92  生死  別巻第四     

 

 

 

本文研究

生死の中に佛あれば生死なし。又云く、生死の中に佛なければ生死にまどはず。

こころは、夾山、定山といはれしふたりの禪師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。

生死という迷いのある二元図式の見方で生活していますが、「一つにつながっている世界」を体感(佛)をしていれば、生死という分別からくる迷いはなくなります。

 

また、生死という分別から迷い中にいても、そこに「一つにつながっている世界」など知らなければ、生死という分別に迷うことはありません。

 

上記が覚者の世界観で迷いはなく、

下記が犬猫の世界観でそこにも迷いはない。

を指しているという解釈。

私は覚者にはなれておれず、だからといって犬猫でもない。

 

別の解釈では、

悟り即ち無常を体と心で完全に体感していれば(佛あれば)、生の苦しみ、楽しみ、死の苦しみ、死の恐怖、死の渇望、はない。

夾山(かっさん)禅師

 

頭で言葉を使って抽象的・概念的に佛を理解しようと努力するようなことを止めれば、生は楽しい、死は恐ろしいと思う事から脱却して穏やかな気持ちで生死を受け入れることが出来る

定山(じょうさん)禅師

 

前と後の「佛」の意味が違い、

前の佛は生命体の深層意識、すなわち魂

後の佛は生命体の表層意識、すなわち自己意識

として理解するという解釈がある。

どうでしょうか?

 

私が前者の解釈を選択するのは、次々節の

「ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。」

で、覚者の世界観(涅槃を心得る)と凡人の世界観(涅槃を求める)と動物の世界観(涅槃を願わない)と呼応しているからである。

心底から涅槃を願わない人間は多くはいないという推察から推理している。

 

補記 後に文献学で実際に調べてみると、これらは宋時代の二人の禅師の言葉ではなかったことが分かっている。

 

生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。

もし人が、生死という現実とは別に何か仏という素晴らしいものがあって、それを求めてあれこれ考え、思い悩み、努力をするというような事であれば、それは牛車の引棒を北に向けて南方の越に向かったり、顔を南にして北極星を見ようとするような見当違いのものである。

そのような事をすれば、ますます生死に拘るという悪い原因を集めて、返って悟りの道を失ってしまうのである。

 

ただ生死すなはち涅槃とこころえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

分別のあるこの生死のある世界をそのまま涅槃であると心得て、生死という分別のある世界を嫌がるべきものでもなく、だからといって、この生死という分別がある世界を涅槃として求めるものでもない。

このようにあるがままに見れるようになると、生死のある分別した思考パターンから離れることができる。

 

言葉を変えると、生死があるとする迷いのある世界観の中にいても、悟りがあれば迷わないし、

また、分別のある世界を当然として、そうではない世界である涅槃を求めようとしなければ迷うことはない。

 

涅槃:煩悩を克服すること。釈迦が35歳の時に悟りを開いて第一の涅槃に入った。

80歳の時に死んで第二である般涅槃(パーリ語のニルヴァーナ 完全な)に入った。

「一つにつながっている世界」

 

すなはち、即の意味

これを=等号記号のように左と右は同じである、と翻訳すると意味が支離滅裂になります。

仏教では「即」をイコールの意味ではなく、同じものを違った次元で捉えることを意味します。

脳を使った日常生活の「分別された世界」の次元

脳を使わないこと(体の走性や向性)で実感する「一つにつながっている世界」の次元

悟ることで実感するのであろう「空」の次元

一つの具体的なモノやコトが次元によって違ったものになるので、それを「即」が表現しています。

 

たとえば、煩悩即菩薩は、煩悩イコール菩薩(悟り)ではなく、煩悩も悟りも同じものなのに、「分別された世界」ではそれを煩悩とし、「一つにつながっている世界」では悟りとして捉えることを意味します。

分別知を使って分けてしまっているものを、仏教では無分別智を使って実は2つには違いがないことを体感させようとします。

 

生より死にうつるとうるは、これあやまりなり。生はひとときのくらゐにて、すでにさきあり、のちあり。かるがゆゑに、佛法の中には、生すなはち不生といふ。滅もひとときのくらゐにて、又さきあり、のちあり。これによりて、滅すなはち不滅といふ。生といふときには、生よりほかにものなく、滅といふとき、滅のほかにものなし。かるがゆゑに、生きたらばただこれ生、滅きたらばこれ滅にむかひてつかふべし。いとふことなかれ、ねがふことなかれ。

 

生が死になるというのは間違えである。

「生」とは「一つにつながっている世界」からカタチに現れるあるスパンの状態のことを指すのであって、そこに始めからあり、また終わりにもあるもので、死に変化するものではない。

それゆえに、一般的に使われている生の定義は、死に至る前にある状態のことなので、 これは仏法でいう「生」ではないので、不「生」という。

同じように、一般的に使われている滅の定義は、生が終わって変化したものなので、これは仏法でいう「滅」ではないので、不「滅」という。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


一般的には、左側が生、右側が滅

しかし道元は、「生」とは「いま・ここ」で、「一つにつながっている世界」と「分別された世界」の往復運動をしていることを指すので、一般的に言う生のことを「生」ではないので、不「生」、略して不生と呼ぶ。

 

 

生死をあるがままに見ることができれば、生きている間はまだ死んでいないし、死んでしまえば生きていないので考えることもないので、生きている間はただ生きて、死んだならばちゃんと死ぬことに向かい合うことに意識を使うべきです。

 

 

生死があると思って、生死を超越しよう、克服しようと思わなければ、迷わくてすみます。

迷うのは無いものをあると思ったり、できない方法をできると思うからです。

 

この生死はすなはち佛の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。これにとどまりて生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなふなり、佛のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて佛のこころにいる。ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。

 

この「生」「死」は佛の御いのちであり、真理です。これを厭い捨てようとすれば、佛の御いのちを失うことになります。生死の問題に執着すれば、これも佛の御いのちを失うことになります。

生死を厭うことも慕うこともなくなればそれは佛の心にいるのであります。

そして、この心を計らったり、言葉を使って表現することがないように。

すると佛の心の中にいれませんから。

 

 

ただわが身をも心をもはなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、佛となる。

 

(心肺・胃腸の内臓を含めた)体と意識することも忘れて、すべてを佛に任せて、佛のおこなうことに従うときに、筋力も自由意志も使わないのに、生死ある分別の世界から離れて、「自分」は佛の一部になっている。

 

 

ひろさちや「正法眼蔵」

「わたしたちは、健康な人が病気になり、そのあとその病気が治ったと見えます。だから、病気になれば早く治ってほしいと願います。それが煩悩です。迷いです。ですが、道元の言うように、病気になれば目の前に病気があるだけです。病気が現成しているのです。わたしたちはその現成した病気をしっかりと生きればよい。そう考えられるようになるのが悟りなのです。」

 

補足するならば、

苦しみから逃げるのではなく、それとそのままに向き合い、それを楽しむことができるようになることが、死を忌み避けず、生と死を別ものとして、この世に在るためには、同時に生死を大切にして生きることを説いている。

 

 

たれの人か、こころにとどこほるべき。

佛となるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを佛となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

 

仏となるに易しい方法があります。

それはいわゆる悪の心を起こし、悪行を行わず、生死に執着せず、全てのものに対して哀れみをかけ、上を敬い、下を哀れみ、あらゆるものごとを厭い嫌うことなく、願い慕うことなく、心に迷い煩うことなく、憂うることのない、このような人を仏といい、外に仏はないのであります。

 

 

正法眼藏生死

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

参考資料

解釈のいい加減さ

「生死」には、次のような一節が現れ、頭を悩ませる(現代語訳)。

 

    生から死にうつると心得るのは、誤りである。

生は一時の位であって、すでに前があり、後がある。

こういうわけであるから、仏法の中では、生はとりもなおさず不生と言う。

滅も一時の位であって、また前があり、後がある。

これによって、滅はとりもなおさず不滅と言う。

生と言う時には、生よりほかにものがなく、滅と言う時には、滅のほかにものがない。

こういうわけで、生が来ればただこれ生、滅が来れば滅に向って仕えなさい。(滅を)厭がってはならない、(生を)願ってはならない。(『道元禅師全集7』)

 

常識的には、私たちはこの世を何十年か生きて、それから死ぬ。しかし、このような考え方は誤りであると、道元禅師は仰るのである。生きているときは生しかなく、死ぬときには死しかないから、今を一生懸命生きるべきであると。

 

しかし一生懸命生きた後で、悔いを残さず死ぬということであれば、「生から死にうつる」という考え方になるのではないか。生と死の間には絶対的な断絶があるということだろうか、生も死も空であり、真実は言葉にできないということだろうか、あるいは全ては刹那滅で、真実は映画の1コマ1コマのようにばらばらであるということだろうか。

 

中村宗一師は次のように翻訳する。「生を授かる」「お迎えがくる」という言葉通り、生死は外来のものであり、「自己の意志ではどうしても左右し得ない」。

しかし今の状態になりきることで、生きる死ぬを超越することができる。

 

   生が死に移ると考えることは誤りである。

生と死との間の時の隔りはあるが、生には生になりきっている時の状態、死は死になりきっている時の状態なのである。

だから仏法では「生は即ち不生」......生を超越した生というのである。

また滅(死)も滅になりきっている一時の状態なのである。

故に生が来れば生になりきり、死が来れば死になりきることである。

だから仏法では滅を不滅というのである。滅を超越した滅というのである。

    生という時には生の外に何もない、滅という時には滅の外に何もない。

この道理から、生が来ればただ生に向かい、滅が来れば滅に向かうばかりである。

生死は自己の意志ではどうしても左右し得ない。

また願ってもどうにもならぬことである。(『全訳正法眼蔵4』)

 

 

『正法眼蔵啓廸』には、次のように解説されている(現代仮名遣いに改めた)。

ここでも生死は「我事にはあずからぬ」外来のものであることが説かれる。

またミクロに見れば、私たちには絶えず生と死が入り乱れており(「一時一時の位」)、それについてはどうすることもできないから、心配してもしょうがない。

生死とは別の次元の、複雑な原因と結果(「因縁所生法」)によって自分が成り立っていると捉える。

 

 生が死に移るではない。生は生の位じゃ、死は死の位じゃ、一方一位じゃ、ところが生れるという方だけは、みんな済んでいるから何とも思わぬが、死ぬるというもその通り、決して我事にはあずからぬ、生也全機で現在は生の一時の位なるごとく、死もまた一時の位じゃ、もし生死を心配するようなら一息一息をも心配せにゃならぬ、ところが頭が赤くヤカンになったといって葬式をしたこともない、歯が欠けたといって親類を寄せたということもない、それ見よ本去来はない、ただ因縁所生法で、年をとるから頭が赤くなる、一時一時の位で、一時一時の法じゃ、生が死になるわけではない、故に「ひとときの位」という。(『正法眼蔵啓廸下』)

 

 

不生と不滅のある仏教者の解釈

普通、我々は時間というものは書いた矢印のように連続的に流れるていると考えていますが、仏教では時間は瞬間、瞬間の繰り返しのもので、前の瞬間と次の瞬間は独立していてそれらが連なっていると考えます。丁度、映画のフィルムの一コマ、一コマのようにです。

 

従って生きている状態から死んでいる状態に移っていくと考えるのは間違いであって、生きていることは一つの時点における瞬間の状態であり、その前の瞬間の状態もあれば、その後の瞬間の状態もある。それ故に、仏教では、生は生限りであり、何かから生が発生したり、生が死に変わっていくのではない。そういう意味で、生すなわち不生というのである。

 

又、死ぬことも一つの時点における瞬間の状態であり、その前の瞬間の状態もあれば、その後の瞬間の状態もある。ゆえに滅は滅かぎりであり、生から滅に変化していったりするわけではないという意味で不滅という。

 

あまりに解釈が違って愕然とする。

仏教者もいろいろあるのである。

道元を始め多くの禅師は怒るだけ優しい。

 

 

 

松尾訳

生が死になる、生の後に死がくる、という見方がある。

これは頭の「わたし」が思う特徴である。

大脳皮質のシナプスのオンとオフを積み重ねて見たら、死んだ後に新たに生まれかわるように思えるものもある。

冬の後に春がくるように、川の流れが変わらないように。

しかし、死んでも同じものが再生しているわけでもなく、目の前の水は常に違うもの変わり続けている。

 

「いのち」で生死に接してみると、脳とは違う体感できる。

人の体では一秒間に500万の細胞が死に500万の細胞が生まれる。

生と死が同時に両方あって、はじめてこの世に在ることができる。

 

「この世」にカタチとなって現れるものを「生」と呼び、、ある期間が来ると元の「一つにつながっている世界」に戻る。そして「一つにつながっている世界」からカタチが現われるものを今度は「死」と呼ぶ。

この2つの世界を行き来することが、「いのち」の役目であり力であり特徴だ。

同じ動きなのに、あるものは生と呼ばれ、あるものは死と呼ばれる。

 

頭で見るのではなく心と身体で体感しよう。

「わたし」で思うのではなく、ありのままを眼で見て、躰からの聲をき(貞)こう

 

 

 

「なりきる」は「祖師西来意」を参照

生死を超越するのではなく、佛になりきる。

この「なりきる」とは、実践であり、行為であり、試行錯誤であり、仏の世界に溶け込んでしまうことで、幾何学では補助線を引いてそこから全体と関わることです。

 

自力と他力

襲われた時に子猿は母猿に自力でしがみつき、子猫は母猫にいう他力につかまれる。

自他の違いはあるけれど、母が子を救ったのは同じこと。救ったのは母です。

仏教でいうと、はじめに仏の力があり、それから自他のアプローチがある。