95 八大人覺  12巻本 第十二

 

 

本文研究

諸佛是大人也、大人之所覺知、所以稱八大人覺也。覺知此法、爲涅槃因(諸佛は是れ大人也。大人の覺知する所、所以に八大人覺と稱ず。此の法を覺知するを、涅槃の因と爲)。

我本師釋迦牟尼佛、入般涅槃夜、最後之所説也(我が本師釋迦牟尼佛、入般涅槃したまひし夜の、最後の所説也)。

一者少欲。於彼未得五欲法中、不廣追求、名爲少欲(一つには少欲。彼の未得の五欲の法の中に於て、廣く追求せざるを、名づけて少欲と爲す)。

佛言、汝等比丘、當知、多欲之人、多求利故、苦惱亦多。少欲之人、無求無欲、則無此患。直爾少欲尚應修習、何況少欲能生諸功徳。少欲之人、則無諂曲以求人意、亦復不爲諸根所牽。行少欲者、心則坦然、無所憂畏、觸事有餘、常無不足。有少欲者、則有涅槃、是名少欲(佛言はく、汝等比丘、當に知るべし、多欲の人は、多く利を求むるが故に苦惱も亦た多し。少欲の人は、求むること無く欲無ければ則ち此の患ひ無し。直爾の少欲なるすら尚ほ應に修習すべし、何に況んや少欲の能く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は、則ち諂曲して以て人の意を求むること無く、亦復諸根に牽かれず。少欲を行ずる者は、心則ち坦然として、憂畏する所無し、事に觸れて餘あり、常に足らざること無し。少欲有る者は則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく)。

二者知足。已得法中、受取以限、稱曰知足(二つには知足。已得の法の中に、受取するに限りを以てするを、稱じて知足と曰ふ)。

佛言、汝等比丘、若欲脱諸苦惱、當觀知足。知足之法、即是富樂安穩之處。知足之人、雖臥地上猶爲安樂。不知足者、雖處天堂亦不稱意。不知足者、雖富而貧。知足之人、雖貧而富。不知足者、常爲五欲所牽、爲知足者之所憐愍。是名知足(佛言はく、汝等比丘、若し諸の苦惱を脱れんと欲はば、當に知足を觀ずべし。知足の法は、即ち是れ富樂安穩の處なり。知足の人は、地上に臥すと雖も猶ほ安樂なりと爲す。不知足の者は、天堂に處すと雖も亦た意に稱はず。不知足の者は、富めりと雖も而も貧し。知足の人は、貧しと雖も而も富めり。不知足の者は、常に五欲に牽かれて、知足の者に憐愍せらる。是れを知足と名づく)。

三者樂寂靜。離諸慣鬧、獨處空閑、名樂寂靜(三つには樂寂靜。諸の慣鬧を離れ、空閑に獨處するを、樂寂靜と名づく)。

佛言、汝等比丘、欲求寂靜無爲安樂、當離慣鬧獨處閑居。靜處之人、帝釋諸天、所共敬重。是故當捨己衆他衆、空閑獨處、思滅苦本。若樂衆者、則受衆惱。譬如大樹衆鳥集之、則有枯折之患。世間縛著沒於衆苦、辟如老象溺泥、不能自出。是名遠離(佛言はく、汝等比丘、寂靜無爲の安樂を求めんと欲はば、當に慣鬧を離れて獨り閑居に處すべし。靜處の人は、帝釋諸天、共に敬重する所なり。是の故に當に己衆他衆を捨して、空閑に獨處し、苦本を滅せんことを思ふべし。若し衆を樂はん者は、則ち衆惱を受く。譬へば、大樹の、衆鳥之に集まれば、則ち枯折の患有るが如し。世間の縛著は衆苦に沒す、辟へば老象の泥に溺れて、自ら出ること能はざるが如し。是れを遠離と名づく)。

四者懃精進。於諸善法、懃修無間、故云精進。精而不雜、進而不退(四つには懃精進。諸の善法に於て、懃修すること無間なり、故に精進と云ふ。精にして雜ならず、進んで退かず)。

佛言、汝等比丘、若勤精進、則事無難者。是故汝等當勤精進。辟如小水常流、則能穿石。若行者之心數數懈癈、譬如鑽火未熱而息、雖欲得火、火難可得。是名精進(佛言はく、汝等比丘、若し勤精進すれば、則ち事として難き者無し。是の故に汝等當に勤精進すべし。辟へば小水の常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心數數懈癈せんには、譬へば火を鑽るに未だ熱からざるに而も息めば、火を得んと欲ふと雖も、火を得べきこと難きが如し。是れを精進と名づく)。

五者不忘念。亦名守正念。守法不失、名爲正念。亦名不忘念(五つには不忘念。亦た守正念と名づく。法を守つて失せざるを、名づけて正念と爲。亦た不忘念と名づく)。

佛言、汝等比丘、求善知識、求善護助、無如不忘念。若有不忘念者、諸煩惱賊則不能入。是故汝等、常當攝念在心。若失念者則失諸功徳。若念力堅強、雖入五欲賊中、不爲所害。譬如著鎧入陣、則無所畏。是名不忘念(佛言はく、汝等比丘、善知識を求め、善護助を求むるは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有る者は、諸の煩惱の賊則ち入ること能はず。是の故に汝等、常に念を攝めて心に在らしむべし。若し念を失せば則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強なれば、五欲の賊の中に入ると雖も爲に害せられず。譬へば鎧を著て陣に入れば、則ち畏るる所無きが如し。是れを不忘念と名づく)。

六者修禪定。住法不亂、名曰禪定(六つには修禪定。法に住して亂れず、名づけて禪定と曰ふ)。

佛言、汝等比丘、若攝心者、心則在定。心在定故、能知世間生滅法相。是故汝等、常當精勤修習諸定。若得定者、心則不散。譬如惜水之家、善治堤塘。行者亦爾、爲智惠水故、善修禪定、令不漏失。是名爲定(佛言はく、汝等比丘、若し心を攝むれば、心則ち定に在り。心、定に在るが故に、能く世間生滅の法相を知る。是の故に汝等、常に當に精勤して諸の諸定を修すべし。若し定を得ば、心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむ家の、善く堤塘を治むるが如し。行者も亦た爾り、智惠の水の爲の故に、善く禪定を修して漏失せざらしむ。是れを名づけて定と爲す)。

七者修智惠。起聞思修證爲智惠(七つには修智惠。聞思修證を起すを智惠と爲す)。

佛言、汝等比丘、若有智惠則無貪著、常自省察不令有失。是則於我法中能得解脱。若不爾者、即非道人、又非白衣、無所名也。實智惠者則是度老病死海堅牢船也、亦是無明黒暗大明燈也、一切病者之良藥也、伐煩惱樹之利斧也。是故汝等當以聞思修慧、而自増益。若人有智惠之照、雖是肉眼、而是明眼人也。是爲智惠(佛言はく、汝等比丘、若し智惠有れば則ち貪著無し、常に自ら省察して失有らしめず。是れ則ち我が法の中に於て能く解脱を得。若し爾らずは、即に道人に非ず、又白衣に非ず、名づくる所なし。實智惠は則ち是れ老病死海を度る堅牢の船なり、亦た是れ無明黒暗の大明燈なり、一切病者の良藥なり、煩惱の樹を伐る利斧なり。是の故に汝等當に聞思修慧を以て而も自ら増益すべし。若し人智惠の照あらば、是れ肉眼なりと雖も、而も是れ明眼の人なり。是れを智惠と爲す)。

八者不戲論。證離分別、名不戲論。究盡實相、乃不戲論(八つには不戲論。證して分別を離るるを、不戲論と名づく。實相を究盡す、乃ち不戲論なり)。

佛言、汝等比丘、若種種戲論、其心則亂。雖復出家猶未得脱。是故比丘、當急捨離亂心戲論。汝等若欲得寂滅樂者、唯當善滅戲論之患。是名不戲論(佛言はく、汝等比丘、若し種種の戲論あらば、其の心則ち亂る。復た出家すと雖も猶ほ未だ得脱せず。是の故に比丘、當に急ぎて亂心と戲論とを捨離すべし。汝等若し寂滅の樂を得んと欲はば、唯當に善く戲論の患を滅すべし。是れを不戲論と名づく)。

これ八大人覺なり。一一各具八、すなはち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし、略すれば六十四なり。

大師釋尊、最後之説、大乘之所教誨。二月十五日夜半の極唱、これよりのち、さらに説法しましまさず、つひに般涅槃しまします。

 

佛言、汝等比丘、常當一心勤求出道。一切世間動不動法、皆是敗壞不安之相。汝等且止、勿得復語。時將欲過、我欲滅度、是我最後之所誨(佛言はく、汝等比丘、常に當に一心に勤めて出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆な是れ敗壞不安の相なり。汝等且く止みね、復た語ふこと得ること勿れ。時將に過ぎなんとす、我れ滅度せんとす。是れ我が最後の教誨する所なり)。

このゆゑに、如來の弟子は、かならずこれを習學したてまつる。これを修習せず、しらざらんは佛弟子にあらず。これ如來の正法眼藏涅槃妙心なり。しかあるに、いましらざるものはおほく、見聞せることあるものはすくなきは、魔嬈によりてしらざるなり。また宿殖善根すくなきもの、きかず、みず。むかし正法、像法のあひだは、佛弟子みなこれをしれり、修習し參學しき。いまは千比丘のなかに、一兩この八大人覺しれる者なし。あはれむべし、澆季の陵夷、たとふるにものなし。如來の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習學すべきなり、緩怠なることなかれ。

佛法にあふたてまつること、無量劫にかたし。人身をうること、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲の人身よし。そのなかに、南洲の人身すぐれたり。見佛聞法、出家得道するゆゑなり。如來の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覺をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習學したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習學して生生に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釋迦牟尼佛にひとしくしてことなることなからん。

 

正法眼藏八大人覺第十二

 

本云建長五年正月六日書于永平寺

 

如今建長七年乙卯解制之前日、令義演書記書寫畢。同一校之(如今建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書寫せしめ畢んぬ。同じく之を一校せり)。

右本、先師最後御病中之御草也。仰以前所撰假名正法眼藏等、皆書改、并新草具都盧壹百卷、可撰之云云(右の本は、先師最後の御病中の御草なり。仰せには以前所撰の假名正法眼藏等、皆な書き改め、并びに新草具に都盧壹百卷、之を撰ずべしと云云)。

即始草之御此卷、當第十二也。此之後、御病漸漸重増。仍御草案等事即止也。所以此御草等、先師最後教敕也。我等不幸不拜見一百卷之御草、尤所恨也。若奉戀慕先師之人、必書此十二卷、而可護持之。此釋尊最後之教敕、且先師最後之遺也(即に始草の御此の卷は、第十二に當れり。此の後、御病漸漸重増したまふ。仍つて御草案等の事も即ち止みぬ。所以に此の御草等は、先師最後の教敕なり。我等不幸にして一百卷の御草を拜見せず、尤も恨むる所なり。若と先師を戀慕し奉らん人は、必ず此の十二卷を書して、之を護持すべし。此れ釋尊最後の教敕にして、且つ先師最後の遺也)。

 

 

 

 

 

報いなき行い

釈尊は他人の状況を見ては、天国や地獄の話をするのだが、自分自身の問題にはそれらがまったく無意味だと本人はわかっていた。だから弟子たちに「あの世」の有無に議論は無用だと教えた。

善行を積めば天国、悪行を積めば地獄へ行くのならば、それは仏と人の契約である。

問題は行き先ではなく、自己の存在を解消することで、この議論を無効にするのが仏教である。

人間の体験に基づく領域を外れることへの思考と判断を断念することを仏教は要求する。

 

自己の解消を「善」と断じて、それを説く釈尊の教えに従うことを、仏教者は選択しなければならない。

この飛躍は保証されているかは本人は体験していないのだから賭けである。

支払う「善行」も見返りの「行き先」もない。報われることはない。

自己を解消する「報われない善行」しかない。これを「修行」という。

 

仏教の合理性もしくは非情

自己の苦しみを解決するのではなく、自己を消去することにかかる。

それなのに消去する自己はいなくてはならない。

この消去する自己とは「ならうべき自己」である。

「仏道をならうとは、自己をならう也。自己をならうといふは、自己をわするるなり。」

 

しかし、この世に存在することと自分であることは同義であるので、消去する自己はこの瞬間には現れない。

そこで、修行者は「來世」を必要とする。

來世で自分が存在しなくなるまで、自己を消去する修行を続ける。

この世では確かめることもできない修行をさらに続ける意志と希望をあえて「來世」とよぶ。

もしくは魂をいう深層意識を。

 

坐禅は「無常」を経験的事実として自覚する技法だとすれば

「この世は無常だ、それで結構だ」という話ではない。

「この世は無常だ、では、どうする?」

この問いを身に染み入った無常の自覚がある坐禅が浮上させる。

坐禅は自己の存在を解いて不在を顕す。

しかしそれは瞑想であって坐禅ではない。

 

2つの間

二つの間が「自己を消去する自己」の主動力になる。

存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己の間を往復運動することで、

「では、どうする?」の問いが生まれ続ける。

不在を承知で、自己を消すために自己を課す、という決断と意志を仏教は要求する。

出家の意義は、新たな自己を課す覚悟の行為である。

 

正法眼蔵は問われることでしか存在しない。

正解がないままに問い続けること、

行為し続けることが、

釈尊の正法が現世にあるカタチである。

正法眼蔵はわからないのではない、わからせないのだ。