イースター島 太平洋の暮らし
ついにやって来た。
今までこんなに大きく息を吐いて,高らかに鳴る心のうねりを感じたことがあっただろうか。
マタの家に荷物を置くとすぐに、島の東にある火山口に行くことにした。何故そこにすぐ向かって行ったのかわからないが、島に足を降ろした途端にそう思った。地図を持っていなかったが、少しも心配ない。ふらふらと歩いて行くと,辺りには人家がなくなった。車のわだちの土色以外は僕の目より丈の高い草の群集だ。曲がりくねった道を進むと両側に黄色の花咲く坂道だ。なんだか温かく迎え入れられたような気がして嬉しくなってしまう。
上り詰めた丘の上は火口の縁だった。中を覗くと小さな池ほどの水溜りが平べったい土の上にいくつもあり、そのどれもが、頭上に漂う雲や,またその上にある澄んだ空を吸い込んで怪しげに光る。火口の奥深くに漂うまだらな空とは、人を一瞬トリップさせるようにシンボリックだ。ここに巣を持つ鳥もおり、空をゆったりと旋回していた黒鳥が突然羽をすぼめて急落下してごわごわの火山黒石の向こう側に姿をけす。
火口から目を離し、反対側を眺望すると、そこはただもう南太平洋だ。どこまでも。ずっと。
凄い勢いで風が吹き上げてきたので、そちらを見下ろすと、目が眩んでしまう絶壁である。運悪くすべり落ちそうになっても押し返してくれるほどの強い風力で足下はふらつく。もう一度下を覗いてみた。コバルトの大海と岩に飛沫を上げる白波が、手に掴めるほど近くに見えた。火口には石を積み上げた家らしきものが、入り口はどれも海に向かっている。這ってやっと入れるほどの入り口しかないが、いつもの癖で入っていこうとしたら、中からネズミが出てきた。遺跡探検はそこで打ちきることにした。円形に角張った薄い石を積み上げたものもある。絶壁の上の石には鳥人間の絵が刻まれている。その上で横になりボーとしていたら家族やガールフレンドのことが頭に浮かび、無性に恋しくなった。
冬の間は、サンチャゴからイースター島に行く飛行機は、週に一便しかない。LANCHILEがサンチャゴ→イースター島→タヒチ島→ニュージーランド→オーストラリアを飛んでいるだけで、後は船で行くしかないのだが、これだとかなりな日数がかかってしまう。海大好き青年としてはコンチキ号に乗ってでも行きたかったのだが、たった250ドルでチリ国内なら何処へでも行ける周遊の航空券をボリビアで買ったので、コンチキ号の夢もしばらくお預けにすることにした。
サンチャゴの飛行場でフライトを待っていると、野生の臭いがするカップルが現れた。イースター島からきて、いまはサンチャゴの学校で勉強しているそうだ。週一便のイースター島行きの飛行機が出るとき、島で手に入らないものを詰めたズタ袋を、乗客に頼んで運んでもらうのだそうだ。今週は僕が適任者というわけだ。
飛行機に乗りこんで指定席に座ると、横にいたのがマタだった。歳は35ぐらいで、島の市役所交通課の課長さんだ。奥さんの病気が思わしくなく、サンチャゴに見舞いに行った帰りだという。病気の方は回復して、退院の目安もついてほっとしていたが、だいぶ疲れているように見えた。飛行時間が4時間もあるなか、世間話をしている間に、どこに泊まるのかという話になった。「イースター島のホテルはどこも高いと聞いていたので、どうしようかと思っている」といったところ、じゃあ俺のところに来れば良い、とマタがすぐに言ってくれ,一泊5ドルで泊めてくれることになった。
夜は,小学校にいっている息子のロロとマタと3人で散歩がてら、月の下のモアイを見にいった。モアイは黙って口を結んでいたが、気ぬけするほどのんびりした晩だった。
次の日、海辺をブラブラ歩いていると、日に焼けて体のしまった青年と目があった。名をタデオといい、歳は28歳だという。鼻の下のチョビ髭は力強く、大きい目がギョロっとして一見恐いが、その顔から浮かぶ笑顔は人を溶かした。彼がブラジルに出稼ぎに行ったときに大使館で出会ったフランス人と結婚し、今は半年後に帰ってくる彼女のために腕一本で新居をつくっていた。彼はその横でテントを張って暮らしている。裏にはカモテ、メロン、トマトなどの畑があるので食べるものには苦労しないようだ。
その晩、彼と一緒にコレハとよばれるウツボを釣りにいった。釣りといっても、岩の上に座って、釣り針にパンのついた糸をたらすだけである。その晩はちょうど満月で、青白い雲の隙間から時々顔をのぞかせてた。岩にぶつかる波の音が、潮の香りとともに風にのって流れてくる。この風にはボリビアのフォークローレ「風とケーナのロマンス」の笛の調べがよく似合う。
そこは時は先に寝てしまったような空間だった。
マタにオートバイを借りたので毎日いつでも好きなところにいけた。ある日、北の端まで行くことにした。道は途中で砂利道に変わり、ハンドルを握っている手が震えでしびれてきた。着いた岸には誰もいない。それもそのはずで、ここに住んでいる人たちは滅多なことがない限り島の端まで来ないそうだし、たいていの人はこの時間は働いている。同じ飛行機に乗り、イースター島で降りた観光客は僕を入れて3人しか居なかったほどなのだから、観光客に会うことは、そう簡単ではない。
短パンとTシャツ姿で海水につかり、尽きる事のない海を眺めているうちに、身につけているものが不自然に思えてきて、全部脱ぎ捨て裸一環になる。男一人、空の下の透き通った塩水の中で、白い波の前に座り、背伸びをする。そのうちになんだか思わず大便をしたくなった。プカーとした一発は、気持ちよく波の合間をユラユラと泳いでいる。
海の中に投げ出された足が,さざ波の中でゆれる。
太陽は影という影を見つけてはことごとく照らし出す
足の裏 脇の下 ペニスの裏側 尻の穴
おい,この俺はこんなに必死になって走り回っているのに
たった芥子粒の大きさしかないと言うのか
―ちっぽけな自分―
「そんなこと俺は認めるものか」と水平線と空平線に向かって怒声をぶつける
その叫びはアっという間に、雲に,波に、岩に吸い取られた
俺はまた喉の奥から声を絞り出す
また吸い取られた
だからといってここでやめたら僕の「ここ」に居る意味がない
「否」だけど「行う」
だからこそのへそまがり
はじめからの不可能に対する体ごとのぶちかまし
だからこその騎士
情けなくも何時の間にか眠ってしまったらしい
そこではわたしが世界の一部で全て
ここでは自分と他の境目なんて
いちいち気にとめるなんて面倒臭い
ここは「なまぐさ」の住むぐうたら郷
腹がグーと鳴ったので帰ろうかと思ってあたりを見まわすと もう夜である。
真っ黒の中を月の光りを頼りに運転して帰る。
月の明かりがこんなに明るいものだとは知らなかった。
次の日は、東の海岸までバイクを走らせた。岸といっても岩場で、絶えず波しぶきが霧となって海がかすんで見える。マタの近くに住んでペンションを経営する家族に出会った。土曜日なので一家揃ってのピクニックだそうだ。20代の息子2人は、シュノーケルと水中メガネをつけて早々と海の中へ潜っていった。大陸から来た嫁サン2人は、もう食事の準備にとりかかっている。おばさんは枯れ木を探しに草原に歩いて行った。主人と僕は釣りに出ることになり、石の上から釣り糸をたれる。透き通った水の中、百匹近い魚の群れが影を海底に映す。黄色の肌を持った魚は、ヒレをまぶしく左右に揺らす。だのに一匹も糸に引っかかって来る奴はいない。目の前に手に取れるようなのに、どうにもならないというのは精神衛生上よくない。主人もブツブツ言い出し、前に本で見た日本の投げ網をなんとしても手に入れたいと言い出した。潮が満ち、波が襲い掛かってきたので、一匹も釣れないまま戻ることにした。
一時間ほど潜っていた男2人は、ロブスター,コバルトブルーに黒点のある魚、カワハギを捕って帰ってきた。モリにいくつも串刺しにしての大漁である。
女達は魚を洗いボイルする。カモテとトウモロコシを左手に持ち、右手で,魚を掴んで食う。
その晩は街のディスコに行った。小さな体育館みたい建物だが、中は照明にも凝っていて、十分なレコードもある。ここは島の社交場と化していて、あちらこちらから、踊らなくても顔を出して一杯ひっかけていく若者たち。サルサ、ディスコ,サンバが主流だが、中には南太平洋特有の早いビートの太鼓と、まわりの掛け声に合わせて踊る曲があり、ノリは抜群によいのだが、腰のほうが曲についていかなかった。今日は入り口で200ペソを払い、ホットドッグつきのくじを買わなくてはならない。LanChileからサンチャゴまでの切符が貰えるそうだ。あたったのが,丸々と太ったオバサンで、場内を駆け巡って顔をクシャクシャにして喜んでいた。
この島の若者達の社会はとても奇妙だ。まるでフリーセックスでつきあっているようである。ディスコに行ったのち、友達の家に遊びに行ったら部屋の四隅にじゃれあっているカップルが一組づついた。家はそれほど広くなく、両親もうるさいので、溜まり場に集まってくるのかも知れない。ここでは婚約中といってもかたちだけで、勝手にやっている輩もいるようだ。ひと組は姉と弟のカップルだ。
この島には奇妙な習慣がまだ残り、兄弟や姉妹のセックスが行われている。姪と叔父という関係も珍しくないそうだ。つい最近まで純潔な血を保つために、結婚は親戚の間でしか行われなかったのだという。話はすこしかわるが,この島にいるオカマは15人だという。
古代エジプト、旧約聖書、古事記に記された兄と妹の関係を思い出す。この島にカトリックの教会ができて歳月がたつが、まだ風習は残っているそうである。朝の5時頃一人でボツボツと歩いていると、町の若い小僧2人と出くわした。こっちの奴はみんな夜でも目がきく。月のない夜はあたり一面真っ暗闇で、僕は何も先が見えず、腰がすぐにひけてしまっているのに、彼らはどんどん先に進んで行く。ふくろうみたいな奴らだ。星あかりがあれば十分だという。道のあちらこちらにゴキブリが這っており、それが見えない僕は知らぬ間にそれを踏み潰してしまう。
小僧2人は彼女の家からの帰りだという。若造がマリファナ吸って女と朝まで遊んでいる。ここはなんちゅうところだ。
今日からディスコで知り合ったアコの家に居候する。彼の部屋に新聞と布を敷いて寝る場所をつくってもらう。アコとは昨夜出会い、特別話しもしなかったのだが、朝早くマタの家にやってきて、今から俺の家に行こうと言う。僕は馬の背にまたがり,ついていった。
アコは昨年はお巡りさんに捕まり、豚小屋に5ヶ月もぶち込まれた。友達がピスコ80ケース,ビール50ダース、タバコ1カートンを盗むのを手伝ったためだという。なんとなく彼らしい。アコは良い奴だから、頼まれると断り切れなかったのだろう。ぼそぼそと話し、ひとに気を使い、親切で寂しがり屋。そんな奴だ。
晩御飯をご馳走になる。カモテ、豆とヌードル入りのスープ、コーヒーだった。やはりイースター島にも親子の断絶の問題はあるらしい。彼の母ちゃんが言うには、最近の若い者は、カモテやパパや豆は好まず、すぐにパン,パン,とわめき、母ちゃんの作った飯に文句をつけ、この島では高い肉を食べたがり、そのうえ子どものうちから煙草を吸うのは気にいらんそうだ。また、毎週水曜日に大陸からテレビニュースが送られてくるのだが、これが若い子どもに変な刺激を与えるから良くないとも言っていた。僕にはとても親切にしてくれ、ここに居る間は腹いっぱい食わせてやると言ってくれた。特にバナナとカモテは好きなだけ食べても良いと言ってくれる。
雨が丸一日降る日もある。これはもう雨と言うより嵐と言うほうがふさわしい。道という道は激流のために土は流され、所々の土だけが残っている。えぐれた深くて大きな溝ができて、道をふたつに遮断している。こんなときはオートバイしか持っていない奴は大変で、四苦八苦しているが、馬に乗っているアロは別に問題がない。アロはどうも文明や機会や科学が似合わない男だ。自然が吹き荒れるときにこそ彼は一段と男らしく見える。
彼のいる間は毎朝日が昇ると起きて朝食を取り、家から2kmほど離れている彼の畑に言った。アロは馬で僕はジョギングで行った。まわりは草がボウボウと生え、だだっ広いところで、その中に壊れかけた小屋がひとつ立っている。ドアを空けると昨夜の雨でびしょびしょに濡れたマットレスと毛布が床の上でひしゃげていた。あとは壁と言う壁にグラビアのピンナップが張られていた。小さくはあるが彼の城である。
午前中はカモテを掘り出したり、トウモロコシを取って皮をはいだり、新しい土を耕すために表面の軽石を集めて外に投げ出したりしているうちに時間が過ぎてしまう。アロはスイカを馬にやるのを忘れない。馬はあまり人に見せたことのないような口を開けて籠ごと頭大のスイカをボリバリパクリと4口で食べてしまう。
昼になったら、捕れた穀物や野菜を2つの袋に入れて、馬の蔵の上で左右バランスが取れるように結びつける。そして馬をひいて市場まで持っていき、そこで昼前の買い物に来ている主婦らに売るのである。売った金を持って市場の横にある雑貨商でインスタントコーヒー、パン、タバコ、コンデンスミルクを買って家に帰る。昔はこの島にも多くの羊と牛がいたのだが、一人の男が大陸から日用品やガスコンロ、テレビを積んだ船でやってきて、全部交換してしまったのだそうだ。その頃には腐るほどあった牛乳は、今ではコンデンスミルクにかわっている。
カモテ、バナナ、トウモロコシをベースにした昼食を食べた後は、きまって岩場から糸を垂れての魚釣りに出かけた。一度の大漁をのぞいては、いつも1、2匹しか釣れなかったが、僕は一匹釣れただけでも大満足だった。それよりも海を見てるほうが好きだった僕は、よく餌を食われてしまった。海が見事に動くときは、しばし見とれた。大雨の振った後の海は午前から茶、エメラルド、白濁した青色、引きこむ紺色と、順順に層をつくっていった。気まぐれに移る海の心がわかったら、どんなに素敵だろう。それから家に帰ってアロと一緒にロックを聞いたり、雑誌を見たり、日記をつけたり、昼寝したりした。夕食の後はテレビとアロの家族とともに居間で見て、時間が来ると毎晩飽きもせずにディスコに行く、そんな毎日だった。
この島の変化は、ある意味では日本の変化より急激で急速だ。ディスコであったフローラは、昼は市役所で働き、夜は学校でパスクア語を子どもたちに教えている。今では子どもたちは、母国語のパスクア語を忘れかけ、日常会話はスペイン語が主体になっている。フローラ自身は10年前(14歳のとき)はスペイン語などひとつも知らず、サンチャゴに行った一年間で覚えたという。だが10年後の今はもうその反対で、パスクア語を教えなければならないという状況だ。
島の人は話し好きで、目が会うとすぐに会話が始まる。いつも必ず質問されるのは、名前、どこから来たのか、いつ来たのか、どこに泊まっているのか、いくら払っているのか、日本ではオートバイはいくらかということだ。
この島にもかなりのオートバイ、テレビ、ラジオ、コンロ、車など工業製品が入っている。その半面、10年前は服も靴も無かったほどであるから、コンロがなく毎回そとで料理している家もあるし、トイレは水洗も多いのだが、その行き先は彼らがトイレの横に掘った肥えだめだ。僕は木とバナナの葉で作られた野外トイレの方が性にあい、やぶ蚊に尻を刺されるにもかかわらず、気が落ち着いた。土の上にできたものを身体に取り入れて、また土に返すというサイクルのひとつが私自身である魂と身体で、それが己と全てなんだと、肥溜めにポチャンと響く音を聞いて改めて感じた。
僕は暇があるとよくバイクに乗った。小道に入ってしまって迷子になったこともしばしばあった。よく行った先は、漁港、7つのモアイ、そして島の北側にある海だった。
草原の一本道は海に向かって一直線
石ころの上を弾むバイクの振動はシートから尾底骨に伝わる
もう身体が島と共鳴し始めて止まらない
緑の中の一本道は海の中に消える
その中に空が横いっぱいに広がっている
気がついたときは丹田から出た気が貫くように発されている
スロットルをしぼる
岩を踏み台にして、バイクは元気よく宙の中へと飛び跳ねた