チリ アンデスから太平洋へ
ああ、海が恋しい。一度声に出してしまうと無性に,潮の香りに身をうずめたくなってきた。
アンデスから太平洋まで繋げるLapaz―Antofagasta(チリ)行きの電車に乗ることにした。電車は毎週一度の金曜日にしかない。この間の距離は1000km近くあるが、運賃はたった7ドルだった。
山の街ラパスを発ったののは4月の終わり。南半球では、秋もたけなわと木々も紅葉を身にまとっている午後だった。アントファガスタに着いたのは、次の次の日の真夜中の2時だった。全部で38時間の汽車の旅である。乗りこんだのは一応座席指定のある二等客車だ。これだけ長ければずっと立っていける者なんているはずがない。車両は木製で、小学校の石炭ストーブの臭いがした。座席は横に一人がけと二人がけの3人分。それが縦に12列ほど並ぶ。幾つかの窓ガラスは割れている。僕の席も窓が割れていて、外が、埃まみれのガラスを通すことなく鮮明に見えた。外からの新鮮な空気が絶えず入ってくるため,僕にはかえって都合が良かった。
予定より30分送れて汽車はホームから離れた。木製の車両は揺れるたびにキイキイとなった。隣に座ったおばさんは、塩の湖で有名なウユニまで自家製のピーナッツと米からつくった菓子を売りに行き、翌日の電車でウユニの塩などの特産物を買い込んでまたラパスに戻ってくるという生活を毎週していると言っていた。親切な人でいろいろ話しかけてくれ、途中でバナナも一本くれた。山の街ラパスではバナナは高級品だ。右の手首に巻かれた包帯が少しほどけた隙間から肉の奥にある鮮やかな白色の骨がのぞかせていた。息を飲みこんだ僕に彼女は気付き、包帯を奇麗に巻きなおした。僕はその場をどう繕って良いのか分からず「大丈夫ですか」と特別意味もない言葉をうわずるように口から出した。彼女はこちらを両方の目でしっかりと見つめ「わたしゃあ、母だからね」と温かい笑みを頬に浮かべた。
右手に湖が見えてきた。
湖に山が映り、どこも山、山。
雲は太陽の光で化粧する。
その下はイチュウしか生えない乾いた大地
そのなかに土レンガでできた屋根のない廃屋がひとつ佇む
その上にとぼけたコンドルが風に羽をまかせて フウワ、フワ
町に近づいてきた広い草原で、僕の目はすばやく身を翻す影を捉えた。
それが何であったか知る由もない。だが僕はそれがビクニャだったという妙な確信が頭から離れなかった。陽はもう沈み、イチュしか生えない硬い大地も寒寒としてきた。窓から入り込んでくる冷気は、ちょっと寒すぎるように感じてはいたが、列車の揺れに身を任せていつの間にか眠ってしまったらしい。
雪女に息を吹きかけられる夢で飛び起きた。顔に手をやると、そのぬくもりが、冷え切っていた頬を驚かした。吐く息はもう白い結晶となっている。もう氷点下だ。となりのオバサンは、冬はマイナス15度くらいになるから、これしきのこと、と堂々としている。僕は落ちていた段ボールを、割れた窓ガラスにかぶせ、ガムテープで止めると、持っていたありったけの服6枚を全部着こみ、上からポンチョを引っかぶり、目をつぶるが、震えはまだ止まらない。おばさんの分厚い皮下脂肪は、寒さなどものともしないで安眠をしっかりと守っているらしく、健やかな寝息が冷凍車の中で温かく聞こえる。真夜にウユニに到着し。隣のおばさんにキスをして別れた。そして、また冷凍電車はキイキイと音を出し始めた。
ボリビアの国境には朝の8時に着いたのだが、移民局の役人がまだ来ないと出国スタンプが押せないということで、4時間も待たされることになた。移民局の役人は、当日の任務を忘れて小旅行に行っていたのだそうだ。その間、前に座っていた胡散臭い四十過ぎのボリビア人の男は、山のように積み入れた楽器や雑貨品を、乗客に、国境を越えるまで預かってくれと,調子よく頼み回っている。彼はボリビアからチリへ品物を運ぶのを生業とし、客に少しづつ分けて預け、支払わなければならない関税から逃れるという生活の知恵である。
国境は草ひとつ見えない大地だ。砂で覆われ、モウモウと噴煙を吐き出す火山が下界を見下ろしている。チリ入国のときは、何故か僕だけが別室に呼ばれ、上着を脱がされるほどの検査をされた。ワイは薬の運び屋とはチャウワイ。
チリのカラマで電車は止まり、何故かバスを乗り換えてアントファガスタに向かった。この間は鉄道が走っていないそうだ。バスのヘッドライトの照らす2条の光には粉のような白色しか見えない。雪ではなくホコリなのだか、2日間満足に寝ていないためか、白い雪の道をすべるように走る幻想の旅に連れられていく気がした。
いままで半年以上も山の上の町にいたものだから、まるで別世界にきたようだ。真夜中なのに開いているレストラン、まばゆい電灯の続く通り、酔っ払いのオッサン,仲良くいちゃつくアベック、ガラス張りのハンバーガーショップ。シャバの空気は旨く、人の頭を縦に振らせる。
その夜は公園で野宿して、早朝からペンションエンドウに駆け込む。知る人ぞ知る遠藤さんがオーナーの宿で、車の修理をしながらペンションを経営している。といっても今年に入ってからは客はのべ二十人もおらず、開店休業のような宿である。昔は船乗りであったが、やくざがらみの事件に関り、逃げるように船を下りてこの町に住みついた、とその晩に酒を飲みながらぽつりといった。オートバイ野郎、ハエトリの名人としても大陸を越えて有名であり「まあ、ええがな」が口ぐせであった。
一眠りした後、エンドウさんと一緒に魚市場にいくことになった。ペンションの前に泊っているタクシーに乗って行ったのだが、そのタクシーは、1956年型の代物で、中はボロボロである。でも運ちゃん自慢の車で、ドアを閉めて行き先を告げるやいなや、車のエピソードをいかにも嬉しそうに話す。信号では、わざわざエンジンを止めて赤信号を待つ。ガソリンを倹約にしてはおかしいなと思ったら、やっぱりぜんぜん違った。青に信号が変わると、イグニッションキを回して一発でエンジンをかける。すると運ちゃんはニヤッとした笑みで顔を崩して後を振り返る。「これだよ。ピカピカの新車でもこうはいかんぜョ」
毎日一人で油に汚れた手でエンジンを調整し、満足そうに一人うなずく彼の姿が目に浮かぶ。彼こそが本当のタクシーの運ちゃんである。彼の誇りと愛着の車と共に。
長い間、山岳地帯での暮らしをしていた僕にとって、この海の香りは懐かしく、濃い空気を胸いっぱい吸いながら身体に活力がみなぎりはじめるのを感じた。そこに海のエッセンス、魚の数々が目の前に山となって積まれている。アジ、カラス貝、吸盤がついたボラ、カタツムリとあわびを足して2で割ったような貝、牙が生えているタイと、どれも海の香りをプンプンさせている。
昼めしは市場で買ってきたカツオを遠藤さんがおろして、それを太切りの刺身にしてがっついた。カツオの刺身なんかもう何年間も食べていない。それも本物の海のエッセンスの味だ。その味が身体の隅なく流れる血液とドッキングして、それが媒介となり口の中が羊水的胎内回帰する。チリの米も旨い。南米でも一、二を争う。日本の銀シャリのようである。二日ぶりのちゃんとした食事でもあり、ただただ箸を動かすのみである。
その晩は遠藤さんの家に遊びに行く。バスで20分ほど行った山の中腹にあり、屋根はトタン,床は土で、チリ人の奥さんと子ども4人を紹介された。家の中には猫がゴロゴロいて、ちょっとした猫屋敷である。奥さんは無口な人で、すぐに奥の部屋に引っ込んでしまった。遠藤さんは中背多少肉で、表情はいつものんびり飄々しており、笑うと見せる黄色い歯が、彼を象徴しているかのように見えた。話は海のこと、ピノチェ大統領政権のこと、麻薬とチリ警察のことなど広がり、気がつくと買ってきた3リットルの白ワインの瓶がもう空になっている。そこで、整備工場兼、二段ベッドが2つしかないペンションに戻ることにして、いとまを告げた。遠藤さんが途中のバス停まで送ってくれた。見上げた夜空に、生まれてはじめて南十字星を見つけた。
チリの首都サンチャゴにやってきた。市内には歩行者天国があり、ショッピング街が人ごみの先まで続きもう端が見えない。ケーキ屋、喫茶店、アイスクリーム屋、フルーツパーラーに目が奪われ、先に進めない。アメリカやヨーロッパの品物もあちこちに並ぶ店先のショーウィンドウも新鮮だ。道にはゴミがほとんど落ちていない。それにあたりまえではあるが、商店に行ってもきちんと値段表示がしてあるし、店に入ってもサービスはよく、客に対する接待もしっかりしている。まあこの判断も、都会に住み慣れたものには当たり前のことだけど。値段の表示を見て驚いているのだから、僕の中でいかに「都会」「地方」「山」「平野」「外交的」「内向的」「自己」「社会」「精神」「物質」「凝縮」「爆発」が右に左に混沌としていたことか。町を歩きながら自己に戸惑っていた。
ニューヨークで知り合った旅行者が2年も昔に教えてくれたレストラン兼ペンションの「レストラン ハポン」を探し、今夜の宿とするために地下鉄に乗った。これがまたデザインもよく快適な奴で、煩い音をたてずにホームをたち、音もなく停る。東京にもこんな綺麗なのは一台もない。
ハポンはすぐに見つかった。オーナーの早乙女さんも元・旅行者で、今は寿司バーもあるレストランを経営している。早乙女さんの言うところ、今でも現役旅行者であるが、これからは,昔とは違った旅行を続けるために、いまはひとつの充電期間なのだそうだ。奥さんは美人のチリ人で、レストランの会計を助けている。子どもは2人いて、どちらもやんちゃ坊主だ。もっと話がしたかったが、ここにはまた帰ってくるとして、十数年も温めていた夢、イースター島に向かうこととした。