89 深信因果 十二巻本第七
本文研究
百丈山大智禪師懷海和尚、凡參次、有一老人、常隨衆聽法。衆人退老人亦退。忽一日不退(百丈山大智禪師懷海和尚、凡そ參次に一りの老人有つて、常に衆に隨つて聽法す。衆人退すれば老人もまた退す。忽ちに一日退せず)。
師遂問、面前立者、復是何人(師、遂に問ふ、面前に立せるは、復た是れ何人ぞ)。
老人對曰、某甲是非人也。於過去迦葉佛時、曾住此山。因學人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答曰、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一轉語、貴脱野狐身(老人對して曰く、某甲は是れ非人なり。過去迦葉佛の時に、曾て此の山に住せり。因みに學人問ふ、大修行底の人、還た因果に落つや無や。某甲答へて曰く、因果に落ちず。後五百生まで、野狐の身に墮す。今請すらくは和尚、一轉語を代すべし。貴すらくは野狐の身を脱れんことを)。
遂問曰、大修行底人、還落因果也無(大修行底の人、還た因果に落つや無や)。
師曰、不昧因果(因果に昧からず)。
老人於言下大悟、作禮曰、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例(老人言下に大悟し、禮を作して云く、某甲已に野狐身を脱かれぬ、山後に住在せらん。敢告すらくは和尚、乞ふ亡僧の事例に依らんことを)。
師令維那白槌告衆曰、食後送亡僧(師、維那に令して白槌して衆に告して曰く、食後に亡僧を送るべし)。
大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是(大衆言議すらく、一衆皆安なり、涅槃堂にまた病人無し、何が故ぞ是の如くなる)。
食後只見、師領衆、至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬(食後に只見る、師、衆を領して、山後の岩下に至り、杖を以て一つの死野狐を指出するを。乃ち法に依つて火葬せり)。
師至晩上堂、擧前因縁(師、至晩に上堂して、前の因縁を擧す)。
黄檗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身。轉轉不錯、合作箇什麼(黄檗便ち問ふ、古人錯つて一轉語を祗對し、五百生野狐身に墮す。轉轉錯らざらん、箇の什麼にか作る合き)。
師曰、近前來、與你道(近前來、你が與に道はん)。
檗遂近前、與師一掌(檗、遂に近前して、師に一掌を與ふ)。
師拍手笑云、將謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在(師、拍手して笑つて云く、將に胡の鬚の赤きかと謂へば、更に赤き鬚の胡在ること有り)。
この一段の因縁、天聖廣燈録にあり。しかあるに、參學のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて惡趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの惡趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代參禪學道と稱ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。
百丈山の野狐の話は天聖廣燈録にある。
不落因果(因果関係を認めてしまわない)は因果の無視であり否定である。これによって悪い世界に堕ちる。
不昧因果(因果に迷わない)とは深信因果である。これによって悪い世界を脱することができる。
不落と不昧には違いがないと思っている輩は、因果の道理を無視している。
この段落では、不落と不昧の問題が、撥無と深信の問題に変化する。
因果を無視するか、もしくは因果を信じるかの問題にスポットライトが当てられれている。
因果に落ちないとは、因果を無視しても良いことを意味し、
因果に迷わないとは、因果を実体視せず、方法として重視することを意味するとする。
この二つの混同は誤りとなるので、後者の方法として重視することこそが、「深く信じる」という行為になるとする。
第十九祖鳩摩羅多尊者曰、且善惡之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴壽、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相隨、毫釐靡違。縱經百千萬劫、亦不磨滅(第十九祖鳩摩羅多尊者曰く、且く善惡の報に三時有り。凡そ人、但だ仁は夭に暴は壽く、逆は吉く義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪虚福しと謂へり。殊に知らず、影響相隨ひて毫釐も違ふこと靡きを。縱ひ百千萬劫を經とも、亦た磨滅せず)。
あきらかにしりぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自稱するは、人天の大賊なり、學者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後學晩進のために語ることなかれ。これは邪説なり、さらに佛祖の法にあらず。汝等が疎學によりて、この邪見に墮せり。
鳩摩羅多尊者は「善業悪業の報いには三つの場合がある。現世の行いが現世に、現世の行いが、次の世に、現世の行いが來世の次の世に現れるケースである。
しかし凡人は性急で、この世のケースだけに関心をいだき、因果の道理を否定し、後々に罪や幸福という果報のあることを虚しい教えだと考える。
原因と結果が、モノに影、音に響きがあるように互いに不可分であることを知らず、この因果の道理がたとえ無限の時間を経過しても摩滅することがないことも知らない。」
先輩の慈悲に満ちた教えを理解できないのは、学習が足りないからだ。
それなのにみだりに優れた指導者であると自称するのは、人や天の大賊であり、修行者の敵である。
このような因果の道理をしない者は教えを説いてはいけない。
今神旦國の衲僧等、ままにいはく、われらが人身をうけて佛法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報の墜墮にあらじ。金鎖玄關留不往、行於異類且輪廻(金鎖玄關留むれども往せず、異類に行じて且く輪廻す)なるべし。大善知識とあるともがらの見解かくのごとし。この見解は、佛祖のにおきがたきなり。あるいは人、あるいは狼、あるいは餘趣のなかに、生得にしばらく宿通をえたるともがらあり。しかあれども、明了の種子にあらず、惡業の所感なり。この道理、世尊ひろく人天のために演説しまします。これをしらざるは疎學のいたりなり。あはれむべし、たとひ一千生、一萬生をしるとも、かならずしも佛法なるべからず。外道すでに八萬劫をしる、いまだ佛法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。
最近の中国の禅僧たちは時々、次のように言う。
自分たちは人間に生まれて仏教に出会ったばかりで、この一生のことも、もちろん次の生まれ変わりの生涯も知らない。ところが、昔の百丈山の老人は野狐となって500回生まれ変わってその生涯をしる。
ということは、悪い答えの報いで野狐の身に堕ちたのではあるまい。この優れた指導者である老人は、この世の中に留まってほしいという衆生の切なる願いと引き止め(金鎖玄関)を振り切って、あえて畜生の身(異類)に自らを堕して修行し、慈悲をもってしばらく迷いの世界を輪廻し、救済の行を続けているのだ・・・。
しかし、この見解は仏教の教えのうちに入らない。
人間、狼、さらにその他の衆生の中には生まれつき一定の前世を知る能力(宿通)を持つ者もある。しかしそれは仏道を体得しつくした結果の才能(明了の種子)ではない。悪業の結果得たものである。この道理は釈尊が説き示した。
外道でさえ八万劫の時間を見通すのだから500回の生まれ変わりを知ろうと、どれだけの能力だというのか。
野狐の身に堕ちたのは、老人があえて選んだ慈悲行であって、不落因果の答えが間違いだったからでなとする解釈をここで正法眼蔵はきっぱりと否定する。
近代宋朝の參禪のともがら、もともくらきところ、ただ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如來の正法の流通するところ、祖祖正傳せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。參學のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。佛佛祖祖の道なるべし。おほよそ佛法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。
禅を修行する者の中で愚かなところは、不落因果が非常に誤った邪な見解による説だと知らないこと点である。
現世の百丈禅師が言う「不昧因果」の意味は、因果の道理に迷わないということだ。ならば原因となる行いがあってその結果としての報いがあるという道理(修因感果のむね)は明らかである。
これが歴代の如来や祖師方の教えである。
龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶、四諦、四沙門果(龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無けん。出世の因果を破せば、則ち三寶、四諦、四沙門果無けん)。
あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。
龍樹祖師が言われる。
もし外道のように、因果を否定すれば、この世と來世がないということになる。
また出家の教において因果を否定すれば、佛・法・僧の三宝も、この世の苦しみ・その原因・苦の寂滅・滅する方法の四諦も、修行者が覚りにより到達する四つの境地もないことになろう。
ここで、「この世(と次の世)が無い」とは次のような意味である。
「形ある身体は今ここにあろうとも、人間の本質は本来は悟りに帰している。この場合、人間の本質とは心である。心は身体とは違うからだ。」
このように考えるのは外道である。
「人が死ねば必ず本来の覚りの海に帰る。仏法を修行しなくても自然に覚りの海に帰入するのだから、その上さらに行きたり死んだりの輪廻も無い。だから來世も無い」
これは死ねばすべて終わりであるという考え(断見)の外道である。
これらは因果の道理を無視するもので、外道である。
ここでは、因果の否定が実体を認める見解に陥ると説いている。
これは大修行の巻で、因果を実体視すると同じように間違いを招くと述べているのと好対照である。
永嘉眞覺大師玄覺和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習學せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃經を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すすみて曹谿に詣し、證をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに證道歌をつくるにいはく、
豁達空、撥因果(空に豁達し、因果を撥へば)、
莽莽蕩蕩招殃禍(莽莽蕩蕩として殃禍を招く)。
あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古コともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を習學せんともがらは、古コのごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。
宏智古佛、かみの因縁を頌古するにいはく、
一尺水、一丈波(一尺の水、一丈の波)、
五百生前不奈何(五百生前奈何ともせず)。
不落不昧商量也(不落不昧商量するや)、
依前撞入葛藤窠(依前として葛藤窠に撞入す)。
阿呵呵。會也麼(阿呵呵。會也麼)。
若是你洒洒落落(若し是れ你洒洒落落たらば)、
不妨我哆哆和和(妨げず我が哆哆和和なるを)。
神歌社舞自成曲(神歌社舞自ら曲を成し)、
拍手其間唱哩囉(其の間に拍手して哩囉を唱ふ)。
いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。
おほよそこの因縁、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および餘趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。脱野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、惡趣にうまるべくは四惡趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生處なかるべからず。もし衆生死して性海に歸し、大我に歸すといふは、ともにこれ外道の見なり。
夾山圜悟禪師克勤和尚、頌古に云く、
魚行水濁、鳥飛毛落(魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ)、
至鑑難逃、太虚寥廓(至鑑逃れ難く、太虚寥廓たり)。
一往迢迢五百生(一往迢迢たり五百生)、
只縁因果大修行(只因果に縁つて大修行す)。
疾雷破山風震海(疾雷、山を破り、風、海を震はす)、
百錬精金色不改(百錬の精金、色改まらず)。
この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。
杭州徑山大慧禪師宗杲和尚、頌に云、
不落不昧、石頭土塊(不落不昧、石頭土塊)、
陌路相逢、銀山粉碎(陌路に相逢ふて、銀山粉碎す)。
拍手呵呵笑一場(拍手呵呵笑ひ一場)。
明州有箇憨布袋(明州に箇の憨布袋有り)。
これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ佛法の施權のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。
おほよそこの因縁に、頌古、拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見おこして、斷善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子、老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛佛祖祖、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、莽莽蕩蕩として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。
しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。
この禅問答に解釈を述べた者は30人以上いる。
だれも不落因果(因果を無視し否定しても良いこと)が、
撥無因果(払いのけて信用しないこと)になるのではないかと疑うことはなかった。
悪業を造る者は悪い世界に堕ち、善業を修行する者は良い世界へと上がっていく。
もし因果の道理を滅ぼし、虚しいものとするならば、諸仏がこの世に出現することはあるはずがない。
仏教を修行する仲間たちよ、正しい覚りを求める心を優先して、すみやかに様々な因果の道理を学ぶべきである。
自らの行為の何を原因とし、何を結果としての行動するかを考えることが、修行を可能にする根本的方法だからだ。
正法眼藏深信因果第七
彼御本奥書に云、建長七年乙卯夏安居日以御草案書寫之
未及中書、清書、定有可再治事也、雖然書寫之 懷弉
超訳
「大修行」の巻では、因果の実体視を否定し、修行という仏教の因果を強調しているのに対して、
「深信因果」の巻では、因果の実体視を否定することで仏教の因果までを無視することを批判している。
仏教では教えに従って未来において仏になることを最終目的にして、いま為すべきことを決断する行為の繰り返しが仏教修行者の主体性である。
この主体性は自分の行為や経験を因果関係で秩序づけることで構成される。
一言でいうと、修行すれば成仏する。
しかし、一個人の経験で直接に検証することは不可能に近い。
すると検証を留保して、修行を信じるしか、ない。
仏教はカミではなく因果を信じる教えである。
不落と不昧の問題が、撥無と深信の問題に変化する。
人間、狼、さらにその他の中には生まれつき一定の前世を知る能力(宿通)を持つ者もある、と道元は言う。
しかしそれは仏道を体得しつくした結果の才能(明了の種子)ではない。悪業の結果得たものである。この道理は釈尊が説き示した。
野狐の身に堕ちたのは、老人があえて選んだ慈悲行であって、不落因果の答えが間違いだったからでなとする解釈をここで正法眼蔵はきっぱりと否定する。