エルサルバドル 戦争の現場
グアテマラ・シティーで出会ったニュージーランドからのヒッピー旅行者、テオと一緒にエルサルバドルに向かった。昼過ぎに国境に着き、査証、車の持ち込み証明書の取得、車内、手荷物の検査がやっと終わり、ついにエルサルバドル入国となった。
500メートルばかり車を走らせたら、また検査といってズカズカと車の中に入ってきてあちこちを開けて早口のスペイン語でまくしたてる。「さっき向こうでチェックしたからいいじゃないか」と言っても今度は車の下に潜ってトンカチであちこち叩いている。頼むよ、この車は錆びでボロボロなんだから、あんまり叩くと穴が開いちゃうよ。
やっとのことでOKが出て、それから1kmぐらい行ったところで突然マシンガンを片手に迷彩服を着込んだ兵士たちが5,6人道の真中に飛び出してきた。急ブレーキを踏む。彼らのいでたちを見ていると、暑苦しく流れ落ちつづけていた汗がいっぺんに引いた。
ここでもまた念入りの取り調べが始まった。車のカーペットの下、座席の下と隅々までチェックした後、兵士たちは車から降り、集まって微笑みひとつ漏らさず、真剣な顔で何やら相談している。気まずい空気が流れるのが僕の触覚にひっかかった。
彼らをよく見ると、まだあどけなさの残る17,8歳の青年ではないか。ここはみんな言葉の通じないもの同士、楽しく仲良くするには記念撮影が良いと閃き、「写真を一緒に取らないか」と申し出ると、強張った表情を崩してすぐに快く承諾した。シャッターを押すとき、皆にこやかであったのに、球に胸を張り、銃を掲げ、try to be cool. 僕は思わず噴き出してしまった。
アメリカのときのクラスメートを訪ねることにした。一緒に馬鹿をやったウィルマーとエリック兄弟の家である。首都サンサルバドルの手前20キロにある住宅街StaTeclaの住所はミネソタを出る前に彼から貰っていた。町に着いて家を捜し当てると、ウィルマーたちの生活からは想像もつかない立派な家で、風呂を2日も浴びず汚い格好をしている僕たちは、高さ3mもある外門をノックするのに戸惑ってしまった。車は3台有り、女中2人とボーイが家の雑事を手伝っている。人に噛みつくほど人懐こいシェパードが庭を3匹うろうろしている。僕の悪友どもは今もStPaulに棲んでいるが、ここの暮らし振りとはちょこっと違う。大の男が半地下の2LDKに4人で住んでおり、二段ベッドに窮屈に身をかがめ、ろくなものを毎日食べていない。時々ぼくがピッツァと缶ビールの差し入れを持って朝まで馬鹿をやったものだ。それがどういうことだ。ここは本当の豪邸である。StPaul の様子など話した後、僕はテオと一緒に車を置いて街に出た。どの辻角にも兵士がマシンガンを持ってじっと立っている。またその晩、町の飲み屋でカキを食べながらビールを飲んでいると、兵士たちを箱詰めにした政府軍のトラックが次々と低い轟音を立てて過ぎていった。酔いはいっぺんで吹き飛んだ。
2日間お世話になった後、僕たちは首都サンサルバドルに出た。ちょうど選挙の前日で町に落ち着きがない。2日滞在してすぐにホンジュラスに行くことに決めた。ウィルマーの親爺さんは「ホンジュラスに行くのなら一度グアテマラに戻り、そこからホンジュラスに入国したほうが良い。いまゲリラはエルサルバドルの北部山岳地帯と東部のサンミゲル付近を配下に収めているから選挙で国の安定しない今、パンアメリカンを通ってのホンジュラス入国は危険だから避けるのが賢明だろう」と忠告してくれた。だが安全よりも直線距離を選んでしまった私に、その言葉は耳に入らなかった。まっすぐ太平洋岸に並行するパン・アメリカン・ハイウェイを走っていった。
サンサルバドルから2時間ほど走っただろうか。道はアスファルトから急に砂利道に変わった。土煙をもうもうと立て、バックミラーを覗いても視界はゼロだ。窓は全部閉め切っているが、どこからともなく埃が入ってくるのだろう。正面のガラスから差しこむ光条のなかで踊っているのが見える。日差しゆるやかなまどろみの午後、鬱蒼と茂る熱帯の囃し、心地よいドライブ。そこに突然、前方50mぐらいにピストルをこちらに向けて構えた男が二人、道の中央で仁王立ちしている。その現実離れした姿は映画を見ているようで、自分という存在はその画面から消えている。そこに一響の銃声。はじめて目が醒めたようにサイドブレーキをいっぱいに引き、ハンドルを180度左に切る。今きた道をアクセルが壊れるほどにじり踏み、全身の力をこめてハンドルを握った。瞳孔はこれ以上開けないほど大きくなっっている。それから数分走っただろうか。止めていた息が鼻から漏れ、ひとつ大きな深呼吸をした。テオは天上で頭を打って、その頂点に大きなたんこぶを作っていた。二人で訳のわからぬ、喜びとも恐怖ともつかない絶叫を上げていたら、突然車が前につんのめった。外に出てみると、車の前輪の軸がボディーから外れかけている。下に潜ってみると、右側のシャーシとボディーの溶接部はまだ何とかくっついているのだが、左側は、そこの鉄が剥がれて離れていた。こんなことってあるんだ?銃を持つ彼らは車を持ってはいないようだったが、もしかすればしつこく追ってくるかもしれない。嘘みたいな話であるが、車内にあった鎖でシャーシとボディーを何重にも巻いてくくりつけ、時速10キロのノロノロ運転で一番近い町まで戻ることに決めた。
そこがcojute peque だった。なんとか辿りついたのは良かったが、今日中にこの国から出ようとしていたので、もうエルサルバドルの金は少しもない。あいにく銀行はもう閉まっている。ドルは百ドル紙幣しか手元になく、この小さな町では両替できそうにない。だが今夜の宿代と宿泊代は何とかしなくちゃいけない。近くの木賃宿のおばさんを訪ねると、金がないなら雇ってくれるという。住みこみで月1500円でどうかと、かなり乗り気である。ちょうど人手が要るそうだ。悪くはないが1ヶ月とはちと長すぎる。丁寧に断ることにした。
しかたがないので車の中にあったガラクタを売る。プラスチックケース、ナイフ、電池、カーペット、本、工具セット、電球、ウォークマンのヘッドホーン、枕、板、缶詰、毛布、その他ガラクタが次々に出てきた。ある物は何でも売った。提示した価格が安かったのだろうか。それともここではこういうものが手に入りにくいのだろうか。いや単に珍しかっただけかもしれない。とにかく人だかりは幾重にもなって押し潰されそうだった。特に40センチ四方のプラスチックケースは取り合いになるほど人気があって4つともあっという間に売れてしまった。どうしてそれが好まれれるのか旅行者にはよくわからなかった。この町にはプラスチック製品があまり入ってこず、木より軽く、水を入れても漏らないせいかもしれない。
予想外の大金を手にして僕たちはビールで祝杯をあげた。車はまだ壊れたままだが、とにかく今晩は無事に屋根の下で寝ることができる。一息ついて、明日の予定など話ながら飲んでいると、僕たちの名前を呼ぶ子どもたちが、足に腕に首に腹に集団でまとわりついてきた。外国人が来ることも少ないこの町で、勝手に道で行商したためか、僕たちはこの町で有名になっているらしかった。悪い気はしないし、正直言って皆から相手にされて嬉しかったが、あまりにも人数が多すぎた。その夜はあちこちの家をつれられて回り、コーヒーやオレンジジュースを一杯づつご馳走になったので、歩くたびに腹がチャッポチャッポと鳴った。
家は土間と二畳あまりの居間、そしてその奥に寝室という具合に、縦長のものが多かった。白黒の小型テレビを持っているところも多く、日本のアニメが映っていた。グアテマラでもそうだったが、どれも十年以上前のもので、ジャイアントロボ、スーパージェッター、マジンガーZ、マッハGOGO、などが人気番組だ。ホンジュラス、エクアドル、ベネズエラ、ペルー、チリでも見たが、中南米一帯どこでも見られるらしい。子どもたちがジャイアントロボの真似をするのを見ていたら、ぼくがまだ小学生だったころを思い出して、タイムマシーンに乗ったかのような妙な気分になった。そのときは偶然マッハGOGOをやっており、朧げながら話の筋を覚えていたので、それを話すと、当たり前の話ではあるが、その通りの結末となった。僕が昔見たことがあるから知っていたのだと説明しても、みな尊敬のまなざしでこちらを見上げるものだから弱ってしまった。
道路沿いでジュースや果物をベースにした雑貨店の主、といっても一坪弱の店だが、エリックの家にもお邪魔した。歳は27ぐらいでまだ新婚だそうだ。笑うととても良い顔をする男で、子供たちも彼を慕っているようだった。彼に選挙のことを聞いてみた。するとゲリラの連中は共産主義だから駄目だと言う。共産主義というのは悪魔でロシアの手先だと興奮していた。この町も幾度かゲリラの半自治区になったことがあるという。そしてやっぱり自由が一番だと、首を縦に振りながら納得していた。僕は、彼が「主義」にウェイトを置いていることや「主義」と善意をまっすぐに結びつけることや、単純な自由への信頼を見て驚いた。戦いの中に嫌でも巻き込まれてしまう男たちは、事実を中から淡々と見つめているのではないかという僕の推論はどうやら的を外れているらしい。中に入ってしまえば何時の間にか「主義」に左右され、不自由であればある程、自由に対して憧れと絶対化が始まってしまうのかもしれない。ありもしない花を見て、それに想いを託す。半分それが妄想だとわかっていても、それを止めることができないというのは人間の性なのだろうか?
結局この町では車の修理ができず、しかたなくサンサルバドルに戻ることにする。餞別に子どもたちからオレンジやマンゴやお菓子を貰う。ありがとう。
ノロノロ運転の末、やっと首都サンサルバドルに到着。知り合いの紹介で修理屋を見つけ、そこで治してもらうことにした。彼らの腕前はたいしたものだ。トンカチ一本で何でも治してしまう。オートバイで世界一周をして,今はナイロビにいる黛さんもバイクのブレーキクッションがいかれてしまったとき、ウルグアイで修理してもらい、そこのおじさんは金属板一枚からシリンダーをトンカチ使って作ってしまった、という話をしていた。アメリカのような最新の設備のないところでは、自分の腕,経験、勘だけが頼りである。彼ら職人の顔は美しく見える。やっと作業も終わり、いざエンジンをかけようとしたら鍵がない。どうやらなくしてしまったらしい。だが彼らは少しも動ぜず、簡単に鍵を差しこむ部分を取り去ってしまい、これを町まで持っていけばいい。10分で合い鍵が作れるかと。助かったような気もするが、良く考えてみれば物騒な話である。残念なことに合鍵屋はもう閉まってしまったので、翌朝まで待たねばならない。そこにトタン板を突き破るようなスコール。ひとまず車から出て雨宿りすることにして近くの小さな食堂に駆け込んだ。よほど心細い顔をしていたのだろうか。スコールで塗れた髪、油まみれの黒い顔、洗っていない服。店の親爺は僕がいくら断っても食事をご馳走するといってきかない。いや俺はちゃんと金を持っているからと金を置くと,悲しい顔をしてつき返す。それではと好意を受けて厚く礼を言っていただくことにした。嬉しいような情けないような気持ちでチキンのスープにパンを浸し、体の中に流し込んだ。冷えた体にぐっとこたえ、体の中からゆっくりと温かさが四肢に伝わって行く。その晩は屋根にあたる雨の音を聞きながら車の中で寝た。
ベネズエラに3週間後に着かなくてはならない用事がある。高校の地図帳を見てもパナマからコロンビアまでは道がない。またあの道をゆくのは物騒である。それに、これから先の悪路をアメリカのハイウェイでヒーヒー言ってるこのバンで乗り越えられるだろうか?2晩考えた末、嫌ではあったが売ることにした。結果的にはこれが正解だったのだが、そのときは暫く沈んでいた。
ある日、テオと一緒に軍部の前にある遊園地まで足を向けた。そこには子馬のポニーも何頭かおり、子どもたちが列を作って並んでいた。けたたましい町の中でここだけは別世界のようにのんびりしていた。子どもたちは木漏れ日がきらきら踊る下で、片手にアイスクリームを持ち、満面に笑みを浮かべている。外の世界とは何の関わりもないように無邪気にサッカーボールを追いかけ回す子どももいる。僕の口からも爽やかなあくびが出てきた。向こうの方では子どもたちのはしゃぐ声が聞こえてくる。何気なく足はそちらへ向かっていった。そこにはブランコ、シーソー、回転惑星などで戯れる子どもたちがいた。その周りでは、ほのぼのとアイスクリームやトウモロコシを売っているおばさんたちが、そちらのほうをぼんやり眺めている。僕の眼をひいたのは、真ん中にある回転ブランコだった。腰掛に外側を向いてシートベルトをすると、その椅子が十五個ばかりついた大きな鉄鎖が回りだし、遠心力で体が少し浮きあがる。どこの遊園地に行ってもありそうな,ありふれた代物だった。が、それを廻しているのは機械ではなくて、しわの深い、肩が赤黒く焼けた初老の男だった。ブランコが早く回るに連れて嬌声をあげはじめた。そのとき、目だけが静かに笑った男の横顔は、どうも現実のようには見えず、どうかすると仙人の弟子のように見えた。
現在エルサルバドルには日本大使館はあるのだが大使が居ず、国士舘出身の人が事務官として働いている。インシンカの社長誘拐事件以来、どの日本企業もここを去り、大使もその後ここから離れたとのことで、現在は7人の日本人しかこのエルサルバドルには住んでいないらしい。バンの売買について大使館で訪ねてみたが、どうも簡単にいかないらしい。どうやら気長にいくしかないようだ。
ある夜、車で泊まっていた木賃宿に戻る途中、タクシーにぶつかってしまった。そこは丁度十字路になっており、僕の進んでいる方向には赤の点滅の信号がつき、垂直に交わる道には黄の点滅の信号が点いていた。どちらも一方通行である。僕は当然そこでいったん停止して確認、そしてローギアでノロノロと発進した。四つ角を通り過ぎたと思ったところで車の後ろに何かこする音がした。降りてみるとバンパーのあたりが少し,気持ちほど凸凹している。安心して後ろを見ると、そこにはボンネットは天を向き,フェンダーは跡形もなく、ライトがエンジンルームにめり込んだタクシーが止まっていた。中を覗くとドライバーは何も障害はないらしい。とんでもないことになったもんだ。すぐに警察に来てもらってレッカー車をよんだ。時計は10時を指していた。そして警察署での事情聴取と、そこから車5分とかからない本署に向かった。さあ困った。誰も英語を話さない。頼りの辞書も家の中である。仕方がないので身振り手振りジェスチュアで、しまいにはノートに絵を描いて説明しても警察官は要領を得ないらしい。僕の言い分は、十字路で一旦停止した後、右方向を確認したら何も見えない。それで発進したのだからタクシーは無灯火だったはずである。ライトが見えていたら車を前に進めるはずがない、という趣旨であった。だがライトがつぶれた今、何もそれを証明するものはない。それを何回ゆっくりと説明しても次々に警察官は替わり、何事か早口のスペイン語でまくし立てる。僕はいいかげんにふて腐れた。どうやらそれが心証を悪くしたらしい。僕たちは拘禁された。かわいそうにテオも一緒である。ところがあいつは、いままでこういう経験はなかったと、僕の横で案外楽しんでいた。結局、警察に車を担保に預けて僕たちは釈放された。時計は二時を過ぎている。その時間はもうタクシーも走っておらず、歩いて宿に帰ることになった。重たい足をひきずって着いた宿の扉をいくら叩いても誰も出てこない。仕方がない。扉の横で路上野宿とあいなった。長い一日だった。
ある日、僕たちの泊まっている宿にひとりの白人がやってきた。背がひょろっと高く、赤い巻毛が頭に絡み付く。飄々とした風貌を漂わす、歳のわからない男だった。ヨガか、それとも他の神秘主義に傾倒している歩き方をするのだが、上半身は絶えず落ち着かず、休むことなく口を動かし、両手は宙を待っていた。話を聞くと、案の定、只者ではなく、アメリカからエルサルバドルまで自分のセスナで飛んできたのだそうだ。その理由がまたぶっ飛んでおり、アメリカはエルサルバドルから搾取して、なおかつ軍隊や兵器を送っているだけでなく、彼みたいな平和を求める男もいることを証明するためにやってきた、とどこまで本気かわからないことを手を上下に振って話す。次に彼の故郷のミシシッピ州について訥々と際限が無いかのように話し出した。エルサルバドルの飛行場にセスナを着陸したとき、軍部ともめたそうだが、この調子だと、それにあたった係員が彼に押し切られてあたふたしているところが目に浮かぶ。その晩は僕たち3人で角の半地下にあるソンブレロと言う名のクラブに飲みに行った。クラブと言っても、ドライブインの食堂の机と椅子が適当に置かれ、正面にステージがあるなんともシンプルなものだった。客は二人ほどしかおらず隅でちびちびとビールを飲んでいる。ステージでは女の子の踊りの合間に、漫才師が同じ芸をその度に繰り返している。
踊り子
わたしは踊り子
私はプロよ。 さっきのステージを見てくれたでしょう。
NY,NY 素敵な踊りでしょう キレイな体でしょう
私のステージには皆目を瞠るわ
NYは私の憧憬
私 子どもが二人いるのユリスとホアン 見てこの写真 かわいいでしょう
ニューヨークには行けないの 遠すぎるわ
私にもビールを頂戴 のどが乾いたわ 酔いたいの
寂しいわ 私には家がないの
あちこちにいったことがあるの
パナマ,ホンジュラス、コスタリカ、そしてコロンビア,ベネズエラにもよ
そうどこにでも いっちゃうの
私には家がないの
ねえあなた 今夜私をどこかに連れていって
私家がないの
本当はどこにいっても家があるの
地球が家なの NYにもあるのよ ここにもあるの
どこにでもあるの
テオがもう生ぬるくなったビールをなめている間,アメリカからきたジョンは、ビールの空き瓶の山をテーブルの上につくっていた。と、そのうちだんだんとジョンの様子がおかしくなってきた。ステージで踊っている女の子の曲に合わせて手をタコのように動かし、首をグルグル回し始めた。と思っているうちに、腰を椅子から上げ、千鳥足で踊り始めた。そのうち服を脱ぎ出し、お尻丸出しになって腰を振り出したからたまらない。いっぺんに悪酔いしてしまった。
ベネズエラに行く日が迫ってきた。だがまだ車は売れない。ベネズエラには約束どおりの日に行かなければならない。ここからホンジュラスまではバスに乗るとしてその後のチケットはもう買わなくてはならない。他にも「ある」「ない」がいっぱい重なり、せわしい。もう明日にはホンジュラスに向けていかないとベネゼエラには間に合わなくなってしまう。
当日、車はこの宿で知り合った苦学生にプレゼントしようと思っていた矢先、売れることになった。まったくわからないものである。必要の無いものや今すぐに使わないものは、それぞれ箱づめにして日本とベネゼエラに送った。中央郵便局の前にいるヤミ両替屋で手持ちの金をドルに替えるとすぐ、バス乗り場に向かった。
白い砂埃のなかで、幾台ものマイクロバスがマフラーもつけず,エンジンを吹かして客を待っている。そこに足を踏み入れると、四方からバスの呼びこみの男たちがやってきて、各自それぞれの方向へ客を釣れていこうと手足を引っ張る。しまいには持っている荷物をサッとかっさらい、早々とバスの上に積み上げてしまった。ん、絶対にこのバスにはのらないことに決めた。荷物を奪い返すと他のバスに乗り込んだ。狭いシートに身をしずめ、出発を待つがなかなかそこを離れない。ここには時刻表というものがなく、客がバス一杯に詰まるまではいくらでも待ち、そして出発するという。ガソリンの償却とドライバーの満足度にたったとき、最も能率の良いスマートなシステムである。どうやらシートが全部埋まったらしい。マイクロバスは豪快なサルサの音楽を窓から吐き出し、動き出した。
何時の間にか、このけたたましい振動にも慣れてしまったらしく、居眠りをはじめたらしい。気がつくとバスは停まっており、迷彩色で固めた軍隊の男がこっちをじっと見つめているものだからギョッとした。みんな一人づつバスから降りていく。事情のつかめぬ僕は、まわりをキョロキョロするが誰もこちらを見てくれない。僕もみんなに従ってバスから降りた。バスの横に乗客を一列に並ばせると、しかめっ面をした兵士が客の一人一人を厳しくボディーチェックし始めた。皆ニコリともせず、なんとも重々しい。一人の男はなんだかケチをつけられたらしく、彼は一生懸命になにか説明しているが、兵士は首を縦に降らない。彼の荷物はバスの屋根から降ろされ、彼は再びバスに乗ることはなかった。一つの空席を残してバスは発進した。この検問の先に川―Rio Lenpa―が流れており、50mぐらいの橋がかかっていたのだが、一ヶ月ほど前ゲリラによって爆破され、ちょうど橋の真ん中で真っ二つに折れているのが窓から見えた。ゲリラにとってはGood jobであったが、この橋の川下100mあたりの川幅はたったの10mぐらいしかなく、そこに政府軍が簡単な橋を作ったため、3分間の回り道をすれば交通には何も支障がなかった。
サン・ミゲルで乗り換えて国境行きのバスを捜したが、今日はもう走っておらず、国境手前20kmにある町までしか行かないという。少しでも国境に近いようにと、そのバスに乗り込んだ。途中、マシンガンを持った兵士が7、8人乗り込んできて、一人は車内にあとは屋根に登っていった。誰一人笑みを浮かべている者はいない。たいていどこへ行っても陽気なエルサルバドルのおばさんたちも、物を思いつめたように前方を見つめ、マンゴの山が入った籠を心なしか汗ばむように強く握っている。
暫く走ったのち、ひとりの少年が降車するためにバスの壁を平手でパンパンと叩いて合図した。バスの運転手は急ブレーキをかけ、車中の兵士はマシンガンを構え、屋根の上からはパタパタという音が鉄板を伝わって響く。少年が壁を叩いた音を、銃声と思ったらしい。乗客の瞳孔の開いた目は、彼らの日常の生活を悲しく物語っていた。
着いた町では、不思議なほど人々は僕たちと接触を避けた。道を尋ねても無視された。レストランに行っても必要以上に口をきかない。その晩、南西の空はヒュー、ドオという音を立てて、不気味に浅赤黒く、じんわりと光っていた。