり。若不答他、違他所問なりといへども、不違自所問なり。
しかあればしるべし、答西來意する一切の佛祖は、みな上樹口㘅樹枝の時節にあひあたりて答來するなり。問西來意する一切の佛は、みな上樹口㘅樹枝の時節にあひあたりて答來するなり。
雪竇明覺禪師重顯和尚云、樹上道即易、樹下道即難。老僧上樹也、致將一問來(雪竇明覺禪師重顯和尚云く、樹上の道は即ち易し、樹下の道は即ち難し。老僧樹に上るや、一問を致將し來るべし)。
いま致將一問來は、たとひ盡力來すとも、この問きたることおそくして、うらむらくは答よりものちに問來せることを。
あまねく古今の老古錐にとふ、香嚴呵呵大笑する、これ樹上道なりや、樹下道なりや。答西來意なりや、不答西來意なりや。試看道。
正法眼藏西來意第六十二
爾時寛元二年甲辰二月四日在越宇深山裏示衆
弘安二年己卯六月二日在吉祥山永平寺書寫之
口で枝にぶら下がっている修行者は樹木そのものになりければいい。樹になりきった男が樹に登り、男になりきった樹が男を登っている。
樹の上の修行者が樹の下から問いかける人になりきれば、そこでは問いも答えもなくなります。どちらも必要なくなります。
同様に人が再来意(仏教の根本義)になりきれば、そこには言語は不要です。
病気の時は病気になりきればいい。
暑い時には暑さそのものになりきればいい。
苦しい時には苦しみになりきればいい。
逃れようとはせずに、苦しみを苦しみとして楽しむ。
これが「なりきる」ということ。
「なりきる」
生死を超越するのではなく、佛になりきる。
この「なりきる」とは、実践であり、行為であり、試行錯誤であり、仏の世界に溶け込んでしまうことで、幾何学では補助線を引いてそこから全体と関わることです。