南アフリカ 丘の上のパラダイス
1930年11月、エチオピアの皇帝にハイレ・セラシエ1世が即位
ラスタ暦71年(2000年)11月10日
丘の上を車で目指していた。
そこは大都市の近くにあるスラム街
道は泥で、細く、曲がりくねっている。
所々に雑貨商がある、牢屋よりも頑丈な鉄格子が二重になっているやつだ。
客は商品を指差して、注文し、金を鉄格子ごしに支払うと、小さな鉄の窓から品物を渡してくれる。
誰がいつ襲撃するかわからない、危ないビジネス。
まわりの黒顔の中の真っ白い目をこちらにつきさす。誰の歯も見えない。
あちこちの坂を上る道の横には、プラスティックでできた簡易トイレが男女一つずつ設置されている。
政府はトイレとコンクリを鉄の鎖で結び付けている。持っていかれないようにするために。
この泥でできた丘に何千人もが住んでいる。家族と暮らしている。当たり前の日常として。
スリップで車のケツが少し振れて、路肩の泥の塊にフェンダーがぶつかった。
ゆっくりはしてられない、そのままドライバーはアクセルを踏んでいる。
やっと頂上までやってきた、
いままでの泥色の丘がそこだけは木が生え、草が広がっていた。
町に行くのに不便だからみんな丘の上には住みたがらないらしい。
木陰で男がギターの弦を爪弾いていた。不思議な音だ。
赤と黄色と緑の毛糸の帽子をかぶっている。
風が吹いたら飛んでいきそうな小屋から男と女が出てきた。
彼らも同じ柄の帽子をしていた。
こちらに来て木の下で、弦にあわせてハミングし始めた。
葉っぱが廻ってくる。唄が三重奏になったビンギ、ドラムもゆっくり加わった。
いつしか唄にメロディーがなくなり政治や経済の話になった。
男二人は来年と来月と今日の計画を立てていた。
真剣にそして柔らかくそして温かく話していた。
樹の向こうに太陽が沈もうとしていた。
あのアフリカ大地の真っ赤な陽が地平線に広がる入道雲がそめていた。
こころが安らかに熱くなる静謐な時だった。
帰路の途中で、彼らの懸命さと
自分はなにをやってるんだ、と情けなくなったのとで
両目の下を拭った。
ヨハネスブルクの空港に降りてガラスのドアを開けようとした時に、驚いた。足が急に一センチほど浮いたように感じた。ドアを開けて外に行ってはいけないと体がいっていた。確実にやられる。裏通りやスラムや戦地などでたまにある感覚だが、空港で味わったのは初めてだ。この浮いた感覚はこの市にいる間中消えることはなかった。
今回は全ちゃんと一緒の旅。 ブッシュマンの村に行く途中に藤原さんの家に泊めてもらった。家に行くのに三重のゲートがある。先月は二つ目のゲートを過ぎたところで、奥さんが強盗に襲われ、財布を持っていかれたという。先月は、隣人も被害にあい、そのまた隣人は殺されたという。
翌日に虹の中にまた虹があるのをはじめてみたが、美しいというよりも異様に見えた。
藤原さんのはからいでスラムの丘に行くことになった。万が一に備えて、車の整備をし、替えのタイヤも積み込んだ。彼は記者なので、仕事のコネクションでその場所を知っていた。
世界では太陽と水のあるところではどんな状況でもヒトは生きている。素晴らしい奴らがいる。 貧乏と暴力と所有物もない厳しい環境の中でちゃんと生きている人たち。
彼らはいつもどこでも生きつづける。どんな状況だろうとやる奴はちゃんとやっているのを。
ラスタファリアニズム 、1930年代にジャマイカの労働者階級と農民を中心にしてうまれた。
「主義」(イズム、-ism) ではなく「人生観」(way of life) と考えるため、ラスタファリ運動 (Rastafari movement) と表現される。
アフリカ回帰運動の要素を持ち、エチオピア帝国最後の皇帝、ハイレ・セラシエ1世をジャーの化身、もしくはそれ自身だと解釈する。名称はハイレ・セラシエの即位以前の名前ラス・タファリ・マコンネン(アムハラ語で『諸侯タファリ・マコンネン』の意)に由来。
主義としてはアフリカ中心主義で、特徴は菜食主義やドレッドロックス、ガンジャ。
1970年代にレゲエ音楽の、ボブ・マーリーによって全世界に波及する。全世界に100万人の運動の実践者がいると言われている。
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