メトロポリス以降             良いことが子供を苦しめる。

 

目次

えっ、良いことが悪いことに?

どうして良いと思っていたの?

メトロの中で育つとはどういうことなの?

塀の中から出ない新人類って?

どうすればいいっていうの?

 

 

エピローグ

自分の愛する子供たちのために、いろいろとしてあげたい。親から見れば、ごく当たり前の行為が、子供の将来を苦しめることはよくあります。

良いことをしているのに悪い結果になる、という不思議な現象です。

そんなことを言っても、信じられないわ、だって、私たちはこれまで良いことをしてきて悪いことなんかなかったですから。

確かにそのとおりかもしれませんし、自分自身の盲点に気がついていないだけかもしれません。

そこでいくつかの例を見ながら、このことを確かめてみませんか?

 

いい例を考えている最中です。何かあったら提案してください。  

まずは減菌と食べ物の問題はどうでしょう?

その一

雑菌が子供の体につかないように、いつも抗菌グッズを使用し、殺菌剤を使って、減菌に努めてきた。しかし気がついてみると、両足指に水虫が出来て治らない。

昔では清潔にすることで、菌の総量を減らすことで、人間に害を与える菌の量も減らして、危険度を下げていました。ヒトの皮膚の表面には、いつもいる常在菌が小水疱性斑状白癬をはじめ多くの菌をブロックしています。

ところが近頃は強い消毒剤であらゆる菌を一時的にではありますが殺菌できるようになったので、常在菌さえも減菌されて他の菌の侵入を許す時間が長くなったために、その合間に白癬が患部に取り付いてしまったケースがあります。

いままで正しかった清潔にするという行為が、テクノロジーの進化と塀の中であることが相まって、期待とは違う結果に導いてしまいました。

 

その二

子供の健康のために玄米が良いと思い、食べさせ続けたが、近頃の体調が良くない。ケースバイケースなので原因はわかりませんが、玄米の表皮についているフィチン酸が体内のミネラルの排出を助成したのかもしれませんし、表皮に付着していた農薬のせいかもしれませんし、咀嚼の回数が少なくて玄米を消化するには不十分だったのかもしれませんし、ほかの原因もいろいろあるでしょう。雑穀中心の食生活が多かった人類史の中、玄米を食べるという昔の贅沢なことも、現在では子供の体にとって良くない可能性もあります。昔は当たり前だった咀嚼の仕方や回数が調理法が現在ではちゃんと伝わっていないために、思うような結果を得られないこともあります。

子供の健康のために始めたのに、逆に体の調子が良くなくなることもあります。

 

二つの共通点は、どちらも昔では良いとされたことが、現在では必ずしも良い結果につながらないということです。違うところは前者は新しいテクノロジー、後者は古いテクノロジーの技術を習得していなかったことです。

 

参照 玄米は発芽させたり、水に浸す時間を長目にとったり、炊飯時間を長くしたり、圧力鍋を使用したり、咀嚼の回数を数倍に増やし、奥歯を良く使って磨り潰し、唾液を促進させることで、旨く食べることができます。

 

習慣性

母乳が欲しいと泣く赤ちゃんに与え続けると下痢になる

可愛い服を買い与え続ける

欲しがるおもちゃを与え続ける

体罰は決して与えない

子供に十分な栄養を与える

安全なことをいつもやらせる

 

抵抗力

蚊に刺されないように完璧にガードする

虫や両生類と遊ばせない

熱が出たらすぐに病院に連れて行く

子供をいつも清潔にさせる

宗教に関わせない

 

プロセス

赤ちゃんに赤ちゃん言葉で受け答えしない

手足を使わせない

文字を習わせようとする

外国語を学ばさせようとする

 

自然のルール

疲れるまで遊ばせない

焚き火をさせない

水遊びをさせない

土遊びをさせない

凧揚げをしない

野菜を育てない

 

地域性

アジアで健康に良いミルクや乳製品を与える

欧米で健康に良い海藻類を与える

公共の場所で子供の好き勝手にさせる

 

何か興味がありそうなことがあれば例にしてみます。

 

 

他にも風邪薬、ワクチン、人権など、昔にはだれにとっても良かったことが、現在ではそうではないことが身の回りにはいろいろあります。

他にも同じようなことが、教育、安全、平和、民主主義、正義、合理的な考え方、行儀、能率、衛生など様々な分野でも起こっています。

 

なぜ私たちはこれらのことが良いと思って実践してきたのでしょうか?

それは単純に実践することによって私たちのためになったからです。喜ぶ人が多かったからです。長きにわたって自然との関わりが強い世界で人類は暮らしてきました。そこは自然の力が強すぎて、人間にとっては悲惨で暮らしづらいこともありました。

例えば、台風、厳冬、大群の虫、ペスト菌、迷信、戦争、危険、どれも人が住みにくいことです。

そこで、人類は長い時間をかけて、これらの不便なことを軽減させる方法を生み出していきました。

これらの技術や方法はどれもが効果てきめんの叡智の結晶です。

これらの驚きと学習の有無の結果の違いにより、ヒトはこの自然の力がはかり及ばない時空間を作り上げていこうと努力してきました。

文化から文明が生まれ、村から城壁都市ができ、都市は規模を拡大し、そしてついにメトロポリスが完成しました。

イメージは主要駅の地下街や、デザインの良い高層マンションや、多くの専門店がならぶショッピングモールや、新興住宅地が一つの典型としてわかりやすいかと思います。長い時間をかけて街が発展したのではなく、何もなかったところが急に生活圏になった場所です。当然そこには今までの伝統的な生活方法は古いものとして見下させるか、無視されるか、場合にとっては知りもしないでしょう。

ここには暴雨が入らず、エアコンディションにより温度・湿度調節が行き届き、虫は多くなく、強い殺菌剤が毎日のように撒かれ減菌が進み、ガードマンも多く警備されていて安全です。

いままで自然に苦しめられた者にとっては小さな理想郷です。

 

メトロの中で育つとどうなるか?

問題はこれからです。

このようなところで子供が育つとどうなるかということです。

先に結果を言うと、五感が豊かで知識が豊富で人に優しく従順で弁が立つ才気のある優秀な子が育っていきます。

いいことづくめじゃありませんか。

たしかに。

はじめのうちは。

でもこれらの長所が逆にその子自身を苦しめていくなんて想像してみたことはありませんか?

五感が豊かであるといえば聞こえが良いですが、それは研ぎ澄ませてしまうと、その環境から出ることは辛くなります。すぐに最高のものからモノを見てしまい、目の前の出来事を見下してしまうのです。本人は見下すような自覚は毛頭ありませんが。人を喜ばす時に自分で人に歌って聞かせるのではなく、最高の歌い手のCDをプレゼントしたりプレゼンスするような感性です。

知識が豊富であるのは良さそうに思えますが、得た知識は本や大学や実験室の結果なので、そこで通用したものが、必ずしも自分に適応できるとは限りませんし、ましてや、メトロポリスの環境の外ではどうなるのか実証されていません。知識を発信する人は実験室などの部屋の中で作業する人が多く、そのような場所での数値結果でないと人は信用しないようになってきたからです。実感ではなく、権威や実験室の結果からの推定による信頼や信仰が優先されてきました。

人に優しいのは大切なことですが、その人とは具体的には誰のことでしょう。他人の気持ちを理解して、場の空気を読むのが上手な人がいても、それは他人の体の声ではありません。ましてや困ってしまうのが、同じメトロ空間の中にいる者への優しい思いやりができたとしても、そのメトロの外にある世界に対しては無関心です。これよりも少し成長したのが差別、もう少し成長したのが拒絶、だいぶ成長したのがいじめです。だんだんと意識の外から意識の中へ、そして頭の中だけから実生活のリアリティーに近づいてくるのが成長の証です。一般的には「いじめ」は酷いと認識されていますが、意識にも入ってこない無視よりは、精神と肉体の両方のレベルで意識が高くなっています。次はこの「いじめ」をどのように昇華させていくかが問題です。

従順なのは、支配する者にとっては便利な美徳ですが、社会の中で生きている者にとっては、危険なことです。いつも変化する自然や社会に対応する従順な力が必要なのであって、親や教師や社長や政府やマスコミに対してではありません。親や教師は本来は自然の変化に対応できる従順さを教えるのが役割なのに、自分に利権があるかのように自分の立場を利用して、なおかつそれに気がつかないふりをしている年長者がメトロには少なくありません。

弁が立つことは頭脳明晰と思われる方がいますが、これはインテリジェンスがあるからだとは限りません。一番大きい原因は、メトロの中は言い訳ができて他人のせいにすることもできる空間であるのが本質です。 自然では自分で見つけて食べたキノコで病気になっても自己責任ですが、スーパーマーケットの中では試食品であってもキノコにあたれば責任は他人の業者におしつけるチャンスがあります。

才気があるとは利口で賢く抜け目がないと辞書にはありますが、英語で言うとスマートです。英語の古語では痛みの原因、刺す、鋭さを意味する言葉です。そして才気があるというのは他人よりも優位にたっているということです。優秀も同じです。英語ではexcellenceThe state, quality, or condition of excelling; superiority

で文字通り、人より優位に立っている状態のことです。(The American Heritage Dictionary of the English Language) 劣あっての優です。愚と劣のよさが大切なんです。愚鈍の力と喜びがこの地球や私たちの体を作り上げてきました。この力の活かし方が本人にも共同体にも必要なんです。ところが劣弱を自分の中に見ず、いつも優位であることが才気ある優秀な者の日常生活の必要条件なのです。

 

塀の中から出ない新人類

これらを総合してみると、どんなモンスターになるのでしょうか?

高品質なものに囲まれ、金銭による交換をベースにして暮らす消費者です。また人に喜びを与えることに研鑽を積むよりも、自分が楽しむことを優先させる人種です。人よりも優位に立っていないと満足できず、自分のルールに合わないものは意識の外に押し出しすことにより無意識に他人を切り捨てます。

もう少し詳しく身体論で言うと、脳にとっては心地よい環境にいつもいることにより、五感が研ぎ澄まされて、自意識が発達して、メトロの外に出ることができず、高いレベルの生活でないとストレスがかかってしまう体になってしまっています。そのレベルは上がる一方です。脳はきりを知りませんから。おかげで科学の進歩もあるのですが。

メトロという人類史上の実験室から出ようとしても、脳にも心にも体にも不快になり、交感神経が活発になり、呼吸は浅くなり、集中力がなくなり、意識は散漫とし、エンザイムの量も低下し、免疫作用も万全ではなくなります。このような状態に育ってしまうと、本能的に脳にも心にも体にも拒絶反応が出るので、その親子の作り上げた空間の外に出ることはしなくなります。出ることができる場所は脳が望んでいる外部に限定されます。例えばスキー場、ビーチ、リゾート地、景勝地、世界遺産、観光地、行楽地、旅館、テーマパーク、温泉地。どれもメトロポリタンの脳が望んでデザインした所です。

ビルのオーナーならばいいでしょう。その生活を維持していく家賃が毎月、店子から入ってきますから。

そうでなければ自意識ばかりが働いて、優位性を保てない自分に満足できず、メトロの外どころか、メトロの中の家の外へも出ていけないヒッキーになってしまいます。自閉症やうつ病です。

そこから出るきっかけは金だけではなく、生きる力だったり、正義だったり、理解だったりするのですが、その頃には、メトロを成り立たせるには、その外から「力」を取ってくることだと自覚してしまいます。水、空気、食糧、ガソリン、ガス、エネルギー、鉄、木材、どれ一つ、メトロポリスで自活しているものはありません。

この自己矛盾にメトロ育ちの優しさが逆効果になってしまいます。外の世界を理解してしまうことで、自分で自分の首を真綿で締め始めるのです。生きる力も弱まり、金もなく、正義もなく、みんなが認める優しささえも他人を傷つけ、意識できない人間を無視することで冷徹に対処しはじめ、未来の人はただただ呆然とするばかりです。

 

もう少し具体的に、脳にとって気持ちの良い世界を目指した人間の行き先を考えてみましょう。美しさを目指す理性が求める世界です。

ここのコーナーも良い例えを考えてみたいので、なにか提案があればよろしくお願いします。

 

平和を信じる  

家の外の平和ではない嵐の中で暮らす体験がなく、訓練もしていないので、準備が出来ていない。

 

殺菌をした家に住む 

免疫作用を使わないので、乳腺の働きが低下して、外に出れない体になる。使わない筋力は低下するしかありません。使わない骨は粗鬆していくしかありません。

 

安全を大切にする  

外には完璧な安全はありません。どれもが二つ以上の力が拮抗してバランスがとれて安全が保たれています。 この見えない力を見る力を養わないとどこにもが危険地帯です。

合理的とは、理性を基準にすることですが、この理性が危なっかしいもので、分けれるものは得意ですが、自我みたいに分けることができないものには手も足も出ません。

 

行儀 

伝統の真髄の意味は忘られ、形から人の動きを規制しようとするので、基準が周りに迷惑をかけないというような貧弱なものなので、体の奥から出る力を昇華することによって形になるという、第一を無くした身の振る舞い。

 

教育 

ものを分けて理解するという悟性や、結果から理由を考える理性の教育を小さい時からされてしまいます。

体と心の上に立つ脳力でないと、基礎ができていないために安定しておらず、心が安らかになりません。

 

新時代 メトロブレインがはじまっている

いままでになかった、脳にとっては心地の良い部屋が生まれました。それがメトロポリスに広がり、その外から内に移り住む者が増え、ついに次世代にはメトロの内に生まれ、内だけで育つ者が出てきました。確かに新たな時代です。

そして前世紀からはついに脳内空間というまた新たなバリヤー(塀)も生まれました。

メトロポリタンからメトロブレインへ移行して50年が過ぎます。日本で言うとホリエモンたちの思考法はメトロポリスの生活者に限らず、メトロブレインがもうどこにでもあることがわかると思います。田舎に暮らしていても、目に見える自然は優しく無視され、本、テレビ、アニメ、ゲーム、インターネットという中で生きるというふうになると、人工によって形成された世界を生活の基準とするので、暮らす場所の関係がなくなりました。マトリックスのバーチャルリアリティの中に暮らすことも生活の一部となりました。

 

田舎で暮らした後に、都市にやってきたメトロ生活者

一番困るのは、田舎で育ち、高度教育を受けて、脳中心主義に陥った者が、メトロポリタンの中に入ってきて、その子供たちに自分の経験例をものごとの基本として疑うこともせずに伝えることです。なぜならば、この教育者はメトロポリタンの中で生まれ育つ子供の経験をわかろうとはせずに、自分の成功例をただ押し付けがちになるからです。

また、いつも自分の脳の中で妄想した世界を実現するために行動し、社会を批判し、ルールを決めていこうとします。こういうタイプの人は脳を中心とした発想で行動するので、自分の体の声を聞くことが上手ではない人が多いです。自分の体を大切にできないということは、他人の体の声も当然に聞こえないので、彼らのアドバイスや思いやりは、脳が喜ぶもので、体が喜ぶものではありません。もう少し過激に言うと、優しい想いが他人の体にとっては毒になるのです。

田舎ではなく都市で高度教育を受けた者が少しましな例があるのは、周りの体験例で数々の失敗例も色々と見ているので、自分の経験例に対しても懐疑的です。ただ、田舎での自然との付き合いが少ない分だけ、自然の中で生きていく力もなく、都市で育った人は都市から外に出る力もない弱さがあります。

 

自分の愛する子供たちのために、いろいろとしてあげたい。親から見れば、当たり前の思いです。 そしてこの女性の胎内で守り育てる感覚は、生物がこの世に誕生するための大事な感性で、このおかげで我々は今ここに存在することができています。

まずはその感性が大切です、しかし、そのままそこに留まっているのは母性と子性のためにはなりません。

胎外が生きていく場所になるからです。そこは自然力の強い世界です。

メトロ(胎内)だけでは自己中毒になります。自分から出るものによって自分の成長が抑圧されてしまうのです。

文明はひたすら胎内を作り作り上げようとしてきました。

文化は厳しい自然を人の肌に近づける技の積み重ねてきました。

 

メトロポリスとはギリシャ語源の言葉です。 意味は「母の胎内なる城壁都市」

Metro from Greek mêtra, uterus, from mêtêr, mêtr-, mother    

Polis A city-state of ancient Greece

こう見るとフランスで地下鉄のことをメトロと名付けたのにも深いメタファーが感じられます。

 

メトロの中では闘いを良しとする青年と叡智を良しとするオヤジは力を発揮できません。

ただ彼らも我ら人類のもう片方の重要なパートです。この力がないと子供たちはバランスが取れないのです。

メトロの中にあるのは、美しさを優先さする乙女と慈愛の母だけです。単純に守る感覚で子供達と付き合っていると、子供たちを精神的に甘やかせるだけではなく、体力的にも塀の外には出れない子にしてしまいます。メトロの外に行くためにはいろいろな訓練が必要ですから。そしてメトロという公園のような特別の自然のルールの中だけで暮らすことことによってますます脳だけを中心にした欲望に支配されていきます。この中だけで暮らせるのは一部の者だけです。その条件が整っていない者は母性の力を使うのに注意が必要です。

子供と正面から接し、メトロで生まれた子供の経験を想像力をフルに使って疑似体験して、この世をもう一度見つめてみるのはどうでしょうか?

 

どうすればいい?

そんなに難しいことはありません。

元気な時に郊外に出て、楽しいことを時々すればいいだけです。

次に塀の外で暮らす人たちと一緒にご飯を食べるんです。

無理をしてはいけません。

みんなで大声で歌ったり、BBQをしたり、スイカ割りをしたり、キャンプをしたりして。

楽しいことを一杯することです。

元気ではない時には塀の中にいて能力・気力・体力を回復させるのが大切です。

あんまり心配するのはよくありません。

心配すると脳に血が集まり、体にとって一番良くないものですから。

 

だめな親がいても子は育つ。

生きる力は強いから。

ただできれば、あなたの脳内妄想やコンプレックスをできるだけ子供に押し付けていないかどうか、ゆったりした時にでも意識してもらえませんか?

そして余裕ができてくればその負の妄想やコンプレックスを活かす方法も取り入れるのは楽しいことです。

私たちははじめから欠けた存在です。それがいいんです。

欠けた中で工夫して生きていく。

これが生きる必然を生みだします。

パッション、すなわち情熱、受難、静的、宿命です。

これが生きる秘密です。

 

 

「キレる」という衝動は、我々動物が与えられた状況に対処する手段を見出せないときに選択される「問題解決のための能動的回避行動」に当たります。従いまして、これは誰にでも起こり得ることであり、理性で対処するのは極めて困難です。当然、他に選択肢がある場合、あるいはそこまで追い込まれなければキレることはありません。では、いったい何が子供たちをそこまで追い込むのでしょうか。

 

このようなとき、脳内には「NA(ノルアドレナリン)」が分泌されています。これにより、神経系の覚醒状態が亢進され、自律系を介して身体広域の生理状態も活性化されます。これを「ストレス対処反応」といい、我々動物が与えられた状況に対処するための「臨時体勢」です。ですから、問題の解決が成されるならば「5−HT(セロトニン)」の恒常分泌によって脳は自然と安静状態に戻ります。

中枢機能を亢進させるのは注意力や思考力を高めるためですから、「意欲的な行動」である場合、NAが分泌されているからといって我々はそれをストレスとは感じませんし、もちろん、回避行動であっても逃げ道があるならば何も問題はないはずです。ですが、欲求が実現できない、危険を回避することができない、このように適切な解決手段が見出せない場合、当然ストレスは継続することになります。本人が具体的な行動を起こせないのですからはっきりと表には出ませんが、これは明らかに「欲求不満」「不安状態」です。そして、適切な選択が成されないまま表に出ますならばこれが「キレた」ということでありまして、果たして、それは常に目的のズレた必然的に異常行動となります。

 

感情をコントロールするということは、質問者さんはこれに対して理性で対処しろと要求していることになります。

自分に発生したストレスの原因が分かっているならば回避の手段は自ずと見出せます。ですが、十分な問題解決能力を持たない子供がどうやってそれを自覚するのでしょうか。まして、親の要求に対して有効な回避手段を見出せる子供なんてのはまずいません。

子供はわがままを言わず、理性的な選択をするならば親に褒められます。必死になって要求に応えようとします。十分な社会適応力を身に付けさせるには親の指導や躾は必要です。まして、より裕福な人生を獲得しようとするならば我慢と競争を強いられます。これはある意味では社会問題であり、子供にしてみれば親の価値観でしかありません。

因みに理性行動の比率などというのは知能の発達によって必然的に増えるものですから、我々が教えてあげなければならないのは「理性的な判断」の方です。で、ぶっちゃけた話、それでしたら義務教育だけで十分なのですが、現在ではそれが受験戦争の道具に使われています。自分たちでストレスを与えておきながら感情の抑制を覚えさせるなんて、これではキレるのは時間の問題です。

 

必要に応じて分泌されるNA(ノルアドレナリン)とは違い、5−HT(セロトニン)といいますのは、これは脳内では「恒常的」に分泌される伝達物質であり、環境からの刺激入力によって分泌されるものではありません。これがどういうことかといいますと、5−HTといいますのは、NAのように脳が環境の変化に対して何らかの選択を行うために分泌されるものではないということです。

もちろん、NAに対して抑制性であり、脳の覚醒状態を安静に戻す働きがありますので、キレるという現象に無関係とは言いません。ですが近年、子供の肥満やうつ病などが蔓延し、ここで5−HTの力を借りなければならないというのはたいへん嘆かわしいことと思います。

5−HTの分泌を促すリズム運動なんてのは、これはストレスの溜まった社会人がやることです。ならば、むしろ子供といいますのは脳内にNAを分泌させ放しで終日遊び、学び、夜になったらぐっすり眠るというのが使命ではないでしょうか。そして朝目覚め、表情筋や姿勢筋がしゃんとして、にっこり笑って「おはよう!」と言えたならば5−HTの分泌は正常です。問題なのは、子供たちに不必要なNAを分泌させる環境の方です。

 

子供の世話を一切焼かないというわけにはゆきません。ですが、親が要求を出せばそれは子共にとってストレスとなります。では、いったいどうすれば良いのかといいますと、何から何まで口を出すのではなく、子供が自分の意志に従って問題を解決するための環境を与えてあげるということだと思います。そして、子供に環境を与えてやるということは、ここでは親が具体的な方向を決定してやるということではありません。子供に環境を与えるということは、それは「親が子供を信頼する」ということです。

言うまでもなく、これは社会的な自立に必要なことですし、自発的な行動が選択できるならば欲求不満にはなりません。ならば逆に、このような環境が与えられませんと、子供は親の信頼を獲得するために雁字搦めとなり、もはや自力でストレスから逃れるための手段は一切を奪われてしまうことになります。

 

コミュニケーション能力を育てるには、何をさておいても家族と語らう時間を持ち、家に篭らずに外で友達と遊ばせるのが一番です。ところが、子供たちはどのようなときに不安を感じるかというアンケートでは「対人関係」がトップになります。

まあ、大人でもそうなんですから仕方がないですが、では、自発的にとはいいましても、子供たちはどうやってこのハードルを乗り越えれば良いのでしょうか。果たして、自分で前に進むためには自信を持たせる以外にありません。ですが、自信を持てなどと口で言ってもだめです。そのためには、親は心から子供を信頼してあげなければなりません。

親から信用されていない子供に自信を持つことができるでしょうか。そこへきて、親はあれこれと要求を出します。自信が持てるならば子供はその能力を自発的に伸ばす機会を与えられます。ですが、親が信頼してくれなければ子供にとって対人関係はストレスにしかなりません。

これは全ての親に共通する問題だと思います。うちの子供はそこがダメだから、ぜんぜん信頼していませんよね。子供は必死になって親の信頼を獲得しようとします。ですが、我が子を思うあまりどうにかしようとするならば、この親の不安が子供から自信を奪い取る結果となります。

 

以前、これと同様の議論をしましたら、あるお母さんから子供との信頼関係はできているつもりだという反論を頂きました。ですが、子供が親を頼るのは当たり前のことですから、これを信頼関係と勘違いしてはいけません。親が幾ら信頼していると主張しましても、子供の方に信用されているという自覚が生まれなければ意味はないわけです。

ダメなことはダメ、ストレスであろうとなかろうと、これを教えるのは親の務めです。ですが、ダメなことをダメと言えずに先回りしてあれこれ決めてしまう。親だって不安でいっぱいなのですから、これは簡単なことではないです。まして、あれこれと決めてしまった方が遥かに楽で安心です。ですが、最初に申し上げました通り、子供の教育といいますのは親の不安を解消するために行われるものではないはずです。

このように、子供に環境を与えてあげるということは、親が子供を信頼するということです。ですが、多くの親にとって子供を心から信頼するというのは極めて困難なことです。そして、この環境が与えられないばかりにストレスが慢性化し、今現在「キレる子供」というのが社会現象化してしまっているのではないかと思います。

 

 

 

 

参考資料

 

プラスティックの中にいるプリンセス

良いことをすると「いのち」をダメにする

 

 

良いことをしていたら殺された  JICAと日本大使館

日本は良いことをしているの日本を攻撃する人たち  反日 中国 韓国  

良い人とは閉じられた世界によって生きている人  システムの奪略   良いことを顕現化するには

自己の外にあるもの 他者    他人、無意識、体、大いなるもの  

心と体を理解できないと、「社会」と「いのち」を壊すことになる

 

 

 

都会で叫ぶ平和主義者

この世を楽園にしようとする人たちへ

この世を平和で博愛で平等な世の中にしようとしている者は、自分の枠の外、すなわち想定外の領域について体験したり考えていないからこのようなユートピアを信じることができる。

枠の外から利益を搾取して貪っているから成り立っているのが自分の枠の世界だ。

食料、水、空気、エネルギー、どれも「いのち」に必要なものを全てお金で解決しようとする。

残念ながらお金は紙でしかないんだ、金属でしかないんだ、数字でしかないんだ。

便利ではあるが、そこには「いのち」はない。