ボリビア  紫色の宙

 

チチカカ湖の街プーノからバスを2台乗り継いで国境をこえてボリビアの町にやって来た。2台目のバスは、畑の中を走っている最中にパンクしてしまい、僕たちは歩いてコパカバーナの町に入った。この町は巡礼地として有名で、特に聖週間Semana Santaはキリストが復活するイースターの前に行われるお祭りでだ。キリストの復活を祝う前に,イエスの受難と死を巡礼者は再体験する大切な宗教行事で、、遠くはラパスからこの町の丘に向かって歩いてここまでやってくる人もいる。ほとんど飲まず食わずで3日かかるという。

この町にある聖なる山に登る途中、両側を石に挟まれた細い道があり、ここを無事に通れば何事もないが、通れないと災いが降りかかると言われている。

 コパカバーナの聖週間は聖なる空間として巡礼者にとってはたしかに実在しているのであったが、僕みたいな疲れていた旅行者にはあまり良いことはなかった。巡礼に来た人によってこの町は膨れ上がり、宿も早くから埋まってしまう。着いた時には早くも公園や空き地にビニールを張りめぐらしテントもどきをつくっている集団がいた。この時期に限り、レストランやホテルは値を吊り上げる。もうホテルはどこも一杯で、やっと見つけたのが倉庫で、それも一泊8ドルとぼられるが、どうしようもなかった。かきわけて進まなければどこにも行けない人ごみ。友達の蒸発、蚊と南京虫に刺された腫れ、下痢、痔、雨、冷えこみと、泣きっ面にワンツーパンチである。翌日に、友人を探すために、警察に尋ね人の依頼に行ったら 昨夜に教会の前で音楽を聴いていたら神を冒涜する不敬罪にあたると、友人たちは有無を言わずに留置所にぶちこまれていた。黒いサングラスをしたネオナチ気取りの警察官に保釈金をぼったくれ、精神状態はきわめて悪い。その日は久しぶりに眠れない夜だった。逃げるようにバスに乗りこんでこの町を後にした。バスの中ではほっとしてか、前後不覚の熟睡だった。

 ラパスはボリビアの首都で、地形的に見ると、周りは山に囲まれ、街自体がちょうどすり鉢状にひろがっている。そのすり鉢のヘリに停まったバスから眺めた街は、たそがれの賑わいでせわしく見えた。どこまでも続いていきそうな急なくだり坂の向こうから少し顔を上げると山吹色の太陽がその重さで落ちてしまったかのように、連山の向こうに消えていった。

 ボリビアの物価上昇率は世界最高であるに違いない。僕が行った年は、数ヶ月間でインフレ率が5000%を越えたという。ここまでくると、何が本当で何が嘘なのかわからない。値段というのは、毎日上がっていくものだと思っているから、値段の変わらない日があると、かえって変に思えてしまう。首都とはいえ、アメリカや日本のようなスーパーマーケットはないが、食料品を扱う雑貨商はところどころにある。だが今ではどの店も値段の表示はしていない。そりゃそうだろう。これだけ物価が上がれば定価なんかつけるほうがどうかしている。値段のタッグを張りかえるだけで毎日が過ぎてしまっては大変なのか、僕の行った店は、値札のかわりに、色とりどりのタッグがついていた。レジの人に聞いてみると、赤はいくら、青はいくらと、色によって値段を分けるそうだ。これは良いアイデアだ。一日2度も値段が変わるそうである。

 僕がラパスに着いたときのドルとの交換レートは、1ドルで13万ペソであった。百ドル両替すれば、1300万ペソである。この以上な物価上昇のため、10万ペソ紙幣が発行されている。だから何を買うにしても大金を持っていかなければどうしようもない。たとえば、パン2500ペソ、ホットドッグ3万ペソ、ハンバーグ8万ペソ、イタリアレストランのスパゲッティ20万ペソ、カセット70万ペソと、ちょっとした物を買おうと思っても大金をかばんの中に入れておかなければならない。テレビ一台買おうとしたら冗談ではなくリュックサックにお札を詰め込み店に行かなきゃならない。そんな時はお札を数えるだけで大変な時間を要する。あの時間を労働に使えばどれだけ能率が上がることやら。

 こんな物価のところでも庶民の足である交通は比較的安く、一回につき5000ペソだった。バスの車掌は、細かい額の紙幣でおつりをくれるのだが、その中には500ペソ紙幣も混じっている。でもよく考えてみると、日本円に換算して一円にも満たない。すると、紙代、印刷代などの諸経費のほうが実際の金の価値より高くなてしまう。これは不思議な事実である。

 こんなことだからペソを持っていてもなんとも頼りない。金はあってもなきがごとしで、印刷物の束という顔をときどき、しごく自然にあらわす。だが単なるコミュニケーション的媒体となったペソも、アメリカドルの運用によって結局、人間の性でもある迷信的現実型お札信仰を変えることはできない。

 インフレで泣くのは庶民である。金持ちたちは、自国のペソを大切にしようと言いながら、裏では兵器でドルを貯めている。そんなルートも貯蓄もない庶民の給料はやはりペソである。給料も物価上昇率と組み合わせて決まれば問題が減ると部外者は思うのだが、労働組合は毎日上がる物価に対して給料を上げるのに忙しく、ストが日常茶飯に起こる。僕がボリビアに入る前には、鉄道が2ヶ月間のストをやっていた。このスケールの大きさは拍手ものである。その他、郵便、銀行、ガソリンなど、ストなどされたら国の動きが止まってしまうものまで平気でストに入ってしまう。低い給料→スト→生産性低下→競争力低下(対外)→インフレ→価値の下がる給料と,悪循環が続く。

 ボリビアの独立以降160年が過ぎたが、その数よりも政権の変わった数のほうが多いという事実に注目すべきである。ここにボリビアの現状を解くひとつの鍵がある。都会型の能率第一の思考から見た「安定」は、この原因を解くことから始めなければならない。

 ラパスも居住区によって物価が違ってくる。旧市街のPlaza de Mendoza には一食2万ペソ(約30円)がコース(といっても、スープ、米と肉片、果物)で食べられるかと思えば、大使館の立ち並ぶ新市街では、最低でこの10倍はする。この一角にスキヤキという日本人の渡辺さんが経営するレストラン兼食事処があるのだが、僕はここに泊まったときも、わざわざバスに乗って旧市街に出て朝食をとった。お気に入りは、アピとよばれる、トウモロコシとベースにしてシナモンと砂糖を加えた熱い飲み物で、これを一杯フーフー言いながら飲むと、いっぺんに朝の安らぎが腹からにじみ出て体を包み込む。それからパンデトリーゴとよばれる小麦のカタマリが詰まって重たいパンをちぎってはアピ゚に漬け、口の中に放りこむと、大地の麦の味がゆっくりと舌の上に広がる。この大地が人をふるわせ、魂をおこす。

 人を震わせるものとして、音楽のことを少しは話さなきゃならない。僕は長い間、音楽に対してコンプレックスを抱きつづけた男である。聞くのは好きであるが、クラシックには偏見を持っており、ブルジョア的、技術一辺倒、お高い、音符的、か弱さ、密室的というイメージがつきまとい、南米に来てからは上記とは反対の美学を持っていた僕は、自然とクラシックを遠ざけた。本当のクラシックを聞いた事が無かったのかもしれない。いやあったとしても、それを受け入れる耳と素直さがなかった。そんな僕に驚きと喜びを与えたのは南米の音楽だった。ここの音楽は生きていた。いつも胸の奥から、大地から、吹きこぼれる力を持って躍動している。サルサ、ルンバ、フォークローレ、タンゴ、どれもこの魂の調べを身体の中で感じ取った人は、もうそこから1歩も動くことができなくなる。人がそれを魔術と呼ぶならそれでも良かろう。

 はじめてエクアドルで少年の笛の音を聞いたときの僕の喜びを誰に伝えることができよう。もうしばらくは、それに取りつかれてしまたような、心の皮を一遍に3枚ほどむしられたような気がした。そしてペルーでは、少年たちがナイフを持って山に入り、竹を切ってノミを使って穴をあけ、まるで大事な宝物を触るかのように、恐る恐る息を吹きつけ、音の調整をしていた。ある日、飲み屋にいると、楽器を持った男たちが入ってきて演奏を始めた。調子はずれのような音の一つ一つがだんだんと「優しさ」に変わったのがわかったとき、もう僕の耳はどこにも飛ばず、力強くらせん状に渦巻いていた。またあるときは、チョリータ(おばさん)の歌を聴いた。キーキー声と転調の連続に眉間のしわを寄せているうちに、これを音楽というのをよした、と途端に彼女の声が、アルマが、音符ではない音流となって、そのまま僕の身体に溶けこんできた。そこから生まれた点はだんだんと大きくなり、口を通して外に膨らんで行った。それが彼女のアルマに対する返事だった。また彼女は歌いつづける。 僕の頭は、なんと長い間、音を受け取ることを拒否してきてしまったのだろう。

 インディヘナと一口に言うが、その中には多くの種族がある。アメリカ大陸にヨーロッパ人が入って来る前にはアラスカからフエゴ島までインディヘナが住んでいたいたのだから、それをひとつにしてしまうことのほうがよほどおかしい。チチカカ湖周辺には、大きく言ってケチュア族とアイマラ族がいる。西はケチュア、東はアイマラが多く、政治にはケチュア、踊りや音楽はアイマラが長けているそうだ。あのキーキー声のチョリータも、そういえばアイマラだった。

 チョリータの服装は、はじめどうもダサクて、少しも目を止めなかった。ところがあるときフッと気がついた。彼女らはなんとお洒落なんだろうと。スカートを5枚ほど重ねてはいており、一番上のスカートには刺繍を施している者も多く、いろいろと手が込んでいる。彼女らは何気なくショールを肩に乗せて羽織っているが、あれはとても良い。勿論、素晴らしい柄のものがほとんどである。しかし極めつけは、なんといってもあの帽子である。色は皆地味で渋いものが多い。が、その帽子を決してかぶることなく、チョコンと頭に載せてあるくのである。イヤー、粋ですな。

 これは後から知ったのだが、チョリータたちは、下着をつけていない。催した時は道の端にしゃがみ込み、そのまま用を足している女性も見かけた。スカートが大きく広がっているため、始めのうちは彼女たちが何をやっているのか気がつかなかった。でもある日、一本の光る水の一筋が坂道の砂に吸い込まれながらも流れるのを見かけた。ラパスでは博物館や、フォルクローレで有名なpenanaira,ロスカルカスのコンサート、映画館,遺跡回りと、毎日出歩いたが、一番面白かったのは、意外にもプロレスだった。プロのレスリングであるが、日本は屋内でやるのに、ラパスでは小学生がドッジボールをするようなコートに,段々のコンクリの座席がある青空の下である。

 五十円の入場券を買い、空いいている席に腰かけた。まだ試合が始まるまで時間があるのか、席はまばらである。さっきからテーマソングらしき音楽が繰り返しかかっている。アイスクリーム売りのあんちゃんの売り声も、風に流れる綿雲の下で間伸びしている。鳥のさえずりが隣にある動物園から漏れている。涼しい風と空気を突き刺し、入ってきた日差し。突如、レスラーたちが出てきた。格好をつけて中央に設置されたリングに飛び入る。でも両サイドのレスラーもレフェリーも同じ小屋から出てきたのにはア然とした。これじゃはじめから闘争心なんかあったものじゃない。彼らの飛び乗ったリングが妙に軽い響きを立てたのでよく見てみると、四角いジャングルはとてもチャチな作りで、マットは板一枚の上に、白い布がかぶさっているだけである。

 こりゃあブレーンバスターなんかでまっとに叩きつけられてたら痛そうである。お、戦いが始まった。なんだか日曜のゆっくりした午後にあった、のんびりとした展開である。動作、表情はそこらの役者なんかよりよほど役者である。しばらく前座が続くのだが、どれも漫才なんかよりずっと面白い。レフェリーは毎試合ゲームに加わり、自分から率先して反則するのは「政治」という劇を見るよりは気が利いている。

 でもプロレスで面白いのは、やっている人たちよりも見ている人たちのほうかもしれない。観客の中には、もうほとんど気違いという者も少なくない。後ろに座っていたオッサンは拳骨を握り締め、目を剥き出し、鼻の穴を奥まで広げて口から泡を飛び散らし叫び狂う。「マリコンマタロ」「カブロンダレ」とスラングが飛び交う。

 チョリータのおばちゃんたちも負けてはいない。悪役プロレスラーに向かってミカンの皮を投げつける。当たった時には子どものように喜ぶ。無邪気で良い顔をしている。一番前の席に陣取って顔を真っ赤にして罵声をあげていたチョリータは、興奮のあまり帽子がずり落ちてしまった。

 試合と試合の合間に、投げたミカンの皮をもう一度使うため、観客席の塀から飛び降り、そこらに散らかっている皮を拾いに行く子どもたちがいる。またそれを防ごうとする子どもたちが板切れを持ってリングの下で待ち構えている。彼らの駆け引きを見ているだけでも面白い。子ども達も生き生きしている。劇への参加は冒険的空中遊泳空間の始めのステップだ。悪役レスラーは、恐い顔して、バナナの皮を観客に投げたりするが、子どもたちは彼に唾をはき飛ばす。自分の役割がわかっている悪役レスラーとは、愛のある道化的ひょうきん者である。道化とは、いたずら好きの心情深い男に捧げられる名だ。それに比べて正義の味方で悪口の良いレスラーは、全身トレーニングスーツ、顔にはマスクをかぶり、元気の良いテーマソングと共に、リングの上に飛び降りた。正義の味方の宿命なのか,素顔は見せることなく,いつも格好良くないといけない。月光仮面、仮面ライダーしかりである。ぶったまげて笑ったのは、ここの正義の味方のボディースーツに書かれたアルファベットで、マスクには頭文字をとってかMと白地のマスクに書かれている。Mathematics‐数学。社会への批判か、子どもへの助言か、原理公式主義か、科学信奉主義者か、よく知らないが、このネーミングはヒットだった。

 ついに最後のメインイベントがやってきた。さすがに今までの前歴とは違って、少しは本格的な試合運びであるが、どうもどこか抜けている。ちょっと視線をリングの上からはずしてみると、リングの横に空き地がある。そこで子どもたちがとなりのプロレスに影響を受けたのか、技をかけあっている。子どもは真剣なのだろうが、遠くから見ていると,じゃれあっているようでユーモラスである。この試合の間じゅう「ねえ、私を愛して」というロマンチックなBGMがずっと流れていた。

 ボリビアに一ヶ月もいた割には、あまり旅行をしなかった。遠出といえば、ティワナコとコチャバンバぐらいである。ティワナコの巨石文明は、インカ以前の時期にあたり、インカの数々の秘密を解く鍵があるかもしれないと、早速行くことに決める。前の日に偶然博物館で再会した生越さん夫婦と一緒に行くことにした。

 彼らの泊まるホテルトリノを訪ねた。このホテルは,ロケーションが良い。中央広場からたったの半ブロックである。一階はレストランになっているのだが、その雰囲気がまた良い。午前中から酔っ払いが酒を飲んでいる。ダイスやトランプを使って静かにギャンブルに明け暮れている連中もいる。手のひらで温まったビールをちびちびなめている者も居る。みんなさえない風貌だが、何故だか胸をくすぐられる。このホテルはヒッピーくずれのヨーロッパ人が多く、一人一泊たったの一ドルだった。

 ボリビアは、ペルー、エクアドルと比べて、皆なマナーを守り、礼儀正しいように見える。バスを待つ人びとも、ずらっと一列に並ぶ。僕が乗りこんだバスはもう始めから満員。これを逃すと2時間待たなくてはならないので、無理に乗りこんだ。慣れればそれほどでもないのだが、はじめはこの独特の人間の臭いに旅行者は参るそうだ。僕が参ったのはバスである。いままで床に穴の開いたバスやシートが床とくっついていないバス、右手に漏斗を持って、いつもラジエータに水を注いでいないとオーバーヒートしてしまうバス、と変わったバスをいろいろ見つづけてきたが、ブレーキが壊れて効かないバスに乗ったのははじめてであった。運転手は、サイドブレーキを使ってノロノロ運転で、気楽に一人で鼻歌を歌っている。ティワナコはペルーとの国境に近いが、途中で川を2つ越えなければならない。橋はなく川の中を進むので、雨の後は通行不可になる。

 肝心のティワナコの遺跡だが、インカ文明につながる石組が、まだ詳しくは調査中なので、今日はここまで。遺跡には、インチキの土器や石を売る四十歳ぐらいの男がいる。どこに行っても彼らのようなのがいて飯を食っているから、きっと商売繁盛、家庭円満なのであろう。

 ある日、スキヤキの主人渡辺さんと画家の鈴木さんと一緒にコチャバンバに行くことになった。渡辺さんは日本に送るチャランゴの製造元との交渉のため、車で行くというので僕と鈴木さんがくっついて行ったのだ。鈴木さんは途中の町のOruroで絵のモチーフを捜したいという気持ちもあった。出発のとき、渡辺さんはふたつのポリ容器にガソリンを満たして車に積みこんだ。ボリビアでは、日常茶飯事で大企業もストに入ってしまうので、長距離の旅行には必ず携帯するのだそうだ。僕の知っているなかでは、ここの石油は世界で最も安いところのひとつで、一リットル10円もしない。だがいくら値段が安いといってもストになると一切の石油が手に入らなくなってしまうのが、ここボリビアである。だから上流階級では石油タンクを家に設置しているところが多い。

 ラパスからOruroまでの道は単調である。平原が地平線まで続き、左右には果てしなく山が連なる。浮雲が、ところどころある他は、360度何も天をさえぎるものはない。この景色はどこまでも変わらない。そのためか居眠り運転も多く、道からはずれて自爆してしまうらしい。道の左右、ところどころに小さな十字架だ立てられている。黒色は既婚者、白色は未婚者だそうだ。ジャガイモの原産地の平原を左に見て、暫く行くと右手に紺色の湖が見えてきた。その上を舞う白いものや,湖面に映えるピンク色が目をとらえる。車が湖に近づくにつれて、それがカモメとフラミンンゴであることがわかった。こんな高度にもかかわらず、彼らはここに生息しているのである。

 横を通っただけで物悲しくなるオルロの町を超え、ついにはコチャバンバまでまっすぐ下る峠にやってきた。気圧の関係で車の後部に置いてあったガソリンタンクからガソリンが漏れ始めた。ラパスの海抜は3800m。この峠は4500mである。暫くの間、この峠で一休みすることになった。僕は一人、近くの丘の方に引き寄せられるように歩いて行った。そこでのびのびと深呼吸をしたかった。そこに座って息をついた後、操られるように頭を天に向けた。

 

雲がない

さえぎるものはもう宇宙のチリだけである

その青は群青色よりも透き通っていて、もう色は消えかかっている

一度目を閉じてトロンと見定めると、色はどう見ても影にしか見えなかった

薄紫色の蒼穹が遠くから長く続く

目がつぶれんばかり輝く暗黒の入り口

形が、そして時さえも消え去ると

風の便りで聞く「まど」だと確信ある直感がやってきた

空は気の遠くなる不可解さで瞬時の間、体を中に浮かせる

 

見つめられるのなら見つめつづけるが良い

おまえの目がそれ程モノが見えると思うなら

ひとときも休むな 怠るな

気の遠くなる不可解さでもって気を失うな

それをもって言い訳をするな

戦士たちよ、力強く、その2本の足を大地につきさせ

 

直感の源を定義するのは私の趣味ではない

ただ空を、空だけを見つめ、受け入れたまえ

すべてを投げ捨て、野の血を躍らせろ

それでも残るものが「全」を突き抜ける世界軸のごとく屹立する

そこでは言葉が消え、五感もひとつひとつ消えうせる

思惟もどこかに起き忘れられ意味までも消える

 

すべての血管という血管が鼓動をなして

細胞のひとつひとつが丸く並ぶ

そしてそこに聞こえない言葉があなたを優しく包み込む

 

 

 オルロからコチャバンバに向かう山道で、幅7mの道が見事に消えてしまっていた。ブルドーザがどこからともなくやってきて山を削って応急の新しい道をつくっている。このあたりから緑が急に増えてくる。黄色い鼻をつけたタバコの原種が人の目をなごませる。

 コチャバンバは海抜2500mのボリビア第2の都市である。この砂埃の町は、このあたりの穀物を集める市場、工業、コケインで有名である。町の散策に市場にも行ってみた。今までに見たことのない大きな市場だ。もしかすればこの大きさは世界一かもしれない。何から何まで場所ごとに分かれていて、数店もしくは数十店のお隣サンと競い合って、時に助け合って商売を営んでいる。

 市場のスタティックな熱に少し疲れて、気分転換をかねて横にある丘に登っていった。ここは市民の憩いの場ではなく、強烈な臭いの野外公衆便所と化している。どこを見てもひとつも憶さず堂々とした大が、ここあちらに点在している。色は茶色より黄色に近く、どれもとぐろを巻かずトロっとしたカレーのように下痢気味である。なぜかあたりにトイレットペーパーがひとつも落ちていないのは不思議である。

 丘を降りて町に戻った。まったく湿気が多くて暑苦しい。町は新しいようで、道は正しく碁盤の目となっている。それのせいもあるのか、どの道,家にも特徴がなく、表情がない。物価はラパスに比べてナンでも1.5倍もする。

 こちらの女性のスカートの丈はラパスに比べて短く、重心の高いコウモリ傘のようである。背負って胸の前で結んでいる風呂敷は、化学繊維の色派手やかなものだ。後で気がついたのだが、ここには股を広げて座っている女性が目に付く。勿論スカートでちゃんと覆っているが、ラパスでは地べたに座っている時もあぐらをくんだり、ひざ頭を合わせている人が多い。

 ラパスに帰ってきた。この坂道の多い、空気の薄いどん臭い街が懐かしくなっており、気分も落ち着いてのんびりして嬉しくなった。それにしても,この街ではどの通りにも靴屋とスポーツ店が目に付く。といっても、日本やアメリカのものとは違い、サッカーボールとユニフォームぐらいしか置いていない。フォークローレや民芸品関係の物を買いたいのならばサンフランシスコ教会横の坂に限る。急な坂道に肩をぴったり寄せ合った店が延々と坂の上までつながっている。その坂道を息が荒くなったのも気にせずに登って行くと、泥棒市に出る。本当に盗んできたものかどうか知らないが、両手を使わなければ前に進めないほど、多くの男たちが各々、品物を持参して集まってくる。靴あり、アイロンあり、ナイフあり、時計あり、男たちは持参した品物を服の前に置いてあたりをキョロキョロ見回している。気に入ったものがあればそこで相談が始まる。基本的には物物交換であるが、差額や、何も持ってこない男もいるので、その時は通貨が交換の対象となる。

 市は人が集まるところに立つのだが、どんな狭い道でも誰かが座って物を売っているラパスは、もう毎日が市であるともいえる。

 皆それぞれのものを持ってきては売っているのだが、メキシコから下ってきた僕は、もう余程のことがないと驚くことはなかった。タバコの一本売りにもすっかり慣れていたが、「針」の3本売りには仰天した。もう60を越したかのような、奥の見えないほど深い皺で包まれた顔の老婆は、針を手にして一軒づつ店に寄っては売り歩いていた。その様子が浮世離れしていたので、その針の値段を聞くのは忘れたが、針を3本づつ売って歩いて本当に生計を立てているのだろうか。彼女がのんびりとした足取りで去って行くときに見せた、マントの先に突き出た手の甲は30代の女のように張りがあった。

 彼女の背中を見て思い出したのだが、ラパスの町の一角に占い師がいつも居る。近くには2、3軒変わったものばかり売っている店があって、その店内には、リャマの胎児の剥製、ヒトデ、アルマジロの殻のほか、わけのわからないものが処狭しと置かれている。今になってこれらについて興味が出てきた僕だが、このときはこういう方面とは縁が薄く、店の主人に話しを聞くことも無かった。さぞかし面白い話が聞けたに違いないと思うと残念である。

 少し気味の悪い話を付け加えると、ある晩、宿に帰る途中で腹が減ったので、屋台のホットドッグ屋でひとつ注文してパクついた。その中のソーセージの歯ごたえが妙に柔らかい。その柔らかい肉が粘り気のため、まっすぐに食道には進まず、歯茎や下の裏側にくっついて、あまり良い口ざわりではない。あとからボリビア人の友人にその話しをすると「そりゃ猫の肉だからね」とウインクをして応えたものだが、彼の口調から本当か冗談か察しがつかなかった。それを問い詰める勇気もなく、そこで話は打ちきりになった。そういえばこの街に猫は見かけない。いまではそれがただのソーセージであったと願うばかりだ。

 ラパスからバスで30分ほど行き、そこからまた30分ほど歩いたところに月の谷と呼ばれ、侵食されて先の尖った砂山の連なる荒涼とした空間がある。そこに映えるサンペドロというサボテンはメスカリンを含み、美味である。