都会と山とを直につなげてしまう無粋
大自然の聖なるものに人は憧れる。
山や沙漠は美しい、だって人がいないんだもん、そりゃあ美しい。
なんで人がいないの?
それはね、そこで暮らすにはたくさんの技と術と心と意志がないと自然が厳しすぎて大変だから。
そこで山や森や沙漠のいいところだけを夢見て、上澄みだけをとって、ヒトは都会で生きようとする。
これって一見綺麗でいいことだけど、よく考えるととんでもない面もある。
どこがいけないかって?
二つのことで危ないアプローチかも。
一つ目は本人にとってよくない。
理由は、自然の中に「いる」ための技や考え方を学んでいないため、すぐに結果の出る完成品で身を固め、それらに頼ってしまうためだ。
まずは結果や成果や答えをだすことを優先させるので、そこいたる自分のやり方や自分の情感を二の次にしてしまう。
そして自分自身に応じた知恵や技や工夫がないと、自分の心の深層へ降りていかないために、いくら自然の力の大きい場所に到達しても、その場が発している微細な振動(フライジャルなメッセージ)を聞く準備が出来ていない。
言葉を換えると、都会で暮らす考え方のままで自然の中に入っているので、自分と自然の間に壁ができたままなんだ。
その状態では自分が自然の中の一部であることを頭(理性)で理解しようとしても、それは自分が過去に造ったパターンや概念のアプローチであって、目の前の変化にちゃんと応対するアプローチではない。
それから、順番。
なんでも順番を踏んで歩かないとでその上に積んだものはいつか崩れてしまう。
せっかく積み上げたと思っても、砂上の楼閣のように波が一つくれば、海の藻屑となってしまうこともある。
例えば、赤ちゃんであれば、初めに言葉を教えても、理解できない。
まずは、視覚、聴覚などの五つの感覚器官(体)、そして感じる心、最後に頭(パターン理解による論理構築)だ。
山に行くのであれば、まず立ち方、歩き方、座り方、うんこの仕方、その処理の仕方、寝方、呼吸、靴の履き方、リュックの背負い方、服装、装備、水の補給法、薪の拾い方、料理の仕方、片付け方。
そして次に、山や空を理解することで、風の吹くところ、水の出るところ、雪崩の起きるところ、石が崩れるところ、危険なところとその対処法、天候の読み方、その対処法、鳥の癖、獣の生態、虫からのメッセージ、木々からのメッセージの受け止め方、
そしてそこで暮らす人たちの気持ちを理解すること。
これらができないと、山で自立することはできず、常にモノや誰かに頼らずにいられない。
都市と山とを直接につなげる無粋の二つ目は、環境とそこで暮らす人々の生活を乱し、時には壊すからだ。
都会の利便性と合理性で山にアクセスしようとするから、道は舗装され、山の所々には遠地からミネラルウォーターが用意され、麓から運ばれたコンクリートで快適なロッジが作られる。
下水処理、エネルギー使用、洗浄、害虫対策と次々と都会人にとって心地よいものに変えられていく。
そして次にそこに住む人々も都会の人と同じ人類なので、すぐに影響を受ける。
都会の価値観がそこに住む人の価値観をすぐに変える。
なんでも価値を綺麗さ、利便性や、感動具合や、自然への憧れという妄想に変えるので、村の共同体意識や自営や助け合いや目配りも一挙に霞んでいく。
その変化は凄まじい。
そして、できるだけ都会の人の頭が喜ぶように自然の大地と住む人は改造?(進化・退化)されて、自然からのメッセージはますます届かないことになる、嗚呼。
最後に、都会と山を直接に結びつけようとしている心浅はかなで優しき輩がいる。
物理的には高速道路や飛行機で一直線だが、自然を自分の心で受け止めるためには準備と順番が必要なので、遠回りしないと行けない場所なのに、この都会と自然を物理的に最短距離で結ぶことで、ヒトの心もすぐに自然にアクセスできるかのように装い、ヒトの心理作用を欺き、金を稼ぐ。
遠回りだけど「命と細胞と心が喜ぶ道」を故意に塞いで、お金はかかるが表層意識が喜ぶ近道に人をいざなう詐欺を毎日行なっている。
こうして、自分の足で歩こうとしている人を都会の中に押し戻し、頭だけで分かった気にさせる。
この都会と山とが直に繋がっているルートがあると心理的に思い込ませることで、今までの都市空間のライフパターンのまま、山に入り込むことができると思わせている。
そこに至るまでの菌、虫、獣の性質を知らない。
そこで暮らす人々の気持ちを知らない。
そこで生きている大地と大気と時間の流れを知らない。
だから山の全てを綺麗にして、国立公園や保護地区やユネスコ遺産などの立ち入り禁止の空間を作り、それを聖なる空間として祀り上げるしかない。
現代の聖なる空間は文明人の頭の中でイメージされた場所だ。
特殊な自然で、いつもの自然じゃない。
本来の聖なる空間とは、脳だけではなく体と「いのち」の波長も揃って振動するためにちゃんと準備をした人が入っていく大事な場所だった。
しかし、このイメージが作った特殊の自然の中にいることが心地よくなると、ますます普通の自然には出れなくなる。
そして心も体もだんだんと閉じていく。
喜んでいるのは脳ばかり。
でもその脳だって器官であり、体の一部であるのに。
気がつかないうちに、脳がつくったパターンに体が絡み取られていくという、必然の結果。
彼らの中で、「ひきつけの法則」だの「至高の法則」だの「金持ちになる法則」だのいろいろなカルトが流行っている。
どれもが、まだみんなの気がついていない霊山の伏流水が湧き出る泉で水を掬って、知らぬ者に売りつけるというビジネス。
だが、みんながこれに気がついたら、もうこのビジネスは続かない、次の泉を探すだけ。
早い者だけが勝つという椅子とりゲームです。
まあいいけど、でもそんな卑怯なビジネスをそんなに威張るもんじゃない、公共のモノや、天のモノをただ独り占めして金に変えているだけなんだから。
彼らは自分の罪深さを理解しているので、それを軽減してくれる者を探して、協賛者に仕立てて、一部の利益を与える。
そしてこのカラクリが分かる者や糾弾したりする者は排除して付き合わないことでカルトを続行する。
これが都会と山を直につなげていきていこうとする者たちの生き方だ。
そんな人が目標ならば、真似をすればいい。近くに行けばいい、類は友を呼ぶというだけの話。
山から森から畑から、空気・水・食料・エネルギーを持ちこんで、見えない塀の内部である都会の家で暮らしているのが都会の暮らし。
ちゃんとお金は払っているんだからいいじゃない、って言って。
それに見合ったコストや苦労には心を配らず、暮らす人達の胸の奥に秘めているものにも気がつかないで。
自然の声を聞かず、自分にとって都合の良いところと自分が見たいものしか見ようとしない。
いつもの人間の性(サガ)。
どんな喩えがいいんだろう?
エベレスト登山をしている先進国の登山家はどうだろう?
自分は酸素ボンベをはじめ、安心安全快適な中で登頂を目指している時に吹雪に出会い自分の食料が減ってきたので、登頂を何度も成功させたきた酸素ボンベも持たないシェルパに向かって
「本当に価値があるのは、個人の主張より、相手への思いやりと自己を後回しにしての全体への協力・奉仕なのです。
自己滅私・自己犠牲、そうした自分より他者を優先する在り方こそ、霊的真理にそった精神的な歩みなのです。
ですから食料を分けましょう。」
と説いて、自分では何も持たず、シェルパ―たちが担いでいるテントや燃料や酸素や食物でいのちをつなぐ。
ガイドやシェルパたちは家族にコメを買うために登山の手伝いを仕事としている。
別に神聖な山の頂上に登りたいわけでもないし、都会に住む人の霊的真理なんて関心がない。
頂上に到達することに価値があると思っているのは先進国の本人だけの欲望なので、ガイドやヘルパーを雇い、酸素ボンベや食料を彼らに持たせて、登っているのに、そんな己の姿は省みずに、偉そうなことをのたまって、他人が担いでいるものも、みんなの食料だといって巻き上げようとしている。
シェルパ―にはお金を払い、食料は自分が費用を払ったものだから当然の権利であると主張する。
自分のことは自分でして、力が余った時には他者のためにもするのがルールなのに、自分ではテントや食料や燃料は担ごうとはしないのが、外国遠征の登山隊のルールになっている。
自分で書いておいてなんだけど、登山隊の例はピンと来ないものなので、いつかいい喩えが浮かぶまで一時ペンディングにさせてください。
山
t都市
都市から山(自然)へ真直に行っても、自然の声を聞くことはできません。
自然の声を聞くには方法は、都市から郊外、郊外から村、村から山への順番で、各地で暮らすことです。
旅しただけでは各地の声を聞くことはできません。
各地で暮らすことが重要です。
お金を持って行っては声を聞くのに時間がかかります。
理由はお金により、自分の脳(自己意識)に都合よく(都会の合理性)暮らせることにより、各地の声を聞くことが必要ないからです。
そこで暮らすということはそこで稼ぐ(コミュニケーション)ことが大事です。
そのためにはそこに暮らす者の本音を知らなければなりません。
建前や都市への憧れの声ではありません。
ですから稼ぐといっても都市にあるものを商売の道具にするのではなく、各地にあるもので商売することで、各地の声を聞くことができるようになっていきます。
自然の声を聞きたいと思えば、この順番が肝心です。
都市から山へまっすぐ行くのは品がありません。
下品ならばまだ品があり、ただまだ下にあるだけなので、洗練すれば上品になりますが、品がないのはどうすることもできません。
品とは分類のことです。
参照) 九品とは、物質や人の性質を3×3で分類したもの。
品があるとは、分類できることですから、つまり共通の下地である共通性があるということです。
同じ土台、同じベース、同じ土俵、算数で言う分母、共通の濃淡やピンキリの基準があるということです。
並べることができて、比較できるということです。
品があるものは比べることができます。
品がないのは一緒に並べることができないということになります。
では都会人が山に行くのは良くないの?
どうすればいいかって?
簡単だよ、
まずは自分の家のドアを開けて、外で暮らしてみればいい。
虫、暗闇、水、野菜、道具、料理、洗濯、トイレ、ゴミ、雨、伐採、エネルギーと、知らなくちゃいけないこと、しなきゃならないこと、しちゃあいけないことが山ほどあるから。
家の外でストレスを感じない練習もその1つ。
自然の中で体が喜ぶ練習だ。
外で生きていると大脳ではわからないことが一杯ある。
もう脳の中で作り上げてしまった世界から一歩でも外に出ることから始めよう。
いろいろ試して、失敗したらその理由を考えてそれを修正して、また新たに試すのがいい。
舗装道路から砂利道へ、砂利道から獣道へ、獣道から荒野へと。
地球の多くは今だに荒野だ。先進国の都会の近くにも一杯ある。
昔の人は水を汲み、枝を拾いに行った。たくさんの人が荒野を知っていた。
平和やエコや人権や平等や博愛や謙虚や精神などを声高に語る人たちの共通点のひとつは、近頃、砂利道さえも歩いていないということ、獣道のある森に住む村人のために暮らしたことがないということ。
自分は快適な部屋の中にいて、大自然を妄想して憧れ、そこで暮らす人の生活を荒らしていくのに気づこうとしない。
心の安定を求めているのならば、一人静かな部屋で丹田に気を集め、ゆったりと息を吐けばいい。
山や砂漠に来なくてもどこでもできるから。
まずは夜空を眺めてみるのがいい、星には荘厳なる凛とした静けさがあるから。
すぐに30億年前の光が眼を揺らすから。
大自然の中に行くのなら、心技体の訓練をしてから踏み込むのがいい。
そこで暮らすみんながどうすれば喜ぶのか考えるのがいい。
山と都会を直に結びつける人はどんなタイプが多いのか?
選民意識のある人、高学歴、高段位、高知識、先進国出身者、ツーリズム、自分は特別だと思ってしまう人。
線は細く、腹が座っていない。
知能優先で頭でっかちで実験室の結果を大切にする人。
スピリチャリティが語られる場は決まっている。
本、テレビ、講演会と、どれも脳とプライドと自意識が大きくなった個人が集まる場所。
そこは畑の中ではない、漁船の上ではない。
実技を伴うマンツーマンの関係ではない。
個人主義を大切にする都会人。
乙女志向が強く、他人を非難するが打たれ弱く傷つきやすい。
親や先代が小さな地域との付き合い方に問題があったので、保守よりも革新を好む
田舎の共同体に入るのが苦手で、共同体での自分の役割、何ができるのか?などは考えない
家族親戚関係が薄いため革新的なグループや同好会や政治団体に属したがる
保守嫌い、右翼嫌い、団体行動嫌い
自然の法則にあふれている場所が苦手。
たとえば畑の種まきや収穫に行くのはいいが、草むしりなどのメンテナンスは嫌い。
援農はしたことがあるが、農業で暮らしてことがない。
森林浴や植林はいいが、次の代を育てるための枝落としや伐採などの日常の活動には関心がない。
都会育ちの自意識過剰な人たち
理念を大切にする人たち
主義を大切にする人たち、もしかしたら共産・社会・民主
世界平和を願う人たち、願うものではなく、都市の外(山)でも生活ができるように実行することが重要なのかも
反国家、反共同体、必要悪を認めない人。
悪も善と分けられる前は、どちらも大事なものであったことを経験していない者。
思想
肉体と魂 低俗な肉体と高貴な魂という二分法を無意識に使っていることはないだろうか?
理性を重視し、アカデミーを尊んでいないだろうか?
わからないと落ち着かないという思考パターンに教育されてきたので、安易なメタファーで区分するのを好む。
スピリチュアルにどっぷりはまる人は、現実生活に満足していない人、白黒はっきりした世界が好きな人(グレーゾーンが分からない人)、幼児的な万能感を持つ人、ファンタジーが好きな人、頭でっかちな人が多い。
自分の体験ではないことでも肩書きのある著作者の本を信じる。
偉い人や有名人の名前を出してきて、そのヒトの言ったことや座右の銘や遺言などで実行しようとするインスタントな時間の中で暮らす人たち。
都会の外にある自然の法則を受け入れない。
自然の状態や自然が持つ悪を許容することができないので、「悪は実は悪ではなく、必要な善であることが多い」という考え方を理解しない。
悪と善に分ける前は同じ1つであったことの体験がいまだにない。
山や森林や砂漠などの強い自然の思想や宇宙観や自然観には強い共感を感じるが、その中で暮らすことはなく、術も技も学ぶ努力を続けていないので、自然そのものを体感する経験は少ない。
だから、自然の声を聞こうとはしない、というよりも聞く術であるセンサーを育ててこなかったので、五感覚器官からの信号を脳で処理するだけで認識するので、微細な内的心理器官(サンスクリット語でいるmanas意思, buddhi理智,ahankāra我執,citta心素、jñānendriya微細知覚器官、karmendriya微細運動器官)を使って体感するのではなく、勝手に思い込んで、雰囲気を味わうだけ。
想像上の太古の人々や先住民族に対してはリスペクトの気持ちを持ち、自分もその一員だと自覚したりするが、実際には自分は常に都市的な安全に守られている場所から出ることがなく、都会の外に住んでいる生活者と共に暮らそうとはしない。
もし暮らすことをしても数年に及ぶことは少ないので、実際にはその都会人の暮らし方が自然の中で暮らす人間の生活に負担になることは気がつかない。
そのために都会流である自分のやり方を現地のやり方に深く変えることはできず、そこで暮らす人の思いやりや労力が理解できず、彼らの大事なものを壊し続けてしまうことも起こる。
そして本人は枠の中から出てこないので、自己矛盾には気がつかない。
これは私自身がやってきた体験である。
主観と客観
主観を深めて、自分から始まって、愛する人、共同体、人間、動物、植物、ありとあらゆるモノという順番に広がっていくのが生きている訓練なのに、いきなり宇宙とか生きとし生けるものとか言って、そこに行こうとする人たちたちがいる。
客観を大切にして、主観を蔑ろにする人たちがいる。
主観を深めていくことにより、主観の中のある客観にたどり着けるのに、主観を捨てて、外側の客観に身を任せてしまうような人たちもいる。
そのような客観と呼ばれているものは、判断する自分という基準がないので、ただ客観を受け入れているに過ぎず、その結果、次々に現れる新しい客観に振り回されるだけである。
そのような客観性とは無意識のレベルにもある主体によって知らぬ間に選択されたものである。
そこで、そのような客観性はTPOに合わせて適応する主観の力が必要なのである。
判断や修正や自分の都合に変化させない「客観」は与えられたドグマ(教理)のように本人の思考回路を硬直化させる。
そして、次の新しい客観性が現れれば、今度はそれに全面的に従うことになってしまう。
客観の道具にされて、言われたことを繰り返すだけで、その場でしなければならない変化ある対応を実践できない人たちになってしまう。
主観は開かれた柔くて弱いアプローチであるのに対して、客観は、閉じて硬くて強いアプローチである。
これも客観性という絶対のものがある、と信仰してしまったことが原因である。
この世には絶対の客観性がないのに、そんな客観性を基準にするためには、これが客観性だというルールを決めてそれに従うしか方法がない。
ルールを決めて守るのはいいけれど、それはもう客観性でも主観性でもなく、都合の良いただの一部分だけのことを全体にまで拡げた「決めつけ」であり、それを他者に強引に押し付けて支配しているに過ぎない。
そんな客観性はほんわりしていないのが残念だ。
どうせ脳を使うなら
学びたいのは、理性の限界です。
「理」とは合理性や論理性の「理」なので、区切ることではじめてカタチになるもの。
区切ることができないものは理性の範疇の外にあります。
理性は何ができて何ができないのか?
よく考えてみると理性ができることはそれほど多くはありません。
理性ができるのは、分割すること、予測計画を立てること、そして大脳自身の保身を考えることです。
脳が有利になるためには都会の中にある自由や平和や平等の状況が都合よく心地よいのです。
都合とは都会でしか通用しない合理性のことですから。
実際の自然の中にはそんなものはないので、理性の言い分はとても限定されている時空でしか通用しません。
それよりも大切なのは周りの人やグループや環境に同化する行為です。
そうすれば嫌でも親切になるでしょう、だって一心同体なんだから。
そして次はすべてのものが繋がっている感覚を取り戻すことです。
そうすれば他を蔑ろにすることはなくなります、だって他者が自分と繋がっているんですから。
全部がつながると他人も自分も宇宙の一部となってしまいます。
すると、他と戦うことが自分を傷つけることになってしまいます。
こういう感覚を得ることができるようになると、理性が語る「形だけの平和や平等」はいらなくなります。
理性(1つを2つに分ける性質)や理想(理性が造り出した妄想)とは、生命体の経験が脳に残した前世代からのタンパク質の組み合わせ(メッセージ)なのかもしれません。
自由・平等・平和はあるんだよ、って。
確かにこの世にあるんだけど、その条件はすべての生命体が1つに繋がっていることを気づき続けている特殊なケースだけです。
これまでの人類史にこのような特殊な人が5人ほどいたとかいないとか。
そこへのアプローチの仕方は山登りや森林生活や屋外生活や合気道やタンゴやヨガや気功などの伝統があるので、
まさか大脳が先行する理想が現代都市文明の中で、これほど力を持ってメジャーになるとは、大脳自身も予測していなかったかもしれません。
いまでは理性とその住処である脳によって、社会だけではなく自分の体も脳自身によって殺される時代が始まってしまいました。
ですから、やたら理念や理想やユートピアを語る人がいれば少し距離を置けばいいでしょう。
後はあらぬ心配をしないで、家の外に出て、雲を見て、種の根が伸びるのを見て、笑って暮らしましょう。
その方が理性は不安から解放されてゆったりと働き、心も体もそして大脳皮質の理性自身も喜びますよ。
こうやって今日も新たに生きているのが、私の頑張らないやり方です。
参考資料
ものぐさ万歳!
落ち着きのなさ万歳!
sloth and torpor
Sloth and torpor(無気力) refer
to the state of indolence(怠惰), dullness of mind and
dullness of mental concomitants(付属物). They arise due to
unwise attention to lack of interest, lazy stretching of the body, drowsiness
after meals, and mental sluggishness(ものぐさ). They are
mental concomitants and do not refer to physical tiredness. They are discarded
due to wise attention to the perception of either
impermanence, unsatisfactoriness, or
soullessness or to the development of energy and exertion. They are totally
eradicated by the path of an Arahat (arahatta magga).
distraction and worry
Distraction (uddhacca) refers to the agitated, restless, and unconcentrated mind. Worry (kukkucca)
refers to worrying about past actions that one has or has not done. They arise
due to unwise attention to the things that cause distraction and worry. They
are discarded by wise attention to the perception of either
impermanence, unsatisfactoriness, or
soullessness or to the development of calmness of mind. Distraction is totally
eradicated by the path of an Arahat. Worry is totally
eradicated by the path of an Anagami.