セブ島 太平洋の中で たくさんだけど一つ
太平洋の海に潜った時のこと。
そこにアジの大群がいた。
幅20メートル、高さ30メートルの魚群が、揺れる水面からのスポットライトの下でゆったりと形を常に変える大きな渦となっていた。 数はわからない。千の単位ではない万だ。とにかく一杯だ。
初めはただ見蕩れていた。
体は無重力状態のように海中で揺らいでいる。
肺の中の空気の量で少し浮いたり沈んだりしながら眺めている。
そのうちに体が勝手に彼らと同じ動きをしはじめた。
両足は一つとなり、両手は体の横に張り付く
動きは体のうねりだけ。
だんだんと渦の中に体が吸い込まれる。
ゆっくりと一緒にまわる。
彼らもほんの少し形を変えて、ぶつからないように螺旋運動を続けている。
陽の光が海面で屈折して揺らぎながら海中をさす。
光が虹色に煌めく。
光に向かってゆっくりとしなる、ゆったりと昇る。
体の中心に光を感じる。
そのうち音がなくなる。
そうしたら沈黙の交響曲が体の中から湧きあがってきた。
長くはそんな遊泳が続かなかった。
そのうちに、急に「自分」が現れた。
すると自分の居場所がわからなくなっていることに気がついた。
どちらが上か下かもわからない。
突然に、不安になり、急に体がこわばった。
呼吸が乱れ、しまいには海水まで飲んでしまった。
でも感じるものがあった。
それは「一群で一つの生き物」だという実感。
一が多で、多が一である瞬間。
セブ島 マクタン
その日は震える体で海から上がり、日が太平洋に沈んでから月の下で椰子酒をひとりで呑んでいた。
すると、ゆったりとした確信が体の中にカタチになってあらわれる。
こうしてヒトの不思議な誤解が始まる。そう大事な想いとして。
「人類も全部で一つの大きな生き物ではないか、まるで大群の魚たちが大きな一つの繋がりの生命体であるかのように。」
そう考えればいろいろなことが腑に落ちる。川の中のメダカの一群、ミツバチの女王が死んだら働き蜂が変化して新たな女王になること、マツリでのヒトの動き、異常な事件に対するヒトの関心、交通事故が多発する場所に新たに設置される信号機やミラー。どれもが「一つ」の動きに「多」が反応して、一と多が関係しあっている。自分ではない他人の行動が、自分の行動に関わってきている。ほかにどんな例があるだろう? ちょっと一緒に考えてみて。
生命体は他と同化することによって自分の位置を確認する習性があるのではないか?それは視野に入る限りの集団とは限らない、もっと大きな共同体であっても、その一員であると感じる瞬間から、その共同体から世界を見る視点を手に入れる。これが面白い。自分の目から見る世界だけではなく、サッカーのサポーターだったり、村おこしだったり、オリンピックだったり、企業だったり、他の集団と一体となり、そこからこの世を見るということをしたくなることはないだろうか?
そしてもしかしたら生物は、欲やサバイバルや進化や慣習やモードや真理や科学や神ではなく、すべてがつながるために存在するのではないかと乱暴に言い切るとなにかが体の中で閃いた。
38億年前にできた命は、現在の全ての生命体につながっている。これがカミの見るこの世の姿だ。
同化の宇宙史、人類史。 人類は時代で何に同化して、この世界を見つめようとしてきたのだろう。
人類の哲学も思想史も宇宙との同化をするためのメッセージなのかもしれない。
鳥の集団の旋回
「数の多い方に近付こうとする」
「飛ぶ速さを合わせようとする」
「近付き過ぎると離れる」
クレイグ・レイノルズがこの三つの条件が満たしたプログラムを作動させたところ、鳥の群はリーダーも意思疎通も必要とせず、整然とした集団行動を実現しました。このコンピューター・シミュレーションで、自然の鳥と同じような群の動きが再現できました。
このように、複数の因子が集まることによって「集団としての性質」が作られてしまうことを「自己組織化現象」といいます。鳥は、自然界の中でこの自己組織化の原理を応用しているわけです。
コンピューター・グラフィックの中でお互いに意思疎通が発生しているわけではありません。
しかしこの集団の動きが始まると、見ている者や本人たちにも何かを生み出しているとは思いませんか?
その近くにいる者に何か影響を与えるのを感じたことはありませんか?
この不思議な情動を私は大切にしています。