コンドルからの視点

 

驚いた、なんでも見える。

数の最大公約数と最小公倍数がわかる。

金持ちのこの世界で生きる意味と方法がわかる。

政府がどのように税金を払わせて、何に使おうとするのかわかる。

してはいけないこと、しなくてはならないことがわかる。

 

でも、上から見るだけでは、クローゼットを開ける力もないし、その引き出しを開けて中を見ることもできない。

高い木に登って街を見ているようだ。

だから気をつけろ、ここに安泰するな

だんだんと浮世離れしちゃうぞ

あちこちに移動しないとつまんなくなっちゃうぞ。

 

視点

グーグルアースの視点 

人工衛星からの視点

サッカー選手がグラウンドの上空から下を見ている視点

平等 神からの視点

ヘーゲルの弁証法で使う視点

客観的視点

コギトの視点

冷静な視点 

瞑想の視点

幽体離脱の時の体が浮き上がった場所からの視点 

 

観ている者

観ている者にもいろいろな種類がある。一つをマスターしているからといって、他の世界の観察者になれるのではない。新たな世界ではまた一からの経験と学習と統合が必要だ。でも共通点もあるので、一つでもその視点を自由に使いこなせるようになると他の世界での習練もわかっていて、取得するを助けてくれる。

 

観る力

観ることで、見えるものが変化してしまう。

 カメラを向けると人の表情が変わる

 綺麗になっていくモデル

 量子力学での視線と粒子

 温度計では正確な温度が測れない 

また観る場所で、見えるものが違ってくる。

 上から見た地図

 横から見たら表情

 下から見た根拠

 中から見たら偏見に満ちた自分

これはすごいことだ。

自分が観るだけで世界を変えてしまっているんだから。

 

この観察する者と視点が、見たものから概念を取り出す。

観ただけで、目の前にある世界を抽象化してしまうんだ。

この力を法則にしたり数式にする楽しみは雨の降っている午後がいい。

 

観る者は自分が見たいようにしかこの世界を見ようとしない。この見たい、というのも必ずしも自分の意思とは限らない。意識していなくても、大脳辺縁系の中核神経では無意識のうちに情報の処理がおこなわている。

我おもう、だって単なるコギトとだったら、無意識をちゃんと意識化する訓練はされてない。

おもうといっても大抵のことは思わされているんだ。

でも観察者であることには変わらない。 いるだけでこの世を変化させ続けている。

このあるだけで変え続けているモノって何だろう?

自分、人間、生命体、地球、宇宙のはじまり、全部ということ。

どれも二つに切って分けてしまったら存在できないものばかり。

 

 

 

アンデスとキリマンジャロ

はじめてこの視点から世界を見たのはアンデス。はじめは山の中を歩きながら、酸欠でボーとなって、全体を上から見てまだどれぐらい歩けば峠の向こうにつけるのか意識していた時に起きた。

次に芽生えはアンデスのマチュピチュにいた時

その頃は中で野宿しても問題なかったし、脇道からタダで入れたし、知り合いは月の神殿で結婚式をしていたし、

中でキャンプファイヤーをしている団体もいた時代。アバウトで楽しかった。実は今でも山一つ向こうでは同じことはできるんだけど。

最後はキリマンジャロの頂上の雪の上でずっと寝てしまった時。夢の中で雲の中を飛んでいた。

 

 

「強い人間原理」は、量子力学における「不確定性原理」の発見を基に生み出され、今のような状態にある我々の宇宙は、実は「観測という行為」によって「無数の可能性の集合」の中から「ひとつの現在とし選択された事象」であり、それは観測者としての人類の要求に従ったものであるという考え方。 ここでは宇宙の法則というのは観測者の要求に従って決定されたものなのですから、あらゆる偶然が人類の存在にとって丸々都合良く作られています。

未来とは「ありとあらゆる可能性の集合」であり、現在とは無数の可能性の中から「観測という行為によって選択されたひとつの事象」です。

観測という行為が行われない限り、あるいは観測者が存在しないならば如何なる未来も可能性のままでしかなく、それが現在として出現するということはありません。同時に、観測者の存在を否定するような現在が観測によって出現するということはあり得ませんから、結局それは観測者の要求に従って選択されているということになります。「強い人間原理」の考え方に基づくならば、現在の宇宙の法則とはこのようにして決定されました。

観測者というのはいったい何処からやって来たのでしょうか。従来の人間原理では、それは160億年前のビッグ・バンによって発生したという宇宙の歴史の中にひとつの現象として存在を許された者です。、人類が誕生したという宇宙の歴史そのものが観測者の要求に従って決定されたものであるということです。

 

 

参考資料

 

 

自我

>地球上の生き物で「自我」を持っているのは人間・チンパンジー・オランウータンの3種類のみという話をきいたことがあります。

 

これは何かの間違いだと思います。

そもそも、「自我」という言葉は人間の行動を対象にした心理学から生まれた言葉であり、その定義は生物学的には極めてあいまいなものです。ですから、他の動物にもあるということでありますならば、それは解釈の問題でしかありません。では、「自己と他者」というものを区別して認識するということになりますと、それが爬虫類以降の高等動物、まして哺乳類でありますならば脳の構造自体には主だった解剖学的な違いが見られないにも拘らず、人間以外の動物にそのようなことができるどうかということは、まだ科学的に解明されていません。従いまして、何処にそのような記述があったのかは分かりませんが、例え「自我」というものの解釈が如何なるものであろうとも、それがチンパンジーとオランウータンを含めた三種類であると、曲がりなりにも言及することのできる科学的な根拠は現在のところ何処にもありません。従いまして、これは何かの間違いであり、恐らく調べても見付からないと思います。

 

子供たちを集め、別なところに男の子の人形を置きます。そして、その人形の男の子の見ている風景を絵に描いて下さいと指示しますと、ほとんどの子供が、その男の子は自分と同じ風景を見ていると解釈します。我々大人と同様に、人形の男の子は自分とは違う角度からその風景を見ているのだということがきちんと理解できるようになるのは、小学校中学年くらいからだそうです。

自我を持つにしても何にしても、それにはまず、自己と他者というものを区別して認識する必要があります。チンパンジーは我々とは最も近縁でたいへん高い知能を持っており、その能力は人間で言えば三歳児に匹敵します。では、もっと訓練をすれば、果たして人間と同程度の認識を持つことができるようになるのでしょうか。他にも鯨類でありますイルカが集団で仲間を助けたりとか、身近な動物ではイヌなども驚くほど賢い行動を示します。

脳の構造そのものには違いはないのですから、自己と他者というものを区別して認識できるかどうかは、それは情報処理の複雑さ、即ち知能の高さに関係するであろうことは予測に難くありません。ですが、もちろん世界中の学者さんたちがそれこそ血眼になって研究はしているのですが、たいへん悩ましいことに、他の動物にもそれができるという決定的な事例は未だ見付かっていないというのが現状です。当然のことながら、我々人間にはどうしてそれができるのかということもまだ分かっていません。

ということでありますので、脳内にその能力を獲得できるのがチンパンジー、オランウータン、ヒトの三種類だけということでありますならば、それはどう見ても根拠のないデタラメとしか考えられないわけです。確かに、この三種類は知能の高い陸上動物の代表格でありますから、もしかしたらそれは、このようなことを述べるための比喩的な表現か何かだったのではないでしょうか。

 

 

 

エゴとは

「エゴ」といいましたらそれは「自我」のことであり、その通りに解釈すれば良いと思います。

「自我」とは我々のそれが何かを見たり感じたりすることの主体であるという事実に宛がわれた「概念」です。ですから、それが何を感じ、何を考えるものであるのか、このようなものは全て結果であり、「自我の定義には」含まれません。結果はそのときの状況や個人の価値観によって異なります。善であるか悪であるかは結果に対する評価であり、これは「自我の性質とは」関係のないことです。エゴイズムとも関係ありませんし、それが理性の中枢であるという解釈も科学的には否定されます。

 

この「自我」が存在することにより全ての現象に「主体と環境」の関係が成立し、結果の評価が可能となります。人間では生後二歳ごろからこの機能が働き始め、概念的知能期へと移行します。そして、それ以降我々は、二度とそれまでの感覚的運動知能期に戻ることはなく、生涯に渡り「自己と外界という絶対的な規則」に従って生きてゆくことになります。自我は幻ではないです。と言いますより、我々は生きている限りこの「主体という立場から」逃れることは絶対にできないという事実です

このため、我々はあたかも「自我(エゴ)」に縛られているように思えてしまうのですが、果たして喜び、悲しみ、争い、このようなものは全て結果として発生するものであり、実際には、我々はこれに振り回されているのです。このため、仏教ではこの世の全ては幻であり、無の境地に至ることを仏の道と説いています。

 

フロイトが用いた「自我意識」といいますのは、これは解剖的事実と一致しないことが既に判明しており、現在ではそのまま適用することはできません。意識というのは発生するものであり、それは自我として存在するものではありません。意識発生の主体が自我なんです。従いまして、我々は自我に操られているのではなく、発生した意識に捕らわれているということになります。

お釈迦様は、振り回されたくなければ結果の評価を行わなければ良いと仰っているのですが、自我が存在する限り、我々は環境との関係を絶つことができません。そうそう簡単なことではないですね。

 

 

 

 

 

 

参考資料

 

 

 近代哲学というものは思考を意識の中にもちこむことによって成立した。デカルトのコギト(自己思考・意識主体)とはそういうことだ。ハイデガーはこれを嫌って、意識が慣れすぎた場所から、ふいに「べつ」や「ほか」に移すための方法を開示した。その瞬間移動の中間に“裸の場所”があり、そこにポツンとおかれた存在の“裸の姿”が、いわゆる「現存在」(存在を理解するための特異な存在者)なのである。

 この現存在はそのようにポツンとおかれることによって、自身が次の開示を遂げる可能性をもっている。つまり、そのような現存在は、そもそもが「世界内存在」(In-der-Welt-sein)になりうるのである。

 

 

 

観察者効果または観測者効果Observer effect)という用語は、文脈によって様々な意味

目次

 

自然科学

科学における観察者効果とは、観察するという行為が観察される現象に与える変化を指す。例えば、電子を見ようとすると、まず光子がそれと相互作用しなければならず、その相互作用によって電子の軌道が変化する。原理的には他の直接的でない観測手段でも電子に影響を与える。実際の観察をしなくても、電子が観測可能な位置に単に入っただけでも、理論上はその位置が変化してしまう。

物理学では、より一般的な観察者効果として、機器による観測で観測対象の状態を必然的に変化させてしまうことを指すこともある。例えば子工学において、電流計電圧計は測定対象の回路に接続する必要があり、それら計器が接続されることで測定対象の電流や電圧が影響を受ける。同様に温度計温度を記録するために何らかの熱エネルギーを放出しなければならず、測定対象の温度に影響を与えている。

「観察者効果」の一般的な誤用として量子力学がある。量子力学で事象の結果が直接観測できないとき、それは重ね合わせ状態になっており、いわば全ての可能な状態に同時に存在している。シュレーディンガーの猫という有名な思考実験では、猫は観測されるまで死んでいるとも生きているともいえない。しかし、多くの量子力学者は、シュレーディンガーの猫のパラドックスに答えるには、観察や測定といった行為も量子的用語で定義しなければならないと理解している。そういった意味では「観察者効果」は存在せず、単に1つの大きな複雑にからんだ量子系があるだけだという。少数ながらそれなりの数の量子力学者は、未だにその方程式が観察者を指しているとしている。この問題を誰よりも深く考察した物理学者の1人であるジョン・ホイーラーは、自身の理解の図解として、宇宙をU字形で表し、その一端に目があって自身を見ていることを表した。

不確定性原理も「観察者効果」とよく混同される。不確定性原理が述べているのは、粒子の位置と運動量そのものについてであり、同時に、一方の物理量についてその分散を小さくすると、もう一方は大きくならざるを得ないということである。従って、不確定性原理は「観察」に関するものではない。不確定性原理が外乱(すなわち観察行為)によって起きるという考え方は、当初は(ハイゼンベルクにより)そのように考えられ、また一般への説明ではそのように説明されがちだが、別のものである。

量子力学における関連する問題として、には測定に先駆けて存在する属性があり、それらは系を後に測定することと対応している。このような仮定を「実在論」(realism)と呼ぶが、この実在論という用語は哲学的実在論科学的実在論よりも限定的な意味とされている[1]量子力学における最近の実験で、実在論にサヨナラを言わなければならない結果が得られたと言われているが、その論文の筆者は単に「我々は…実在論のある直観的属性を放棄する必要がある」とだけ書いている[2][3]。これらの実験は、測定行為と測定対象の系との関係を示したが、意識のある観察者が必要かどうかは未だ不明確である。

情報技術

情報技術における観察者効果とは、プロセス実行中にプロセスの出力を観察する行為によって生じる潜在的影響である。例えば、プロセスの進行状況を記録するためにデータログを採取すると、プロセスは低速になる。さらに、プロセス実行中にそのファイルを見るという行為によって、対象プロセスでI/Oエラーが生じる可能性があり、結果としてプロセスが停止することになる。

別の例として、単一CPUで性能測定を行うとき、測定対象プロセスと測定プロセスが動作すると測定プロセスによって測定対象プロセスの性能情報が影響を受け、不正確になる(特に最近のキャッシュメモリパイプラインに依存したCPUではその傾向が強くなる)。

実行中プログラムのソースコードを修正しながらデバッグするとき(出力を追加したり、ログ採取したり)、あるいはデバッガを使って実行する場合、ある種のバグによる現象が変化したり発生しなくなったりする。これも観察者効果の一種であり、バグの特定が非常に難しくなる(特異なバグ参照)。

社会科学

社会科学および一般的意味において、観察者効果とは、見られていると意識したときに行動が変化する現象を指す(ホーソン実験観察者のパラドックス)。実際、軍隊では、抜き打ち検査では兵士が平常時にどれだけ準備できているかを見るが、予定された検査は見られることが分かっている状況での兵士を見るものである。

観察者バイアス

関連する社会科学用語として観察者バイアスObserver bias 心理学用語では実験者効果)がある。これは、観察者が見出すことを期待している行動を強調しすぎて、それ以外の行動に気づかないという測定における誤差である。医学の試験で単盲検法ではなく二重盲検法が使われるのはこのためである。観察者バイアスは、研究者が行動を見てその意味を解釈しても、その行動をした本人にとっては何か別の意味があるという場合にも生じる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

    1. ^ Norsen, T. Against "Realism"
    2. ^ Quantum physics says goodbye to reality
    3. ^ An experimental test of non-local realism

外部リンク[編集]

 

フッサールとハイデガー  デカルトのコギトをめぐる対立

1929年にフランスで行った講演にもとづいて執筆されたフッサールの『デカルト的省察』には、30年余りにわたる現象学についての思索の営みをへてたどりついた「超越論的現象学」の内容が簡潔に語られている。

かつて後継者と目されたこともありフライブルグ大学教授の地位を譲り渡したハイデガーは、1927年に『存在と時間』を世に出して、その中で、哲学への現象学的アプローチについてはフッサールに負うところが大であるとの感謝の言葉を表明しつつも、他方同じ書のなかで、フッサール現象学のデカルト的な性格、つまりコギトの確実知の絶対化、を暗に攻撃することを意図しつつ、デカルト、カントへの批判を行っている。

ハイデガーは『存在と時間』のなかでつぎのようにいっている。

「コギト・スム(われ思うゆえにわれあり)によってデカルトが果そうとしたことは、哲学のために新しい確実な基盤をすえつけるということであったが、彼はこの「根底的」な開始にあたって、ル・コギタンス(思うもの)(=われ)の存在がどのようなものであるのかを無規定のまま放置したのである。より正確にいえばスム(われあり)の存在の意味がどのようなものであるのかを無規定のまま放置したのである。」(第6節)

ハイデガーが『存在と時間』で追求するのは、存在の意味、あるとはどのようなことなのか、ということなのであり、ギリシャ以後の哲学者たちが存在の意味を等閑に付してきたことを攻撃しているのであるから、コギトの確実知を哲学の思索の出発点にしようとするフッサールもまた存在論からの批判の俎上に上がらざるをえない。

これに対して、『デカルト的省察』の第1省察でフッサールは超越論的現象学の理念と方法論を簡潔に説明している。

われわれは、デカルトがたどった思索の道をなぞりつつ、これまで通用してきたすべての確信、とりわけすべての学問を働かせないことから、新たに始める。・・・あらゆる学問は真正な学問を目指している。・・・真正な学問を導く理念は、学問が真正な基礎づけられた判断によって形成されていること、判断がその内容であるところの事象ないし事態と合致していること、であり、これを明証という。哲学は、諸学問を基礎づけるものであるから、そこで用いられる明証は、考えられるかぎりのあらゆる明証に先行するものであって、しかも疑いも余地のないものでなければならない。

では、哲学で出発点となるべき明証とはなにか。

まず、それは世界に現にあることだろうか。すべてに先立って世界があることは自明なのであって、・・・私たちはこの世界が常に疑いもなく存在するものとして眼前にあるような持続的な経験をもっている。しかしこの経験は感性的経験であって疑いの余地のないものではない。・・・世界経験のもつ明証は、学問を根本から基礎づけるという目的からすれば、・・・それを直接的に疑いのないものとしてはじめから要求してはならない。では、世界が現にあることとともにすでに、それ自体で先なるある存在基盤があるのか。

ここで、疑いの余地のないほど確実で、究極的な判断の基礎としてのエゴ・コギト(われ思う)への転換が必要となる。

感性的な経験を差し控えて私にとって経験世界の存在が通用しないとしたとしても、この私が差し控えているということ自身はなにものかであり、それは経験する生の流れ全体とともにある。・・・こうして客観的な世界の現象的判断停止(エポケー)を行うことによって、私の純粋な生が、・・・自分のものとなる。

・・・世界とは、私にとって、・・・コギトにおいて意識され、私にとって通用しているような世界以外のなにものでもない。・・・世界の自然的な存在には、それ自体で先なる存在として、純粋なわれ(エゴ)とその思うこと(コギタチオーネス)との存在が先行している・・・

むろんデカルトとは異なり、フッサールは、このエゴを実体としてそれを出発点に因果律による推論をもとにした世界の構成を行おうとするわけではない。フッサールの目指したのはあくまで、コギトという確実知の上に基盤をおいた学問的認識の厳密化であった。『存在と時間』の存在論的立場からすれば、コギトから出発する前に、コギタンスの存在論がまずなければならないのであるが、フッサールはそのような立場もとらない。ハイデガーの「世界のなかにある」という現存在分析も、フッサールからすれば、世界の存在は感性的な経験をとおしてわれにもたらされるものなのであるから、彼のコギトの分析になんら関わるものではない。ハイデガーからすればまさに存在論的思考の欠如ということになるのだ。

ハイデガーは『存在と時間』第25節でつぎのようにいっている。

「・・・問題の設定にあたって、主題的領域の明証的な与件に手掛かりを求めないということは、あらゆる健全な方法論の規則にもとることではあるまいか。そして、自我の所与性ほど疑いえないものが、ほかにあるであろうか。・・・たしかに、端的で形式的で反省的な自我覚知・・・が与えるものは明証的であるというのはそのとおりであろう。・・・しかし、事実的現存在の実存論的分析論の連関においては、・・・このような自我の与え方が、・・・現存在をその日常性において開示するのか、という問題が起きる。いったい、現存在への通路は作用主体たる自我を端的に覚知する反省作用でなければならないというのは、アプリオリに自明なことなのだろうか。・・・存在論的分析論においては、(自我はいつもわたしのものであるという言明を行う場合)、その自我という言葉は、拘束のない形式的表示の意味でのみ理解すべきものであって、それは、そのつどの現象的存在連関のなかではその反対のものとして暴露されうるものをも表示するのである。(現存在とは)誰かをたずねる問いに現象的に行き届いた解答を求めるためには、自我の形式的所与性から出発することはできない。・・・世界のないたんなる主観というようなものは、はじめには「存在」もしないし、また決して与えれてもいない。同様に、さしあたっては、孤立した自我がほかの人びとなしに与えられているというようなことも決してないのである。」

 

 

 

欧米ではというか、キリスト教文化圏ではというか、いつもその"陣営"をどうよぶかをそのことを言おうとおもう瞬間に迷うのだが、まあそれはともかく、西側の合理が好きな科学的な知識人のあいだでは(と言っておくことにするが)、「20世紀は啓蒙主義とロマン主義という二つの対立する文化のあいだで科学が継承されてきた」というふうに捉えるのが"常識"になっている。

 インディアナ大学の物理学の教授をしてきた本書の著者も、あきらかにこの立場にたっている。

 この立場というのは「科学は啓蒙主義やロマン主義の犠牲になってはならない」というものだ。著者はそこで、このような啓蒙主義とロマン主義のあいだに挟まれて必要以上に苦悩する科学を「正しい姿」に戻したいと心底から思っているらしく、本書をそのような目的で書いた。

 

 著者は「科学が正しい」とみなせるには、科学者自身がもっと鮮明な立場に徹する必要があると主張し、いくつかの立脚点をあげている。

 第1には、コンヴェンショナリズム(規約主義)に立つというものだ。

 これは、科学が提案した約束事(コンヴェンション)は科学を進めるための約束事であって、それ以外でもそれ以上でもないという立場である。なぜ物理学者のロジャー・ニュートンがそんなことを主張するかというと、オッペンハイマーらの原爆研究このかた脳死問題や遺伝子操作にいたるまで、科学は社会的政治的な影響によって発展しているのではないか、とくに20世紀は、という疑念の議論が絶えないからだった。

 第2に、科学が使う道具の意味をもっと正確に知ることである。著者はまず「モデル」という道具をあげ、次に一部の科学者や大半の文化派の連中にとっては意外におもえるだろうが、アナロジーとメタファーも科学の重要な道具であることを説明する。

 第3には、これはちょっと面倒な議論になるが、たとえば「複雑性の科学」などで話題になっている発現特性が旧来の科学ですぐに説明できないからといって、それをもってこれまでの科学の「正しい姿」を訂正する必要がないという立場である。

 ぼくとしてはこの議論には与せないものがあるのだが、著者はこの立場を頑固に守ることが「科学の正しさ」を維持するには不可欠だと考えている。むろん、このような著者の立場を徹底することは最近は人気のない「科学は還元主義である」ということを自白することにつながる。

 が、著者にとって科学はなんといっても安定していなければならないのである。

 

 そこで第4には、科学が扱っているのは一般的事実であって、どんな個別的事実でもないということをあきらかにしておきたいと考える。

 こんなふうに言うと、科学がいかにもつまらないもので、都合のよい現象のみを扱っているように見えるだろうから、著者はすぐに第5に、一般的事実から出発しつづけるからこそ、たとえば数学が「不定」という要素を導入できたり、量子力学が「確率波」という科学にまで達することができたのだという説明をする。これはカール・ポパーが「反証可能性」を持ち出したのに対して、あくまでも「検証可能性」だけで科学を進めてもなんら問題がないという立場を説明している。

 第6に、著者は「理解」にはいくつかのレベルがあるということをあきらかにする。ここはゴードン・ケインの『素粒子圏』を援用して、理解には「記述的理解」「入力と機構の理解」「理由の理解」という3つの科学的な理解があるという説明をする。この3つを、文化系の連中、とくに啓蒙主義者とロマン主義者はごっちゃにしているのではないかという非難でもある。

 ぼくのように科学を編集的手続きとして見ている者にとっては、 あらためて強調するほどのことでもないとおもうものの、実は科学における理解の意味をいちばん理解していないのが科学に従事する"先生"たちなのだ。

 

 このようにひとつずつ科学の"正しい"立脚点をあげていく著者にとって怖いのは、マイケル・ポランニーが「誰もが科学のごくわずかな部分しか知らないので、その妥当性や価値を科学が判断することはできないはずだ」というものである。

 これはいわゆる「暗黙知」の領域の議論とともに科学の横暴な権威の前にたちふさがるには有効な意見であるのだが、著者はこのポランニーの疑問にはぶつからない。科学というもの、べつだんわからない部分があるからといって、それで「正しさ」がなんらの損傷をうけるものではないという立場なのだ。

 すなわち、科学は科学というシステムの中において徹底したコヒレンシーを保てばよろしいのであって、科学の中には見えない領域が広がっているというのは、蒸気機関車が通信能力をもっていないとか、ミキサーでDNAが調べられないと言っているようなものであって、とうてい議論の対象にすらならないという立場なのだ。

 

 というわけで、本書は科学を少しでも立派にしたい人にとってはまことにうってつけの一冊であり、しかもこれは推薦してあげておいていいことだろうとおもうのだが、さまざまな科学の成果を実にうまく引例して話をすすめているので、一種の最新の科学理論入門書としても一級品になっている。

 だからこの本は科学を知りたい読者にも向いている。ほんとうのところをいうと世の中で「科学を教えている先生」にこそ読ませたい。いろいろな場面で実感してきたことなのだが、「科学がいいものだ」と偉そうに、あるいは慎ましく教えている連中ほど、世の科学書を読まない連中なのである。それだけならまだしも、自分が専門としている科学領域以外のほとんど何も知ってはいないのが、ほとんどの科学者の平均像なのだ。

 つまりは、大半の科学者は自分が携わっている僅かな領域を"科学している"だけであって、科学一般を考えたことがあるわけではないということである。

 それゆえ、ポパーやファイヤーアーベントや村上陽一郎を読むべきは多くの科学者自身なのであるが、めったにそういうことはおこらない。本書がどこかイライラしているのもそのへんだ。きっと科学が正しいワケの説明が、大半の科学者によってなされていないという苛立ちがあるためなのだろう。

 そういう意味では、本書は科学者が科学者自身に向けたとっておきの"虎の巻"である。しかし、読んでいてどこか「言いくるめられている」という気分がするのも拭えない。また、啓蒙主義とロマン主義を避けなければ科学でいられないというのも、実は警戒しすぎである。そんなものを恐れる必要はない。

 湯川秀樹さんはぼくにこう言ったものだ、「ぼくが本当にやりたかった科学は谷崎のようなもんです」と。呆気にとられたぼくを尻目に湯川さんは続けた。「そうや、女の足の指を舐めるような科学やね」。

 それにしても日本の科学教育の現場はどんどんつまらなくなっている。なんとかしてほしい。こんなことをおもうのは、ぼくが科学のギョーカイにいないためだろうか、それとも"科学していない"せいだろうか。

 

 

 

参考資料

 

 

彼女は自伝『パンダのanan』(マガジンハウス)でこんな言葉を綴るに至る。

〈私は、ある意味で自分の事を諦めたのだ。それまでは、宙に浮かんで、頭の上の方から客観的に自分を見ていた。幽体離脱した人が、自分の肉体を見ている様な感じ。上から見ていると周りはよく見えるけれど、自分の中身がよく見えない。心の中の痛みなんか見えないからほっぽっておいた

小泉今日子が綴ったこれらの言葉を受け、助川氏はこう書き記す。

〈「宙の上から自分を見るまなざし」は、「ユミさん」の要求に応えようとする、「ユミさんの母親」の視点です。そこに身を置いていたために、みずからの心身の声を、小泉今日子は(中略)聞き取れずにいたのでした。こうした「自分を外側から見る習性」は、一方ではプラスにも働いています。(中略)「お客の目線になりきって自分を観察できること」が小泉今日子の「強み」です。この「強み」は間違いなく、「頭の上の方から客観的に自分を見ていた」経験に根ざしています。

 バブル時代に各種の「過激な企画」をもちかけられたとき、冷静に「一度はやってみよう」というスタンスで彼女は応じていました。年長者に踊らされているように見えながら、踊らせる側の真意をしっかり見定めている――アイドルとしての小泉今日子のあり方は、「ユミさん」の「着せ替え人形」を務めていた姿が原点です〉

 小泉今日子の長いキャリアを振り返ってみれば、助川氏の言うような「プロデューサー目線」に裏打ちされたうえでの「変化を恐れない」姿勢が、常にファンを飽きさせず、また、その都度新たなファンを獲得してきた原動力になっていたのは事実のように思える。ただ、時折起きるスキャンダル(そのなかには、単なる恋愛沙汰だけでなく、「車の運転中に新聞配達用のバイクと接触したうえでの当て逃げ」というものも含まれている)が彼女のキャリアにほとんどダメージを与えなかったのは、小泉が大手事務所バーニングプロダクションに所属しているからという事実もまた忘れてはならないだろう。

 ただ、大手事務所に所属しているからという理由だけでは、芸能界はサバイブできない。それには、天性の才能と、たゆまぬ努力が不可欠だ。助川氏もこんなふうに指摘する。

〈小泉今日子は、次から次へと路線を変え、時代から求められるポジションに移動していきます。こうしたやり方は、真似しようとしてもなかなかできる業ではありません〉

〈アイドルから本格派歌手にイメージを変えたり、音楽畑で活躍していた人が俳優にシフトしたり――そういう路線変更は、珍しいことではありません。一つのことだけに取り組んでいたのでは、芸能人としての寿命は限られます。しかし、小泉今日子のように転身を繰り返し、その度にステップアップしていくケースは滅多にありません〉